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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 海とともにあるくらし

(1)帰港する船を迎える

 ア もんたかめし

 「突船やサバ船が漁から帰って来たら、お土産をもらうことが唯一の楽しみでした。漁に出ている船は船員の食事として毎日白米を炊きます。これらの船は出航の際に積み込んだお米を漁の期間中に食べきらなかったときには、帰港するまでに余ったお米の全てを使っておにぎりを作っていたのです。その船が港に帰港すると、船の帰りを港で待っていた子どもたちなど、地域の人に配っていました。この配られたおにぎりは、船がもんた(帰って来た)ときにいただくめし(御飯)だったので、『もんたかめし』と呼ばれていました。漁から船が帰って来るたびに配られていたので、今日は何々丸が帰って来る、何時ころにもんて(帰って)来るらしい、というような話が地域の中で伝わると、その時間になると子どもも大人も大勢が浜に来て船を待っていました。『もんたかめし』は出迎えた人全員に配ることができるほど数がなかったときがあり、そのようなときには子ども同士で取り合いになるので、こぶしほどの大きさだったおにぎりが半分程度や、時には四分の一程度の大きさにまでなっていたことを憶えています。私(Aさん)たちが普段食べていた御飯は、麦が混ざった御飯で、祝い事など特別なときにしか白米だけの御飯を食べることができませんでした。そのような時代でしたが、漁船に乗る漁師さんの賄いはすべて白米の御飯だったのです。さらに、サバ船などは東北地方のおいしいお米を購入し、帰港した際にはそれを『もんたかめし』として配っていたのです。また、それらの船が青森に寄港していると、お土産としてリンゴをたくさん買って来ていました。リンゴはたくさんの木箱に入れられ、帰港後は親戚中に配っていたことを憶えています。」

 イ カジキの鼻

 「私(Bさん)たちが欲しがっていたのは、カジキの鼻(「吻(ふん)」のこと)でした。三瓶の方はこれを持っている方が大勢いると思います。漁船がカジキを獲(と)って帰って来ると、お土産としてその鼻を切ってもらい、家で飾ります。どの方もお土産としてもらうときには立派なものを欲しがっていたと思います。大きな鼻を地元の人は欲しがっていましたし、漁師自身にとっても、うちはこんな大きいやつを獲ったぞという象徴でもありました。中には立派な鼻を家の飾りとして渡すためでしょう、帰港するまでにきれいに磨き上げて帰って来た人もいたほどです。この鼻をもらうことが楽しみで仕方がなかったことをよく憶えています。さらに、鼻だけではなく、カジキの身までもらっていました。お土産は親戚や近所、そして地域の方などと、日ごろの付き合いに応じて配られていました。」
 「鼻(吻)の長さがカジキの大きさに比例するので、自分たちが最高に良いカジキを獲ったという証になり、誇りにもなっていたのだと思います。私(Aさん)はリンゴや黒砂糖をお土産にもらうと、うれしかったことを憶えています。
 南洋へ漁に出た漁船は黒砂糖を買って、桶(おけ)に入れて帰って来ていました。帰港後、桶に入れられている黒砂糖を小分けにして、親戚や知人に配っていました。私の家は船大工だったので、黒砂糖は桶に入れられたまま、リンゴは箱に入れられたままいただいていました。どの船が帰港しても1箱ずついただくのです。いただいた木箱入りのリンゴは、家のイモ壺(つぼ)で保管されていましたが、私が子どものころには、木箱のまま保管されているリンゴを親に内緒で食べるために箱から一つ取り出すと、緩衝材として入っていた籾(もみ)殻が木箱から一緒に出てしまい、木箱の周りに散乱していたことで、親に見つかってしまい、『誰がとった。』と怒られたということも良い思い出として残っています。黒砂糖は硬く、食べる分だけを簡単に取り出すことが難しいのですが、船大工を営んでいた私の家には大工道具の鑿(のみ)があったので、それで大きな塊の黒砂糖を細かく割り、新聞紙に小分けにして包んで家から持ち出し、近所の友だちと遊ぶときに配っていました。鑿で黒砂糖を割ると、親の大工道具入れに元通りに戻しておくのですが、鑿の刃先に黒砂糖が付着していて、それに親が気付き、『これ誰ぞ。』と問い詰められ、やはり怒られていました。
 男性が漁に出ると、陸に残るのは女性と子どもだけになります。このようなときには、地域で助け合いの生活をしていたので、漁に出ていた男性が帰って来ると、『うちの母ちゃんが世話になっとるなあ』と思う家庭には必ずお土産を持って行っていたようです。」

 ウ 三瓶の良さ

 (ア)合力

 「昭和30年代、合力(こうろく)(助け合い)は三瓶の良さでもありました。忙しそうにしている家があれば、時間がある人はそこへ行って手伝う、ということが当たり前に行われていて、生活の全てにおいてこのような考え方が根付いていたと思います。
 三瓶には船頭としてサバ船から貨物船に乗り替えた方がいて、戦後の昭和20年代に国交がない中国へ一番最初に入って行ったのではないかと思います。私(Bさん)の家にはその方がお土産としてくれた一刀彫が残っています。
 私は、『愛媛の漁業は三瓶から始まった。』と言っても過言ではないと考えています。食べることに困っていた終戦後、四ツ張りを行いながら遠洋漁業に目を向けてサバ船が盛んになり、サバ船団が組まれ、さらに突棒へと、時代の流れに応じて三瓶の漁業は変化してきているのです。」
 「突船やサバ船に若い人が乗って漁へ出るので、お年寄りや特に周木地区では女性が船に乗って四ツ張り漁を行っていました。子どもでも小学校5、6年生になると、朝、船に乗って漁に出て、自宅に帰って朝御飯を食べ、それから学校へ行って勉強していました。たまに仕事で疲れて授業中に寝ていた、ということがあったそうですが、学校の先生は、『これは合力で疲れとるんやろう。寝させとけ。』と、そのまま授業を続けたこともあったと私(Aさん)は聞いています。」

 (イ)美しい海

 「昔、周木の海水浴場には産卵のためにウミガメが来ていました。当時は食べるものを確保しなければならない時代で、しかも卵が貴重品だったのでウミガメが産んだ卵を取って食べていました。やってはいけないことではあったのですが、その当時はニワトリの卵が食べられるのは病気に罹(かか)ったときと、遠足とお祭りのときくらいでした。それくらい卵は貴重で、滅多(めった)に食べることができなかったので、夜中にウミガメが産卵に来たときには、トジョウケ(竹で編んだ籠)を持って行き、産卵をしている近くに身を潜めておき、ウミガメが産卵を終えて海へ帰って行くと、『この辺やったな。』と言ってその場所を掘り返していました。
 ウミガメの卵は殻が丈夫で、2、3日経(た)つと卓球で使うピン球のように硬くなって跳ねるので、それを使って遊び、それから食べていました。夏の暑い日でしたが、蚊に刺されながらも大勢の人が海岸に卵を取りに来ていたことを憶えています。
 また、カワウソも生息していました。三瓶のカワウソの剥製が道後動物園(昭和63年〔1988年〕、とべ動物園に移転)で展示されていましたし、砥部(とべ)へ移転してからも展示されています。当時、道後動物園の職員が私(Aさん)の家に来て、1年半くらいの間下宿をして、カワウソの生態を調査していました。調査中にカワウソが罠(わな)にかかりましたが、そこへ行くのが遅れてしまったために、到着したときには檻(おり)の中ですでに死んでしまっていたそうです。このようにカワウソで周木地区と道後動物園はつながりがあったので、私が周木小学校へ通っているときには、修学旅行で道後動物園へ行くと、多くの職員が入り口で出迎えてくれていて、バスから降りて来る私たちは大歓迎を受けていたことを憶えています。
 当時、三瓶から松山へ行くには1日がかりでした。修学旅行の時には三瓶から八幡浜までバスで出て、八幡浜から松山へは汽車で移動していました。当時の汽車は蒸気機関車で、松山へ到着するころには蒸気機関車が出す煙や煤(すす)で顔が真っ黒になっていたことをよく憶えています。
 昔と今とでは潮の匂いが違います。昔は本当に良い潮の匂いがしていました。他所(よそ)から陸路で三瓶に帰って来ていると、峠を下りたときに、『ああ、海の匂いがええなあ。三瓶にもんた(帰った)なあ。』と思っていましたが、最近ではそのようなことを感じることがなくなってしまいました。ウミガメが産卵に来ていたころは海水がきれいで、潮の匂いも良かったことを憶えています。」
 「三瓶の海水は真珠養殖にも適していて、世界的なブランドでもあるミキモト真珠が三瓶湾へ進出してきていたこともありました。私(Bさん)が中学生のときには、支店が安土に置かれていたことをよく憶えています。
 三瓶は回漕店も含めて海上輸送で栄えた町だと言えます。海上輸送の土台があったことで漁業やタンカー船が栄えたのだと思っています。私は、この三瓶は愛媛県の中でも漁業の中心地であると思っていますし、そのような三瓶に誇りを持っています。」


<参考文献>
・高橋紅六『南伊豫の旅』 1941
・伊予鉄道株式会社『伊予鉄道七十年の歩み』 1957
・四国海運局『旅客航路事業現況表』 1959
・三瓶町『三瓶町誌 上巻』 1983
・愛媛県『愛媛県史 社会経済3 商工』 1986
・愛媛県立三瓶高等学校社会科『わが町三瓶町 平成4年版』 1992
・愛媛県生涯学習センター『昭和を生き抜いた人々が語る 宇和海と生活文化』 1993
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・三瓶町『三瓶町ふるさと写真集 想いの足跡』 2004
・二木生小学校閉校記念誌作成委員会『西予市立二木生小学校閉校記念誌 ゆうかり』 2014