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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 重信川の渡しと北川原のくらし

 (1) 重信川を渡る

ア 北川原の渡し

 「私(荻山美征さん)が子どものころにはすでに北川原と対岸を結ぶ渡しはなく、その跡らしきものもありませんでした。ただ、渡し場であった場所は、地域の人々が集まる場所だったので、お節句のときには子どもたちがそこでお弁当を食べたり遊んだりしていました。渡しがあったころには渡し場に人が集まってきていたことから、なくなった後でも地域の人々が集まる場所となったのでしょう(写真3-1-6、3-1-7参照)。
 重信川の水量が増えたときには、渡し場だった所へ行って何をする訳でもなく、いつまでも川の様子を見ていました。渡し場は地域の人が集まる場所であり、それだけ川岸の中でも安全な場所だったと言えると思います。
 渡しがなくなる前には、越中富山(えっちゅうとやま)の薬売りさんがこの地域の得意先を回った後に、船を待つために渡し場にいたそうです。渡し守は、その家の方が代々務めてこられていて、常に渡し場にいた訳ではなく、川を渡らなければならないときに呼びに行っていたようなので、船が動くまで渡し場で待たなければなりませんでした。富山の薬売りさんは遠くからはるばる来ていた方だったので、子どもたちはその方が船を待っている間に知らない土地の話を聞くことをとても楽しみにしていたそうです。
 私が子どものころには、すでに北川原の渡しはなくなっていましたが、薬売りさんは自転車に乗って家まで来ていて、配置薬の交換をすると、紙風船をお土産として子どもたちに渡していました。私は、半年に1回ほどしか来ない薬売りさんから、行ったことも見たこともない場所の話を聞いたり、紙風船をもらえたりすることがとてもうれしく、楽しみにしていたことをよく憶えています。薬売りさんの話はとてもおもしろく、応対した母親と薬のやり取りを終えると、母が出したお茶を飲みながら富山湾沖に見られる蜃気楼(しんきろう)の話などをしてくれていたことが心に残っています。私はこのような話を聞くことがとても好きだったので、母親がお茶を出すタイミングを見計らって薬売りさんの所へ行き、話を聞きながら蜃気楼などの様子を想像すると、子ども心にワクワクしていたことを憶えています。」

イ 塩屋の渡し

 「昭和30年代の初めころには、塩屋の渡しはまだあったと思います。昭和31年(1956年)には河口大橋が架けられましたが、まだ渡しは残っていました。河口大橋完成後の落成式のときには、土手のマツ並木の場所に机を並べて祝賀会が開催されていたことを憶えています(写真3-1-8、3-1-9参照)。
 当時、この辺りでは塩屋の渡ししか残っていなかったので、単に『渡し』と呼んでいました。河口大橋が架けられる前、まだ幅の狭い木製の橋が架けられていたときには、潮が満ちてきたりして川の水嵩(かさ)が増すと、川の流れ自体はそれほどでもありませんでしたが、橋を渡ることが危険であったため、渡しがよく利用されていて、私は吉田浜(よしだはま)の飛行場(松山空港)へ飛行機を見に行くことが好きだったので、そのときに2回くらい乗ったことを憶えています。昭和28年(1953年)に国民体育大会が開催されたときにも、8歳だった私は近所の友だちと飛行機を見に行きました。国体の取材のためでしょうか、新聞社のセスナ機がたくさん駐機されているのを見て、すごいなあと、その様子に友だちと感心したことを憶えています。
 渡しは川船なので、底が浅く平べったい船で、渡し守さんが長い竹の棒で川底を突いて動かしていました。渡しの船には一度に15人ほどのお客さんを乗せることができ、船に乗り込んだお客さんは、船が動いている間は座らずに立ったままでした。また、私が利用したころには渡し賃は必要なかったことも憶えています。渡しには人だけが乗るのではなく、自転車も乗せることができました。
 渡し船が向こう岸にいるときには、大きな声で、『よーい。』と渡し守さんに呼び掛けるとすぐに迎えに来てくれていました。また、船が人を乗せて渡し場を離れた後に乗客が来て、渡し場から『よーい。』と声が掛けられると、その人を乗せるために、すでに乗っているお客さんを乗せたままUターンをして渡し場まで戻っていました。恐らく渡し守さんは、川のどの辺りまでで声を掛けられたら戻って乗せる、ということを決めていたのだと思います。Uターンできない所で声を掛けられると、渡し守さんはそのお客さんに向かって、『もうちょっと待ちな。』と返事をして、向こう岸まで船を進めていたことを憶えています。
 塩屋の渡しに乗って、向こう岸へ行くのは、ほんの数分のことでした。この渡しは、松山側から人絹(東洋レーヨン)へ働きに行っている方、特に女性職員がよく利用していたので、かなりの需要があったのではないかと思います。中には松山側から渡しに乗り込んで、時間に余裕がなかったのか、ゆっくりと川を渡る渡しの船上で、『仕事に遅れる。早く。』と言っていた方もいたそうです。渡しが松前町側の渡し場へ着くと、そこからは歩いて工場まで行っていたようです。
 この渡しは日の出から日没までの日中のみの運航で、日が落ちると運航されていませんでした。やはり、危険であるということがあったのだと思います。渡し場のすぐ近くにあった渡し守さんの家では、虎巻き(お菓子)の製造と販売をしていました。この地域の方は猟にもよく出掛け、重信川の土手でキジやヤマドリを撃っていました。私はキジを撃ちに行く近所のおじさんについて行ったことがありますが、そのときに渡し守さんの家の虎巻きを買ってもらったことをよく憶えています。渡し守さんは御自身の体調が良くないとき以外は渡しを動かしていました。ほとんど休みがなく、大変な仕事ではあったと思いますが、私は渡し守さんがこの仕事を通じて、世のため人のために役立っていることを感じられ、やりがいや生きがいを持たれていたのではないかと思っています。」

ウ 橋を渡る

 「現在、河口大橋が架っている所には、昭和31年(1956年)にコンクリート橋が架けられるまでは、幅1mほどの木橋が架けられていたので、今出(いまづ)方面へ行くときには、その木橋を渡って行かなければなりませんでした(写真3-1-10参照)。また、出産があるときには、今出から産婆さんを呼びますが、雨が降って川が増水していたり、夜暗くなっていたりすると産婆さんは来ることができませんでした。私の家では母が出産するときには、私の父が自転車に乗って出合橋を渡って今出まで産婆さんを呼びに行き、荷台に乗せて連れてきていたことを憶えています。
 飛行機を見ることが好きな私は、重信川の左岸土手を通り、河口の木橋を渡って吉田浜の飛行場へよく行っていました。昭和31年(1956年)からは週に一度、極東航空(現全日空)の飛行機が松山へ来ていたので、その飛行機がどうしても見たかったのです(写真3-1-11参照)。私が家から最短距離で今出の方へ行くときには、水量が少なければ重信川を歩いて渡ることが多かったと思います。そのころは、重信川の水量が少なく、通常であるときには、歩いて渡ることができるくらい流れが穏やかで、その中で投網を打ってアユやショウハチ(コイ科の淡水魚、オイカワやハヤとも呼ばれる)を獲(と)っていたくらいでした。投網で用いる網も自分の家で編んでいましたし、その網を染めるための柿渋も自分の家で作っていたことを憶えています。
 川を渡って飛行場へ行く途中、今出の付近を通ると、藍染めの独特の匂いがあったことを今でもよく憶えています。一時期、伊予絣(かすり)の人気が低迷した時期があったようですが、北川原では、今でもお祭りのときの獅子舞に登場するヒョットコとオカメは、伊予絣の着物を着ています。この着物はわざと継ぎ接(は)ぎにし、ショイコ(オイコ)を背負うので、肩の部分は擦れたようにしているのが特徴と言えます。
 昭和41年(1966年)に松山空港沖で航空機の事故が発生したときには、夜に起った事故でしたが、自転車でその様子を見に行ったことを憶えています。当時、NHKの大河ドラマを見ていると、速報の字幕が出て事故の発生が知らされました。私は、『これは大変だ。』と思って、すぐに自転車に乗って河口大橋を渡り、空港まで行ったことを憶えています。辺りは真っ暗で自転車の照明だけが頼りでしたが、怖いと思うことはありませんでした。20分ほど自転車に乗って、事故現場付近の海岸へ行ってみると、警察や消防、そして恐らく岩(いわ)国(くに)基地からもヘリコプターが来ていて、事故現場付近に照明弾を投下して、行方不明者の捜索が行われていたことをよく憶えています。」

 (2) くらしの記憶

ア 石合戦

 「北川原の地域では、戦国時代のころから続くと言われる対岸の今出地区(松山市)との石合戦が盛んに行われていました。私が子どものころにも石合戦は行われていて、石が身体に当たって怪我(けが)をする子どもがいたほどで、それは激しく行われていたことを憶えています。この石合戦は行われる時期が決まっていて、春、旧暦の3月8日にお節句を行い、そのお節句が終わると石合戦が始まるのです。石合戦が始まると、対岸の垣生(はぶ)地区の子どもたちのことを示す『垣生の垣生やん。』と声を上げて挑発すると、今出側の子どもたちはバットなどを持ち出してきて、臨戦態勢になっていました。私たち北川原地区の子どもは、この石合戦の開催に合わせて2月ころから竹を伐り出し、『陣地』と呼ばれていた4畳半くらいの広さの小屋を子どもの力だけで藪(やぶ)の中に造っていました。この小屋を造るのは北川原だけで、今出では造られていませんでした。それは、川を挟んで両岸の植生が異なっており、今出側には藪がなかったこともあって、造ることができなかったようです(写真3-1-12参照)。それだけ、この石合戦が当時のこの地域の子どもたちにとって楽しみにしていた行事であったと言えるでしょう。本来の『なぐさみ』とは、みんなが集まってお弁当を食べて、その時間を楽しむというところにあるのですが、食べた後の石合戦の方が子どもたちにとっては、その日の一番の楽しみでもあったのです。
 私も子どものころにはこの石合戦には参加していましたが、どちらかと言うとおとろしい(恐ろしい)という気持ちが強かったので、逃げるばかりでいたことを憶えています。石合戦では、川の両岸から石を投げ合うので、対岸まで届く石はほとんどありませんでした。ほとんどの石が届かないということが分かっていて投げていたのだと思います。しかし、小学校の上級生の中には上手に投げる人がいて、相手を狙って投げることがあったので、石が当たって怪我をする人が出ることもありました。石合戦は小学校5年生までの子どもが参加できる行事でした。なぜ、5年生までなのかということは分かりませんが、地域の中でルール化されていました。小学校6年生や中学生くらいになると、身体が大きくなり力も強いので、それだけ危険が増すということがあったということかもしれません。
 石合戦は昭和30年(1955年)ころまでは続いていましたが、今現在は行われていません。しかし、かつてこの地域にあった歴史的・民俗的な行事として大切に語り継がなければならないと感じています。」

イ 通婚関係

 「北川原と重信川の対岸の今出とでは、距離は非常に近いのですが、通婚関係が案外希薄であるのが特徴と言えます。この地域の方は、中山からお嫁さんを迎えることが多かったと思います。中山の佐礼谷地区は北川原よりも田植えの時期が早く、先に田植えを終えるので、こちらが田植えをするときになると、早乙女さんが手伝いに来ていました。農家の親世代の人たちは手伝いに来た早乙女さんの仕事ぶりをよく見ていて、自分の子どもの結婚相手として相応(ふさわ)しい方を探していたようです。
 佐礼谷の方がこちらに嫁いで来るときには、犬寄峠を越えて来なければなりませんでした。当時は犬寄隧(すい)道が整備されておらず(昭和45年〔1970年〕整備)、お嫁さんがこちらへ来るのにハイヤーではお金がかかってしまい、もったいないということで、嫁入り道具を積んだトラックに乗って来ていたことを憶えています。お嫁さんと嫁入り道具を乗せたトラックがこちらへ近づいて来ると、こちらでは『お嫁入りが来るぞ。』と知らされ、地域の子どもたちがトラックに乗ってやって来るお嫁さんを一目見ようと、お嫁さんを迎える家に集まっていました。私も何度かトラックで来られるお嫁さんを見に行ったことがあります。
 当時の結婚式はお嫁さんを迎える側の自宅で執り行われることが多く、招待されるのは新郎新婦両家の御親戚だけだったので、お嫁さんを見ることができるのは、新郎の家に入る直前まででした。当時の農家の家屋には部屋続きで6畳の間と8畳の間があり、襖(ふすま)を除(の)けると14畳程度の広間になるので、ある程度の人数が集えるようになっていたこともその理由の一つであると思います。結婚式では写真撮影があり、室内で写真を撮影するときには光を必要とするので、当時はフラッシュにマグネシウムの粉末を燃焼させて発光させていました。とても強い光が出ていたので、写真を撮影される方から、『瞼(まぶた)を閉じないように。』と注意をされていたことを憶えています。」

ウ 紙芝居

 「かつて、この地域には、子どもたちが集まる近くの広場に、ほぼ毎日紙芝居が来ていました。自転車に乗った紙芝居のおじさんが笛を吹きながら地域中を周り、広場に子どもが集まると、紙芝居を始める前に10分ほどかけて、ぎょうせん飴(水飴)を子どもたちに売り、観覧料にもなる30円を支払って飴を買った子どもたちは、一生懸命に割り箸でその飴を練って食べていました。
 親からもらったお小遣いを持って紙芝居を観に行くのですが、観覧料が足りない場合は飴を買わなくても観ることはできていました。ただ、ぎょうせん飴を購入せずに観覧しようとすると、紙芝居のおじさんからは、『お前らは下がって後ろから見なさい。』と言われて、後ろの方から観ていたことを憶えています。
 紙芝居では黄金バットをよく観ていたことを憶えています。今でも紙芝居の迫力のある絵が記憶として強く残っているくらいです。黄金バットは後にテレビアニメとしても放映されたので、子どもたちを引き付ける名作だったと思います。紙芝居が催される広場には、地域の子どもたちがたくさん集まって来ていました。余りにも子どもの数が多かったので、小さな紙芝居の絵が見えにくく、聞き逃すまいと、話や絵に集中していたことを憶えています。」

エ 亥の子

 「稲刈りが終わると、田んぼにあった藁(わら)ぐろから藁を抜き取って藁亥の子を作り、亥の子をついていました。藁亥の子は藁を縄状にして中にはその芯として里芋緒を入れ、それに縄を巻き付け棒状にしたもので、芯を入れることで地面を叩いたときに良い音が鳴っていました。
 亥の子が行われる晩には、子どもたちが組と組とに分かれて、藁亥の子を持ってケンカをしていました。お互いが藁亥の子で本気で叩いてくるので、怖いなあと思ったこともあったくらいです。ただ、子ども同士が行うケンカの中でも、『決して相手の頭は叩かない、背中を叩く』というしっかりとしたルールがありました。毎年子ども同士のケンカが行われることは分かっていたので、亥の子が行われるときには、私は背中を叩かれても痛くないように、防寒用のデンチ(殿中羽織)を着て参加していました。本当に子どものときにはケンカが多かったと思いますが、ルールを作ることや身体を守るためにデンチを用意することなど、子どもならではの知恵があり、それが子どもの世界の中で共有されていたことを憶えています。」

 (3) 地域で受け継がれる伝統

ア 水引さん

 「この辺りでは、田植えが終わり、稲が活着してある程度農作業の区切りがつくと、水引さんと呼ばれる方が田んぼごとに稲の様子を確認して、田んぼの傍(そば)に線香を置き、水を引きこむ時間を割り当てていました。線香に火が点(つ)いている間だけ田んぼに水を引くことができるという決まりでしたが、水争いを起こさないための決まりでもあったので、地域の人はこの割り当てには一切文句を言うことはありませんでした。それだけ水引さんの権限が強かったということでもあるのです。
 水争いは多くあり、私も経験しています。北川原の農業用の水は主に重信川から取りますが、烏丸(からまる)泉からも水を引いていました。この水を巡って、北川原の中でも農民同士の水争いが発生するため、調停役としての水引さんが必要だったのです。水引さんが決める割当てや順番はその通り守られていました。水引さん自身も、地域の方が不平不満を持つことがないように気を遣い、田んぼへの水引が一息をついたら、着替えと浴衣などを入れた籠を天秤棒にぶら下げて、道後の湯まで毎日歩いて行っていました。
 この水引さんの役割も、特定の家が代々受け継ぐものでした。これはすべて北川原地区の総意でもあるので、水引さんが決めることにはどの農家も従っていたのだと思います。秋祭りでも太鼓を一番に叩くのは水引さんの家の方でした。現在は水引さんという役割を帯びた人はいなくなり、祭りのときに太鼓を叩くことができる人も減ってしまいました。現在、祭りで太鼓を叩くことができるのは、この地域では私と水引さんの家の子孫の方だけになってしまっています。祭りの太鼓には譜面がないので、身体でリズムを覚えなくてはなりません。また、叩くときにリズムが狂ってしまうといけないので、叩きやすいように太鼓のバチは自分で作っていました。毎年祭りが近づくと、バチを作るための竹を土手に伐りに行き、竹のしなり具合や節の位置を確認して、伐っていました。バチを作るときには、竹の棒を握ったときに節の部分で指が引っ掛けられるようにし、太鼓を叩いたときに、竹が割れないようにバチの先端部分にも節がくるように工夫をしていました。つまり、節と節との間隔がバチにちょうど良いところを選んで伐らなければならなかったということです。これも私たちの生活の知恵の一つと言えるのではないかと思っています。
 祭りで太鼓を叩くのは大人の役割です。大人が叩く姿を見て、地域の若者や子どもは太鼓のリズムなどを覚えていくのです。この地域では、9月15日ころから獅子舞の練習を始め、この練習には1か月かかります。その1か月の間に青年団の人たちは太鼓のリズムや叩き方を覚えていました。太鼓の叩き方にしても、当時は一緒に練習をすることで、地域の行事が次の世代へと大切に受け継がれていました。青年団が活動していたころには、獅子舞で地域の家を一軒ずつ回って、お酒などを振る舞ってもらい、それは賑やかに祭りが行われていました。」

イ 川を知る

 「重信川の水量は、雨が降り続いたときには実際に見に行って確認しなければなりませんでした。また、1軒につき1人ずつが土手に出て警戒をしていた時期もありました。夜間には提灯に明かりを点けて行き、土手で警戒している人が持つ提灯の明かりが等間隔で見られると、まず大丈夫であると判断できていました。しかし、急に提灯の明かりが1か所に集中した状態になると、警戒警報を意味していて、これは危ないぞという判断をしていました。家にいる人は土手の提灯の明かりを見ることで、川がどのような状態にあるかが分かっていましたし、子どもたちは明かりが1か所に集まるようなことがあると、警戒に出ている父親を心配して、『父ちゃん、大丈夫かなあ』と、とても不安に感じていました。
 土手へ警戒に出る大人は、土手が切れたときに備えて鍬を持って行っていましたが、実際に土手が切れるようなことがあれば、人の力ではどうにもなりません。しかし、地域の大人は、何とか自分たちで地域を水害から守ろう、という強い意識を持っていたのだと思います。加藤嘉明が松前の城主であったとき、『老若男女を問わず川遊びに努めよ』というお触れが出されていたと聞いています。川の近くで生活をするからこそ、普段から川を良く知っておくようにという意味がそこにはあるのではないかと思っていますし、川を良く知るという意識は、今を生きる私たちにも受け継がれている大切なものだと感じています。」

参考文献
・ 伊予鉄道株式会社『伊予鉄道七十年の歩み』1957
・ 松前町『松前町誌』1979
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1984
・ 愛媛県『愛媛県史 社会経済3 商工』1986
・ 重信川の自然をはぐくむ会、国土交通省松山河川国道事務所『思い出は重信川とともに』2004


写真3-1-6 北川原(三津)の渡しを示す道標

写真3-1-6 北川原(三津)の渡しを示す道標

平成29年10月撮影

写真3-1-7 案内板の内容

写真3-1-7 案内板の内容

平成29年10月撮影。地域の人々が集う「おなぐさみ」について記されている。

写真3-1-8 塩屋の渡し跡

写真3-1-8 塩屋の渡し跡

平成29年9月撮影