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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 旧大洲街道の記憶

 (1) 未舗装の道

ア 雨の日の苦労

 「道路が舗装されていないときには、雨が降ると路面に水溜(たま)りができ、そこへバスやトラックのタイヤがはまると、ドスンとそれなりの振動が伝ってきていました。街道沿いの家はその振動を長年受けている状態で、私(満田泰三さん)の家も例外ではありませんでした。長年に渡って振動を受けてきているので、家屋がその影響を受けて徐々に屋根の瓦がずれていくのです。当時は、郡中方面から来るバスと松前方面から来るバスやトラックが、道幅が狭いにも関わらず私の家の前で離合をしていたので、余計に振動があったのだと思います。バスの車体は現在のような大型のものではなく、20人から30人乗り程度の比較的小型のバスが多かったので、何とか離合ができていたのだと思います。
 私の家は昭和28年(1953年)に建て替えをしましたが、それまでは屋根の瓦がずれていたことで大きな悩みを抱えて生活をしていました。雨が降ると、部屋の中で天井を見上げ、うっすらと雨水が染みてきていると、『もうまあ落ちて来るぞ、準備するぞ。』と言って、座敷などあちらこちらに雨漏りを受ける鍋や金盥(かねだらい)などを置いて対処しなければならず、大変な思いをしていたのです。ただ、梅雨の時期など、再々対処しなければならなかったので、徐々にその生活にも慣れてきたという感覚もあったことを憶えています。私の家だけでなく、街道沿いの家は雨の日にはどこも同じような状態になっていたのではないかと思います。
 家を建て替えるときに、古い家を取り壊すと、基礎部分は今の住宅のようにコンクリートで造られているのではなく、大黒柱は礎石に支えられていました。土を固めるために地突きをするのにも亥の子のような石で突いて固められていただけで、しっかりと固まっていなかったために車の振動で大黒柱が礎石とともに沈み、家全体が沈み込んでいく中で、瓦がずれていっていたのだと思います。家を建て替えてからは雨漏りに悩まされることは一切なくなりました。大工さんがきっちりと建ててくれたお陰だと感謝しています。
 不便が多かった雨の日ですが、小学生のときには街道沿いに住んでいて良かったと思えることが一つありました。それは、建物の軒先が道路に向かって出ていて、ほとんど間隔がない状態で連なっており、その軒下を歩くことで、登下校には傘が必要なかったことでした。」

イ 晴れの日の埃

 「晴れた日が続くと路面が乾燥して、バスなどの車両が通ったり風が吹いたりすると砂埃(すなぼこり)が立っていました。この舞い上がった砂埃が屋根の軒先などに付いている雨樋(どい)に徐々に溜まっていき、雨が降ると雨水と一緒に捌(は)け口に流されて積み上がっていました。積み上がった土は雨が止(や)んで晴天が続くと固まってしまい、雨樋を詰まらせてしまうので、放っておくと雨のときに雨水が流れ落ちずに溜まってしまい、ボタボタと溢(あふ)れてしまう有様でした。
 私は教員となって最初に郡中小学校に赴任しました。当時は家に通勤に使うことができる自転車がなかったので、父親にお願いをして中古の自転車を買ってもらったことを憶えています。学校の行き帰りや休日の晴れた日に自転車に乗って、バスの後ろを走っていると、バスのタイヤが巻き上げた埃を体中にかぶってしまっていたので、埃だらけになっていたことを憶えています。学校に着いたときや家に帰って来たときには、玄関へ入る前に必ず全身に付いた埃を叩(はた)き落とさなければならないくらいでした。当時は舗装されている道路が少なく、私はこのような状況が当たり前だと思っていました。」

ウ 遊び場としての道

 「街道沿いにくらす私にとって、道は遊び場でもありました。私が子どものころには、道端で友だちとよくパッチンをして遊んでいました。パッチンは、道端に台を置き、カードを叩(たた)きつけて相手のカードを裏返すことができれば勝ち、というような遊びでした。戦前のころは車の通行量が少なく、子どもでも安心して道路で遊ぶことができた時代でした。街道から一つ入った人通りが少ない裏道では、子どもたちが道路を占有するような状態でランコン(ビー玉)遊びをしていました。田んぼでは、ネンガリといって、おくどさん(竈〔かまど〕)で使うクヌギやナラなどの割木の先を尖(とが)らせて、田んぼに突き刺し合い、相手の木を倒したら勝ちという遊びをしていたことを憶えています。」

 (2) 街道と人々のくらし

ア 商売に来る人々

 「旧街道には行商で来ていた方もいました。夏になると、アイスキャンデーが入ったボックスを自転車に積んで売り歩く方がいました(写真3-1-1参照)。アイスキャンデー屋さんは自転車に鈴を付けていて、その鈴の音が『チリン、チリン』と聞こえてくると、田んぼで農作業の手伝いをしていた私は、『あっ、アイスキャンデー屋さんが来た。』と言って、慌てて追いかけ、アイスキャンデーを道端で購入していました。
 また、紙芝居が来ていたことも憶えています。紙芝居の道具一式を自転車に積んでやって来て、お宮などの広場に子どもを集めて開催していました。最初は1銭で飴(あめ)をもらって紙芝居を観(み)ることができていましたが、後に10銭まで徐々に値上げをされてしまったことを憶えています。私は紙芝居を楽しみにしていたので、自転車に乗ってお宮へ向かう紙芝居のおじさんの姿を見ると、母親からお小遣いをもらって、急いでお宮へ行っていました。」

イ おたたさん

 「おたたさんは鮮魚などの海産物を乳母車に積んで、自分が担当する家を1軒ずつ訪問して商売をしていたことを憶えています。商品となる海産物は、郡中の鮮魚店か街道沿いに1軒だけあった鮮魚店で卸してもらい、個別に家庭を訪問して販売をしていたので、街道沿いの私の家の近くには、鮮魚店がありませんでした。おたたさんは、それぞれが販売のエリアを持っていたので、私の家に海産物を売りに来るおたたさんは決まっていました。おたたさんでも若い方は、自転車に海産物を積んで砥部(とべ)の方まで販売に行っていたと聞いています。また、松山方面へ販売に出ていた方もいたので、朝の一番列車はおたたさんが多く乗っていたことを憶えています。私が北中(ほくちゅう)(旧制北予中学校、現愛媛県立松山北高等学校)に通っていたときにも、この一番列車を利用していましたが、おたたさんは桶(おけ)に多くの魚を入れて客車に持ち込んでいて、その桶には商品となる海産物の臭(にお)いを防ぐ蓋のようなものがなかったので、客車内にはその臭いが充満していたことをよく憶えています。」

ウ 人々が集まる街道

 (ア) 東レで働く人々

 「昭和10年代の初めころには、レーヨンの工場が進出してくるということで、工場の建設予定地にはそのための資材がたくさん置かれていました。私たち子どもはそこでよく遊んでいたことを憶えています。昭和13年(1938年)に東レができてからは、街道沿いを歩く人が増えました。伊予鉄の松前駅では、松山などから通う大勢の通勤客が列車から降り、駅からは列を成して東レに向かって歩いていたので、まるで大名行列のようでした。
 昭和30年代、東レには約3,000人の従業員がいたと言われていました。遠方から入社し、寄宿舎に入って生活をしている社員は、土曜日や日曜日になると大挙して町に出てきていました。その多くが大坪座で映画を観るために町へ来ていたようです。大坪座に人が集まるので、街道沿いには人が多くいて、道筋の両側にある店も繁盛している様子で、とても賑(にぎ)やかだったことを憶えています(図表3-1-2参照)。」

 (イ) 街道沿いの映画館

 「私が小学生のころ、街道沿いにあった大坪座では無声映画が上映されていて、スクリーンの袖には活動弁士がいました。猿飛佐助や霧隠才蔵、真田十勇士、鞍馬天狗などが子どもたちに人気だったことを憶えています。
 大坪座は500名ほどが一度に入館できる規模であったと思います。最初は芝居小屋で、座席が升席になっていましたが、それを映画館にするために升席をすべて取り除き、椅子を設置したのです。戦時中には座席が女子席と男子席とに分かれていて、席の一番後ろには風紀を取り締まるための巡査さんの席が設けられていました。もし、男性が女性の席に座っていると、後ろからその巡査さんが来て、『あんた、席が違うが。』と言って注意をしていたことを憶えています。
 戦後になると、ナトコという進駐軍の映写機が、公民館活動の一つとして実施されていた巡回上映で使われていました。各学校でもこの映写機を借りて、教育用映画の上映をしていました。
 テレビが普及するまでは、大坪座にはいつも大勢の人が入っていたことを憶えています。戦後すぐのころには、料金としてお客さんが支払った10円札が木製の石炭箱(ミカン箱)に溢れてしまいそうなほど詰められていて、それを大坪座の職員さんが銀行へ預けに行っていた、と言われていたほどでした。」

エ 街道での楽しみ

 (ア) 高張提灯

 「街道沿いの家は、私の家がある辻が一番組、その北隣の辻が二番組、さらに北の辻が三番組というように、辻で組が分けられていました。昭和30年代くらいまでは、秋祭りが開催される2日間は、街道に長さが5mほどの棒を組み立てて御神灯の枠を作り、そこに提灯(ちょうちん)を吊(つ)る高張(たかはり)提灯を、各組ごとに組と組との境目の辻に立てておくことが義務付けられていました(写真3-1-2参照)。
 高張提灯を立てるときには、各組の組長を中心としてその指示の下で男衆(おとこし)連中が作業をしていました。高張提灯を立て、さらに街道沿いには万国旗を張って、お祭りの準備をしたものです。高張提灯には5つから7つの提灯が吊られていて、提灯が風で揺れないように下の部分も固定できるようになっていました。
 夕方になると提灯には蝋燭(ろうそく)で明かりが灯(とも)されていました。提灯が5つから7つは吊られていたので、高張提灯が立てられている周囲は、その明かりでとても明るかったことをよく憶えています。また、街道沿いの各家では、そのほとんどが玄関先に御神灯を出していたので、地蔵町(じぞうまち)から筒井までの街道沿いが提灯の明かりできれいに灯されていたことをよく憶えています。
 高張提灯は祭りが終わると解体され、木枠などの材料は家と家との間のスペースに保管されていました。当時の街道沿いの家は隣同士の屋根が重なり合っていた所が多く、そこに保管しておけば雨曝(ざら)しになってしまうことはなく、木枠が濡れて腐ってしまうという心配がありませんでした。」

 (イ) 「つくりもの」と「素人演芸」

 「お祭りのときには、街道沿いのそれぞれの商店が、その店の品物を使って、立体化した造形物を造り、それを店先に並べてその出来具合を競っていました。私たちはその出し物を『つくりもの』と呼んでいました。例えば金物店であれば、バケツやタワシなどの商品が使われて動物が造られるなど、どの商店も工夫をしたつくりものを店先に展示していたことを憶えています。
 また、この辺りでは、中村酒店の前に広いスペースがあったので、そこに舞台が組まれて演芸会が開催されていました(図表3-1-2の㋐参照)。地域の青年が演芸をやったり、素人の劇団が劇をやったりしていました。私も青年団に所属していたときに、この演芸会に一度だけ参加した経験があり、踊りだったか、漫才だったか、舞台に立って観に来ていた大勢の人を楽しませたことをよく憶えています。演芸会の準備が始まると、青年団の方々は、やる以上はよい演芸会にしないといけないと考えていたようで、準備を一生懸命にやっていました。
 青年団が行う素人演芸は特に人気がありました。ほぼ即興で行われていて、振り付けや台詞(せりふ)を忘れてしまうなど、素人ならではのハプニングがおもしろかったのだと思います。演芸が始まると、会場に来たお客さんが、『あれ、どこそこのだれだれさんやが。』と、知り合いが出演しているのを見つけては盛り上がっていたことを憶えています。
 その場を盛り上げる出し物が行われたときには、客席から舞台に向かって『おひねり』が投げ込まれていました。それだけ地域の人は、この青年団が行う演芸会を楽しみにしていたのだと思います。演芸会場には地域の方が大勢来ていたので、人が道路にまで溢れてしまい、街道を走るバスが通行できないということがあったほどでした。舞台は本当に簡単に組まれたものでしたし、お客さんも座ることなく、立ったままで観なければならない手作りの演芸会でしたが、今となっては、地域のみんなで一緒に楽しむことができたあの時代が懐かしく感じられます。」

 (ウ) 亥の子

 「11月になると、子どもたちが亥(い)の子をついていたことも思い出されます。1軒ずつ家を訪ねて道沿いでついていくのですが、私が子どものときには、御祝儀に5銭や10銭をくれる家がほとんどでしたが、中には1銭の青銅貨幣1、2枚だけという家もありました。当時は、いただいた御祝儀の額に応じて、子どもたちが亥の子唄の歌詞を変えていたことを憶えています。御祝儀が1銭か2銭だった場合には、数え歌の後に、『ここのだれそれが嫁さんを取るときは、根深(ねぶか)(ネギ)の吸いもん(吸い物)で祝いなさい。』と歌っていました。一方、5銭や10銭の御祝儀をくれた家では、『ここのだれそれが嫁さんを取るときは、鯛の吸いもん(吸い物)で祝いなさい。』と大きな声で歌っていました。当時は、歌詞の内容を変えたとしても、その家の人たちから何かを言われる、ということはなく、『鯛の吸い物』と亥の子をつく子どもたちに大きな声で歌ってもらうために、次の年からは御祝儀を多く出してくれる家が多かったことを憶えています。」

 (3) 街道を行く

ア 戦争と旧街道

 「昭和20年(1945年)6月12日に、私が田んぼで仕事を手伝っていると、役場の兵事係の職員さんから、『泰(たい)ちゃん、来たでえ。』と、声を掛けられ、召集令状を受け取りました。召集令状には、3日後の6月15日に徳島の部隊に入るよう記されていたので、私の出征を知った近所の方々も、『壮行会をせないかん。』と言って、慌てて準備が行われたことを憶えています。実際、12日に受け取り、13日の夜には壮行会が開かれ、14日に出発という慌ただしい日を送りました(写真3-1-3参照)。
 出征当日の14日には、家の前から松前駅までの大洲街道を、出征を祝う幟(のぼり)を立てた見送りの行列が歩き、松前駅前では召集を受けて各地区から出征する若者と、その見送りの人たちが合流して盛大な壮行会が開催されました。『おめでとう。』や『元気に戻れよ。』と地域の方に声を掛けていただき、代表者がお礼の挨拶をした後、万歳三唱をしていただきました。徳島の部隊へ配属となっていた私は、壮行会が終わると松前駅から郡中行きの列車に乗り、郡中で国有鉄道の列車に乗り換え、高松(たかまつ)を経由して徳島へ向かいました。令状を受け取って以降、壮行会や徳島へ向かう車中では、特に悲壮感を感じることもなく、『男だから行かないといけない』という気持ちの方が強かったと思います。当然、送り出す両親はたまらない気持ちになっていたでしょう。しかし、私自身はその場では、何も心配はしていなかったと思います。
 戦時中、戦死された方がいると、松前駅まで遺骨が帰って来ていました。そのときには、地域の大人も子どもも大勢が出迎えに出て、小学校(昭和16年〔1941年〕からは松前国民学校)まで遺骨を胸に抱えた遺族を先頭に、街道には葬列が続き、学校の講堂では合同の町葬が営まれていたことをよく憶えています(写真3-1-4参照)。」

イ 失業対策で整備された道路

 「戦後、失業対策として整備が進んだ旧国道56号は、昭和20年代後半の工事開始から完成までには5年ほど掛かりました(図表3-1-2の㋑参照)。工事が始まった当時は、戦後の混乱期をまだ抜けきっていない時期でもあったため、多くの作業員が仕事に従事していました。工事が行われているときには、大洲街道沿いに住む人々は、『あがいな(あんな)所に道を付けて、どがいすらい(どうするのか)、誰が使うんぞ。』と、話していたことを憶えています。
 この道路が整備された当初は道路端には店も何もなく、警察学校の南側に東レの荷物を扱う倉庫会社が一軒あっただけで、田んぼの中に大きな道が通っているという感じだったので、人が歩くというようなことはありませんでした。しかし、郡中方面から来た車が大洲街道から整備された道路へと入り、現在、警察学校がある筒井方面へ向かうようになったので、車の流れが変わってしまい、大洲街道を通る車の量は確実に減ったと思います。工事が行われているときには、近所に住む人たちと、『何であんな場所へ大きな道路を整備するんやろ。いらんもの造って。』などと話をしていましたが、後に車が増えてくると、整備しておいて良かったとも感じましたし、その道路のお陰で松山へ行くのにも便利になったことは間違いないと言えます。」

ウ バスに乗る

 「戦中から戦後にかけては木炭車のバスが街道沿いを走っていましたが、昭和30年(1955年)ころになると、ディーゼルエンジンを積んだ箱型のバスが主流となり、松山を出発して中山(なかやま)(現伊予市中山町)まで運行されていました(図表3-1-3参照)。この路線のバスは、松前駅に立ち寄るバスとは路線が異なっていて、松前駅に停まるバスは、主に東レへ通勤する方が利用することが多く、松山を出発すると、国鉄の北伊予駅を経由して、松前駅、東レ前へと運行されていました。
 私が中山中学校へ赴任した昭和54年(1979年)当時は、松前小学校前のバス停から内子(うちこ)・五十崎(いかざき)方面行きのバスに乗り、中山の国道沿いにあるバス停で下車をして通勤していました。朝の6時ころのバスに乗るのですが、冬場になると6時といえども辺りは暗かったことを憶えています。私が利用していたバスは、佐礼谷(されだに)経由で中山へ出ていました。佐礼谷地区などにお住いの方が中山の町の中心部まで仕事へ出るためにバスが利用されていたので、佐礼谷を通らなければならなかったのだと思います。当時のバスには車掌が乗務していましたが、バスの利用者は中山の方が多く、そのほとんどの方が定期券を持って乗車していたので、車内で切符を販売するというような様子はあまり見られませんでした。」

 (4) 戦時中の記憶

ア 相撲を通して学ぶ

 (ア) 大相撲松山巡業

 「北予中学校の隣には、城北練兵場があり、私が北中に通っていた昭和18年(1943年)に練兵場で開催された大相撲の松山巡業には、双葉山と照国という横綱が来ていたことを憶えています(写真3-1-5参照)。土俵は練兵場の西側、学校(北予中)寄りに造られていました。私は北中で相撲部に所属し、主将を務めていました。松山場所が開催されたときには、当時、監督を務めていた先生から、『お前ら、連れて行ってやる。』と言われ、実際に大相撲を砂かぶり席で間近に見ることができました。翌日、双葉山は北中へ、照国は新田(にった)(新田中学校、現新田高等学校)へそれぞれ相撲部の指導に出向き、稽古をつけてくれました。横綱はどっしりとした構えで、私たち中学生が複数で掛かって行っても動かすことすらできませんでした。私は部員に、『押せ、押せ。』と声を掛けていましたが、その後、横綱からは、『引けば押せ、押せば押せ。押して勝つのが相撲の極意である。』という言葉をいただきました。私は、横綱が稽古をつけてくれたことがとてもうれしくて、今でも中学校時代の良い思い出として残っています。」

 (イ) 座右の銘

 「昭和20年(1945年)6月、私が徳島の連隊に入隊した当時、連隊内では、中隊対抗の相撲大会が行われていました。相撲大会が近づくと、中隊長から、『誰か選手になるやつはおらんか。』と問われたので、相撲に自信があった私は迷わず手を挙げて、選手となることを希望しました。すると、その中隊長から、『満田、中隊代表で試合に出ろ。』と言われ、試合に臨みました。中隊対抗戦で私が他の中隊代表の選手に勝つと、中隊長はとても喜んでくれました。中隊長は松山出身の方で、同郷のよしみもあったのでしょう、試合が終わった日の夜に、『満田、ちょっと来い。』と中隊長室に呼び出され、『今日はようやったのう。』と労(ねぎら)いの言葉を掛けてくれ、タバコまでいただきました。その後、私は人生の中でも相撲を通して学んだ、『押しの一手』ということを肝に銘じて生活を送ることができたと感じています。」

イ 徳島での軍隊生活

 (ア) 徴兵検査と召集

 「私は昭和20年(1945年)1月15日に郡中で徴兵検査を受けましたが、レントゲン検査で指摘を受け、三乙(第三乙種)になりました。このときは、入営延期ということで喜んでいましたが、相撲で鍛えていて体格が良かったこともあり、実際には早く召集令状が届きました。
 召集を受けたとき、私は松山の連隊に入るものだと思っていましたが、令状を見ると西部第150部隊と記されていて、徳島の部隊に入隊することになりました。」

 (イ) 初年兵の生活

 「6月15日に徳島の部隊に着くと、兵舎が一杯で新兵の入る余裕がなかったので、結局、近所の農家の納屋を仮の兵舎として割当てられました。また、支給されたのは軍服だけで、銃や剣の支給がなかったので、近くの農学校(徳島県立農業学校、現徳島県立城西高等学校)の生徒が軍事教練で使用する木銃や、下賜されていた村田銃を借り受けて訓練をしていました。
 食事では、量は多くありませんが、白米の御飯を食べることができていました。味噌(みそ)汁などの汁ものには、カボチャの種が三つか四つ入っている程度でした。食器には孟宗竹(もうそうちく)を伐(き)って作られたものが使われていました。初年兵が使うこれらの食器には、カビが付着して黒くなっていたことを憶えています。
 また、部隊では炊事当番があり、初年兵は担当の上等兵にあれこれと指示をされて、忙しく厨房で働かなくてはなりませんでした。私が印象に残っているのは、上官、中でも将校の食事当番です。将校さんの食事には尾頭付きの魚がおかずに添えられていました。準備をするときには、マスクがなかったので口をタオルで塞ぎながら盛り付けをして、準備ができると上官の部屋へ持って行き、『陸軍二等兵満田泰三、食事を持って参りました。』と大きな声で言わなければなりませんでした。上官が食事を終えたころにそれを下げに行くのですが、私たちから見れば立派な食事でも、やはりおいしくなかったのでしょう、残されていることが多かったと思います。私たち若い兵隊は、お腹が減って仕方なかったので、上官が残した食事をいただくこともありましたが、その様子を古年兵に見つかってしまうと、勝手に食べていたということで、制裁を受けることがありました。」

(ウ) 重機関銃隊

 「部隊の近くにあった鮎喰(あくい)川には重信川に架かる橋と同じくらいの長さの橋がありました。私は入隊後、重機関銃隊に編成されました。重機(重機関銃のこと)は四つ足の台座に据え付ける大きなもので、相当重たかったのですが、『敵襲じゃあ。』と知らせが入ると、その重たい重機を4人で担ぎ、長い橋を渡って設置場所へ行かなくてはなりませんでした。実際に発砲するということはありませんでしたが、暑い中、重たい重機を4人で担いで長い橋を渡っていたことは今でも忘れることができません。終戦前には訓練で空砲を撃つことがありましたが、重機から排出される薬莢(やっきょう)が一つでも足りないということになれば、4人全体の連帯責任とされ、薬莢一つでも天皇陛下から下賜された大切なものであるということから、見つかるまで探すということが徹底されていました。軍隊在籍中にはこれに往生したことを憶えています。
 あるとき、塹壕(ざんごう)を掘る訓練を行うということで、上官である内務班長から、『実家にツルハシや鍬(くわ)のある者は申し出よ。』と言われました。私の家は農業を営んでいたので、それらの道具があることを申し出ると、その班長から、『取りに帰れ。』という命令を受けました。道具を取りに帰るとき、さらに班長から、『近所の酒屋で酒を工面できるか。』と言われていたので、家に帰ってから近所の中村酒店へ行き、一升瓶の酒を2本手に入れ、道具と一緒に部隊へ持って帰りました(図表3-1-2の㋐参照)。班長は道具とともに酒を持って帰ってきたことを大変喜び、以後、私に対する接し方が少し優しくなったような気がしました。」

 (エ) 昭和20年8月15日、そして帰還

 「昭和20年(1945年)8月15日、私たちの部隊は材木伐採の作業のために山へ行っていました。すると、そこで上官から、『今日は重大放送がある。天皇陛下の玉音であるからしっかりと聴くように。』と指示を受けました。私は、『重大放送いうて、何があるんやろ。』と仲間と話しながら正午の放送を待ちましたが、放送を聴いて戦争に負けたということが分かりました。私たち一般の兵隊は、戦争に負けた、戦争が終わったということをある程度すんなり受け入れることができていましたが、上官の将校さんたちはそれをなかなか認めることができなかったようです。特に見習い士官さんは、『これから大和魂で戦局を挽(ばん)回する。』などと言って意気込んで、戦争が終わったことに安堵(ど)する兵の士気をもう一度高めようとしていたことを憶えています。
 戦争が終わっても、軍隊という組織に所属している以上、勝手に家に帰ることはできず、帰ることができるのは除隊の命令を受けてからのことでした。私は9月中旬に上官に呼ばれ、『これから列車で故郷に帰れ。』という命令を受けて、やっと帰ることができたのです。部隊を離れるときに30円を支給され、そのお金を使って列車に乗ることができました。ただ、多くの兵に同じように除隊の命令が下るので、列車は故郷へ帰る兵で一杯でした。私は、高徳本線で徳島から高松へ出て、高松で予讃本線の列車に乗り換えて松山まで帰ってきました。
 家に帰る車中では、『ふるさとは空襲で焼けてしまって何もないのではないか。両親は生活に不自由しているのではないか。』と心配をしていました。列車が松山に到着してから、空襲で焼け残って闇市が開かれていた立花(たちばな)に寄って、生活に必要だろうと考えて食器類を買って家に帰ると、松前はほとんど空襲の被害を受けておらず、生活用品も防空壕に移していて無事だったので、父親から、『そがいなもん買ってきて、何もならまいが。』と帰還早々に怒られてしまったことを憶えています。」


図表3-1-2 夫婦橋南側の町並み

図表3-1-2 夫婦橋南側の町並み

聞き取りにより作成