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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 地域の産業を支えた製糸工場

 葛川熊夫さんは、かつて三島(みしま)農業共済組合・三島農業協同組合に勤務しながら北宇和蚕糸にも非常勤職員として勤務されていたことがあり、杉本和巳さんは、北宇和蚕糸で長年勤務され、県蚕糸団体の合併後、平成6年(1994年)に製糸工場が閉鎖された時には工場長を務められていた。この地域の産業を支えてきた北宇和蚕糸の製糸工場について、お二人から話を聞いた。

 (1) 工場の仕事

ア 愛三製糸のころ

 昭和2年(1927年)、不況のあおりを受けて、旧三島村にあった三島製糸と大和製糸が倒産し、この影響を受けた三島産業組合の経営は完全に行き詰まり、組合解散騒動にまで陥った。この時、26歳になったばかりの酒井要が推されて組合長に就任し、三島産業組合の経営を立て直し、昭和11年(1936年)に、愛三製糸販売利用組合連合会(愛三製糸)として設立認可を受け、翌12年(1937年)に操業を開始した(写真2-3-1参照)。設立されたころの愛三製糸について、葛川熊夫さんは次のように話してくれた。
 「三島産業組合の経営が成り立たなくなっていたのを、酒井要さんが組合長になり、自分の財産を全てつぎ込んで再建に尽力しました。三島産業組合は、三島にあった二つの製糸株式会社から工場を引き取り、昭和6年(1931年)に座繰30釜で製糸事業を始めました。その後、県の蚕糸課から、連合会を組織して2工場を1工場に統合するよう指導を受け、昭和11年(1936年)に愛治(あいじ)・三島の2組合で愛三製糸が設立され、翌年に新たに工場が建設されました。当時、国が組合製糸の統合を奨励しており、工場建設にあたって国から助成金を得ることができました。愛三製糸で作られた生糸は横浜(よこはま)(神奈川県)・神戸(こうべ)(兵庫県)へ運ばれて取り引きされていました。」

イ 北宇和蚕糸に勤務

 「愛三製糸はその後、北宇和製糸(北宇和製糸協同組合)になり、昭和25年(1950年)に北宇和蚕糸(北宇和蚕糸販売農業協同組合連合会)に組織が変わりました。当時、私(葛川熊夫さん)は共済組合(三島農業共済組合)に勤めていて、農協(三島農業協同組合)の畜産担当を兼務していました。そのころの共済組合の職員数は3人で、米・麦・養蚕が共済事業の対象になっていて、農家の人は一定額の掛金を払って、自然災害による損失がひどいときには、共済金を受け取るという仕組みになっていました。また、私が農協の畜産指導のため家庭訪問していると、当時は養蚕を行っている畜産農家が多く、養蚕の話題がよく出ていました。そのころ、三島では田んぼが少なく、お米の生産は自分の家で消費する程度でしたが、換金作物として繭と木炭の生産は大変盛んだったのです。そうしたときに、北宇和蚕糸の会長を務めていた高瀬兵馬さんから、『3食付きで月給4,500円、寄宿舎の風呂を自由に使ってよい』という条件で、引っ張られました。ただし、農協・共済組合と北宇和蚕糸の仕事を兼務するのは難しいので、私は北宇和蚕糸の常勤の職員ではなく、農協から常勤の職員を入れて事務関係の仕事を行うことになりました。」
 「昭和34年(1959年)に私(杉本和巳さん)が農協に入ってから4年後に、北宇和蚕糸で常勤の事務員が必要となり、農協の専務の命令で1年間出向することになりました。農協に比べると北宇和蚕糸での待遇は非常に良く、農協からは、『それほどの給料は出せない。』と言われるほどでした。1年の出向期間を終えると農協の組合長から、『北宇和蚕糸も農協も組合員のための組織だから、このまま残ってほしい。』と説得され、昭和39年(1964年)から正式に北宇和蚕糸に勤めることになりました。」

ウ 従業員の区分と給料

 「北宇和蚕糸の従業員は、『職員』と『女子職員』とに区分されていて、給与体系も異なっていました。職員は月給制で1か月の基本給が決まっており、ボイラー取扱資格や危険物取扱資格、ガス溶接資格等の取得者には役付手当が支給されていました。また、職員には、子どもの人数に応じて家族手当が支給されたほかに配偶者手当もあり、待遇は良かったです。女子職員は日給月給制で、1日当たりの賃金を決めて、出勤日数に応じて支払っていました。1か月の休日を除いた日数を休まず出勤した人には、わずかではありましたが精勤手当が褒賞として支給されていました。
 昭和37年度(37年6月~38年5月)は、55人の従業員のうち、女子職員が41人で、その給料総額が554万858円でした。職員は参事を含めて14人いて、その給料総額が440万7,560円でした。1人当たりの年間の給料を計算すると、女子職員が13万5,142円、職員が31万4,825円になります。その当時、北宇和蚕糸の職員の待遇の良さは狭い地元ではすぐに評判になったことを私(杉本和巳さん)は憶えています。しかし、繭の値がだんだん下がっていくにつれて、職員の給料は上がらなくなりました。職員に比べると女子職員の給料は安かったのですが、寄宿舎での生活はあまりお金がかからなかったので、生活に困ることはありませんでした。
 景気の良かったころは、会社の費用で全従業員が3泊4日くらいの旅行に連れて行ってもらっていましたが、その後、従業員が各自で旅行代金の積み立てをして不足分を会社から出すこととし、旅行に参加しなかった人には積立金を返金するというように変更されました。また、従業員に毎月給料の端(はした)分を社内預金させるということも行っていました。」

エ 工場での作業

 (ア) 繭の乾燥

 「北宇和蚕糸では毎年、春と初秋と晩秋の3回、農家から繭を買っていました。買った繭は、乾繭(かんけん)場(乾燥室)で1週間くらい熱風で乾燥させていました(写真2-3-2参照)。繭の乾燥作業で残業を行う場合、通常の月給に加えて2割5分増しの残業手当が支給されました。また、繭の積み込みをしたり、熱風を乾繭場に入れるためにボイラーを焚(た)いたりして、残業が夜10時以降の深夜に及んだ場合、深夜手当が月給の2割5分増しで支給され、残業手当と深夜手当が重なった人には5割増しの手当が支給されていました。私(杉本和巳さん)が北宇和蚕糸に入る前は、わずかな乾燥手当がまとまった形で支給されていたそうですが、職員にやる気を起こしてもらうように手当を増額したので、繭の乾燥に携わる人たちは結構良い給料になっていました。そうした技術職の人たちと、一般の女子職員とでは全く待遇が違っており、女子職員には深夜業をさせてはいけませんでした。」

 (イ) 繰糸場と揚返場

 「工場には、大きく分けると繰糸(そうし)場という作業部門と揚返(あげかえし)場という作業部門がありました(写真2-3-2参照)。繰糸場では、お湯の中に炊いた繭が漬かっていて、それを触るためにお湯の中に手を入れなければならないので、皮膚の弱い人の中には辞める人もいました。繰糸場では、お湯がいつも流れているため、夏は非常に暑い上に、サナギの独特の臭(にお)いがありました。揚返場では、繰糸場で作った小枠の糸を大枠に巻き換える作業を行いますが、そこは涼しかったので、地元で求人募集したときに、『揚返場であれば行きますが、繰糸場なら行きません。』というような声が聞かれました。狭い地域なので、作業場の噂がどこかから漏れ伝わったのかもしれません。」

 (ウ) 自動繰糸機の導入

 「従業員が100人くらいいたころは、生糸を取る機械が一人に1台割り当てられていましたが、繭の生産量の減少や自動繰糸機の導入によって、それほど人手を必要としなくなりました。昭和37年(1962年)に北宇和蚕糸で初めて導入した自動繰糸機は、恵南(けいなん)式といって、岐阜県に本社のある会社の自動繰糸機で、当時の製糸業界では人気がありました。後に、日産自動車が自動繰糸機の生産を始めると、性能が良いという評判になり、昭和48年(1973年)に恵南式から日産HRに変更しました。製糸業界では、繊度数を21中(なか)、28中、32中といった呼び方をするのですが、繊度数が大きくなると繭の使用量が多くなります。繭1粒(りゅう)がおよそ2.5~3デニール(糸の太さの単位)で、21中だと7粒くらいですが、28中だと9、10粒になり、21中よりも繭の使用量が多くなります。そこで、繭の生産量の減少に対応するために、従来の28中から21中に繊度数を落として、7粒くらいの繭の糸を機械で撚(よ)り合わせて、それを1本の糸にしてから小枠に巻いていました。作業中に糸が切れると繊度ムラが生じる(糸が太くなったり細くなったりする)のですが、ほぐれにくい繭は、下から上がってきて糸を取り始めている間に、切れてしまうことがありました。日産HRという自動繰糸機には、下で待機している繭を自動的に揚げて、同じ糸の大きさにする自動感知器が付いており、生糸の品質が非常に良くなったことを私(杉本和巳さん)は憶えています。それまでも感知器はありましたが、自動的に繭を付けられなかったので、手で付けていました。そのように機械が進歩すると工場では人手を必要としなくなり、従業員が101人いた昭和27年度の生糸の生産量は約16,000㎏でしたが、昭和48年度の生産量は約52,000㎏でした(図表2-3-2参照)。」

 (エ) 作業中のBGM

 「昭和35年(1960年)から同40年(1965年)ころ、勤め始めの女子職員たちに笑顔があまり見られなかったので、私(葛川熊夫さん)が、『作業中にレコードをかけたら能率が上がると思います。』と幹部の方に提案しました。理事会でそれが採用されて、それで女子職員のみなさんが気持ち良く仕事ができるようになったようです。」
 「工場内の工務室には、全従業員に連絡があるときに使用する放送施設がありました。そこにはレコードプレーヤーとともに、LPレコード盤やカセットテープもかなりあり、毎日午後2時ころから30分間、手のすいた人が好きな音楽を選んで流していたことを私(杉本和巳さん)は憶えています。音楽が流れてくると午後2時ころ、という合図になっていました。」

オ 定評を得ていた品質の良さ

 「北宇和蚕糸の生糸は、愛三製糸のころから品質の良さで高い評価を得ていて、落下傘の布地に使われたこともあるそうです。日本生糸販売農業協同組合連合会という末端の組合製糸が作った組織が横浜にあり、その支所が神戸にありました。北宇和蚕糸の生糸は、神戸で検査を受けて格付けをされました。上から5A、4A、3A、2A、Aという格付けがあり、検査を受けない生糸は無格という最も低い格付けになっていました。北宇和蚕糸の生糸のほとんどは4A格でしたが、5A格になったときもあったと私(杉本和巳さん)は記憶しています。北宇和蚕糸の生糸は格付けが安定しているため、新潟県の撚糸(ねんし)工場を始め各地から多くの需要があり、ときには生産が追い付かないこともあったほどで、北宇和蚕糸の生糸商標は品質の良さの証でした(写真2-3-3参照)。
 北宇和蚕糸では、成行(なりゆき)といって、価格を指定せず、その時、商品取引所で成立している価格で売買していました。長い目で見れば、成行で売買した方が利益が安定するという理由で、投機売りは行っていなかったのです。生糸の単価が一番良かった昭和50年代には、1万5千円代の値を付けたこともありました(図表2-3-2参照)。しかし、やがて生糸の価格が下がり、繭代に跳ね返って繭代が安くなると養蚕農家が減少し、生糸の生産量も減少していきました。」

カ 二度の火災

 「北宇和蚕糸は、昭和33年(1958年)と同51年(1976年)の二度火災に遭ったことを私(杉本和巳さん)は憶えています。昭和33年には、自然発火による火災で、繭の乾燥場とその建物内の施設・機械のほか、多くの原料繭を焼失しました。副蚕糸(繭から生糸を取り出した残り)は、副蚕処理機でサナギと繊維の部分に分離して、びす(サナギから分離した綿状のもの)を乾燥させて出荷します。びすには油が多く含まれているため、乾燥の時期に十分に油抜きをしていないと、自然発火が起こることがあるそうです。当時、びすを山のように積み上げて保管庫に置いていたのですが、まだ油分が十分に抜けていなかったのかもしれません。警察の現場検証で実験した時にも自然発火したそうです。昭和51年の火災の時は、同49年(1974年)に伊予(いよ)郡・温泉(おんせん)郡・上浮穴(かみうけな)郡の農協と津島(つしま)養蚕組合・宇和島(うわじま)養蚕組合が北宇和蚕糸に新規加入し供繭量が大幅に増えていたため、繭の仮保管場所として、旧三島小学校の校舎を借り上げ、乾燥させた大量の繭を置いていたところ、旧校舎のどこかから出火して類焼し、ほとんどの繭が焼けてしまいました。二度の火災では、多くの繭を焼失しましたが、いずれも保険で補償してもらったため、実質的な損害をそれほど受けずに済みました。」

キ 求人の募集

 「昭和30年代に集団就職が盛んだったころ、この辺りの就職先というと農協や北宇和蚕糸、役場の支所くらいのもので、北宇和蚕糸に就職したいという人は多くいました。私(杉本和巳さん)が北宇和蚕糸に入ったころは、入社試験では会長が面接を行っていて、入社してきた人は、『厳しい試験まで受けて入ってきたんやけんね。』と言っていました。求人の募集は、職業安定所よりも周辺の中学校に出していたと思います。昭和35年(1960年)ころには、他の産業に有能な人材が流出して、工場は人の確保が難しくなり、その後は、中学卒業後に高校へ進学する生徒が増えていきました。昭和40年(1965年)ころまでは、結婚して子どもの手が掛からなくなった人に、こちらから求人をお願いしていましたが、1人、2人を探すのにも苦労するようになりました。新しく入ってきて、まだ見習い段階の女子職員を『養成工』と呼んでいました。工場での仕事は共同作業で、1人でも抜けると、他の人の負担が増えてしまいます。そのため、欠員が出ると早く補充したいのですが、せっかく入ってきた養成工の中には、仕事を覚える前に辞めてしまう人もいました。」

 (2) 寄宿舎のくらし

ア 働きながら学ぶ

 「女子職員は全員寄宿舎に入り、5人部屋や10人部屋で生活していました。寄宿舎は2階建てで、その横に浴室がありました。事務所も2階建てで、2階には大広間があり、事務所と寄宿舎をつなぐ通路がありました(写真2-3-2参照)。
 工場で働く女子職員の年齢は14歳から28歳くらいでしたが、中学を卒業してすぐに入ってきた人がほとんどで、彼女たちのことを『女工さん』と呼ばない決まりになっていたことを私(杉本和巳さん)は憶えています。週に何回か、事務所の2階の広間で酒井要さんの講話が行われていたそうです。酒井さんには、若い女子職員を教育して、すばらしい人になってもらいたいという思いがあり、寄宿舎に茶道の先生を呼んだりしたこともあったと聞いています。昭和23年(1948年)、工場の隣に定時制の北宇和高校の三島分校(愛媛県立北宇和高等学校三島分校)が開設されると、そちらへ通学させていました(写真2-3-4、2-3-5参照)。定時制の授業は、工場の仕事が終わった5時ころから始まりましたが、生徒のほとんどが北宇和蚕糸の女子職員で、4年間通っていました。女子職員は、寄宿舎に帰ると、一斉にお風呂に入って汗を流し、食事を済ませてから学校で授業を受けていました。若い女子職員に乱れた生活をさせてはいけないという考えから、そのようにしていたようです。工場が閉鎖されるころには学校も閉校になっており、寄宿舎に残っていた2、3人の生徒のために、先生に教えに来てもらっていました。」

イ 食事と入浴

 「寄宿舎では、賄い婦さんを雇って、朝昼晩の食事を用意してもらっていました。当時は賄い婦さんが2人いたと思います。寮の入り口に炊事場があり、バルブをひねると出てくる蒸気熱を利用した蒸気釜を使って煮炊きしていました。朝食には必ず、地元の農家から買った野菜と、地元産のお味噌(みそ)を使った味噌汁が付いていました。また、近くの農家から買った大根で樽(たる)に沢庵漬けを作るのを私(杉本和巳さん)も手伝ったことがあり、それも給食に出していました。残飯を処理するために豚を3頭くらい飼って、それが大きくなったら農協へ出していましたが、豚を専門で飼っていたわけではないので、太りは悪かったことを憶えています。寄宿舎の浴室は広く、浴槽に蒸気のパイプが入っており、水を溜(た)めバルブを開くと蒸気が水中に吹き出てお湯になり、バルブで湯加減を調節し入浴していました。工場の近所に住んでいる女子職員の親戚の人も、夕方お風呂に入りに来ていました。女子職員の賃金は決して高くはありませんでしたが、この地区では結構優遇されていたと思います。」

ウ 寄宿舎での娯楽

 「お盆と正月前の休みには、寄宿舎の2階で演芸会が開かれていて、私(葛川熊夫さん)もそれを観(み)に行ったことがあります。そういう雰囲気の職場だったので、すぐに仕事を辞める人はほとんどいなかったと思います。また、昭和35年(1960年)から同40年(1965年)ころ、三島公民館では週に一度、ダンスパーティーが開かれており、私は、昼休みに時々、寄宿舎へフォークダンスを教えに行っていました。」
 「私(杉本和巳さん)が北宇和蚕糸に入る前までは、寄宿舎でトランペットやアコーディオン、クラリネットなどの楽器を演奏して演芸会をしていたのかもしれません。私は、年配の男性たちから、『北宇和蚕糸にはこんな楽器があったんよ。』と聞いたことがあり、実際に、北宇和蚕糸の倉庫で古くて使えなくなったアコーディオンを見つけたことがありました。」

エ 女子職員が多かったころの思い出

 「女子職員の多くは三島出身者でしたが、全従業員が100人くらいいたころは、日吉(ひよし)、小倉(おぐわ)、愛治、三間(みま)(現宇和島〔うわじま〕市)、松野(まつの)(松野町)、宇和島の方からも働きに来ていて、三島地区の男性と結婚された人も結構いました。昭和35年ころには北宇和蚕糸で運動会が行われていたようですが、私(杉本和巳さん)が入社した時には行われなくなっていました(写真2-3-6参照)。そのほかにも全員で旅行に行ったり、秋には山へ遠足に行ったりしていました。」
 「製糸工場の前にある橋(延川〔のぶかわ〕橋)は、昔はもっと道幅が狭かったのです(写真2-3-2参照)。夏には夜になると、大勢の女子職員たちが橋の両側に並んで夕涼みをしていて、その間を通るのを嫌がる男性もいましたが、私(葛川熊夫さん)は恥ずかしがらずに堂々と通っていました。」

(3) 県蚕糸団体の合併と工場の閉鎖

ア 県蚕糸団体の合併

 「昭和56年(1981年)には、機械の整備もきちんと行って生産体制が整っていたのに、製糸業不況カルテルが実施され、生糸の生産制限も始まりました。県の方が来て、工場で生糸を生産しないように、80台あった自動繰糸機のうち15台を封印されたこともありました。県内の蚕糸団体が合併されるまでにそうした不況カルテルが何度かあったことを私(杉本和巳さん)は憶えています。
 県内の製糸工場を一つに統合するという構想のもとに4者が合併し、県蚕糸連(愛媛県蚕糸農業協同組合連合会)という組織になりましたが、合併して2年ほどは1㎏当たり17,000円くらいの最高値を付けたこともあって、なかなか工場を整理することができませんでした。しかし、その後生糸の値が大幅に落ち込み、経営が持ちこたえられなくなりました(図表2-3-3参照)。『北宇和蚕糸の生糸は、原料の繭が良い、水が良い、技術が良い』という定評がありましたが、合併後は、高い技術があるのだから品質の悪い繭からでも質の良い糸が引けるだろうということで、品質の悪い輸入繭を送られるようになり、従来の高い品質を維持するのが難しくなっていきました。」

イ 工場閉鎖の決定

 「平成6年(1994年)には、県蚕糸連から、3工場のうち、北宇和だけを残して他の2工場は整理するという話があり、私(杉本和巳さん)も工場の従業員にそのように伝えていました。ところが、それから1週間もしないうちに、県蚕糸連から、『3月31日で3工場を全て閉鎖する。』と伝えられました。すると、一時はやる気になっていた従業員のみんなはがっかりして、それから1か月もしないうちに再就職先を探し始め、技術職の人の中には、他社から引き抜かれた人もいました。技術職の職員のうち、ボイラーの1級職という焼却場やごみ処理場で必要とされる資格を持っていた人の中には、松山(まつやま)の会社に就職が決まり一段と良い給料をもらうようになった人もいたほか、女子職員の中には、すぐ近くにあったサカエニット縫製工場に移る人もいました。
 工場閉鎖が決まったころ、従業員は26人いましたが、そのうち男性が7人くらいで、あとは女性でした。職業安定所(ハローワーク)に集団で行って、1か月くらいで新しい職場が決まった人もいましたが、全員の再就職先が見つかるまでに1年くらいかかったと思います。当時、私はまだ53、54歳で、周りから再就職先をいくつか紹介されたのですが、『従業員みんなの就職先が決まるまでは就職しません。』と言って、断っていました。全ての従業員の再就職先が決まってから、北宇和蚕糸がお世話になっていた保険会社の代理店をするようになりました。」

ウ 思い出の製糸工場

 「県の蚕糸団体が合併して県蚕糸連ができた時に、当時の工務課長さんが広見工場長として残り、私(杉本和巳さん)は県蚕糸連の方に出て行くことになっていたのですが、工務課長さんが辞めてしまったため、私が県蚕糸連の広見工場長として、工場のしまいを付けなければならなくなりました。平成6年(1994年)3月31日に工場は閉鎖されましたが、まだ県蚕糸連は残っていたので、それから1年くらいは工場の管理を行って、工場の中に残っている機械などのうちで売却できる物があれば売却して処分しました。結局、工場の建物と敷地は町に売却され、平成10年(1998年)に工場は取り壊されました。私は工場が取り壊されるのが嫌だったので、見に行かなかったことを憶えています。その後、県蚕糸職OB会長さんが、『愛媛の蚕糸業の歩みを残そうじゃないか。』と呼びかけて、私を含む18人が発起人となり、平成12年(2000年)に『愛媛蚕糸業の歩み』を発行しました。」
 「工場の閉鎖が決まった当時はこの辺りの養蚕農家も減っていたので、閉鎖の決定はやむを得なかったと思います。私(葛川熊夫さん)たちは、『三島の明日を考える会』というグループを作り、『工場の建物は残してほしい。』と町に要望していましたが、結局取り壊されてしまいました。しかし、製糸工場の歴史と先人たちの業績を後世に伝えたいとの思いから、私たちは平成18年(2006年)に製糸工場のシンボルであった煙突、のこぎり屋根、ボイラーに代わる窯(かま)の模型及び愛三製糸沿革の石碑を工場の跡地に設置しました。煙突のミニチュアは、工場取り壊し時にもらい受け大切に残しておいたレンガを使用し、実物の3分の1の縮尺で造ったものです(写真2-3-7参照)。」


図表2-3-2 北宇和蚕糸の原料繭受入状況と製糸実績

図表2-3-2 北宇和蚕糸の原料繭受入状況と製糸実績

『愛媛蚕糸業の歩み』から作成。昭和51年以降の受入繭数量は会員購入繭と会員外購入繭の総計

写真2-3-3 県蚕糸連生糸商標

写真2-3-3 県蚕糸連生糸商標

鬼北町 平成28年12月撮影 北宇和蚕糸の商標はダルマ下の表記が「KITAUWA SANSHI」となっていた。

図表2-3-3 県蚕糸連広見工場の製糸実績

図表2-3-3 県蚕糸連広見工場の製糸実績

『愛媛蚕糸業の歩み』より作成

写真2-3-7 製糸工場跡地に設置されたモニュメント

写真2-3-7 製糸工場跡地に設置されたモニュメント

鬼北町 平成28年10月撮影 左から沿革の石碑、のこぎり屋根の模型、煙突の模型。煙突の右側に釜が設置されている。