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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 農村地域への企業の進出

 昭和40年代以降の旧広見町及び鬼北町への企業進出について、旧広見町の時代から長年企業誘致に携わってこられた芝田正文さんに話を聞いた。

 (1) 昭和40年代から50年代の企業進出

ア 昭和40年代の進出企業

 「私が生まれたのは昭和23年(1948年)という団塊の世代の真ん中の時期で、そのころは、この辺りでも出生数は多かったです。私は昭和45年(1970年)に広見町の職員になりましたが、当時のことは職員になったばかりなので、細かいことまでは分かりません。当時は、若い世代の労働力が確保できるということもあって、昭和45年に、名古屋(なごや)(愛知県)に本社を置く砥石メーカーである広島研磨工業(広島研磨工業株式会社)が広見に工場を建設しました(写真2-3-8参照)。同社は高い技術を持ち業績を拡大していましたが、本社のある名古屋周辺では、トヨタ(トヨタ自動車株式会社)の系列企業が地元の優秀な人材を押えていて、なかなか優秀な職員を集められないというのが、こちらへ工場を建設した理由の一つだったと思います。
 当時の広見町では、中学を卒業して高校へ進学するのは半分くらいで、優秀な人でもいろいろな都合により就職していました。東京で就職した人はあまりいなかったと思いますが、かなりの人が大阪や名古屋の方で就職していて、広島研磨工業にも何人か就職していましたが、その中に優秀な方がいたそうです。そのころ、たまたま広島研磨工業では工場を新たに建設する計画があり、こちらであれば労働力も得られる上に、用地の価格も安いということで、昭和45年(1970年)にこちらで操業を開始しました。それは、農工法(農村地域工業導入促進法)が制定される以前の話です。広島研磨工業の従業員数は、平成16年(2004年)は約40人で、平成26年(2014年)は、77人でした。今は雇用形態が複雑になり、派遣社員の方もいるため、忙しい時期は100人くらいの従業員がいると思いますが、現在もこちらで企業活動を続けています。」

イ 相次ぐ縫製工場の進出

 「縫製工場では多くの労働力が必要であることもあって、旧広見町にも縫製工場がいくつか進出してきましたが、それも労働力の確保と、人とのつながりが関係していたと思います。その中でも一番大きかったのが四国いずみ繊維(株式会社四国いずみ繊維広見工場)で、より安価な労働力を求めて中国に工場を建設したり、中国からの研修生を受け入れたりしていたようですが、平成15、16年(2003、2004年)ころに倒産してしまいました。現在もこちらで活動している縫製工場は、長野縫製(長野縫製株式会社)、広見ガーメント、松浦産業(松浦産業有限会社)、成川縫製(有限会社成川縫製)などで、長野縫製や松浦産業、成川縫製は10人から20人の従業員で現在も企業活動を続けています(写真2-3-9参照)。」

ウ 地元出身者とのつながりによる企業の進出

 「昭和54年(1979年)には、炭素製品や機械用カーボン、メカニカルシールなどカーボン材料の加工・組立・販売を行っているメカニカルカーボン工業(メカニカルカーボン工業株式会社)が大宿(おおじゅく)に進出しましたが、これも人間関係によるものでした(写真2-3-10参照)。この会社の本社は鎌倉(かまくら)市(神奈川県)にあるのですが、大宿出身の優秀な方がそこに就職し、会社で中核的な役割を果たされてきたのがきっかけとなって、その方の地元に工場を建設したのです。メカニカルカーボン工業の従業員数は、平成16年(2004年)には約50人で現在は27人になっていますが、西予市に野村工場が建設されているので、従業員が分散しているのでしょう。メカニカルカーボン工業全体では、野村工場と広見工場を合わせると、現在も平成16年と同じくらいの従業員数かもしれません。
 また、2年ほど前に、メカニカルカーボン工業の関連会社の本社をこちらに移転するという話があり、日吉分校(愛媛県立北宇和高等学校日吉分校)の跡地に誘致しました。従業員が社長を含めて5、6人という小さな会社ですが、現在もそこで企業活動を続けています。」

エ 工場労働者の変化

 「昭和40年代は高度経済成長期の名残があり、企業自体にもまだ馬力がありましたし、いずれまた景気が良くなるという雰囲気があったように思います。縫製工場はまだ外国に労働力を求めるような時代ではなく、広見町へ進出してきました。そのころ、縫製工場の労働力の中心は農家の主婦の方々で、雇用形態は午前8時から午後5時までのフルタイム雇用ではなく、自分の都合の良い時間に働くという、パートタイムのような形態だったと思います。しかし、そうした主婦の方々もだんだん年をとられて、縫製工場ではこの地域で働き手を確保できなくなっています。現在、鬼北町にも中国の外国人登録者が80人から90人いますが、その多くが縫製工場の研修生の方だと思います。長野縫製では、20年くらい前から、会社の方が中国へ行かれて、研修生の選考をして受け入れていましたが、おそらく、今でもそのような方法を採っていると思います(写真2-3-11参照)。研修期間を終えた研修生が中国に帰ると、新しい研修生を受け入れています。長野縫製では、管理ポストには日本人がいますが、縫製の実務に携わっている日本人はほとんどいないと思います。
 米の価格がまだ良かったころ、この地域の男性は夏場は主に稲作を行い、秋から冬場になると土木工事に出ていました。昭和40、50年代は公共事業が多く、この地域でも道路工事などの土木工事がかなりあり、良い現金収入になっていたのです。ところが、その後、国の財政が厳しくなって公共事業の予算を絞り始めたため、男性が冬場の仕事にしていた土木工事が激減しました。いろんな要素が絡んでいるのでしょうが、夫は稲作が終わった秋から冬場に土木工事に行き、妻は工場で働いて現金収入を得るという田舎の家庭の生活スタイルが崩れてしまいました。」

オ 多かった出稼ぎ

 「昭和50年代の初めころまで、広見町では秋の収穫後から3、4月ころにかけて関西方面に出稼ぎに行く男性が非常に多くいました。出稼ぎというと、東北地方などの豪雪地帯で行われるというイメージがありますが、この辺りでも出稼ぎに行く人は結構多かったのです。出稼ぎ先の関西の会社から、『来年の10月ころから忙しくなるので、地元で10人ほど集めてくれんか。』と頼まれて、こちらに戻ってから取りまとめを行っていた人がいたと思います。業種としては建設業が多く、広見町からは100人以上が出稼ぎに行っていました。昭和45年(1970年)7月に広見町出稼者協議会が結成されて、町で出稼ぎのお世話をしていました。私の父もいつごろから出稼ぎに行っていたのかはっきりとは憶えていませんが、昭和40年代の初めころには関西方面に出稼ぎに行っていたと思います。町が出稼ぎのお世話をしていたのは、おそらく昭和50年代の初めころまでで、現在は行っていません。」

 (2) 企業誘致に携わって

ア アルコール工場跡地の活用

 「私は役場に入って何年かは、財政などの管理部門にいて、工場誘致に関わったのは平成の初めころのことです。かつて近永には国営アルコール工場(昭和57年〔1982年〕に特殊法人・新エネルギー開発機構に移管)がありましたが、アルコール工場は全国的にも非常に少なく、四国では近永だけでした(図表2-3-1、写真2-3-12参照)。平成14年(2002年)に近永のアルコール工場が閉鎖されると、従業員のみなさんは大津(おおづ)(熊本県)や石岡(いしおか)(茨城県)などの工場へ転勤していきました。
 国からアルコール工場撤退の方針が出されて以降、町では5町7反(約6ha)もの工場跡地をどのように活用すればよいか、ずいぶん頭を悩ませていました。最終的に、工場跡地の一部を宅地として分譲し、一部を公共施設の用地に、さらに別の一部を企業誘致も含めて商工業用地にするという計画を立ててから20年くらいになると思います。宅地分譲については、計画的に取り組んだ結果、現在まで順調に進んでいて、合計2町(約2ha)くらいある宅地分譲用地の66区画のうち54区画はすでに分譲済みとなっていますが、公共施設の用地や商工業用地については進捗がなく、今も空き地のままになっています。」

イ 困難な企業誘致

 「企業誘致は他の市町村でも行っていますが、旧広見町のころから現在に至るまで、企業を誘致するために進出企業に対して固定資産税を減免したり、助成金の制度をつくったりといった、さまざまな優遇措置を講じてきました。私が企業誘致を担当する以前から、進出企業に対する優遇措置はありましたが、企業にできるだけ多くの従業員を雇ってもらうために、新たな制度を設計しました。そうした努力の結果、平成3年(1991年)に、木材のチップを製造する会社がこちらに工場を立地しました。10年ほど企業活動をしていたので、制度の効果も少しはあったと思いますが、平成10年代に閉鎖したと思います。
 これまで企業誘致に携わってきて、地道にやってもらう企業の方がいいという気がしています。昭和50年代には町の誘致によって、中近東・東南アジア・ヨーロッパへの輸出用のカーステレオやカーラジオの組み立てを行っていたサンコー電機株式会社が永野市(ながのいち)で操業を開始しましたが、数年で倒産してしまいました。サンコー電機株式会社では工場の起工式や落成式を盛大に行い、従業員も多かったのですが、残念ながら長くは続きませんでした。広見町でのこれまでの企業進出の経緯をみると、広島研磨工業やメカニカルカーボン工業のように、地道な人間関係が築かれた結果、『ここであればいいなあ。』と思って進出してもらえる企業でなければ、長続きするのは難しいように感じます。」

ウ 近年の進出企業

 「旧広見町のころ、プラスチック部品などを製造する会社が、興野々(おきのの)に工場を建設するという話がありましたが、直前に中止になってしまいました。興野々工業用地はそのための工場用地として想定していたのだと思いますが、今はそこに介護施設ができています。三島工業用地は、40年ほど前に廃校になった三島小学校の跡地をグラウンドにしていて、面積は1町(約1ha)くらいです。
 高知スチロール(高知スチロール株式会社)は、鮮魚を入れる発泡スチロールの箱の製造・販売を主に行っている会社です(写真2-3-13参照)。平成16年(2004年)、愛治中学校跡地を整備した清水(せいずい)工業用地に工場を建設して、今でも活動しています。8人いる従業員は全て地元の方で、外国の方はいないと思います。雇用形態もほとんどが正社員で、事務員に女性の方が1人いますが、それ以外は男性だと思います。
 宇和島の近辺では養殖業が盛んで、鮮魚を入れる箱の需要が結構多くありました。高知スチロールでは、輸送費を考慮して宇和島近辺への工場建設を希望しており、しかも、早急に工場用地を決定したいという意向でした。当時の町長が愛治中学校跡地を工場用地として提案すると、造成の必要がなくすぐに建設に入れるため、そこに決定したと聞いています。それから10年余りになりますが、現在も高知スチロールは企業活動を続けています。工場の隣には、老朽化して使用できなくなった旧愛治中学校の体育館があり、現在、町ではその半分ほどのスペースを製品保管用の倉庫として高知スチロールに貸しています(図表2-3-1参照)。」

エ 企業誘致への思い

 「町の職員として企業誘致に長く関わってきましたが、この地域でも時代の流れに合わせて産業も変わっています。この辺りではかつて縫製が盛んでしたが、だんだん下火になってきています。このような田舎でも、国際的な流れの影響を受けざるを得ません。鬼北町では、できるだけ機会を捉えて、子どもたちに郷土の歴史や移り変わりなどを知ってもらおうと取り組んでいます。特に、日吉小・中学校では相互に情報交換をしながら、地域の産業や文化、歴史などを小中一貫で学ぶ『郷土学』に取り組んでいます。子どもたちが自分の生まれ育った地域のことを知っているということは、町にとっても大いにプラスになるし、子どもたちにとってもプラスになると思います。
 しかし、せっかく子どもたちが地域への理解を深め愛着をもつようになっても、高校生まではこの地域で生活できますが、大学に進学することになるとここから出て行ってしまいます。『彼らが成長してこちらへ戻って来て生活するための受け皿を作りたい。』という思いで企業誘致に頑張って取り組んでいます。」

参考文献
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』1985
・ 広見町『広見町誌』1985
・ 愛媛県『愛媛県史 社会経済4 商工』1987
・ 旺文社『愛媛県風土記』1991
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
         『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『鬼北盆地の風土と人々のくらし』1999
・ 「愛媛蚕糸業の歩み」発行委員会『愛媛蚕糸業の歩み』2000
・ 広見町『広見町誌 続編』2004
・ 広見町『広報ひろみ』
・ 三島公民館『三島公民館だより』





写真2-3-8 広見研磨工業株式会社広見工場

写真2-3-8 広見研磨工業株式会社広見工場

鬼北町 平成28年12月撮影

写真2-3-13 高知スチロール株式会社広見工場

写真2-3-13 高知スチロール株式会社広見工場

鬼北町 平成28年12月撮影