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松山市

三好保徳(1862〜1905)

 文久2年~明治38年(1862~1905)果樹園芸功労者。本県中予地区における果樹栽培の先覚者であり、自らの経営はもとより、広く苗木の養成や果樹栽培の啓蒙勧奨に多大の力を尽した。また本県特産の伊予柑の導入者としても知られている。文久2年、4月21日温泉郡道後村大字持田(現松山市持田)に生まれる。農業に志して特に農家の副業に関心をもち、早くから諸県を視診し、明治16年山口県萩より夏ミカンを持ち帰り試植を行い、吏に明治22年再び萩より穴戸ミカンの穂木を求めて苗木の養成をはじめるとともに付近に頒与した。これが本県特産の伊予柑である。明治25年温泉郡湯山村溝辺(現松山市溝辺町)に10aを開墾、和梨(赤龍)300本余りを植栽した。翌26年さらに榛芥を開墾し、3haに桃、リンゴ、梨を栽培し、明治29年には、温泉郡小野村横原(現松山市北梅本町)の山林7haを開墾してリンゴを植栽した。これらの果樹経営の傍ら、温泉郡長の委嘱を受け、余暇を見ては東奔西走して多くの人々に果樹栽培の有利性を説いて勧奨につとめ、本県果樹発展の基礎を築いた。その外道後村農会長、温泉郡農会副会長として、農事一般の指導にも尽した。明治38年3月18日死没し、墓は道後義安寺にある。明治43年果樹栽培功労者として、伊沢知事より追賞された。松山市の道後公園内には、大正10年建立の頌功碑がある。(『愛媛県史 人物』より)

【追記】
 頌功碑は現在、(株)えひめ飲料[松山市安城寺町478]の敷地内にある。


①三好保徳君頌功碑

①三好保徳君頌功碑

松山市安城寺町478