データベース『えひめの記憶』
松山市
高浜虚子(1874~1959)
俳人。松山城下の湊町(現、松山市)出身。本名清。伊予尋常中学校(現、県立松山東高等学校)に入学し、一歳年上の河東碧梧桐と同級となり、碧梧桐をとおして正岡子規に師事するようになって子規から虚子の俳号を授かる。明治26(1893)年、京都の第三高等学校(現、京都大学)に碧梧桐とともに進学し下宿を共にした。
正岡子規に影響を受けて碧梧桐とともに文学、俳句に関心を持ち俳句革新運動に参加する。一時、小説に熱中して俳句から遠ざかったことがあったが、初志に帰り俳壇に復帰した。碧梧桐の新傾向に対して自ら守旧派と称し、子規の客観写生を広げて17字の定型と季題を守った花鳥諷詠(かちょうふうえい)を説き、俳壇の主流となった。主宰する『ホトトギス』は、大正・昭和期には、全国一を誇る俳誌となり、多くの俊秀を輩出し、ホトトギス王国を築いた。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)
【追記】
高浜虚子墓所:寿福寺(神奈川県鎌倉市扇ヶ谷)
【西ノ下大師堂の句碑】
⑴ ここにまた 住まばやと思ふ 春の暮
(昭和15年、父の50年忌のために松山に帰省し、旧居跡を訪ねた時に詠む)
⑵ この松の 下にたゝずめば 露のわれ
(「ホトトギス」大正6年12月号に発表)
(兄の法事のために帰省した時、懐かしい西ノ下を詠んだもの)
(虚子の句碑第1号)
⑶ 道の辺に 阿波のへんろの 墓あはれ
(昭和10年4月25日、四国遍路の途上で病没した遍路の墓があるこの西ノ下大師堂を訪れた際に詠んだもの)
【糸山展望台付近の句碑】
戻り来て 瀬戸の夏海 絵の如し
(昭和11年、パリ遊学中の次男を訪ね、その帰国途中に船の甲板上で詠んだもの)
①高浜虚子之像 松山市柳原(西ノ下大師堂内) |
②西ノ下大師堂にある句碑Ⅰ 松山市柳原(西ノ下大師堂内) |
③西ノ下大師堂にある句碑Ⅱ 松山市柳原(西ノ下大師堂内) |
④西ノ下大師堂にある句碑Ⅲ 松山市柳原(西ノ下大師堂内) |
⑤昭和天皇御手蒔「虚子の松」 松山市柳原(西ノ下大師堂内) |
⑥糸山展望台登り口にある句碑 今治市小浦町(糸山展望台登り口の駐車場内) |