データベース『えひめの記憶』
松山市
柳原極堂(1867~1957)
俳人。新聞記者。松山城下(現、松山市)出身。松山中学校(現、県立松山東高等学校)に入学し。3級上級の正岡子規と交流を結び、以降「文友」として交際する。子規が神戸の病院を退院後、静養のため帰省し、愚陀仏庵に寄寓の際は日参して俳句の指導を受けた。極堂らの俳句活動は、子規の日本俳句の最初の地方結社となり、俳誌『ほとヽぎす』、『鶏頭』を創刊、子規吟行集『散策集』などを発表した。また、「松山子規会」を結成し、『友人子規』などを著し、正岡子規の研究・顕彰に余生を捧げた。
一方、松山市議会議員として地方政治の振興と産業の発展に尽くし、また新聞社を経営して教育文化の振興に寄与した。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)
【追記】
柳原極堂墓所:妙清寺(松山市山田町、道後白水台付近)
【萬翠荘への坂道にある句碑】
城山や 筍のびし 垣の上
(しろやまや たけのこのびし かきのうえ)
【放生園の句碑】
春風や ふね伊豫に寄りて 道後の湯
(はるかぜや ふねいよによりて どうごのゆ)
【糸山公園にある句碑】
瀬戸渦の とけては奈可れ 春の潮
(せとうずの とけてはながれ はるのしお)
【西山興隆寺にある句碑】
雨だれの 音もそひ来て 夜寒可奈
(あまだれの おともそいきて よさむかな)
①子規堂 松山市末広町16-3 |
②松山中学校跡Ⅰ 松山市一番町4丁目3(現、NTT西日本愛媛支店) |
③松山中学校跡Ⅱ 松山市一番町4丁目3(現、NTT西日本愛媛支店) |
④萬翠荘への坂道にある句碑 松山市一番町3-3-7 |
⑤放生園の句碑 松山市道後湯之町6-7 |
⑥糸山公園にある句碑 今治市小浦町2-5 |
⑦西山興隆寺にある句碑 西条市丹原町古田甲1657 |