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今治市

菅原道真(845〜903)と綱敷天満神社

【元県社 綱敷天満神社畧記】
一 祭神 菅原道真公
一 由緒
  菅原道真公は醍醐天皇の御代 昌泰4年正月25日(901年)にわかに大宰府へ左遷される。
  同年2月1日十挺櫓(じゅっちょうろ)の屋形船にて配流の旅へつかれた。その途中予州の迫門(壬生川沖)において風波の難にあわれ御船あぶなき祈り 広川修善(当神社宮司の先祖)と里人が一行を助け今の志島の東端に漕寄せ岩上に御座所を設けたが咄嗟の事にて敷物がなく漁船の綱を丸く巻き円座の替わりとした。
 (この古伝により「綱敷天神」という社名となる。)
 その時 菅公は濡れた烏帽子・冠・装束等を近くの岩上に干された。(後にこの岩を「衣干岩」と称す。)里人は折敷の上に鮮魚(小魚)をのせて献上し御安泰を御祝いした。
 菅公は里人の厚意に感激され自ら梶柄に荒々しく御尊像を刻んで姓名を告げ「後日私が帰洛したならこれを証として都を尋ねなさい。もし筑紫にて没したと聞けば これを素波神(そばがみ)と称し祭りなさい。」と申された。
 郡司 越智息利により残された御尊像をこの地の南端に小社を建て素波神として祭り尊崇した。
 この御尊像を御神体としてお祀りしたのが当社の創始である。享保5年6月28日(1720年)松山藩主 松平隠岐守より現在の地に社殿を建立した。
 戦前は県社に列格され県内最大の天満神社として一年を通し特に受験シーズンには菅公にあやかりたいと多数の学生の参拝があり祈願絵馬も二千枚余り奉納される。
 境内は三万三千坪あり昭和16年には国の名勝地に指定され最近では日本の松原百景に選ばれた。人の手を加えない自然の松原は絶景である。
 又その中に梅園(梅の木300本余)も整備されており天神様の境内地にふさわしく花の咲く頃になると多くの参拝者・観光客でにぎわう。

※本来は縦書きで数字は漢数字だが、教材資料館掲載にあたりアラビア数字に変更した。

①衣干岩

①衣干岩

今治市桜井6丁目7−24

②綱敷天満神社

②綱敷天満神社

今治市桜井6丁目2−1

③筆塚

③筆塚

今治市桜井6丁目2−1

④天神様と牛

④天神様と牛

今治市桜井6丁目2−1