データベース『えひめの記憶』
久万町誌
10 上浮穴郡尋常小学校准教員養成所
明治四〇年ごろになり、教育もだんだん充実進展し、小学校も増設され、学齢児童も増加してきた。教師の不足がはなはだしく、教育推進上一人支障をきたすこととなった。
そのために教師を急速に養成する必要にせまられ、臨時教員養成所を開設することになった。臨時教員養成所の名目で、六か月講習の小学校本科正教員(一部)、尋常科正教員(二部)、裁縫専科正教員兼尋常科准教員(三部)を本県師範学校校舎の一部を使用して、明治四〇年一〇月一日より開所することとなった。主幹には時の師範学校長が任命された。
同四一年三月、諸規則の改正を行い、愛媛県教育協会小学校教員養成所としての基礎を確立した。
本郡は特に教師の不足がはなはだしく、愛媛県教育協会上浮穴部会では、その事業として、尋常小学校准教員の養成に取り組んだ。養成所は久万高等小学校に併設された。
当時の卒業証書は次のとおりである。
卒 業 証 書
尋常小学校 愛媛県
准教員養成 ○ ○ ○ ○
所印 生 年 月 日
右は当部会設置の私立上浮穴尋常小学校准教員養成所所定の課程を修了せることを証す。
明治四十一年三月三十一日
愛媛県教育協会上浮穴部会長 松田虎次郎 印
部会長は当時の郡長が兼務し、教師は久万尋常小学校長、久万高等小学校長、その他付近の小学校長や郡視学等であり、准教員の養成を担当した。
生徒は本郡の令地域はもちろん、温泉郡やその他の郡、高知県などからも入学してきた。寄宿舎には校内及び神宮社務所を使用した。
授業は小学校の授業終了後行い、大体午後一時ごろからで、午前中は自習や宿題の処理等に充てていた。教科書は当時の師範学校二年程度のものであった。
卒業後、現職につくもの、また、松山の尋常科正教員養成所に入所する者等がいた。
この養成所が、明治末期以後の郡内教育者の充実に果たした役割りは大きいものであった。
明治四五年度より、教員養成所を廃止し、男女生徒を本県師範学校講習生として教育することに決め、同年三月、教育会の事業を廃止した。