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久万町誌

9 上浮穴高等学校

 上浮穴農林学校は昭和一五年(一九四○)に設立されたが、当時上浮穴には県立中学はなく、志を抱く多くの子弟は、遠く他郡市で学ばねばならない状態で、本人の不便はもちろんのこと、父兄の負担は多額にのぼり、そのために進学する者もわずかであった。そのことが本郡の文化の向上発展を遅らせ、後進性を助長する結果となった。
 郡民はこのことを憂慮し、本郡の開発には人材の開発こそが先決であると考え、新谷善三郎その他、当時の指導的立場の人々が一丸となって努力し、ついに県当局を動かして本校を設立することとなった。
 昭和一五年一月三〇日、県議会で上浮穴農林学校創設費を可決承認。同年六月一日、現本校位置を決定。同年八月三一日、校地五五四〇坪、実習地七三五九坪を買収した。
 同年一〇月一四日、上浮穴農林学校は、甲種農林学校として設立が認可された。生徒定員男子一学年五〇名、年限三年であった。
 同一六年四月七日、久万小学校講堂で第一回入学式を挙行した。
 同一七年六月一日、本館教棟、その他建物が竣工し、久万小学校仮校舎より移転。八月二五日、第一期工事(本館教棟、理科室など)が完了した。
 同一八年二月一六日、女子部本科および専攻科設置が認可された。本科定員一学年五〇名、年限二年、専攻科五○名、年限一年。男子部は農林科と変更し認可された。
 同年九月一日、第二期工事(農産製造室、鶏舎、豚舎など)が竣工した。
 同一九年九月一日、般田一雄寄贈による講堂、収納庫などを竣工。同年一〇月五日、新谷善三郎寄贈による女子部寄宿舎が竣工した。同年一二月二三日、女子部本科の定員を一学年一〇〇名に増加が認可された。
 同二〇年八月一五日、男子寄宿舎、食堂、炊事室、風呂場などを竣工した。
 同二一年二月一日、男子部定員増加が認可された。一学年一〇〇名。
 第二次世界大戦後の昭和二二年に学校教育法が公布され、六・二・三・四制の新学制が実施されるにいたった。そこで、上浮穴農林学校は、新制高等学校として「中学教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育を施す」という目的をもった上浮穴高等学校に生まれかわった。
 課程としては、男女共学の全日制と、働きながら学ぶことのできる定時制がおかれた。
  ア 全日制課程
 昭和二三年四月一日、学制改革により、上浮穴高等学校(総合制)となる。生徒定員は一学年普通科一〇〇名、農業科一〇〇名。
 同二四年九月一日、家庭科教室(西校舎階下北)増築工事が竣工した。
 同二六年三月、学校林四二町余りを購入した。
 同二八年一月三〇日、林業科新設が認可された。同年四月三日、生徒定員が改定され、一学年普通科一三○名、農業科五〇名、林業科五〇名となる。
 同二九年一〇月四日、中の校舎の増、改築工事が竣工した。
 同三〇年二月一日、生徒定員が改定され、一学年普通科一二〇名、農業科五〇名、林業科五〇名となる。
 同年九月一七日、運動場拡張工事が竣工した。
 同年八月二日、久万造林より実習地東光農園が寄贈され、同年八月三日、後援会より校長住宅が寄贈された。同年九月二三日、新谷善三郎の寄贈によって校旗が制定された。
 同年五月一日、木工室が竣工した。
 同三四年一月二七日、定員改定により普通科一学年一〇〇名、農業科五〇名、林業科五○名となった。
 同三五年二月九日、生徒定員改定により、一学年普通科一〇〇名、農業科四〇名、林業科四〇名となった。
 同三五年一一月二一日、井部栄治寄贈による独包図書館新築落成。正門及び正門前道路建設。新谷善三郎頌徳碑を建立した。
 同年一一月二一日、創立二〇周年記念式典挙行、記念学校祭を開催した。
 同三六年、生徒定員改定により、本年度に限り、一学年普通科一〇〇名、林業科五〇名となった。
 同三七年一月一三日、生徒定員改定により、一学年普通科一五〇名、林業科五〇名となった。
 同年五月一〇日、林産加工室新築落成。理科(生物・物理)実験室及び準備室改造工事が竣工した。
 同三八年一月三一日、生徒定員改定により、一学年普通科一五九名、林業科八六名となった。同年三月三一日、農産加工室改造工事が竣工した。
 同年七月一五日、待望の体育館が新築落成し、同年九月一四日、寄宿舎増・改築工事が竣工した。同年九月二一日、体育館落成記念式典を挙行した。
 同三九年一月八日、食物室の改造工事が竣工した。同年九月七日、体育館北側に屋外専用便所を新築した。同年一一月一一日、本館と体育館を結ぶ中央通り廊下を屋根付きコンクリート土間に改造した。同年一二月一八日、校内電力需用の増加に伴う高圧変電設備工事が竣工にした。
 同四〇年二月九日、生徒定員改定により、一学年普通科一五○名、林業科八〇名となる。
 同四一年一月一四日、収納室を木工機械室(フローリング製造)に改造した。同年三月一日、久万町から町有林 一・一ヘクタールを記念林として貸与された。期間は五○年間である。同年三月三一日、講堂(知今堂)の基礎を改修した。同年一〇月三一日、サッカー及びバレーボールのバックネットを新設した。
 同四二年一月三一日、漏電警報器を新設した。同年二月三日、生徒定員改定により、一学年普通科一四四名、林業科八〇名となる。同年二月九日、講堂(知今堂)の床張替え工事が竣工した。同年三月三〇日、上水道配管補修工事及び消火栓三基の新設工事が竣工した。同年四月一五日、畜舎の改築工事が竣工した。同年六月三〇日、体育室の改築工事が竣工した。同年八月三一日、理科室及び理科準備室の補修工事が竣工した。
 同四三年一月一〇日、校内電話改修工事が竣工した。同年一月二六日、生徒定員改定により、一学年普通科一三八名、林業科八〇名となる。同年四月一〇日、本館二階に一教室増設した。同年九月九日、火災報知器三個を設置した。
 同四四年二月四日、生徒定員改定により、一学年普通科一三五名、林業科八〇名となる。
 同四五年四月三〇日、体育館床張替え工事が竣工した。同年一二月二五日、生徒定員改定により、一学年普通科一三八名、林業科四〇名となる。
 同四六年三月二〇日、農産加工室(一三九平方㍍)、畜舎(一二六平方㍍)を移築し、実習地(七二五平方㍍)を校舎新築用地として転用した。同年七月一三日、林業科教棟(鉄筋二階建)が竣工した。
 同四七年二月一日林業科教棟の三階増築が竣工した。同年七月三一日本館新築第一期工事が竣工した。
 同四八年三月三〇日、本館新築第二期工事が竣工した。
 同四九年九月一〇日。本館新築第三期工事が竣工した。同年一〇月一○日、旧本館、中校舎、堆肥舎を取り除いた。
 同五〇年一月一〇日、自転車置場を新築した。同年九月一〇日、本館前に庭園が竣工した。
 同五一年五月六日、校内同和教育研修会発足、以後毎年実施する。
 同五二年二月二四日、グランド夜間照明塔四基を設置した。同年三月二五日、格技場(鉄骨カラー鉄板葺、二八三・三六平方㍍)及び教員住宅四戸が竣工した。同年四月八日、クラブハウス(五〇・二四平方㍍)が竣工した。同年八月三日、リーダー研修会(大洲青年の家)発足、以後毎年実施する。
 同五三年八月一一日、全校生徒で地区別本仕活動(郡内一八ヶ所)を実施、以後毎年実施する。
 同五五年三月二九日、弓道場(鉄骨・カラー鉄板葺、六一平方㍍)が竣工した。同年一一月一八日、体育器具収納庫が竣工した。同年一二月二六日、生徒定員改定により一学年普通科一三五名、林業科四〇名となる。
 同五七年三月二五日、運動場西側防球ネッ卜が竣工した。
 同五八年二月一四日、林産加工実習教棟が竣工した。同年九月二日、鶏舎、肥料倉庫を取り除いた。
 同五九年三月三〇日、温室が竣工した。同年九月三日、本館及び林業科教棟に避雷針を設置した。同年一〇月三日、体育館北側へ防球ネットを設置した。同年一二月二二日、生徒定員改定により一学年普通科九〇名、林業科四〇名となる。
 同六〇年八月三一日、木造校舎を取り除いた。
 同六一年七月二三日、畜舎を取り除いた。同年八月五日、育林実習室、農産加工室、実習資料室、木工室、林産製造室、木工加工室、車庫を取り除いた。同年八月六日、プレハブの仮倉庫が竣工した。
 同六二年三月二五日、林業実習棟(鉄筋三階建)が竣工した。
 同六三年九月二〇日、二五メートル・七コースのプールに着工した。
  イ 定時制課程
 教青の機会均等は、いうまでもなく近代教育の重要な理念であって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位あるいは門地によって教育上差別されることなく、能力に応ずる教育を受ける機会が与えられることである。新しい憲法および教育基本法でこの理念が明らかにされ、教育の機会均等の声がたかまり、定時制高校の設置が青年たちの要望となった。関係機関へ働きかけ、昭和二三年九月に上浮穴高等学校の校舎を併用する久万中心校のほか、郡内に五つの分校が設置された。
   直瀬分校
 昭和二三年度より上浮穴高等学校定時制直瀬分校が直瀬中学校に設置され、以来年々充実し、二七年には独立校舎を持ち、全日制進学者を除く中学校卒業者のほとんど全員が入学するようになった。専任の高校教諭三名が配置された。旧川瀬村当局も力を入れ、毎年五〇万円前後の予算を組んでいた。
   畑野川分室・父二峰分室
 昭和二四年四月、畑野川、父二峰地区の青年たちの強い要望により、畑野川中学校に直瀬分校の分室が、父二峰中学校に中心校の分室がそれぞれ併設された。しかし、年を追うにしたがって全日制の進学率が高くなり、新しく入学する生徒数の減少によって、父二峰分室が同二六年に、畑野川分室が翌二七年にそれぞれ閉鎖され、在学生は、直瀬分校及び中心校の定時制に夜間通学することになった。
 定時制課程の消長を年次を追って記すと次のようである。
 昭和二三年九月七日、定時制課程の設置を決定(中心校・直瀬・仕七川・面河・柳谷・御三戸)し、九月から一〇月にかけて順次開校した。
 同二九年二月一日、定時制面河分校生徒募集停止となる。
 同三〇年二月一日、定時制面河分校廃止と決定される。
 同三一年一月一九日、定時制御三戸分校、三一年度より生徒募集停止が決定される。
 同三二年二月八日、定時制仕七川・柳谷・直瀬分校・三二年度より生徒募集停止が決定され、直瀬分校に、農業科、農村家庭科短期二年コースを新設すること、定員一学年五○名と決定される。御三戸分校廃止される。
 同三四年一月七日、定時制仕七川、柳谷分校廃止及び直瀬分校普通科が廃止される。
 同三五年二月九日、定時制直瀬分校、三五年度より生徒募集停止となる。
 同三六年、定時制直瀬分校廃止される。
 同三七年一月一三日、定時制普通科定員四○名となる。
 同四〇年二月九日、定時制課程生徒募集が停止となる。

定時制生徒数の変遷(「上浮穴高等学校20年史」による)

定時制生徒数の変遷(「上浮穴高等学校20年史」による)


定時制卒業生徒数

定時制卒業生徒数


卒業生徒数

卒業生徒数