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久万町誌

5 大宝寺

 大字菅生一一七三
 真言宗豊山派 大覚院菅生山大宝寺
 本尊 十一面観世音
 昔、明神右京・隼人なる兄弟の狩人が一日の狩を終えて家路についた時、東の山中に光るものを見つけ翌朝その光りを探したところ、菅草の中に十一面観音像が安置されているのを発見した。そこに草奄を結んで尊像を祀った。その後、大宝元年、時の帝文武天皇の勅願によって大宝の年号をとり創建された。平安時代、弘法大師四国霊場開創に際し、当山に三密の秘法を修し第四四番の霊場となる。仁平二年(一一五二)焼失。保元年間(一一五六~五八)後白河天皇が御脳の病になられた時、当山に勅使が参詣し当病平癒の祈願を込めた。祈願成就なって多額の浄財を寄進、それによって菅生に四八の僧堂坊舎が建立された。あわせて御皇妹の宮が住職としてこられた。現在、陵、勅使橋の遺跡がある。また御白河天皇御自筆の『菅生山』の勅額を賜った。当時から嵯峨大覚寺の末寺として江戸時代まで管理されていたものと思われる。後、中興第一世雲秀方丈が享保九年(一七二四)に住職となる。寛保元年(一七四一)久万山農民一揆の騒動が起り農民大洲領に逃散する。藩からの再三の帰山の要請にもかかわらず帰らない。そこで思いあまった藩主は、時の斉秀方丈(第四世住職)に農民への説得を懇願した。斉秀方丈の努力によって農民は帰山した。そのため藩から一五〇石の定米の奉納があり、よって国守の祈願所となる。明治七年、塔頭理覚坊を残し他はことごとく焼失した。当時は四八坊の内一二坊が残っていたと記録にある。その後、明治時代に大師堂・護摩堂・庫裡を再建、大正年間に本堂・鐘楼堂を再建、昭和三一年に仁王門・総門、昭和三八年に宮殿・方丈を再建し、完成する。享徳四年(一四五五)の仁王尊、嘉吉三年(一四四三)の三三灯籠台(県有形文化財)、昭和九年に発掘された掘出観音像(約八〇〇年前)、境内には寛保三年(一七四三)芭蕉翁五〇年忌追善供養に造立した芭蕉塚、昭和二五年に第二次世界大戦の郡内の戦病没者の芳名を刻み込んで鋳造した「平和の鐘」等がある。参道の老杉は寺の歴史を物語る。現在は第二十世伸康が法燈を護持している。