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愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行)

近世〔享和1(1801)~文政12(1829)〕

【西暦(和暦・干支)】
  【月日】 【事項】

1801(享和1 2.5・辛酉) 
  2―    今治藩領越智郡国分村の国分寺本堂が落成する〔国府叢書〕。
  4―    大洲藩、陸越えの移出物品に口銭を課し、新谷領にも布令する〔久保家文書〕。
  6―13   松山藩、藩士の末期養子について規制し、50歳以上の者については受理しない旨布達する〔増田家記〕。
  6―    松山藩領風早郡上総村農民、今治藩領へ逃散する〔伊予百姓一揆〕。
  7―1   新谷藩、寛政8年以来禁止していた他領銀札の通用を許可する〔久保家文書〕。
  8―20   小松藩領内大洪水、北条村北新田・大頭村六反地池など被害箇所多し〔小松藩会所日記〕。


1802(享和2・壬戌) 
  5―    大洲藩、商札条目を定める〔大洲手鑑〕。
  6―17   小松藩、領内周布郡大頭村と松山領同郡明穂村(赤尾村)との境界争論について関係者を呼び和談を勧告する〔小松藩会所日記〕。
  6―17   小松藩、竹の門外に学問所(培達校のち養正館)を設置する。この年、近藤篤山を教授として招請する〔小松藩会所日記〕。
  7―21   小松藩の楮方・紙方、収益の算定をする〔小松藩会所日記〕。
  8―22   小松領内の村々、洪水の被害を報告する〔小松藩会所日記〕。
  11―27   宇和島藩領8―6の洪水などによる損毛3万4,588石と報告する〔記録書抜〕。


1803(享和3・癸亥) 
  1―19   松山藩の借財45万俵に達し、7月より文化3年6月までの間、5割渡しとする〔本藩譜〕。
  3―5   宇和島藩領宇和郡高山浦の農民250人、庄屋・組頭の非違を訴える〔記録書抜〕。
  3―25   松山藩、享和2・5―18の雨で崩壊した石垣の修理願を提出する〔叢談〕。
  8―9   松山藩領桑村郡壬生川村で農家109軒を焼失する〔増田家記〕。
  9―26   宇和島藩領伊方浦で大火、160軒焼失する〔記録書抜〕。
  この年   放火により今治城下の円浄寺・円光寺・松源院が焼失する〔国府叢書〕。


1804(文化1 2.11・甲子) 
  1―25   宇和島藩領内矢野・保内不作のため、大豆3,900俵を支給する〔記録書抜〕。
  3―27   松山藩風早郡忽那島宮野村農民50人、天領大洲藩預かり小浜村に逃散する〔加藤家年譜〕。
  7―26   大洲藩領洪水、肱川の水位2丈6尺2寸〔加藤家年譜〕。
  8―29   松山藩、領内風雨による破損多し、12―15損毛高を3万5,058石余と報告する〔増田家記〕。
  8―    大洲藩、領内に厳しく倹約を布達する〔中島堀内家文書〕。
  10―22   宇和島藩、8―29の洪水をはじめ、災害多く、損毛高7万329石におよぶ〔記録書抜〕。
  10―    松山藩領伊予郡松前浜で築港工事はじまる〔増田家記〕。
  12―20   松山藩、幕府より囲籾を命じられる(松山藩囲籾割当高1万5,000俵)〔叢談〕。
  この年   西条藩、西多喜浜を多喜浜と改称する〔西条誌〕。
  この年   吉田藩、検地を実施し、無年限定免とする〔三瓶町誌〕。
  この頃   大洲藩主加藤泰周『大洲和歌集』を編集する〔加藤家年譜〕。


1805(文化2・乙丑)  
  1―23   大洲藩預所3か村の年貢米を別子・立川両銅山へ回送するように命じられる〔中島町教育委員会所蔵文書〕。
  4―3   今治藩、今治城南堀端善方弥右衛門跡屋敷地へ藩校(講書場)を設立、教授に長野景次郎恭度任命される〔続今治夜話〕。
  5―    宇和島藩領宇和郡三崎浦の農民に不穏な動きあり〔御歴代事記〕。
  6―23   松山藩、幕府より東海道筋河川の修理を命じられる(入用金1万8,524両余)〔増田家記〕。
  9―27   小松藩領の村々、川除普請勘定書を提出する〔小松藩会所日記〕。
  10―14   松山藩領湯之町三組、鎮火祭の祈禱を勤行する〔湯神社社用日記〕。
  10―23   松山藩、東海道筋河川修理のため囲籾困難を嘆願し、10―27囲籾におよばずとの回答を得る〔本藩譜〕。
  12―18   大洲藩領豊作のため、藩士に100石について1石5斗を臨時支給する〔加藤家年譜〕。
  この年   松山藩、藩校興徳館(のち明教館)を設置する〔叢談〕。
  この頃   西条藩、藩校択善堂を創設する〔県教育史〕。


1806(文化3・丙寅) 
  6―    天領宇摩郡川之江村で質営業者調査が行われる(質屋数16軒)〔役用記〕。
  9―11   大洲藩、勅使饗応・藩邸類焼などのため家中に差上米を命じる〔加藤家年譜〕。
  11―6   宇和島藩領宇和郡御荘組緑村の農民、肥草刈を要求し、山奉行に対して騒動をおこす〔城辺町誌〕。
  12―22   松山藩、本年夏の旱魃による損毛高を1万3,432石と届け出る〔本藩譜〕。
  この冬   西条藩領新居郡垣生村に大火があり200軒を焼く〔西条誌〕。


1807(文化4・丁卯) 
  1―11   松山藩領越智郡岡村の農家113軒を焼失する〔関前村教育委員会所蔵文書〕。
  4―28   宇和島藩領宇和郡近家浦で製塩開始される〔記録書抜〕。
  7―2   宇和島藩、近家塩田を岩松村小西惣(荘)三郎に下げ渡す〔記録書抜〕。
  10―24   宇和島藩、領内の風雨による損毛、4万4,891石2斗となる〔記録書抜〕。
  この年   栗田樗堂、自撰句集『石耕集』を著す〔同書〕。
  この年   今治藩越智郡大島の島四国参詣が創始される〔国府叢書〕。


1808(文化5・戊辰) 
  3―    松山藩領久万町村で農家102軒を焼く〔増田家記〕。
  5―29   大洲藩、替地3町の郷町分離を許される〔伊予史談会蔵「郡中諸用控」〕。
  6―17   喜多郡出石寺が再建される〔記録書抜〕。
 閏6―23   吉田領皆江浦と宇和島領下泊浦との境界争論がおこる〔記録書抜〕。
  6―25   幕府天文方測量役人伊能忠敬ら、宇和島領に入る〔記録書抜〕。
  6―    今治藩領内の社家中、神葬祭願を提出する(天保3・8―22神主およびその嫡子に限り許可)〔高田家文書・諸国神道葬祭類例記〕。
  7―20   松山藩、幕領預り年限を5か年延長する旨通達がある〔増田家記〕。
  8―15   イギリス艦フェートン号事件おこる。
  8―    伊能忠敬、松山藩領内を測量する〔伊能忠敬測量日記〕。
  8―    伊能忠敬、西条藩領内を測量する〔小野家文書〕。
  8―    伊能忠敬、小松藩領内を測量する〔小松藩会所日記〕。
  9―7   伊能忠敬、天領川之江に到着する〔役用記〕。
  この年   間宮林蔵、樺太探検を開始する。
  この年   西条藩領多喜浜塩田、九州の高島・松島などの石炭使用を始める〔西条市誌〕。


1809(文化6・己巳) 
  5―8   松山藩、絞油不足のため、菜種綿実の作付けを増加するよう通達する〔増田家記〕。
  5―    京都の吉田家神祇道示諭方役人が伊予国へ下向する〔松浦家文書〕。
  6―26   大洲領喜多郡大洲村と新谷領同郡阿蔵村との間に竹之窪水論おこる〔竹之窪水論実紀〕。
  6―    宇和島藩領宇和郡白髭・松谷・富野川村農民、寛政9年に続いて減租を嘆願する〔東宇和郡沿革史〕。
  6―    小松藩領周布郡千足山村より常住にある新寺打ちこわしの件届け出る〔小松藩会所日記〕。
  9―15   宇和島藩、田手次郎太夫に櫨実世話方を命じる〔記録書抜〕。
  12―9   松山藩、藩士救済のため高100石につき、銭札300目を給与する〔定通公時代公文集〕。
  12―22   松山藩、夏の旱魃による損毛を7万6,358石余と届ける〔増田家記〕。
  12―    『徳川実紀』の編纂開始される。
  この年   新谷藩、政道内辺向とも本家支配となる〔久保家文書〕。
  この年   松山藩、同藩江戸藩邸内に藩校三省館を設置する〔日本史総覧〕。


1810(文化7・庚午) 
  2―5   松山藩、昨年の旱魃の被害が大きかったため、囲籾を使用することを願い出る〔叢談〕。
  2―    大洲城下町の組年寄を組役人と改める〔大洲商家由来記〕。
  6―20   小松藩一柳頼親駿府加番を命じられ、領内に5分(5%)の増税を布達する〔小松藩会所日記〕。
  9―20   松山藩預り所、天領新居郡種子川山村農民20人、小松藩領へ逃散する〔小松藩会所日記〕。
  9―    松山藩軍学師で『予松御代鑑』・『予陽塵介集』の著者野沢弘通(象水)没す〔予松御代鑑写〕。
  10―    当年豊作のため、幕府、諸大名に籾の貯蔵を命じる。


1811(文化8・辛未) 
  4―7   宇和島藩、新田・川土手などに櫨を植えさせる〔記録書抜〕。
  12―7   宇和島藩、稲井甚太左衛門に荒地開発・国産増殖政策を担当させる〔記録書抜〕。
  この年   温泉郡北吉田浜手新田を開墾する〔草庵日誌〕。


1812(文化9・壬申) 
  2―27   宇和島藩、砂糖製造に努力した小頭伊助・元締支配佐助を賞する〔記録書抜〕。
  4―20   銅山師泉屋の代理石見屋善兵衛、小松藩に輝安鉱開発願書を提出する〔小松藩会所日記〕。
  8―22   大洲領喜多郡一木村・北山村・大南村の一部と新谷領同郡阿蔵村・梅ノ川村との村替えが行われる〔加藤家年譜〕。
  この夏   栗田樗堂の門人鹿門・才馬、樗堂の句304句を集め『萍窓集』を編集刊行する〔同書〕。
  11―4   大洲藩領で大地震おこる〔加藤家年譜〕。
  11―21   宇和島藩で藩財政改革をめぐる内紛(萩森騒動)がおこる〔桜田日記〕。
  この年   松山藩領久米郡志津川村農民、水論裁許に反対して騒ぐ〔伊予百姓一揆〕。
  この年   大洲藩、郡中灘町の波止工事を開始する〔殿様御越諸事控〕。
  この頃   松山領三津の商人天野助左衛門、自分の茶室「以静庵」で度々茶会を催す〔松山市史料集〕。


1813(文化10・癸酉) 
  2―25   宇和島藩領宇和郡岩木村の農民、庄屋の非違を糾すため、吉田藩領則村に逃散する〔宇和島御仕置帳〕。
  4―27   大洲藩、関東川筋普請助役を命じられる〔加藤家年譜〕。
  6―1   京都の玉田主計の神道講釈、6―10まで続く〔湯神社社用日記〕。
  8―3   宇和島藩領宇和郡魚成村の農民、紙荷組の件につき騒ぐ〔宇和島御仕置帳〕。
  9―23   松山藩、幕領越智・桑村両郡を引き続き預かる〔増田家記〕。
  9―    新谷藩、文化6年以来行政・財政を本家大洲藩に依頼してきたが、行政をその手に復する〔久保家文書〕。
  9―    新谷藩、領内の御用竹の伐り方について指令する〔久保家文書〕。
  11―25   松山藩、藩士に20年賦で銭札を貸し付ける。高100石の場合、銭札2貫目、利息は6歩と定める〔増田家記〕。
  12―4   川之江出身の幕府儒官尾藤二洲死去する〔同墓碑銘〕。
  12―28   幕府、大洲藩に対し預かり所を私領同様に扱うことおよび年貢定免・銀納を許可する〔加藤家年譜〕。
  この年   大洲藩領喜多郡の農民、凶作のため減租を求めて強訴する〔農民惑乱実記〕。


1814(文化11・甲戌) 
  8―14   松山藩、経書講釈の開講日を定め諸役人に聴聞を命ずる〔増田家記〕。
  8―21   俳人栗田樗堂死去する〔粟田家系譜〕。
  10―11   西条藩・小松藩・今治藩および今治藩領三島の銭札用掛、銀歩引下げ方協議のため西条城下町に集まる〔小松藩会所日記〕。
  10―21   泉屋吉左衛門、輝安鉱購入を申し出る〔小松藩会所日記〕。
  12―18   小松藩、輝安鉱を江戸で販売する〔小松藩会所日記〕。
  12―26   松山藩、夏以来の旱魃による損毛高を4万6,107石余と報告する〔増田家記〕。


1815(文化12・乙亥) 
  7―2   宇和島藩、銀札引替えについて正銀の員数を限定する〔宇和島・吉田両藩誌〕。
  9―    新谷藩、庄屋百姓の心得べき制法を改正する〔久保家文書〕。
  10―18   松山藩領浮穴郡久万町村の農民、水論のもつれから逃散を企画し、大洲藩境まで出る〔県農業史〕。
  12―22   松山藩、明年より豊凶に応じ俸禄の渡し方を増減すると布達する〔定通公時代公文集〕。


1816(文化13・丙子) 
  3―4   今治領宇摩郡中曽根村・柏村・三島村と松山藩預かり所同郡小川山村との間に山論がおこり、寺社奉行に裁決を願う〔今治拾遺〕。
  3―25   大洲領喜多郡村前村の農民14人、宇和島領宇和郡惣川村に村出する〔新編物語藩史〕。
  4―27   宇和島藩、美濃・尾張・伊勢など東海道筋河川改修助役を命じられる(支出1万2,800両)〔記録書抜〕。
  11―28   大洲藩領喜多郡柚ノ本・北只・黒木村の農民、紙専売に反対して強訴を図るが米遂に終わり、頭取死罪となる〔伊予百姓揆〕。
  12―12   松山藩町奉行、儒学者の宇佐美淡斎没する〔宇佐美淡斎碑文〕。
  12―    大洲藩、川艜掟を公布する〔矢野家文書〕。


1817(文化14・丁丑) 
  1―28   大洲藩、替地を郡中と改称する〔加藤家年譜〕。
  2―12   松山藩、昨年の損毛高を1万3,618石余と報告する〔叢談〕。
  3―9   小松藩、石見国より楮2,000貫を購入する〔小松藩会所日記〕。
  5―18   今治藩、池内八郎兵衛屋敷跡へ藩校(克明館)を再興する〔今治拾遺〕。
  6―9   松平定信自筆、克明館の校名を藩校南正面に掲げる〔今治拾遺〕。
  8―17   宇和島藩、浦方五分一銀徴収について、浦方役などの心得を通達する〔記録書抜〕。
  12―1   松山藩、本年の損毛高を2万1,160石余と報告する〔叢談〕。
  この年   松山城下立花口に岩国の算盤橋を模した堯音橋が出来る〔叢談〕。
 文化年間   岡田通載著、地誌『伊予二名集』成る〔同書〕。


1818(文政1 4.22・戊寅) 
  2―    宇和島藩預宇和郡野村で不隠な情勢となる〔緒方文書〕。
  3―20   松山藩、通用米手形について心得方を示し、手形に判鑑を添えるよう布達する〔定通公時代公文集〕。
  3―20   西条領新居郡大保木山村と小松領周布郡千足山村との境界争論がおこり、関係者出府する〔小松藩会所日記〕。
  4―2   宇和島領東山田村・野田村・伊賀上村と吉田領俵津浦との境界論争が解決する〔記録書抜〕。
  5―17   天領宇摩郡川之江村の農民、松山に出訴する目的で村出する〔小松藩会所日記〕。
  5―    今治藩領猟師町吾智網漁規定布達される〔大浜八幡大神社所蔵文書〕。
  7―20   吉田藩領宇和郡俵津浦農民150人、囲籾の使用を要求して大洲藩領へ逃散する〔記録書抜〕。
  9―8   小松藩、輝安鉱6,000貫目を担保として、大坂商人より、銀300貫目を借用する〔小松藩会所日記〕。
  10―14   宇和島藩、銀札引替について厳しく規定する〔記録書抜〕。
  12―    大洲藩、領内本田畑の甘蔗栽培を禁止し、荒地・開墾地にのみ植え付けを許可する〔中島堀内家文書〕。
  12―    大洲領郡中から国役金を銀札で上納する〔郡中諸用控〕。
  12―    小松藩、松山藩より1,000両を借用する〔小松藩会所日記〕。
  この年   新地町年寄刀屋宗兵衛、口惣塩田を開く〔大山祗神社文書〕。
  この年   松山藩士荒川太室(安井煕内)、『却睡草』を著す〔同書〕。


1819(文政2・己卯) 
  2―4   宇和島藩領宇和郡郷村の農民、強訴を企画するが未遂に終わる〔宇和島御仕置帳〕。
  4―2   宇和島藩領宇和郡東多田関地池を普請、新夫1万8,400人・米309俵2斗3升2合と報告あり〔記録書抜〕。
  8―    大洲藩、領内に名所旧跡古城名産の取調べを命ずる〔中島町堀内文書〕。
  10―14   松山藩、日光廟修理を命じられたため、領内から銀米を調達する〔定通公時代公文集〕。
  12―4   松山藩、米価が下落して米手形が処分できないので知行、扶持米、切米を札渡しとする〔定通公時代公文集〕。
  12―9   宇和島藩、藩学普教館を明倫館と改称する〔記録書抜〕。


1820(文政3・庚辰) 
  1―    松山町方貯銀のうち1,000両を町奉行所に預ける〔松山町鑑〕。
  2―2   小松藩、領内の困窮者に米を廉売する〔小松藩会所日記〕。
  3―5   松山藩領浮穴郡久万町村
で155軒を焼失する〔増田家記〕。
  3―24   松山藩領周布郡楠窪村の農民、難渋して逃散するが処罰される〔田野村誌〕。
  4―17   松山城天守閣再建のため普請奉行を任命する〔叢談〕。
  11―19   吉田藩領宇和郡奥野川村の農民60人、庄屋の非違を訴えようとして阻止され、土佐領へ逃散を図る〔兼松文書〕。
  12―    大洲藩、預け籾の集計をする〔大洲手鑑〕。


1821(文政4・辛巳) 
  1―末   吉田藩奥野川村の一揆再発、再び土佐領権谷へ逃散する〔兼松文書〕。
  3―1   宇和島藩、庶民の旅行を禁止していたが、郷中1組より1人ずつ伊勢参詣を許可する、また矢野・保内より大洲領への出稼も認める〔記録書抜〕。
  この春   大洲領喜多郡長浜の佐々木源三兵衛(立山亭喜楽)、『積塵邦語』を著す〔同書〕。
  6―    西条藩領宇摩郡上分村の農民、今治藩領下山村へ逃散、7月帰村する〔下柏村庄屋年代雑記録〕。
  7―    伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」完成する。
  8―8   大洲藩領洪水、肱川の水位2丈5尺となる〔加藤家年譜〕。
  8―    天領宇摩郡川之江村祭礼、昨年の山下騒動のため車芸停止される〔役用記〕。
  12―20   松山藩、町方へ藩債として永久銭札の差し出しを求め、銭札10貫目に対し年8俵の米を永久に与えることとする〔御触状控帳〕。
  この年   吉田領俵津浦と宇和島領東山田・野田・伊賀上の3か村に境界争論あり、両藩取り扱いにて解決する〔御歴代事記〕。


1822(文政5・壬午) 
  1―15   宇和島藩、倹約中につき国産品奨励を重ねて通達し、他所人の正銀引き替えを禁止する〔記録書抜〕。
  2―12   宇和島藩、郷中に対し9か条の倹約令を布達する〔記録書抜〕。
  2―21   宇和島藩領三机浦大火、274軒焼失する〔記録書抜〕。
  6―22   大洲藩領洪水、肱川の水位2丈7尺5寸となる〔加藤家年譜〕。
  6―30   松山藩、町人に対し大三島新地の富くじなどに行くことを禁じる〔御触状控帳〕。
  11―    松山藩医青地林宗、幕府天文方蛮書和解御用掛に任ぜられる〔青地林宗先生傅〕。
  この年   青地林宗、万国地理書『輿地誌』刊行する〔同書写〕。
  この年   松山藩領野間郡波止浜塩田の浜子、今治藩札での賃金支払いに反対して、塩田地主・商家を襲う〔加茂宮記録〕。


1823(文政6・癸未) 
  2―23   大洲藩、関東の河川修復助役を命じられる〔文恭院殿御実紀〕。
  6―7   小松藩、領内旱魃に苦しみ、小松藩香園寺に雨乞読経を依頼する〔小松藩会所日記〕。
  6―    松山藩領温泉郡の農民、旱魃で植付け不能のため松山城下へ押しかける〔伊予百姓一揆〕。
  7―22   小松藩、周布郡長民群集し、大頭村で3軒・小松町で1軒を打ちこわす〔小松藩会所日記〕。
  7―28   小松藩、これまで豆腐10丁2匁のところ、3匁に値上げすることを許可する〔小松藩会所日記〕。
  7―29   大洲藩、大旱魃のため、郡中浜御番所下で千人踊を実施する〔郡中諸用控〕。
  7―    オランダ商館医シーボルト(独人)長崎に来る。
  8―21   大洲藩、領内の船舶に加藤家定紋をつけさせる〔加藤家年譜〕。
  9―12   松山藩、享保以来の凶作とされる旱魃のため、11月より家中人数扶持を布達する〔増田家記〕。
  12―19   松山藩、当年の損毛高を11万6,258石と報告する〔叢談〕。
  12―25   小松藩領内の紺屋、染料金の値上げを申請する〔小松藩会所日記〕。
  12―    松山藩主松平定通、松山城下の勝山揚木戸口に東雲神社を勧請する(天保11・3―14藩主松平勝善、神社を遷座)〔東雲資料ほか〕。
  この年   西条藩主松平頼啓、東多喜浜の北へ新たに塩田17浜を築かせる〔西条誌〕。
  この年   松山藩、浮穴郡久万山諸村に救米を給する〔永代日記〕。
  この年   松山藩領内各地で旱魃のため水論がある〔草庵日誌〕。
  この年   万外編『伊予簾』刊行する〔愛媛百科〕。
  この頃   今治藩士戸塚政興、『今治夜話』を著述する〔同書写〕。


1824(文政7・甲申) 
  1―15   新谷藩出身の碧川鐵胤、平田篤胤の娘婿となる〔平田鐵胤伝記〕。
 閏8―1   松山藩、財政立て直しの具体策を作成し、郷町へ御用銀米などを命じる〔定通公時代公文集〕。
  9―3   今治城下町の砂田綱治保固・近藤庄蔵包勝、御用銀1,000貫目を献上する〔砂田家譜〕。
  11―5   今治藩領宇摩郡三島村の真鍋善左衛門、当年より4か年で米1万5,000俵を献上する〔真鍋家譜〕。
  この年   シーボルト、長崎で鳴滝塾を開く。


1825(文政8・乙酉) 
  1―20   今治藩領宇摩郡新宮・上山・馬立・新瀬川4か村の農民、差上米減免を嘆願する〔下柏村庄屋年代雑記録〕。
  2―18   幕府、異国船打払を命ずる。
  2―27   松山藩領浮穴郡久万町村で大火があり、町家を残らず焼失する。これ以後瓦葺が許可される〔永代日記〕。
  4―12   小松藩、領内で産出の砂糖を大坂で販売する〔小松藩会所日記〕。
  6―3   松山藩領大雨洪水のため石手川堤防切れ、出合付近の被害甚大となる〔増田家記〕。
  8―13   天領大風・洪水、8―19にもあり〔役用記〕。
  9―22   宇和島藩、医師が手製の薬を市郷で売ることを禁じる。但し、そのうち妙薬と判定されるものについては、証判を加えて売ることを許可する〔記録書抜〕。
  11―26   宇和島藩領内の医師進斎、解体を望んだため、刑死者の死骸を渡す〔記録書抜〕。
  11―27   松山藩、水損による被害を4万1,421石と報告する〔本藩譜〕。
  この年   松山藩士伊藤充之、『垂憲録』を編集する〔同書写〕。


1826(文政9・丙戌) 
  1―17   宇和島藩、諸役所の減員・移転と政費節減を命じる〔御歴代事記〕。
  3―27   宇和島藩領宇和郡高瀬村の農民83人、凶作と負担過重に加えて庄屋の横暴に苦しみ、大洲藩領柚ノ木村へ逃散する〔宇和島御仕置帳〕。
  3―    松山藩、浮穴郡久万山に楮苗1,000本につき植付入用として銭札20目ずつを与え、紙役所に手配させる〔永代日記〕。
  4―5   松山藩領重信川出水のため、出合渡船が転覆して売魚婦25人溺死する〔増田家記〕。
  5―20   松山藩領、大風雨で石手川筋所々堤防切れる。今出辺は田地400町余流される〔湯神社社用日記〕。
  5―20   今治藩領、大風雨により総社川土手所々で大破する。溺死者23人、破船50艘〔今治拾遺〕。
  5―21   松山藩領石手川洪水、流死人80人余を出す〔増田家記〕。
  5―21   大洲藩領洪水、肱川の水位3丈3尺1寸となる(溺死30人・流家46軒)〔加藤家年譜〕。
  6―4   別子銅山、湧水多く人夫不足のため、天領村々へ、人夫派遣通達あり〔役用記〕。
  7―2   宇和島藩領宇和3か村の農民、蔵本へ屯集して騒ぐ〔宇和島御仕置帳〕。
  12―22   宇和島藩船大工町医師進斎、「内外一致和蘭眼療所」の表札を掲げたいと出願する〔御歴代事記〕。


1827(文政10・丁亥) 
  1―19   松山藩、昨年の水損を5万5,978石余と報告する〔叢談〕。
  2―13   今治藩、御用所金歩一銭を開始し、取締方に目付岡崎大次郎を任命する〔堀江家譜〕。
 閏6―13   松山藩、浮穴郡久万町村と菅生村との間に天満川関についての水論があり、役人が出張する〔永代日記〕。
  6―17   大洲藩領洪水、肱川の水位2丈5尺となる〔加藤家年譜〕。
  6―    今治藩領上柏村と天領三角寺村との間に争論がある〔伊予百姓一揆〕。
  7―19   宇和島藩領宇和郡富野川村の農民120人、組頭の非違を糾弾するため、大洲鎖へ逃散する〔伊予百姓一揆〕。
  7―    遊行上人(56代傾心)伊予を廻国する。
  8―10   松山藩主松平定通、文武修練所を1か所に設けることを命じる〔増田家記〕。
  11―    田中一如、松山に六行舎を建て心学を講義する〔愛媛百科〕。
  12―3   越智郡岩城村の勇吉、常州平潟沖より漂流、翌年2―11フィリピンのバタン諸島に漂着、同年長崎に送還される〔常羊亭坐右録〕。
  12―26   松山藩、本年の損毛を4万6,444石余と報告する〔叢談〕。             
  この年   宇和島藩領布喜川村庄屋摂津八郎、松山地方の高機を導入し綿人縞の生産をはじめる(西宇和郡の綿織物の商品生産化)〔県誌稿〕。
  この年   松山藩、藩校明教館を創設、高橋復齋、日下伯巖が教授となる〔県誌稿下巻〕。
  この年   青地林宗著『氣海観瀾』が初版される〔同書〕。


1828(文政11・戊子)  
  1―30   松山藩、文武修練所明教館規定を作る〔叢談〕。
  3―16   宇和島藩領宇和郡日土村の農民、庄屋の金銭取り込みを強訴する〔日土村百姓利右衛門手記〕。
  3―22   宇和島藩宇和郡久枝・野田・永長・上松葉・下松葉村の農民、櫨山刈敷草入会の件で騒動を起こす〔宇和島御仕置帳〕。
  4―12   大洲鎖菅田村の農民140人、同所河原に屯集する〔加藤家年譜〕。
  5―7   小松藩、石見国より楮7,000貫を購入する〔小松藩会所日記〕。
  8―21   小松藩、国産奉書紙を抵当として紙問屋から銀60貫を借用する〔小松藩会所日記〕。
  8―23   小松藩、石見銀山師へ輝安鉱を売る〔小松藩会所日記〕。
  8―    シーボルト事件おこる。
  10―12   松山城下、藤原弓の町に火災があり211軒を焼く〔叢談〕。
  10―21   宇和島藩、青蠟の買い上げをやめ、以後は積登の際、一丸につき銀4匁を納入させる〔御歴代事記〕。
  10―    松山藩、文政7年以来禁止していた篠巻売買を門屋八郎右衛門らに許可する〔御触状控帳〕。
  11―12   小松藩、周布郡北条村の農民騒擾を裁定し、主謀者2人を村外転居処分とする〔小松藩会所日記〕。
  11―22   松山藩、本年の損毛高を5万3,729石余と報告する〔叢談〕。
 文政年間   松山藩士野田石陽、地誌『伊予古蹟志』を著す〔同書写〕。


1829(文政12・己丑) 
  2―14   西条藩領新居郡の農民600人、米の騰貴により新居浜米問屋を襲い、西条藩吏出動する〔小松藩会所日記〕。
  5―22   大洲藩、甲斐国河川修理の助役を命じられる〔文恭院殿御実紀〕。
  7―18   宇摩郡村々大洪水の被害多く、修復のため米70石拝借を願い出る〔役用記〕。
  9―    天領宇摩郡藤原村の農民、越訴する〔役用記〕。
  10―8   宇和島藩、財政困窮し、大坂での借用交渉も行きづまったため、窮乏した藩士救済のため、救米を支給し、また借金を10年賦返済とするよう指導する〔御歴代事記〕。
  12―7   松山藩、讃岐国のうち幕領5,380石余の地を預けられる〔叢談〕。
  12―9   松山藩、本年の損毛高を2万8,238石余と報告する〔叢談〕。
  12―    宇和島藩領宇和郡片川・次ヶ川村の農民、借財10か年据置の加判を庄屋に要求したが、拒否され、野村代官所への出訴を計画する(12―9野村庄屋緒方与次兵衛調停)〔伊予百姓一揆・緒方文言〕。