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愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行)

近世〔明和1(1764)~寛政12(1800)〕

【西暦(和暦・干支)】
  【月日】 【事項】

1764(明和1 6.2・甲申) 
  2―25   宇和島藩、領内山畑検地を行うための掟を示す(明和4年、検地一通り終了)〔記録書技〕。
  11―22   宇和島藩、家中救済のため銀札貸付を始める〔記録書抜〕。


1765(明和2・乙酉) 
  3―    松山藩、和気郡祝谷村に東照宮の仮宮を設る(明和5年3月本宮完成、現松山神社)〔三田村秘事録〕。
  5―13   西条藩、町在倹約触書を出す〔福田家文書〕。
  5―16   松山藩、数寄屋橋より日比谷門までの堀浚えの手伝いを命じられる〔叢談〕。
  7―25   松山藩、桑村・越智2郡のうち1万石を上地する〔松山政法編集〕。
  7―    西条藩、他国酒売買を禁止する〔福田家文書〕。
  この夏   吉田藩、宇和郡喜佐方村において害虫駆除のため、初めて水田に注油する〔清家日記〕。


1766(明和3・丙戌) 
  8―10   大洲藩、明倫堂で藤樹祭を行う〔加藤家年譜〕。


1767(明和4・丁亥) 
  2―17   松山藩、10匁・5匁の新銀札を作り、旧銀札と引き替えるための規定を布告する〔松山政法編集〕。
  2―29   宇和島藩銀札、吉田藩でも通用することになる〔記録書抜〕。
  6―28   宇和島藩、銀札通用期間中、掛屋を銀札座に付属させ、銀札座吟味を廃止する〔記録書抜〕。
  7―7   松山藩、家中に対し100石について銀札250目の割合で貸し付けを行う〔松山政法編集〕。
  8―9   松山藩領道後村の湯神社の石の鳥居完成する〔湯神社社用日記〕。
  10―17   宇和島藩、当年の虫害による損毛2万310石〔記録書抜〕。
  12―5   松山藩、財政困難のため翌年7月から3か年間家中人数扶持を申し渡す〔松山政法編集〕。
  この年   大洲祭礼に際し、大洲藩領高河原で牛馬市が始められる〔力石本加藤家譜〕。
  この年   松山藩、石手御花畑を取り除き溜池を水練稽古場とする〔叢談〕。


1768(明和5・戊子) 
  3―17   松山藩領和気郡祝谷村常信寺山内に東照宮が勧請され、4月常信寺において徳川家康150回法要を実施する〔叢談〕。
  3―24   松山藩、人数扶持期間中の倹約について規定をつくる〔松山政法編集〕。
  4―5   大洲藩、尾張・美濃・伊勢の川浚え助役を命じられる〔浚明院殿御実紀〕。
  4―17   宇和島藩、防火のため家中に瓦葺を奨励する〔記録書抜〕。
  7―    吉田藩領内宇和郡則村に送り遍路のために遍路宿が建てられる〔手鑑〕。
  7―24   松山藩、今年から差上銀を領内に命じる。その内訳は郷中より1万5,000俵、町方よりは銀120貫ずつ5か年間継続する〔松山大年寄役所記録〕。
  8―14   松山藩、紙方仕法を定め、領内で産出する紙はすべて藩が買い上げることにする〔松山大年寄役所記録〕。
  9―25   新谷藩加藤泰宦、駿府城の加番を命じられる〔新編物語藩史〕。
  10―11   松山城下大火、200軒余を焼く〔松山大年寄役所記録〕。
  12―16   小松藩、俸禄を改定し、御小人小頭切米5石を4石に減額する〔小松藩会所日記〕。


1769(明和6・己丑) 
  2―22   宇和島藩、年少者の伊勢抜参りを禁止する〔記録書抜〕。
  3―7   宇和島藩、領内の農民1人(1戸か)につき棕櫚を100本ずつ植えさせる〔記録書抜〕。
  3―23   宇和島藩領宇和郡白髭村の農民50人、連判して救助米の下付を要求する〔宇和島御仕置帳〕。
  7―7   宇和島藩、日土村の錘乳石をみだりに採ることを禁止する〔記録書抜〕。
  7―29   松山藩、町方役所以外の機織り取り引きを禁じる〔松山大年寄役所記録〕。
  この夏   川端五雲、句集『矢立の露』を著す〔同書〕。
  10―27   松山城下町人、郡方の農民に対して貸し付けた銀米の返済方法についての松山藩令を不服として、営業停止などの手段で反抗する(~11―25)〔松山大年寄役所記録〕。
  12―25   松山藩、郷町間の取り引きの不正をいましめる〔松山大年寄役所記録〕。
  この年   吉田藩池帳絵図面地図できる〔三瓶町誌〕。


1770(明和7・庚寅) 
  2―17   松山藩周布郡山方7か村農民騒擾、代官らの説諭でおさまる〔松山大年寄役所記録〕。
  2―29   宇和島藩、武芸奨励のため規定をつくる〔記録書抜〕。
  3―23   大洲藩領喜多郡蔵川村農民60人、凶作のため年貢減免を要求して宇和島領野村に逃散する(~3―24)〔記録書抜〕。
  5―1   松山藩、先年上地した償いとして、諸村における新田を表高に編入し15万石に復するよう朱印状を賜る〔松山政法編集〕。
  6―12   宇和島藩、桐5,000本の植付けを在浦に命じる〔記録書抜〕。
  7―1   松山藩、商売の便をはかり金融を講ずる〔松山大年寄役所記録〕。
  8―22   宇和島藩領宇和郡白髭・若山・日土村の農民、旱害に苦しんで箱訴を行い、この日裁決あり〔宇和島御仕置帳〕。
  8―27   宇和島藩、大坂・豊後において雑穀などを買い入れる〔記録書抜〕。
  9―5   宇和島藩、旱魃による被害田畑集計される(田3,463町8反、畑5,191町6反)〔記録書抜〕。
  9―17   宇和島藩、この年は立見をやめ、税率を下げる(翌年9―30も再度引下げ)〔記録書抜〕。
  10―29   大洲領忽那島に大火があり、146戸を焼失する〔加藤家年譜〕。
  12―16   松山城下町大火、950軒余を焼く〔増田家記〕。
  12―26   宇和島家中長屋より出火、210軒焼失する〔記録書抜〕。
  この年   西条藩領大旱魃に見舞われる〔西条市誌〕。


1771(明和8・辛卯) 
  2―    今治藩領越智郡古谷村鹿兒池普請始まる(竣工は寛政11年)〔今治拾遺〕。
  5―2   宇和島藩領宇和郡蔵村の農民、庄屋の非違を強訴する〔宇和島御仕置帳〕。
  6―8   大洲・新谷領浮穴郡麻生村と、大洲領伊予郡八倉村、幕領同郡南神崎村、松山領同郡出作村・徳丸村との間に水論がおこる〔御替地古今集〕。
  9―    喜多郡櫛生村三島宮神主鎌田忠寿、鎮連神楽歌を記録・集成する〔鎮連神楽歌全〕。
  10―3   松山領の農民200人余、小松藩西之川原へ来る〔小松藩会所日記〕。
  11―19   松山藩、当地米下落のため、家中暮渡し分を瀬戸内売米の値段で銭札渡しにすると布達する〔松山政法編集〕。
  この冬   宇和島藩領宇和郡下川村で、庄屋と組頭の不和から騒動がおこり、翌年8―22庄屋流罪となる〔東宇和郡沿革史〕。
  12―23   小松藩、家中困窮のため100石につき100目の割合で救済する〔小松藩会所日記〕。


1772(安永1 11.16・壬辰) 
  1―15   田沼意次、老中となる。
  8―21   天領川之江村など、暴風雨・洪水に襲われる〔役用記〕。
  8―    今治市中で取引する茶・出綿実・入綿・家代銀に歩一運上を課す〔今治拾遺〕。
  12―22   俳人河端五雲死去する〔叢談〕。
  12―25   松山藩、幕府から銀札発行の許可を得る〔津田家記〕。
  この頃   河端五雲の句集「大名竹」刊行される〔伊予の俳諧〕。


1773(安永2・癸巳) 
  3―21   小松藩、周布郡北条村の塩浜、新田となり、農民・町人へ配布する〔小松藩会所日記〕。
  5―24   宇和島藩、大洪水のため被害多し〔記録書抜〕。
  5―25   大洲藩領の肱川が増水し、水かさが2丈5尺となる(大洲領内で洪水)〔加藤家年譜〕。
  6―    松山藩、銀札通用を始め、同5年まで続く〔三田村秘事録〕。
  8―12   宇和島藩、幕府より評定所・奉行所の裁許を受けた絵図、及び裁許書の提出を命じられ、11―5小島次郎右衛門に宰領を命じる〔記録書技〕。
  9―    天領越智郡宮ヶ崎村の農民、村役人の私欲を駕籠訴する(不成功、首謀者は死罪)〔古事類苑〕。
  10―10   松山藩、知行・切米・諸渡米について規定し、手形には今後裏判が必要であると布達する〔松山政法編集〕。
  11―27   宇和島藩領宇和郡東山田村の農民、立見の件につき箱訴の結果、阿下村へ所替えとなる〔宇和島御仕置帳〕。


1774(安永3・甲午) 
  2―23   備中代官所で取り調べ中の大洲領と松山領との水論が裁決され、伊予郡下麻生村組頭など処罰される〔御替地古今集〕。
  3―2   松山藩、銀札のにせ札が発見されたため、銀札の通用を停止し、3―6より別札に引き替える方針を発表、10匁・1匁札については6―15より改判を加えて通用させることとする〔慶蔵むかし噺〕。
  4―7   宇和島藩、惣川を経由する土佐物産は、硯御番所を通すよう通達する〔記録書抜〕。
  この春   大洲領伊予郡本郡村塩田を開発する〔御替地古今集〕。
  6―    遊行上人(53代尊如)伊予を廻国する〔三田村秘事録〕。
  8―    前野良沢・杉田玄白・中川淳庵『解体新書』を刊行する。


1775(安永4・乙未) 
  2―    大洲藩、伊予郡麻生村門田金治に五本松唐津山の開発を命じる〔御替地古今集〕。
  4―10   大洲如法寺焼失する〔加藤家年譜〕。
  5―28   大洲藩、城下の船問屋・問屋筋を経ない商取引の取り締まりを願い出る〔大洲藩規則集〕。
  8―19   松山藩領大風雨、損毛2万179石となる〔津田家記〕。
  9―    松山城下町人三宅勘十郎ら、家質場所設立を許される〔三宅家記〕。
  10―4   大地震、道後温泉湧出停止する〔垂憲録〕。
  10―13   幕府、藩札の通用を布達の日より50日以内に停止せよと命令する〔常憲院殿御実紀〕。
 閏12―17   大洲城下に大火があり、170軒を焼く〔加藤家年譜〕。
  12―    今治藩、頓田川瀬替普請を執行、翌年春竣工する。1日の使役人夫1,200人~1,300人、新河道敷になる部分は藩が買い上げる〔国分村庄屋旧記〕。
  この年   松山城下の町年寄、年頭御礼を復活し、その順を定める〔松山手鑑〕。
  この年   松山藩、和気郡三津浜に塩浜出来、三津元締片山三郎右衛門に管理させる〔本藩譜〕。


1776(安永5・丙申) 
  1―10   越智郡大三島の市場所引き渡し終了、市場所は年川場所に編入する〔大山祇神社文書〕。
  8―7   松山藩5か年間増駄賃を許す〔松山手鑑〕。
  9―    松山の味酒神社に町方の者が神能を奉納する〔松山市史料集〕。
  10―    大洲藩、櫨の販売を自由とし、運上を課す〔新編物語藩史〕。


1777(安永6・丁酉) 
  4―15   松山藩、伊予郡筒井村に義農作兵衛の碑を建てる〔三田村秘事録〕。
  5―29   小松藩、町方からの石鉄山(石鎚山)道標建立出願を許可する〔小松藩会所日記〕。
  6―12   宇和島藩領宇和郡御荘組城辺村などの農民、高持制の定免制に反対して徒党する〔南宇和郡史〕。
  12―15   吉田町大火、270軒余を焼く〔手鑑〕。
  この年   松山藩瓦株仲間結成(53株)、うち野間郡浜村に26株あり〔菊間町誌〕。
  この年   尾藤二洲、『素餐録』を撰す〔尾藤二洲伝〕。


1778(安永7・戊戌) 
  1―16   西条藩、新居郡氷見村・西泉村地先の干拓事業、竹内立左衛門を奉行として開始する。同年4月7日鍬初〔西条誌〕。
  7―10   宇和島藩領洪水、損毛2万459石となる〔記録書抜〕。
  この年   吉田藩、飢食松葉製法を藩内に告知する〔三瓶町誌〕。
  この年   本居宣長、『古事記伝』上巻を刊行する。


1779(安永8・己亥) 
  1―17   宇和島藩領奥浦と吉田領河内村との間に境界争論がおこる〔記録書抜〕。
  2―11   小松藩、同藩北条新田塩浜跡竿入する〔小松藩会所日記〕。
  3―22   宇和島藩、宇和郡日土村の農民約80人、徒党して庄屋所に押し寄せる〔記録書技〕。
  10―27   小松藩、今在家村に疫癘病人多く、救済のため広東人参を与える〔小松藩会所日記〕。


1780(安永9・庚子) 
  3―14   小松藩、北条新田庄屋組頭に不埓の行為あり、役儀取り上げ、本村東西年番にて当分村政を担当させる〔小松藩会所日記〕。
  4―2   大洲領風早郡大浦村(部分)・小浜村・粟井村及び摂津国武庫郡2か村と幕領伊予郡南神崎村との村替えが許可され、南神崎村が大洲領となる〔江戸御留守居役用日記〕。
  9―    松山藩円光寺の僧明月『扶桑樹伝』を著す〔同書〕。
  11―29   小松藩、領内の桶屋増作料を取り、調査の上罰金を申し渡す〔小松藩会所日記〕。
  12―7   西条藩領氷見村・西泉村地先干拓汐止工事が行われる〔西条誌〕。


1781(天明1 4.2・辛丑) 
  2―19   宇和島藩、関東の河川改修助役を命じられる〔浚明院殿御実紀〕。
  3―17   宇和島藩、郷中に高掛を命じる〔記録書抜〕。
  4―14   宇和島藩、倹約中につき、売薬・香具師・呉服屋・植木屋の入国を禁止する〔記録書抜〕。
  5―13   松山藩、野間郡波止浜での、米津留の免除を願い出て許される〔慶蔵むかし噺〕。
  6―26   小松藩領周布郡広江村組頭、役米算用に食い違いあり、庄屋も処罰される〔小松藩会所日記〕。
  9―18   西条藩領氷見村・西泉村地先干拓地、禎瑞と命名される〔西条誌〕。
  9―30   大洲領浮穴郡大南村と、新谷領伊予郡黒田村との替地が許される〔加藤家年譜〕。
  12―2   宇和島藩、厳しく倹約を布達する〔記録書抜〕。
  この年   大洲八幡宮神官常磐井守貫、家塾として学堂(のち古学堂)をつくる〔県教育史〕。


1782(天明2・壬寅) 
  3―17   宇和島藩、櫨・晒蠟・青蠟の世話方を決める〔記録書抜〕。
  8―23   小松藩領内の洪水被害状況を幕府に報告する〔小松藩会所日記〕。
  9―27   宇和島藩、数度の洪水、損毛3万8,521石〔記録書抜〕。
  この年   天明の大飢饉おこる(~天明7年)。


1783(天明3・癸卯) 
  3―5   小松藩、北条新田入川跡竿入のため、代官出張する〔小松藩会所日記〕。
  7―8   浅間山大噴火する。
  8―3   宇和島藩領宇和郡明石村の農民ら、箱訴をして処罰される〔記録書技〕。
  12―14   松山藩、藩士に対し門松は枝松を用いるようにと命じる〔松山政法編集〕。
  12―24   松山藩、本年の大雨による損毛を2万4,930石余と幕府に届け出る〔叢談〕。
  この年   宇和島藩、当年の損毛、4万3,896石〔記録書抜〕。
  この年   新谷藩主加藤泰賢、藩校求道軒を創立する〔旧新谷藩学制沿革取調〕。


1784(天明4・甲辰) 
  1―1   松山城天守閣、雷火のため焼失する〔叢談〕。
  1―    疱瘡流行、飢饉のため諸物価高騰する〔木之浦年代記〕。
  2―    松山城下町の町勢調査が実施される(本家数1,868軒、借屋数2,383軒)〔松山町鑑〕。
  6―17   吉田領内、銀一匁銭90文替となる〔明浜町史年表〕。
  7―27   宇和島藩、領内に米穀を貸与して救済を図る〔記録書抜〕。
  8―15   松山藩、宝暦4年に続いて倹約令を出す〔松山政法編集〕。


1785(天明5・乙巳) 
  1―    西条藩領多喜浜三か浦初寄合を開く〔天野家文書〕。
  9―3   今治城本丸の建物破損箇所多く、11―4より破損部分取り除く〔今治拾遺〕。
  9―10   宇和島藩領宇和郡宮内村の農民、庄屋と対立し宇和島へ出訴を図る〔小原村清家日記〕。
  12―17   宇和島藩領川之石浦で大火、170軒が焼ける〔記録書抜〕。
  12―20   松山藩、領内の旱魃による損毛高1万6,428石と幕府に届け出る〔本藩譜〕。
  この年   吉田藩、旱魃のため田地に蕎麦をまくことを許可する〔三瓶町誌〕。


1786(天明6・丙午) 
  2―3   宇和島藩領穴井浦で大火、226軒焼失する〔記録書抜〕。
  4―    宇和島藩領伊方浦で大火、104軒焼失する〔記録書抜〕。
  11―    松山藩領浮穴郡直瀬村百姓の訴訟一件について取り調べが行われる〔本藩譜〕。
  12―2   今治藩領宇摩郡上山村など4か村、今治藩の梶・楮新運上に反対、1年後要求を貫徹する〔下柏村庄屋年代雑記〕。
  12―6   大洲藩・吉田藩、関東河川改修助役を命じられる〔文恭院殿御実紀〕。
  この年   宇和島藩領、当年秋の風雨による損毛5万8,543石余となる〔記録書抜〕。
  この年   松山隠士選による『名人異類鑑』刊行される〔愛媛百科〕。


1787(天明7・丁未) 
  2―    土佐国農民1,000人余、松山領久万山大宝寺に逃散してくる〔叢談〕。
  3―27   松山藩久米郡日瀬里・来住村農民、大洲領宮ノ下村に逃散する〔叢談〕。
  4―    松山城下の町人ら、商売不振をなげき、郷方での商売禁止を訴える〔唐人町役人記録〕。
  5―13   宇和島藩、麦不作のため領内に飢人多く、組毎に約200俵を支給して救済する〔記録書抜〕。
  5―15   吉田藩、陣屋町で米仲買人200人が魚棚町の米屋を襲う〔吉田藩昔語〕。
  6―11   宇和島藩領、城下町で米仲買人宅が打ちこわされる〔伊予百姓一揆〕。
  6―    栗田樗堂、紀行句集『爪しるし』を刊行する〔同書〕。
  6―    西条藩領新居郡宇高村・郷村水論あり、寛政2年裁許される〔福田家文書〕。
  この年   吉田藩領宇和郡三間郷三島神社神主土居式部、苛政に反対し一揆を企図する〔伊予百姓一揆〕。


1788(天明8・戊申) 
  2―6   大洲藩、領内に京都御所復興のための御用銀を督促する〔堀内家文書〕。
  3―6   宇和島藩領宇和郡富野川村農民70人、飢饉のため困窮し、減租を要求して、隣村平野村に屯集する。成功、頭取2人は豊後へ追放する〔伊予百姓一揆〕。
  3―    別宮猶重、新谷藩領金刀比羅宮(大洲市新谷の山口神社)に算額を奉納する(県下最古)〔同算額〕。
  4―28   宇和島藩領宇和郡惣川村の農民、大洲領喜多郡五十崎古田村へ逃散、5―6帰村する〔不鳴条〕。
  6―19   松平定信、老中筆頭となる(寛政の改革はじまる)。
  7―10   幕府、大洲藩預かり所風早郡に対し、田螺を救荒食糧として貯えるよう指示する〔堀内家文書〕。
  7―24   小松藩、洪水のため今在家村水没し、救済のため7―28神野祐左衛門破損所を見分する〔小松藩会所日記〕。
  9―25   大洲領喜多郡大瀬村の農民ら130人、松山領に村出する〔加藤家年譜〕。
  9―27   宇和島藩領宇和郡遊子谷村農民70~80人、庄屋・組頭宅を破壊し、大洲藩領喜多郡宇和川村まで出る〔記録書抜〕。
  12―16   宇和島藩、藩士に対し明年から5か年の間、5割減俸を申し渡す〔記録書抜〕。
  この年   松山藩、人参座元を廃して自由に作らせる〔慶蔵むかし噺〕。


1789(寛政1 1.25・己酉) 
  1―4   松山藩、禁裏御所普請の割当金772両2歩を納める〔叢談〕。
  1―16   宇和島藩、京都御所普請の割当金を納入する〔記録書抜〕。
  4―14   幕府巡見使、池田雅次郎・諏訪七左衛門・細井隼人、松山に着く〔増田家記〕。
  6―    松山城下町の新立に永久橋が架けられる〔増田家記〕。
 閏6―2   小松藩、旱魃のため植付不能となった田地面積を調査する〔小松藩会所日記〕。
  9―15   松山藩、幕府より1万石につき50石の囲籾を命じられ、明年より5か年の間貯穀を実施することとなる(他藩も同様)〔増田家記〕。
  9―16   幕府、旗本・御家人救済のため棄捐令を出す。
  9―19   天領大洲藩預かり所風早郡大浦村と同郡小浜村との間に境論があり、小浜村民129人が松山領同郡長師村まで村出する(~9―27)〔小浜村御百姓共村出一件達書控〕。
  12―18   風早郡大浦村・小浜村境論裁許される〔中島町教育委員会所蔵文書〕。
  この年   大洲藩・新谷藩囲籾の制を始める〔久保家文書〕。
  この年   大洲藩領喜多郡柳沢村の農民、飢饉により困窮し強訴を企画する〔伊予百姓一揆〕。
  この年   八幡神社(久万町直瀬)が建立される(昭43・3―8同神社本殿・拝殿、県指定文化財)〔愛媛の文化財〕。


1790(寛政2・庚戌) 
  1―2   小松藩領新屋敷村で大火がおこる〔小松藩会所日記〕。
  2―15   松山藩、藩士の困窮を救うため、表御別銀および家中貯銀の中から、高100石について500目の割合で貸し付けを実施する〔叢談〕。
  2―19   幕府、人足寄場を設置する。
  5―    幕府、湯島聖堂で朱子学以外の異学の講究を禁ずる(寛政異学の禁)。
  12―20   松山藩、天明6年よりの倹約令にもかかわらず財政が好転しないため、更に5か年の倹約を続行すると布達する〔松山政法編拾遺〕。
  12―23   松山藩、領内の旱魃による被害を7万4,508石と報告する〔叢談〕。
  この年   松山藩、領内郷町などの店に対して取り扱い品目制限を布達する〔和田茂樹所蔵文言〕。


1791(寛政3・辛亥) 
  1―11   小松藩領周布郡吉田村農民70~80人村出する〔小松藩会所日記〕。
  5―18   宇和島藩領洪水、損毛3万8,353石となる〔記録書抜〕。
  7―11   小松藩吉田村水論一件につき、竹花(鼻)堅蔵以下見分のため出郷する〔小松藩会所日記〕。
  7―    今治藩領上柏村農民13人、西条藩領大町村へ逃散、8―4帰村する〔下柏村庄屋年代雑記〕。
  9―21   川之江出身の尾藤二洲、昌平坂学問所教授を拝命する〔尾藤二洲伝〕。
  10―    吉田町、本町より出火、本一・裏一・大工町の大半を焼失する〔吉川藩昔語〕。
  12―27   小松藩領西町より出火し、本家21軒、納屋11軒焼失する〔小松藩会所日記〕。


1792(寛政4・壬子) 
  3―    明月の『夷与国温泉記』成る〔道後温泉〕。
  5―16   幕府、林子平を処罰する。
  7―25   大洲藩領洪水、肱川の水位2丈7尺5寸となる〔加藤家年譜〕。
  7―26   松山藩領大風雨、12―12損毛高を5万2,609石余と報告する〔増田家記〕。
  7―26   宇和島藩領、洪水のため1万5,499石余の損毛を出す(9―8同じく2万6,542石余損毛)〔記録書抜〕。
  9―16   ロシア使節ラクスマン、根室に来て通商を要求する。
  11―26   宇和島藩、御用桐を7,000本とし、それ以外は自由売買を許す〔記録書抜〕。
  11―    吉田藩、紙専売制度を強化する〔高月日記〕。
  この年   松山藩領、町方で使用する馬数が44疋となる(宝永6年の81疋より大幅に減少)〔松山手鑑〕。


1793(寛政5・癸丑) 
  1―15   今治藩、領分海岸へ異国船が漂着した際の防禦組織を作る〔今治拾遺〕。
  2―7   松山藩、幕命によって異国船漂流に際しての警備体制を整え、幕府に報告する〔増田家記〕。
  2―13   宇和島藩領宇和郡伊延村の農民30人、組頭と山論、宇和島へ出訴のため卯之町まで出る〔小原村清家日記〕。
  2―13   吉田領83か村約9,600人の農民、宇和島領に入り、城下近くの八幡河原に屯集、吉田藩家老安藤儀太夫切腹後、11か条の願書を提出して退去する(吉田騒動)〔吉田騒動記〕。
  3―6   小松藩領吉田村水論一件につき、庄屋代久米安五郎・組頭伊助、松山へ出訴する〔小松藩会所日記〕。
  5―22   松山藩、幕府より松山生姜10貫目を毎年献上するよう命じられる〔増田家記〕。
  6―30   宇和島藩士山口喜六、野島流水軍の法を大成する〔記録書抜〕。
  8―5   周布郡田野村(丹原町)の綾延八幡宮(綾延神社)、祭祀規定(綾延八幡宮定例記)を定める 〔同定例記〕。
  10―8   宇和島藩士岡谷治部右衛門、『大成郡録』を編纂する〔記録書抜〕。
  12―18   小松藩領桑村郡庄屋(村名不詳)源助、小松領周布郡千足山銅山試掘出願の件につき、倉敷代官所手代より小松藩へ照会がある〔小松藩会所日記〕。
  12―21   宇和島藩校内徳館、来春より普教館と改める旨通達する〔記録書抜〕。


1794(寛政6・甲寅) 
  2―    吉田藩領川名津浦大火、浦の半分を焼失する〔八幡浜市誌〕。
  3―29   小松藩領吉田村、松山領吉田村へ助水を前年より停止している件につき相談、同年10―25、江戸松平隠岐守屋敷にて稲川八右衛門と対談する。寛政11・5―15両藩で和談成立、5―22農民へ通達する〔小松藩会所日記〕。
  9―26   宇和島藩、宇和郡御内村の農民の強訴を処分する〔宇和島御仕置帳〕。
  9―28   小松藩士佐伯甚太夫、江戸で修行した火術を披露する〔小松藩会所日記〕。
 閏11―    吉田藩校時観堂開校する〔宇和島・吉田両藩誌〕。


1795(寛政7・乙卯) 
  2―1   小林一茶、道後温泉に来浴する〔寛政七年紀行〕。
  3―2   今治藩領越智郡別所村犬塚池普請始まる〔今治拾遺〕。
  3―6   今治藩領宇摩郡上山村の農民146人、罷免された庄屋の再任に反対して阿波国大月村へ逃散する〔蜂須賀家文書〕。
  3―    吉田騒動の首謀者上大野村の武左衛門、逮捕後斬罪となる〔高月日記〕。
  4―    吉田藩、軍備を再編成する〔藤蔓延年譜〕。
  7―5   宇和島藩、窮民救済のため金1,000両を支出する〔記録書抜〕。
  7―    遊行上人(54代尊祐)伊予を廻国する〔叢談〕。


1796(寛政8・丙辰) 
  3―    宇和島藩領宇和郡中津川村農民、組頭と争論、宇和島への強訴を企図する〔小原村清家日記〕。
  5―    大洲藩、本町と在町を区分し、商品の取扱制限を布告する〔御替地古今集〕。
  8―11   大洲藩領洪水、肱川の水位2丈8尺2寸となる〔加藤家年譜〕。


1797(寛政9・丁巳) 
  3―    松山藩、綿実問屋がこれまで納めていた運上銀を、今後は町奉行所用銀として徴収するように改める〔松山町鑑〕。
  7―6   信州善光寺如来、松山藩頒大林寺へ来る(7日より16日までの参詣者は16万643人、賽銭は460両)〔増田家記〕。
  8―    宇和島藩領宇和郡白髭・松谷・富野川村の農民減租など16か条の嘆願書を提出する〔東宇和郡沿革史〕。
  9―15   今治藩、三宝米伝播者大僧都寛雄没する〔南光坊位牌〕。


1798(寛政10・戊午) 
  1―16   今治藩領宇摩郡馬立村の農民13人、讃岐国大野原村へ逃散する〔下柏村庄屋年代雑記〕。
  3―1   松山藩、参勤帰城の時の送迎の規定を改め、藩士の一部は途中送迎とする〔叢談〕。
  4―    大洲藩、甘藷の積み出しを制限する〔中島堀内家文書〕。
  4―    幕府、最上徳内・近藤守重(重蔵)らに蝦夷地を調査させる。
  4―    大洲如法寺末遍照庵三世兀庵嬾徴『冨土山志』20巻を完成する〔冨士山志〕。
  5―23   大洲藩、領内物産移動の検査方法を改める〔洲藩規則集〕。
  5―    松山藩、町奉行を古町・外側に二分する〔松山手鑑〕。
  6―    本居宣長、『古事記伝』を完成させる。
  8―    今治藩領越智郡高橋村の神官伊豆太夫、高橋村権現神職の件につき江戸で駕篭訴をしたため、今治で監禁される〔今治拾遺〕。
  9―23   大洲藩・新谷藩領内の人口、9万2,339人〔江戸御留守居役用日記〕。
  12―23   松山藩、山田五郎兵衛一件に関係した家老菅五郎左衛門らを処罰する〔増田家記〕。
  この年   宇和島藩領山奥組・野村組のうち18か村の農民、吉田藩頒への逃散を企画して田穂村まで出る〔不鳴条〕。


1799(寛政11・己未) 
  4―27   大洲藩・宇和島藩、東海道筋川普請助役を命じられる〔文恭院殿御実紀〕。
  7―21   大洲城下大火、類焼781軒となる〔加藤家年譜〕。
  8―    吉田藩、旱魃後の大風雨により損毛1万8,722石余となる〔三瓶町誌〕。
  10―15   松山藩、藩士に対し高100石について銭札500目の割合で貸し付ける〔増田家記〕。
  10―24   松山領内の損毛高を6万7,015石と報告する〔増田家記〕。
  11―    西条領大町組の内8か村と小松領大生院・上島山・半田の三か村との間に入会山論争が起こる〔小松邑志〕。
 12―24   宇和島藩領、当年旱魃、損毛5万2,214石4升と報告する〔記録書抜〕。


1800(寛政12・庚申) 
  2―22   松山領野間郡波方村農民の逃散を波止浜庄屋らが説得して帰村させる〔慶蔵むかし噺〕。
  3―30   昌平坂学問所落成する。
 閏4―27   宇和島藩、前年の領内不作のため窮民に米穀を与える〔記録書抜〕。
  5―7   宇和島藩、領内の婦女子に養蚕・製糸を奨励する〔記録書抜〕。
  6―7   大洲藩、『予州大洲好人録』を板行して領民に頒布する〔加藤家年譜〕。
  9―2   大洲藩、前年焼失した明倫堂を再建する〔加藤家年譜〕。
  9―14   今治藩領、宇摩郡の豪農真鍋与三右衛門、御用銀35貫目を献納する〔真鍋家譜〕。
  12―21   大洲領喜多郡中居谷村庄屋隠居富永彦三郎、『大洲旧記』をつくる〔積塵邦語〕。