データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

四 中等学校の増設と中等学校令の制定

 北予中学校・松山工業学校の県立移管と県立中等学校の増設
  〈中等学校の増設の動き〉

 昭和初期における経済界の不況により、日本経済は深刻な恐慌をきたし、中等学校卒業者の需要が激減したばかりでなく、県・市町村ともに財政窮迫の状態のため、中等学校の増設や県立移管が途絶えた。同六年九月に勃発した満州事変以後、我が国の対外膨張政策が強化されるにつれて、日本経済は順次恐慌から脱出して景気を回復し始め、地方財政窮乏もいくらか緩和してきた。
 同一二年の日中戦争(日華事変)の開始により、膨大な兵員が大陸に投入されるにつれて、成年男子の応召が年を追って増加した。そのうえ、軍隊教育に適応できる中堅国民層の育成が軍から強く要望され、また銃後における増産の中心となる人材養成が、産業界から要請されるようになった。一方、景気回復に伴って中等学校入学志願者は再び激増した。このため、中等学校未設置地域や、市立・組合立・町立のままで取り残されている郡市で、県立中等学校の設置ないし県立移管運動がにわかに活発化した。運動には地元選出の県会議員が中心となり、地域をあげてその実現を要望する意見書が、愛媛県会へ相次いで提出された。
 県当局では、地方の要望と県会の意見書に基づき、地域の入学志願者の状況、学校の地域的配分関係、設置市町村との経費負担方法などを検討したうえで、時局下において国家的要求の強い実業学校を中心に、県立中等学校を増設していった。県立学校の設置に当たっては、県財政及び資材不足を理由に、校地・校舎・設備などをすべて地元で整備させて、県に寄付させることが多かった。県立学校発足の後、校舎などを建設する場合には、原則として県費支出を四割にとどめ、地域市町村に六割を負担させた。
 昭和一一年(一九三六)における県内中等学校は、県立中学六、町立中学一、組合立一、私立一の合計九校、県立高等女学校一〇、町立一、私立五の合計一六校、県立実業学校一二、市立一、町立一、私立一の合計一五校であった。そののち太平洋戦争の終結までに、県立学校の新設・移管などが相次いだので、年代を追って記述しよう。

 〈市立松山工業学校の県立移管〉

 県立工業学校の設置または市立松山工業学校の県立移管の問題は、大正期に引き続きその実現方の要望が各方面からなされた。愛媛県教育会は毎年設立促進の建議を提出しており、昭和四年には県商工団体連合会も県に早期設置を要請した。この年一〇月文部省督学官が市立松山工業学校を視察して、同校の県立移管と施設充実を勧告した。これを受けて、翌六年の通常県会は松山市から新校地・新校舎・機械器具の寄附行為で「市立松山工業学校ヲ昭和八年ヨリ県立ニ移管セラレンコトヲ望ム」意見書を可決した。地元新聞も県立工業学校の設立はもはや県民の一大世論であるとしてその実現方を訴えた。
 県当局は、財政緊縮の時節とはいえ、これに応ぜざるを得ない立場に追い込まれた。松山市でも同七年八月に香川市長名で県立移管の陳情書を出したのに続いて、一二月には藤原小学校を他に移し、校舎を模様替えして相当の設備を施したうえで寄付をする見込みであることを県に申し入れた。県は、予定校地の拡張や設備費の寄付を求めたうえでこれを受け入れ、一二月県会に同校の県立移管を諮問して異議なき旨の答申を得た。そこで、翌八年の通常県会に工業学校県立移管費三万三千円を計上、長い間の懸案であった県立工業学校の設置がようやく本決まりとなった。
 昭和九年(一九三四)三月、文部大臣からの移管認可を受けて、「愛媛県立松山工業学校規則」が公布され、「本校ハ工業学校規程ニ依リ工業ニ従事セントスル者ニ須要ナル教育ヲ施スヲ以テ目的」とし、学科を土木科・建築科・染織科、修業年限を三年、生徒定員を二七〇人とすることを明らかにした(『愛媛県教育史』資料編七一四~七二一)。ここに同校は四月一日から県立として出発、やがて真砂町に新校舎が落成したので味酒町からこの地に移った。

 〈県立北宇和農業学校〉

 県では既設の八県立農業(実業)学校のほかに、新しく農業学校を設置する計画があった。北宇和郡選出の県議と郡内町村長連合会による活発な誘致運動が展開された。その結果、県は北宇和郡旭村(現広見町)近永に新設することに決定し、初め県立北宇和実業学校といった。同一二年二月に文部省に設立の申請書を提出し、三月に認可・告示された。修業年限二か年の男子部・女子部があり、各定員一〇〇名であった。翌一三年三月に、文部省の認可を得て、実業学校を農業学校と改称し、次いで学則を決定した。
 同校の学則によると、「農業学校規程ニ依リ、農業ニ必須ナル学理卜技術トヲ授ケ、躬ラ其ノ業ヲトルベキ者ヲ養成スルヲ以テ目的」とする旨を述べ、入学資格は満一四歳以上で高等小学校第二学年を修了した者、またはこれと同等以上の学力を有する者とし、生徒を原則として寄宿舎に収容すると規定した。

 〈私立北予中学校の県立移管〉

 私立北予中学校では、大正五年に加藤彰廉が校長となり、その卓越した教育上の識見と熱意、井上要・加藤恒忠らの財界名士の後援により、その内容は次第に充実していった。同九年に県知事馬渡俊雄は中学校拡張策の一つとして、同校を県立に移管する考えのもとに、経営母体の北予中学会に働きかけた。これに対し、加藤・井上らは当初の建学方針に基づき、私立を固守すべきであるとし、県の申し入れを拒絶した。しかし中学校志願者の激増に伴い、県立校のみでは到底その希望を満たすことができないので、北予中学を拡張しなければならない情勢に迫られた。そこで、知事は県立移管の代案として同校生徒の定員を一、〇〇〇名に増加し、一学年の入学者を二〇〇名とするよう要望した。これに伴う校地・校舎設備の拡張、教員の増員による経常費にっいては、県の補助規程により職員俸給額の折半を基準として、県費で補助しようと提案した。北予中学会もこれを了承したので、同校はいわば県立代用校となった。
 同一二年に加藤が松山高等商業学校長に就任したので、秋山好古が北予中学校長となり、更に昭和五年に烏谷章がそのあとを受けた。このころから経済不況のために入学志願者が激減し、そのうえ県財政の逼迫による私学補助金が大幅に削減され、同校は経営上で苦境に陥った。学校側では、その対策として同七年度から一〇学級を本体とし、生徒募集人員も半減して一〇〇名とした。そのうえ旧校舎の老朽化によって改築の必要に迫られているにもかかわらず、先の学級拡張の際に基本金から流用した末償還金があり、財政上の問題点が山積していた。
 昭和一二年(一九三七)一一月に、知事古川静夫は井上に対し、県営に移管する交渉をすすめた。井上らは理事会を開いた結果、この際県営に移管する方が地方の学徒とその父兄のために幸福であり、この際大衆的見地に立って小我を捨てるべきであるとの意見に傾いた。そこで、北予中学校の名を存続する条項と、職員・使用人を継承するとの希望条件を付し、校地・校舎をはじめ備品全部を県に寄付することになった。井上は県当局との交渉を一任されたので、北予中学会評議員会と同会員総会を開いたところ、全員が理事会の決定に賛成した。井上は数回県との交渉を重ね、一二月に知事に対し、北予中学校敷地・校舎などの現有物採納願を提出した。
 県当局は折から開催中の県会に、追加予算として北予中学校県立移管後の経営費を計上した。県会は満場一致でこれを可決したので、県は翌一三年一月に、私立北予中学校の県立移管申請を文部省に行った。翌二月に認可されたので、県は「愛媛県立北予中学校学則」を定め、四月一日から施行することとした(『愛媛県教育史』資料編七六二~七六六)。学則は他の県立中学校とほぼ同様のものであるが、同一七年三月に学則中改正を行い、生徒定員を一、〇〇〇人とした。

 〈県立新居浜工業学校の設立〉

 従来県立工業学校は松山にのみ存在したが、時局柄工業教育を振興することが緊急の必要事となった。県は諸工場の多い新居浜町に新設校を置く計画を立てた。しかし独立した工業学校とするには相当の設備を要するため、とりあえず泉川町の県立新居農業学校に工業科を加設して、校名を新居浜農工学校と改称し、作業場敷地として金子村に一、五〇〇坪の土地を新居農後援会から提供させ、そこに二四五坪の付属建物と工作機械などを備えた。昭和一二年(一九三七)三月に「県立新居農学校へ工業科加設並ニ名称変更認可申請」書を文部省に提出して、直ちに認可された。四月から新居農工学校と改称し、修業年間三か年の農学科と機械科を置き、生徒定員をそれぞれ一五〇人とした。
 日中戦争後になると、工業学校卒業者の需要が急を告げる状況となった。一一月に新居浜町・金子村・高津村が合併して新居浜に市制が施かれたのを機に、県は市と協議して新居浜農工学校から機械科を分離独立させて、工業学校にすることとし、同一三年四月から開校を予定した。県は一月にその旨を申請し、三月に文部省から認可された。県は「県立新居浜工業学校学則」を定め、修業年限三か年の機械科定員一五〇人とし、尋常小学校卒業者を対象とした。
 更に翌一四年三月に、同校の学則が改正され、高等小学校卒業生を入学資格とする修業年限一年の機械専修科(定員五〇人)を設置した。次いで六月に、尋常小学校卒業を入学資格とする修業年限五年の電気科(定員二〇〇人)を加設した(『愛媛県教育史』資料編八二五~八二七)。

 〈県立吉田工業学校の設立〉

 大正一二年に町立吉田中学校は創立されたが、昭和六年ころから経済不況の影響を受けて入学志願者が激減し、そのうえ県の補助費も減額されたので、経営上窮地に陥った。県は生産額拡充の国策に適する工業技術員を養成するため、工業学校に改組しようとして町当局と交渉した。町もこれを了承し、中学校敷地校舎及び備品を県に寄付して、県に移管を申請することになった。県は同一二年一二月の県会に対し、吉田工業学校設置に伴う緊急予算の賛同を得て、翌一三年三月に文部省から認可告示され、県立吉田工業学校が出現した。
 同校の学則によると、修業年限三年・生徒定員一五〇人の乙種機械科を中核とし、同年四月一日から開校することになった(『愛媛県教育史』資料編七七四~七七五)。そのため町立吉田中学校は生徒募集を中止し、三年以上の生徒一二九人は卒業まで従前のとおり町立中学校で勉学した。一二月の通常県会で同校を甲種実業学校に昇格するようにとの意見書が可決された。そこで県は翌一四年六月に学則の一部を改正し、修業年限五か年・定員二〇〇人の甲種電気科を加設し、更に同一六年二月に学則中改正を行って、機械科の修業年限を五年、定員を二五〇人に定めた(『愛媛県教育史』資料編八二七)。これによって、同校は同年四月から甲種工業学校としての体制を整えることになった。

 〈市立新居浜高等女学校の県立移管〉

 新居浜町立実科女学校は、昭和二年三月に文部省の認可を受けて、町立新居浜高等女学校に改組され、同一二年一一月の市制実施とともに市立となった。同校については、昭和初期から県立移管の動きがあり、同一三年一二月の通常県会において、県立移管の意見書が満場一致で可決された。
 県は同一五年度から県立に移管することとし、一月に新居浜市から校地校舎・付属建物及び内部設備いっさいが寄付されたのち、二月に文部省の認可告示を受けた。県は三月に「愛媛県立高等女学校規則」のなかに、県立新居浜高等女学校、修業年限四年、定員六〇〇人の各項を加えた(『愛媛県教育史』資料編八三〇~八三一)。

 〈組合立大洲農業学校の設置と県立移管〉

 大正一四年二月に、大洲村外一〇か村学校組合によって大洲農業補習学校が創立され、昭和二年三月に組合立大洲高等農業専修学校と改称された。更に同一〇年四月に大洲町外八か村学校組合立青年学校大洲高等農業専修学校となったが、各町村においておのおの青年学校が設立されたので、青年学校として経営する意義が失われてきた。また喜多郡においても、農村の中堅人物の養成が必要となってきたので、同校を農業学校規定に基づく実業学校に組織替えすることにした。
 同一二年三月に、文部省の認可告示があり、ここに組合立大洲農業学校が誕生した。そこで同校は校名を愛媛県大洲農業学校と称し、修業年限三か年の男子部・女子部を置き、生徒定員各一五〇人を収容した。同校の県立移管問題については、早くも前年一二月に開かれた通常県会で意見書が可決されていた。県はその要望に従い、昭和一五年度から県立に移管する方針を決定し、必要な校地及び校舎建設には、県四割・地元六割の負担で工事を進めた。県はその工事落成を待って、県立移管の申請をした。同一五年三月に文部省の認可を受け、「愛媛県立大洲農業学校学則」を定めた。同校は修業年限が男子部三か年、女子部二か年・家政科一か年で、定員は男子部一五〇人、女子部一〇〇人、家政科五〇人であって、四月から県立学校として再出発した(『愛媛県教育史』資料編八三七~八三八)。

 〈県立上浮穴農林学校の設立〉

 郡内に中等学校を持たない上浮穴郡では、大正一二年ころから県会議員・町村長の間で、実業学校設立の希望が話題となっていた。昭和一一年(一九三六)七月に、上浮穴郡久万町で開かれた伊予・温泉・上浮穴の各郡と松山市の加入した普通農事畜産養蚕協議会の席上で、上浮穴郡に農林学校設立の件が満場一致で決議された。次いで同年一二月の通常県会で、設置の意見書が提出された。
 しかし、県はその対応策を示さなかったので、久万町長をはじめ関係の諸団体は、協議会を開いてその実現に努力することを申し合わせた。同会では県会・知事らに陳情し、翌一二年一二月の通常県会において、設置を要望するとの意見書が可決され、また翌一三年一二月の県会でも、同じ趣旨の意見書が提出された。県は上浮穴郡における入学志願者の実状などを調査し、また地元関係者と学校施設について懇談した。その結果、知事は県会で同一五年度中に農林学校を創設する予定である旨を確答した。
 一方、郡では、同一五年一月に上浮穴農林学校創設委員会が結成せられ、用地の買収及び校舎の建設に当たった。県は八月の臨時県会に、県費四割・地元負担六割の創設事業費を提出して、承認を得た。九月に県は農林学校の設立申請を行い、一〇月に文部省から認可・告示を受けた。そこで県では、翌一六年四月から開校を予定し、「愛媛県立上浮穴農林学校学則」を定めた。これによると、同校は修業年限三か年、定員一五〇人で、高等小学校卒業者を対象とした(『愛媛県教育史』資料編八四五~八四七)。
 ところが、資材及び労力の不足と、敷地整地工事に時日を要したことにより、校舎建築が予定通り進捗せず、開校式及び入学式を久万国民学校で挙行しなければならなかった。新校舎に移ることのできたのは、はるかに遅れて翌一七年六月のことであった。

 〈市立新居浜中学校の設置と移管〉

 新居浜市には住友系の各社をはじめとして多数の工場があり、県下最大の工業都市として、その発展は顕著なものがあった。同市及び周辺部の住民には、知識階級が多かったので、子弟の教育に関心が強く、県・市に対して中学校の設置を要望した。県ではとりあえず市立中学校を設立し、校地・校舎及び内部の設備を市と関係町村に整備させたうえで、県に移管することにした。
 新居浜市もこれを了承し、昭和一五年三月に市立中学校新設の申請を文部省に提出し、認可・告示を受けた。志願者五九二人のなかから二〇〇人を選抜し、翌月入学式を住友惣開青年学校の仮校舎で行った。市ははじめ校地を市内金子に定め、住友鉱業から別子銅山開坑二五〇周年記念としての寄付金と、市費とにより校舎を建設する予定であった。ところが、その地が都市計画上工場地帯に属していたので、新たに新須賀に校地を決定した。
 そのため校舎施設の整備は遅延したが、県は計画のとおり同一六年二月に文部省に対し「市立新居浜中学校ノ名称並ニ費用負担者変更申請」書を提出した。三月に認可・告示されたので、県では「県立新居浜中学校学則」を定め、生徒定員を一、〇〇〇人とした(『愛媛県教育史』資料編八五五~八五六)。六月に第一教棟工事が完成し、新校舎に移転した。

 〈町立川之石高等実科女学校の設置と移管〉

 公立青年学校川之石実践女学校は、昭和一五年(一九四〇)三月に実業学校令による修業年限四年の川之石高等実科女学校として認可され、告示された。この改組と同時に、地元から県立移管の運動が起こり、一二月の通常県会でその趣旨の意見書が可決された。これより先、川之石町では校地・校舎の拡張・整備を進めていた。
 県は同一六年一二月の通常県会に対し、地元から設備いっさいの寄付を受け、県立移管に必要な経常費を計上する旨を明らかにした。県会の承認を経て、県は翌一七年二月に文部省に申請書類を送り、やがて認可・告示を受けたので、三月に「愛媛県立川之石高等実業学校学則」を定めた。学則によると、同校は修業年限四年・定員四〇〇人であった(『愛媛県教育史』資料編八七一~八七三)。

 〈町立三島高等実科女学校の移管〉

 三島町では、昭和九年三月に実科女学校を創設し、県の認可を受けて四月に開校した。同一五年三月に、文部大臣の認可を受け、実業学校令による高等実科女学校に昇格した。同校の学則によると、第一本科修業年限四か年・定員一六〇人、第二本科修業年限三か年・定員一二〇人となっている。三島町は改組に伴い女子職業学校にふさわしい設備を整えるために、五反地に校地を求め、校舎を新築して地方民の熱望に応えた。更に同年一二月の通常県会に県立移管要望書を提出し、同地区選出議員の活動によって可決することができた。
 県では新築校舎の落成を待って、県営にする方針のもとに、同一八年二月に文部省に申請した。文部省から認可を受けたが、更に四月に高等女学校に昇格するため、文部省に申請してその認可・告示を得た。同校は九月の「愛媛県立高等女学校学則」のなかで、修業年限四年・生徒定員四〇〇人と明記された。

 〈市立今治工業学校の移管〉

 県下には松山と八幡浜の両市に県立、宇和島市に市立の商業学校があったが、東予地方には一校も設置されていなかった。このため、昭和一二年一二月の通常県会で、今治に県立商業学校を設置するようにとの意見書が可決された。
 県も産業・人口状況などから、今治地区に商業学校を配置する必要を認め、市当局と協議を重ねたが、経費負担等で意見の一致を見なかった。同一五年に入って、市が校地及び校舎を県に提供することになった。そこで県は同一六年度に県立商業学校を設立する目標を立て、具体的な準備を始めた。ところが、文部省は時局柄商業学校の新設に難色を示したため、この計画は挫折した。
 今治市では、これに代わって工業学校を設置しようとする要望が強くなった。同一六年一一月の通常県会において、県も工業学校新設の必要性を認めた。市では市立工業学校をつくり、のち県立移管を働きかけることにした。まず市立今治工業学校設立の申請書を文部省に提出し、同一七年三月に機械・工業化学の二科からなる旨の認可・告示を受けたので、今治中学校の教室を仮校舎として、四月に開校・入学式を挙行した。県は市当局の熱意に応えて、翌一八年度から県立に移管することとし、同一七年の通常県会に経常・建築設備費の予算案を提出して、原案のとおり承認された。
 次いで同一八年二月に、県は文部省から設立者及び名称変更の認可・告示を受けた。その結果、四月に機械・応用化学科を置き、修業年限四か年・定員各々一八〇人からなる県立今治工業学校が発足した。一二月になって、今治市郷字中川原に新校舎が落成したので、この地へ移転した。

 〈組合立越智中学校の移管〉

 組合立越智中学校の県立移管については関係者から再三陳情があり、昭和一七年一二月の通常県会で、その趣旨の意見書が可決された。
 県は同校の経営の実状を調査し、移管の必要性を認め、同一九年二月に設立者・名称変更の申請書を文部省に提出した。やがて文部省の認可・告示を受けたので、三月に「愛媛県立中学校学則」のなかに、越智中学校生徒定員八〇〇人の条項を加え、四月から県立学校として運営することになった。

 〈組合立八幡浜中学校の設置と移管〉

 八幡浜市とその周辺町村では、上級学校進学を希望する子弟のために、中学校を新設することを要望していた。昭和一四年(一九三九)一二月の県会にも、その趣旨の意見書が提出され、可決された。
 県は中学校の配置状況から見て、中学校新設の必要性を認めたが、建築資材及び労務需給関係・財源が十分でないので、この問題に対し慎重な態度をとった。八幡浜市は西宇和郡内の町村と協議の結果、市町村学校組合立の中学校を新設することに決した。文部省に申請書を提出し、四月に認可を受けたので開校した。
 八幡浜中学校では生徒を募集し、八幡浜商業学校の校舎の一部を使用して授業を始めた。一方、県は八幡浜商業学校を工業学校に改組する必要もあり、それによって生ずる地元の不満を緩和するために、八幡浜中学校を県立に移管することになった。同一九年二月に、文部省の認可・告示を得たので、「愛媛県立中学校学則」のなかに八幡浜中学校生徒定員五〇〇人の条項を加え、四月から実施した。

 〈県立宇和島・八幡浜工業学校の設置〉

 市立宇和島商業学校は古い歴史を持ちながら、県立でないため、一般社会通念から低く見られることが多く、就職上にも不利な点があった。そこで地元関係者から度々県立移管の希望があり、昭和一一年一二月の通常県会でも、その趣旨にそう意見書が提出された。その後も、県会では地元からの要望が繰り返された。県も同一四年ころから県営に移すための調査を始めたが、また工業学校に改組しようとする動きもあった。
 同一八年一〇月の閣議決定された「教育ニ関スル戦時非常措置方策」のなかで、商業学校の工業学校への転換が強く要望された。そこで県では、市立宇和島商業学校を県立に移管するとともに、県立八幡浜商業を工業学校に改組することとした。同一九年二月に文部省の認可・告示され、三月に「愛媛県立工業学校学則」のなかに、宇和島工業学校修業年限四年の航空機科・造船学科定員各二〇〇人の条項を加えた。また八幡浜工業学校修業年限四年の採鉱科・冶金科定員各一〇〇人と、修業年限一年の機械専修科五〇人の条項を挿入した。更に翌二〇年二月に県立工業学校学則の一部を改めて、両校に修業年限四年の機械科各二〇〇人を追加した。
 両校は工業学校編成替えに伴い、商業科生徒の募集を停止した。しかし宇和島工業学校にあっては、第二学年二学級の生徒が航空機科と造船科とに編入し、残る一学級の生徒と第三学年以上の生徒は、市立宇和島商業学校生徒として、商業科を修学した。

 〈町立長浜高等女学校の設置と移管〉

 町立長浜家政女学校は、皇紀二六〇〇年記念事業として、昭和一五年二月に設置することを認可された。創建当初は各種学校に含まれる家政女学校であったが、同一七年一月に文部省から家政高等女学校としての認可・告示を受け、修業年限四年の第一部生徒定員二〇〇人と、修業年限二年の第二部生一〇〇人から編成された。同一七年一二月の通常県会において、同校の県立移管に関する意見書が可決された。
 しかし県当局は、同校の内容設備について充実する必要のあること、県立校の配置状況に研究の余地があることなどを理由として、県営移管を見送った。県は同一九年になって、翌二〇年度から県立に移管することとし、設立者及び名称変更の申請をし、文部省から認可を得たので、同二〇年一月に告示した。また同日に「愛媛県立長浜高等家政女学校学則」を定めた。この学則によると、修業年限四年・定員二〇〇人の第一部、修業年限二年・定員一〇〇人の第二部、修業年限一年・定員五〇人の専攻科が置かれ、第二部は国民学校高等科卒業生を対象とした(『愛媛県教育史』資料編九一八~九二二)。
 県立宇和島高等家政・川之石高等実科の両女学校は、昭和一八年度から普通の高等女学校に改組されたから、長浜高等家政女学校が唯一の県立女子職業学校として存在した。

 〈県立水産学校の設立〉

 水産資源に恵まれた本県に、水産学校が必要であるとの意見は、古く明治三〇年代から新聞紙上に取り上げられていた。昭和一一年(一九三六)一二月の通常県会では、戸数一万を超える水産業従事者の子弟の教養のために、水産学校を設置する必要があるとの意見書が可決された。
 しかし県は、同校を設立するには多額の設備費を要するとして、これを具体化しなかった。同一九年四月に官立愛媛青年師範学校が誕生したことによって、宇和島市明倫町の県水産試験場内に設けられていた県立青年学校教員養成所が廃止された。県はこの施設をそのまま利用して、県立水産学校を設置することに決した。同年一二月に文部省の設置認可を得たので、これを告示した。同二〇年一月に「愛媛県立水産学校学則」を定め、四月に開校した。この学則によると、修業年限三年・生徒定員一五〇人で、国民学校高等科卒業者を対象とした(『愛媛県教育史』資料編九一四~九一八)。

 〈周桑・東宇和郡における中等学校設立の要望〉

 前述のように、地方民の熱烈な要望と、県会の意見書の提出によって、多数の中等学校が設立され、また県営に移管された。ところが、県会で設置要望意見書が可決されたにもかかわらず、同二〇年までに実現をみなかった学校もあった。それは周桑農工学校と東宇和郡地方の中等学校であった。
 前者については、既に同一一年一二月の通常県会において、周桑郡内に乙種程度の農業学校の設置を要望する意見書が提出されていた。その後、これに工業科を併置することが学校の実現に有利とみて、同一四年一二月の通常県会では、農工学校設置要望意見書が提出されて可決された。県は郡内の入学志願者の状況と地方産業の実状から見て、この種の学校の設置の必要性は認めていたけれども、隣接した西条市に甲種農業学校があり、また新居農業学校の甲種昇格とも関連性のあること、県の財政事情及び時局下における資材・労務の需給が至難であること、設備費に対する地元負担に難色があることなどを理由に、設置を見合わせた。
 後者については、同一五年一二月の通常県会で、東宇和郡東部・海岸部の子弟が交通上極めて通学に不便である事情から、男女共学の中等学校の施設の必要性が論議せられ、可決された。しかし、県は入学志願者の実情、県の財政事情及び時局下資材・労務需給の点からみて、早急に新設校をつくる必要を認めなかった。

 私立新田・子安中学校と私立女学校の変遷
  〈新田中学校の創設〉

 県都松山には、県立松山中学校・同北予中学校があったが、入学志願者の増加に対処することはできなかった。昭和一一年度、松山中学校の志願者五三一人に対し入学者二五八人、北予中学校が二八五人に対し一五四人、翌一二年度には松中が四七一人中二五七人、北中が二四四人中一四九人の入学を認めたのであって、入学競争率は激化していた。このため既設の二中学校の学級増加、あるいは中学校増設の要望が強く叫ばれた。しかし、県としては他地域の県立中等学校整備を図らなければならなかったので、松山に新しい中学校を設置する余裕はなかった。
 そこで知事古川静夫をはじめ学務関係者は、この難局を打開するため、私立中学校の出現を期待した。古川は温泉郡味生村(現松山市)の出身で神戸で内外汽船会社を経営していた新田仲太郎に奮起を要請した。新田は知事の懇望によって、私立学校の設立を引き受けた。新田は自己所有地を校地として提供したばかりでなく、敷地内にある他人所有の土地買収を行い、約一万一千坪の校地を造成した。同一三年六月に、新田は財団法人新興育英会を設立して、新田中学校設立申請書を文部省に提出した。同月中に文部省の認可・告示を受けた。翌一四年三月に教棟が竣工したので、志願者を募集したところ、定員一五〇人に対し、応募者は予想をはるかに超え六〇八人であった。
 そのため、新田は最初の校舎建築などの計画を根本的に練り直し、生徒定員を一、五二〇人に増加することとし、文部省から認可された。その後、普通教室・特別教室・講堂・武道場・寄宿舎の建築工事も順調に進捗した。戦時下の資材不足にもかかわらず、学校建築としては豪華なものであった。その間、同一五年に二六八人、翌一六年に二七八人、同一七年に二七四人、同一八年に二八九人の新入生を入学させ、志願者及び父兄の要望に応えた。更に翌二〇年には募集人員を五〇人増加して三三一人の新入生を収容した。ここに新田中学校は県営に移管された北予中学校に代わり、県内最大の私立中学校として、地域社会の教育振興の要求に対応することができた。

 〈子安中学校の創設〉

 周桑郡には県立周桑高等女学校はあったが、中学校は存在しなかった。同郡内の中学校志願者は、今治か西条の中学校を受験したけれども、その希望を達成できないものが少なくなかった。小松町香園寺の住職山岡瑞円は、この窮状を打開するために、有志と図って財団法人子安育英会を組織し、中学校を建設しようとした。香園寺の財産と子安講有志の寄付金を合わせ三〇万円余を建設財源とし、旧藩主の所有地である小松町南川の一万五千坪の地を借用し、同一五年九月に県を通じて、認可申請書類を文部省に提出した。
 この間、周桑郡出身の代議士河上哲太の奔走によって、翌一六年三月に文部大臣から子安中学校設立を認可され、次いで告示された。同校では四月に開校・入学式を挙行し、新入生一二〇人を収容した。年を追って校舎・講堂も整備したが、山岡らは将来の同校の発展を考えた結果、同一九年二月に河上を校長に迎えた。

 〈松山東雲・技芸・商業女学校の変遷〉

 昭和一五年における県下の私立高等女学校は六校、各種学校としては松山技芸・松山商業の二女学校が存在し、県内の女子教育のために貢献していた。そのうち松山東雲高女と松山技芸・松山商業女学校については、各々改組・拡充が図られた。
 松山女学校は明治一九年の開校以来、卒業生は七四三人に達していて、大正一四年には専門学校入学者検定規程による指定女学校となっていた。学校関係者は同校を五年制の指定女学校として存続するよりも、四年程度の高等女学校とするのを良策と考えるようになり、昭和六年一〇月に松山女学校を廃止し、松山東雲高等女学校とする申請書を文部省に提出した。この願書は翌七年二月に認可・告示された。次いで九月に専攻科(家政・英語)の設置を請願し、一二月に認可を受けた。同校の規則によると、本科修業年限四年・生徒定員二四〇人、専攻科二年・定員六〇人となった(『愛媛県教育史』資料編六九七~七〇三)。
 松山技芸女学校は、内容の充実が図られた結果、昭和一五年には卒業生は三、五〇一人を数え、卒業後官庁・会社に就職し、更に検定試験に合格して教職にあるものも相当数にのばった。しかしいずれの就職先でも、甲種学校卒業者に比して待遇に格差があった。また松山の女子中等教育機関は普通科のみであって、農業商業従事者の要望する甲種女子実業学校はなかった。そこで同校では、この事情を考慮して、実業学校令による高等技芸女学校に改組することにした。昭和一六年二月に文部省に申請書類を提出し、三月に認可・告示された。
 四月から松山高等技芸女学校として再発足し、本科第一部四年・同第二部二年であって、生徒定員五〇〇人であり、前者は尋常小学校を、後者は高等小学校を卒業したものを入学資格の対象とした。
 松山美善女学校は、開校以来入学者が少なく、昭和五年には在校生四六人に過ぎず、廃校の声も聞かれる有り様であった。そこで同校では、更生する方法として女子商業教育機関に改組する計画のもとに、同年三月に県に校名を松山商業実践女学校とし、学則変更の申請書を提出し、三月に認可された。
 更に同校では、修業年限四年の課程を修了したものに高等の実業教育を施すために、研究科を設置することになった。そこで同年一二月に学則を変更し、校名を松山商業女学校とし、教科を根底から改革し、重点を商業技術の指導に置くことにした。新校則によると、修業年限本科四年・研究科一年とし、生徒定員本科二〇〇人・研究科三〇人であった。学科には普通教科のほかに商業要項・商業実践・簿記・タイプライターなどの商業教科目が加えられた(『愛媛県教育史』資料編六三六~六四〇)。
 同校は商業女学校に改組の結果、同六年に九五名の入学者があり、内容が充実するに従い入学者は増加し、卒業生に対しても県内外の会社・商店から求人が殺到するようになった。同一七年一月に、商業学校規程による実業学校として、文部省から認定され告示された。
 今治実科高等女学校では、同一五年四月から校名を今治明徳高等女学校と改称することとなり、文部省の認可・告示を受けた。栗田與三によって経営された松山の崇徳実科高等女学校は、地方経済界の不況と入学志願者の激減による経営困難を理由として、同七年七月に廃校願を文部省に提出した。八月に認可されたので、明治四〇年以来の長い校史を閉じた。

 中等学校学則の改正
  〈県立各中学校学則の制定〉

 昭和一二年(一九三七)三月に国体観念の明徴と教学刷新の趣旨にそうために、中学校・高等女学校・実業学校の教授要目が改正された。県は従来の県立中等学校諸規則を廃止し、同一三~一四年に各学校別の学則を定めた。
 同一三年一一月に「愛媛県立北予中学校学則」と「愛媛県立西条中学校学則」を、翌一四年三月に「愛媛県立三島中学校学則」・「愛媛県立松山中学校学則」・「愛媛県立宇和島中学校学則」・「愛媛県立今治中学校学則」・「愛媛県立大洲中学校学則」などを制定した。そして同年三月末日に明治四五年に布達された「愛媛県立中学校学則」を廃止した(『愛媛県教育史』資料編七六二~七六七、八一一~八二四)。
 これらの県立各中学校の学則を見ると、生徒定員が異なり、学科目及び毎週教授時数にわずかな差異があるのみで、学年学期・休業日、成績の考査、修業及び卒業・入学考査料、賞罰に関する規定は各中学校共通であった。
 同一三年四月から実施された北予・西条の両中学校の生徒定員は七五〇人と一、〇〇〇人、翌一四年四月から実施された三島・宇和島の両中学校は各七五〇人、今治中は一、〇〇〇人、大洲中は五〇〇人であった。更に同一六年三月に新設の新居浜中学校学則が加えられた。翌一七年三月に大洲中の学則が一部改正されて、定員が七五〇人に、北予・宇和島の両中学校が定員一、〇〇〇人に増加された。

 〈県立高等女学校規則中改正〉

 県立松山・宇和島・今治の各高等女学校を一括して規定した「県立高等女学校規則」は明治四五年以来存続した。大正一一年に松山城北・宇摩・西条・周桑・大洲・東宇和の七県立高等女学校が新設された際にも、規則のなかに各校の生徒定員と学科課程・授業時間表が加えられたに過ぎなかった。その後も、各校生徒定員の変更などが規則中改正の形で示されるにとどまった。昭和一三~一四年に中・農業・工業の各学校において、各学校別の学則が定められたにもかかわらず、高等女学校には「愛媛県立高等女学校規則」がそのまま適用され、同一五年と同一七年に規則中の一部改正が実施された。
 前者の改正は、生徒定員の増加と、新居浜高等女学校の新設に伴うものであった。これまでの松山高女の生徒定員一、〇〇〇人、今治高女八〇〇人、宇和島と松山城北が各六〇〇人、川之江高女(同一〇年宇摩高女を改称)・西条高女・周桑高女・大洲高女・八幡浜高女各四〇〇人、東宇和高女二〇〇人であったのを、城北を八〇〇人、川之江を六〇〇人に増加し、新しく設立された県立新居浜高女を六〇〇人とした(『愛媛県教育史』資料編八三〇~八三一)。同一七年三月の愛媛県立高等女学校規則中改正においては、西条高女を六〇〇人、東宇和高女を四〇〇人に改めた。

 〈県立各農業学校規則の制定〉

 昭和一三年三月に県立新居浜農工学校の工業分離に伴い、「愛媛県立新居農業学校学則」が定められ、北宇和農業学校の新設により「愛媛県立北宇和農業学校学則」が制定された。これに続いて七月に、「愛媛県立松山農業学校学則」・「愛媛県立宇和農業学校学則」・「愛媛県立西条農業学校学則」・「愛媛県立南宇和農業学校学則」・「愛媛県立伊予実業学校学則」・「愛媛県立宇摩実業学校学則」が相次いで定められた。その結果、従来の「愛媛県立農業学校規則」は廃止された。
 松山農業学校は農業・蚕業・林業の三科があり、修業年限は三か年で定員は三〇〇人であったが、同一四年三月に学則中改正があり、大陸進出の国策に順応するため新たに拓殖科を設け、定員を四五〇人にした。同一六年三月に、農業土木科を新設して定員を六〇〇人とし、翌一七年三月に獣医畜産科を加設して、定員を七五〇人に改めた(『愛媛県教育史』資料編八一二~八一六)。
 西条農業学校では修業年限三か年・定員三〇〇人、宇和農業学校では修業年限三か年・定員一五〇人、南宇和農業学校では修業年限男子部三年・女子部二年で、定員は前者一二○人・女子部八〇人であった。伊予実業は男子・女子部ともに修業年限二年で、各一〇〇人であって、宇摩実業学校では男子・女子部ともに三年、定員各一五〇人であった。新居農業は修業年限三年、定員一五〇人であった。
 県下の実業学校のうち、伊予実業・宇摩実業・新居農・北宇和農の四校は、乙種実業学校であった。これらの学校については、同一三年一二月の通常県会において、国運の進展に順応するため、甲種学校に昇格させるようにとの意見書が可決された。県では、伊予実業と北宇和実業の二校と、県立に移管された大洲農業を、同一五年度から、宇摩実業を同一六年度から甲種に改組することになった。これによって、伊予実業と北宇和農業との学則改正がなされ、両校の修業年限本科男子部三年・女子部二年・家政科一年となり、生徒定員は男子部一五〇人・女子部一〇〇人・家政科五〇人と定められた。宇摩実業の学則改正により、本科男子部三年・女子部二年・家政科一年、定員は男子部一五〇人・女子部一〇〇人・家政科五〇人となった。
 新居農業学校の改組については、西条市に甲種農業学校があるため、地元では現状のままの主張が強かった。そこで、県は同校の改組を見送った。
 従来甲種農業学校のうち、同一六年二月に県立南宇和農業の学則改正があり、修業年限本科男子部三年・女子部二年・家政科一年であって、生徒定員男子部一五〇人・女子部一〇〇人・家政科五〇人となった。また宇和農業の学則改正があり、定員が三〇〇人に増加された(『愛媛県教育史』資料編八五一~八五三)。

 〈工業・商業学校学則の改正〉

 松山工業学校では、昭和一三年三月に従来の規定を改正し、「愛媛県立松山工業学校学則」を制定し、同校の内容が大幅に拡充された。この学則によると、従来の土木・建築・染織のほかに、電気・機械の二科を加え、修業年限各五年で、定員は一科二〇〇人の合計一、〇〇〇人となった。県は同一三年から三年計画のもとに、同校の敷地五千坪を拡張して、実習教室・工場・講堂のほかに電気機械実験器具を整備した。
 「愛媛県立商業学校規則」は、昭和一三年三月に改正され、松山商業の定員が一、二五〇人に、八幡浜商業の修業年限が五年、定員が五〇〇人になった。また県立宇和島高等家政女学校の学則が改正され、定員が本科三〇〇人、専攻科五〇人となった。

 戦時教育と勤労作業の実施
  〈戦時下の中等学校〉

 日中戦争の長期化は、中等学校の経営にも戦時色を濃厚ならしめた。「皇国精神の昻揚」に尽くし、「鞏固な志操の陶冶」を目指す訓育の重視は、中等学校に共通する現象であった。従来の中等学校の教育が知育に偏し、身体の鍛錬・人格の陶冶に欠けるところがあるとし、特に学校教練の振作と体育及び武道の奨励に努めるとともに、作業教育の充実を図って質実剛健・堅忍不抜の精神を養うことに努力した。
 県はこれらの訓育の徹底を中等学校長会などで督促するとともに、同一五年に中等学校教育の重点として、(1)国体観念の透徹と皇道精神の発揚に努めること、(2)戦時国策に協力する精神を涵養すること、(3)教授要目改正の趣旨徹底を図ること、(4)教職員の修養研鑽に努めるとともに、教学一体の本義に徹して師道を確立すること、(5)実践的鍛錬を重んじて団体的訓練を徹底し、勤労愛好の気風を作興することをあげ、その実施方を各中等学校に指示した。

 〈集団勤労作業の開始〉

 昭和一二年(一九三七)以降、政府により国民精神総動員運動が推進された。翌一三年六月の中等学校長会で、その趣旨にそうために、各中等学校単位に勤労報国隊を結成し、夏期・冬期休暇を利用して集団勤労報国運動を実践することを申し合わせた。
 そこで、七月中に中等学校で勤労報国隊が結成された。この勤労作業は初め学校内の整備が主体であったが、校外の作業に励む学校も増加し、田植え・稲刈り・稲こぎ・神社の清掃・学校林の開墾・河床及び道路の修築・農事試験場の奉仕作業・荒地の開墾などに及んだ。県が文部省に提出するためにまとめた「昭和十七年度勤労作業実施概要」によると、男子中等学校ではだいたい校外作業活動が主流を占めた。女子中等学校では連隊営内での洗濯・被服修理などの奉仕作業、遺家族慰問と奉仕作業などであった。
 また、男子中等学校では勤労報国団の結成とあいまって、防空防火に備えた学校防護団がつくられた。女子中等学校には婦人報国の精神を涵養することを目的として、愛国子女団が結成せられた。これらはすべて学校長を団長として、同一四年時までに結成された。

 弓削商船学校の国営移管

 県立弓削商船学校は高等小学校卒業程度を入学資格とし、修業年限三年で、生徒定員二〇〇人を収容していた。ところが三年の期間では、授業が専門の学科に偏するために、その基礎となる普通学科の教授時数が少なく、生徒に専門学科を理解させることができなかった。
 そこで、学校関係者から期間を一年延長して、普通学科修学の機会を与えることが要望された。県会でも昭和二年(一九二七)二月に同校を四年制にする建議案が提出された。県では学年を一年間延長し、普通科のうちの国語・漢文・数学・英語の時数を増加することとし、文部省にその趣旨に基づく学則改正願を出し、同三年三月に認可を得た。また同年一二月の通常県会で、同校に機関科を新設するよう要望されたので、県は同科設置の費目を計上し、翌四年の県会で承認された。機関科は既に同校学則のなかに明記されていたにもかかわらず、施設不備のため生徒募集していなかったが、ようやく翌五年四月から同科の生徒が養成されることとなった。
 同年の「商船学校規程」改正に伴い、県は翌六年四月に「弓削商船学校規則」を改正した。これにより、従来航海科・機関科を本科と練習科とに分け、本科の修業年限を四年、練習科のそれを三年とした。本科修了後、航海科では帆船において一年、汽船においては二年、機関科では機械工場及び汽船において各々一年六か月間実習することになった。こうして同校は航海士・機関士の養成に当たり、同一一年三月までに航海科本科六一二・機関科本科五四・練習科四八三の卒業生を送り出した。
 日中戦争の長期化により、海運に従事するものの需要が激増したので、文部省は同一三年に全国八県立商船学校を国営に移管する計画を進めた。一二月の愛媛県会では、同校の国立移管の意見書が満場一致で可決された。しかし、翌一三年に文部省は予算が額面通り認められなかったので、富山・三重・鹿児島・山口の四県立商船学校を国立とし、それに漏れた愛媛・広島・香川・岡山の商船学校を逓信省所管の海員養成所に改組する案を決定した。そこで、県では初志を貫くために、同一四年一月に「商船学校国営移管上申書」を文部省に提出した。更に広島・香川の両県と協議して運動を展開し、三県合同して政府関係方面に強力に働きかけた。その結果、文部省も三商船学校を同一五年度から国営にすることに決定した。弓削商船学校は同年七月付で国営とする告示があった。同校の施設は国に寄付され、更に県費と地元負担で設備の充実が図られた。その経営は同一四年八月の「官立商船学校規程」によって行われ、修業年限を六年とし、席上課程三年・練習三年であって、航海と機関の二科を置いた。

 中等学校令の制定と中等学校学則の統一
  〈教育審議会の中等教育改善方針〉

 昭和一六年(一九四一)の国民学校制度の実施に引き続いて、同一八年度から「中等学校令」による新しい中等学校制度が実施された。この中等学校令は、教育審議会の答申に示された要綱を基本方針として制定された。同審議会から答申された「中等教育ニ関スル件答申」の前文の要旨によると、時局的要請からきた国粋主義的超国家主義的色彩が濃厚に表れている部分は別として、中等学校における教育を国民学校の基礎のうえに拡充して行われる性格のものとして把握したこと、従来小学校のうえに位置づけられた中学校・高等女学校・実業学校などを中等学校という名称で統一した点に注目される。

 〈中等学校令の公布〉

 文部省は前記の方針に基づき、中学校・高等女学校・実業学校を中等学校として把握するため、その編制及び教科内容の改善を進めた。同一八年一月に「中等学校令」、三月に「中学校規程」・「高等女学校規程」・「実業学校規程」などを公布した。
 中等学校令で、従来の諸規程と相違する点は、中等学校の修業年限をすべて四年を原則とし、土地の状況により高等女学校においては二年、実業学校では男子三年・女子二年となし得るとしたことである。この法令は同年四月から施行され、従来の中学校令・高等女学校令・実業学校令は廃止された。しかしこの時、戦局は窮迫化する傾向にあったので、これらの新しい規定を文字通り実施することは不可能であった。

 〈中学校規程と県立中学校学則〉

 中学校規程では、その教科目を従来と趣を異にし、国民科(修身・国語・歴史・地理)、理数科(数学・物理・生物)、体錬科(教練・体操・武道)、芸能科(音楽・書道・図画・工作)、実業科(農業・工業・商業・水産)、外国語科(英語・独語・仏語・支那語・マライ語)とした。教科と同程度に重視された修練は「……教育ヲ実践的綜合的ニ発展セシメ、教科ト併セ一体トシテ尽忠報国ノ精神ヲ発揚シ、献身奉公ノ実践力ヲ涵養スル」を目的として実施することとした。
 県ではこの法令に基づき、九月に「愛媛県立中学校学則」を定め、生徒定員を松山中一、〇〇〇人、北予中・宇和島中・西条中・今治中・新居浜中が各八〇〇人、大洲中・三島中各六〇〇人とした。同一九年三月に越智中八〇〇人、八幡浜中四〇〇人が追加された。

 〈高等女学校規程と同学則の制定〉

 高等女学校規程はその内容も教育留意事項をはじめとして中学校規程とほとんど同じであった。高等女学校の教科は中学校のそれと相違し、基本教科と増課教科とに分けられ、前者は国民科、理数科、家政科(家政・育児・保健・被服)、体錬科、芸能科であって、増課教科は家政科、実業科、外国語科などであった。
 県ではこれに従って、九月に「愛媛県立高等女学校学則」を定めた。それによると、松山・城北・今治・宇和島・新居浜の各高等女学校の生徒定員各八〇〇人、西条・川之江の両高女が六〇〇人、周桑・大洲・八幡浜・東宇和・川之石・三島・鶴島の各高女が四〇〇人であった。鶴島の修業年限二年制を除き、各高女は四年であった。なお川之石・三島・鶴島の三高女は従来高等実科(家政)女学校であったが、同一八年四月に文部省の認可を受け、組織を変更した。またこの時、旧宇和島高等家政女学校は、鶴島高等女学校と改称された。

 〈実業学校規程と各学則の制定〉

 実業学校規程も中学校規程と同じ構成で、また内容もほとんど大差はない。実業学校は実業の種類が多いため、農業・工業・商業・水産・拓殖の各校に分け、一または二以上の学科を置いた。たとえば農業学校では、農業・林業・蚕業・陶芸・農業土木・獣医畜産の各科が存在した。実業学校の教科は、普通教育では国民・実業・理数・体錬・芸能の各科があり、女子については家政科を加えた。実業教育については、その学校もしくは学科の種類によって学科目が著しく異なっていた。
 県はこれらの法令に基づいて、翌一九年(一九四四)一月に「愛媛県立農業学校学則」・「愛媛県立工業学校学則」・「愛媛県立商業学校学則」を定め、同一八年四月にさかのぼって施行することにした(『愛媛県教育史』資料編八九七~九〇七)。まず農業学校学則によると、修業年限と生徒定員は松山農業が三年七五〇人、宇和と西条の両農業が各三年三〇〇人、新居農業が三年一五〇人、南宇和農・伊予実業・宇摩実業・北宇和農・大洲農・上浮穴農林が各本科男子三年一五〇人・本科女子部二年一〇〇人・専攻科一年五〇人となっていた。
 同学則は同一九年三月に、一部改正された。それは新居農業の甲種昇格が認可され、二〇〇人四年制になったこと、伊予実業と宇摩実業の両校が校名を伊予農業・宇摩農業に改称されたのによる。次いで松山農業が県立松山農林専門学校に昇格したのに伴い、同二〇年二月に学則中の改正が行われ、宇和・西条・新居・南宇和・北宇和・大洲・伊予・宇摩の各農業と上浮穴農林学校の生徒定員に変更があった。
 次に県立工業学校学則によると、修業年限・生徒定員は松山工業が電気科四年一六○人・機械科四年一六○人・色染科四年一六○人・建築科四年一六○人・土木科四年一六○人・第二本科二年八〇人であって、新居浜工業電気科四年一六〇人・機械科四年四〇〇人・機械専修科一年五〇人に、吉田工業電気科四年一六○人・機械科四年二〇〇人に、今治工業機械科四年一八〇人・応用化学科四年一八〇人に改められた。同学則は三月に一部改正され、新設の宇和島工業が航空機科四年二〇〇人・造船科四年二〇〇人となり、八幡浜工業が採鉱科四年一〇〇人・冶金科四年一〇〇人・機械専修科一年五〇人であった。また松山工業では色染科が工業化学科に改められ、機械専修科一年五〇人が加設された。
 県立商業学校学則によると、修業年限・生徒定員が松山商業四年一、〇〇〇人、八幡浜商業学校四年四〇〇人であった。八幡浜商業の工業学校化に伴い、同一九年三月に同商業学校の条項が削除された。