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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

4 海運

 阪神~別府航路の躍進

 愛媛県では陸上交通の発達がおくれたのに対し、海上方面では目ざましい発展が見られた。明治末年に就航した大阪―別府(はじめは佐伯まで延航)航路は、大阪商船による新造の純旅客船で運航され、他船に比し豪華な設備を持っていた。使用船はくれない丸で、「瀬戸内海の女王」といわれ、断然他船を圧倒した。この航路は瀬戸内海の海上交通に一新紀元を画し、月六回の就航で明治四五年(一九一三)七月に高浜寄港を開始した。新造船むらさき丸の就航により、大正一一年(一九二二)九月から週三回となり、更に翌一二年一二月から毎日出帆となった。同一四年から国鉄及び伊予鉄電と船車連絡を開始して、利用者はますます増加した。昭和三年一二月からディーゼルエンジンの新造優秀船の配置によって昼夜二便となり、高浜・今治の両港に寄港した。この航路は阪神・四国・別府の連絡遊覧コースとして歓迎せられ、その黄金時代を現出した。
 大阪商船では、今治・高浜に寄港する阪神―門司航路があり、大正四年五月から隔日航海となり、川之江・三島・新居浜・今治・高浜・郡中の諸港へ寄った。この航路は同一一年三月から、甲・乙の両便を設けて毎日航行に改め、川之江・三島・新居浜・西条・壬生川(以上は甲便)・今治・高浜(以上は甲・乙両便とも)に寄港した。更に昭和三年から甲・乙両便の区別を廃止し、上記の各港のほかに、北条・郡中に寄港した。
 大阪商船・宇和島運輸両社の共同運航であった大阪・今治・高浜・八幡浜・宇和島・宿毛線は、昭和四年一〇月以降、後者の単独経営となった。

 国鉄の西進による航路の変遷

 この時期、愛媛県の海運について注意すべきは、国鉄予讃線が延長し、東予の各地を結んで西進するのに従い、東予の沿岸航路は乗客を鉄道に奪われ、経営不可能となって廃止されたことである。殊に今治・松山の両市に鉄道が開通すると、今治―多度津線・今治―新居浜線、更に新居浜―高浜線は廃航となった。また予讃線の開通以後、鉄道のスピード・アップ、別府航路の豪華船就航によって、高浜―尾道航路の乗船客は次第に減少し、昔日の姿を失った。
 これに反して今治―尾道航路(東予運輸の後身である瀬戸内商船によって主として経営)は地理的にも便利であり、かつ本土へ渡る乗船時間が最も短く、時間的に東京方面への最短コースであった。そのうえ経営者の努力によって、利用者が次第に増加した。初め二社を合わせても二往復に過ぎなかったが、大正一二年以降は山陽・予讃両線の連絡航路として直航便を開始し、昭和八年(一九三三)一一月には往復六便にまで発展した。
 次いで予讃線が西進して、長浜・八幡浜に開通した時、短い区間を結ぶ沿岸航路に打撃を与えた。そのうえ、バスの目ざましい発展によって、その営業を抑圧された。八幡浜―宇和島間の直航便は、便利なために乗客が多かったにもかかわらず、予讃線が宇和島まで開通すると、ついに廃止しなければならなかった。その後も存続した航路は、鉄道の恩恵を受けない地域への連絡船に過ぎなくなった。