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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

3 バス

 自動車会社の乱立と合併

 県下におけるバスの営業は、大正初期に馬車に代わって松山―堀江あるいは北条間に運転されたのが初めと伝えられる。ところが、その会社は小資本であり車に故障が多くて乗客から嫌がられ、そのうえ沿道の住民から砂塵の被害が甚だしいとの抗議を受け、まもなく廃業した。
 バスの本格的な営業としては、大正五年に八幡浜に伊予自動車株式会社が創立され、八幡浜―松山間の運転を開始したのを挙げるべきであろう。その後、各地に群小の自動車会社が設立され、営業路線の争奪が繰り返された。大正年間の末期には、一路線に二社ないし三社、甚だしい時には四社が激烈な競争をし、業界は全く混乱状態であった。このままでは、共倒れとなることは必至であったから、識者の問に企業合同の声があがり、合理的経営の方向が打ち出されるようになった。まず中予自動車は久万―松山間の同一路線を経営していた面河自動車を合併した。昭和元年(一九二六)に中予自動車は伊予自動車を買収して、中央自動車が誕生し、中予及び南予の一部の路線の統合することに成功した。
 翌二年四月に国鉄が松山に開通したため、松山以北及び東予方面の鉄道に並行したバス路線の営業は成り立たなくなり、運転休止の状況であった。各バス会社は経営の主力を松山以南及び南予方面に集中した。今治市を根拠地とした愛媛自動車は、本社を松山に移して他社と対抗した。そこで、松山―八幡浜間を中央・愛媛・大洲(本社は大洲)・内子(本社は内子)の各自動車が、松山―宇和島間を中央・愛媛・宇和島(本社は宇和島)の各社が経営した。従って、各社とも乗客の獲得にしのぎを削って争奪戦を演じたので、混乱状態となり経営難に陥る会社もあった。
 その後、中央自動車は内子自動車を傘下に入れた。ところが高知県の野村自動車が四国全土のバス事業を統轄しようとする野心のもとに、愛媛自動車の実権を掌握して、積極的に進出して来た。同一路線で競合した中央・愛媛の両社では、乗客の争奪のために激しい競争が繰り広げられ、その運転には常に他社の車を追い抜こうとして危険を伴う場合が多かった。昭和四年に入って、両社に無謀な抗争を避けて、業界の難関を打解しようとする気運が起こり、まず中央・内子・愛媛の三社は共同経営を断行した。損益は三社の出資額によって案分することとなり、バス企業もようやく旧弊を脱して、合理的な経営ができるようになった。更に協調がすすんで、同八年九月にこの三社に郡中自動車を加えて、三共自動車株式会社(社長関定)が生まれた。この当時、同社の営業路線は南に延び、高知県の宿毛町まで達していた。
 これより先、南予では、宇和島―御荘間を運転していた宇和島自動車が、大正一二年(一九二三)から宇和島―松山間の直通運転を開始した。同社は昭和三年(一九二八)に宇和島運輸会社の投資参加によって、バス事業を拡大して三共自動車と対抗するようになった。

 国鉄バス

 昭和九年三月に国鉄バス(「省営バス」と呼ぶ)が、三共自動車の路線のうち、まず松山―久万間を買収して同月二四日から営業を始めたが、翌一〇年七月に久万・落出・西谷を経て、高知県佐川まで延長運転して土讃線に連絡した。これを予土線と呼び、松山―高知間の直通運転を開始した。これは国鉄の予定線に代わるものとして、沿線の住民から期待された。この開通によって、松山―高知間の交通は一新紀元を画し、予讃・予土両線の多度津経由より、時間的に、はるかに楽に高知市に達することができた。また九年三月に、川之江―阿波池田間の川池線、同一一年三月に宇和島―日吉―魚成―坂石間の南予本線、同年一二月に川之江―三島間の三島線が開通した。南予本線は同一三年に、坂石―鹿野川―大洲まで延長運転された。同一六年五月に坂石―野村―卯之町線、同年七月に大洲―内子―参川口間の小田町線が国鉄バスで運転を開始したのは注目される。