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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

二 小作争議①

 米穀検査実施反対の小作争議

 小作農を主とする農民が、小作条件の改善と農民解放のために、主として地主を対象として紛争を起こした、いわゆる小作争議は、本県の場合大正三年(一九一四)から始まる。明治後期から大正初期にかけての県下農村では、地主的土地所有制の発展につれ、中小地主・中農層の没落減少、小作農の増加というひずんだ様相を呈しはじめ、小作問題についてなんらかの紛争を引き起こす懸念を抱かせる状態に陥っていた。こうした状況下で、愛媛県では大正四年一月「米穀検査規則」を公布し、この米穀検査(詳細は第一節一項米穀検査の実施参照)実施を契機にして、地主・小作間の利害関係が真っ向から対立したことから、以下述べるように小作争議が勃発した。
 大正三年九月には、米穀検査実施近しと聞いて、新居郡一円に反対運動が広がり、一〇月に入ると、産米検査反対の周桑郡小作農民大会が開催された。一一月中句~一二月にかけて、新居郡の西条町をはじめとする三町一三か村の小作農民の代表者が県知事に対し、新居郡下小作農民の生活状態からみて、産米検査が実施された場合、大きな損失打撃を受けるから、延期または中止されたいと訴えた。意見が聞き入れられぬとみると、代表者は上京し、直接農商務大臣に宛て、延期嘆願書を提出するなど、執拗に反対運動を展開した。
 このような小作農民の激しい反対を押し切って、米穀検査規則を公布した県当局と地主に対して、県下小作農民のトップを切って、新居郡西部(以下西新という)の一町六か村の小作農民たちが立ち上がって、次のことを訴えた。検査に伴う小作農民の労力と費用に対して、地主は奨励米の形で補償すべきであり、県当局は小作農民に補償となるように、検査規則を改正されたいというのであった。
 これに対して、大正三年八月、新居郡内で地価三〇〇円以上の農地・小作地を所有している地主を会員として組織されていた新居郡農事奨励会(会長には郡長、支会長には町村長が就任―「小作人に対する地主側の官設示威団体」と疑われるほどの会―)は、一応奨励米額を決定し、小作農民に示したが、同意は得られなかった。
 小作農民側が主張するところは、米穀検査によって、一石につき二円値上がりするはずであるから、一円ずつ地主と小作が平等に利益を分配するとして、小作は最低五升の奨励米を受けるべきであり、また従来地主が受け取っていた年貢米一石につき五升の口米は、この際廃止されるべきものであるから、計一石につき一斗の小作米の免除を要求するというのであった。こうして各村の小作委員十数名は、苗代期を前にしきりに小地主たちを戸別訪問して交渉し、もし要求が聞き入れられなければ、断じて耕作せず地所を返還する、殊に奨励米の要求額は譲歩しない、これが解決しない間は、小作地宛受の契約書には捺印しないなどの申し合わせ規約を作って、団結を固めた。
 この小作農の動きに対して、この地域の大地主約四〇名は、地主協定を作って、農事奨励会で決めた奨励米の標準額を確守し、決定した奨励米で小作人が耕作するか否かを確かめ、もし小作返納の場合には、その地所は共同苗代などに利用する、もし荒れ地になった小作地がある場合は、損害を共同負担するなどの対策をとって対抗し、紛争は大きくなろうとした。紆余曲折を経て、五月二二・二三日次の条件で争議は解決した。大正四年(一九一五)度に限り、検査合格米一石に付き五升を奨励米として支給する外、一石に付き金七〇銭を支出して、その半額を小作人に直接支給し、半額は農事改良のため必要とする費用に充てる条件で、農事奨励会町村支会へ寄付積立をすることなどが主な条件であった。
 右のような争議解決の状況から、なお地主に対し交渉の余地があると考えたためか、新居郡西部地域(西新)の一町四か村の小作人たちは、大正五年五月初め以降奨励米の増額(合格米一石に付き一斗五升、不合格米一石に付き一斗)を要求し、要求が受け入れられなければ耕作に着手しないという強硬な運動を展開した。これに対し地主側は、奨励米の増額要求を拒否し、争議によって被る損害は地主の共同負担とすることとして、あくまで小作側に対抗する手段に出たので、両者側の対立は激烈となった。六月末挿秧期となっても小作人たちは耕作に着手せず、約二六〇町歩の良田は荒廃しようとした。
 この状態を見た県当局は、内務部長自ら西条町の郡役所に赴き、郡長・署長・各町村長・小作委員を招いて、その意見を聞いた上、調停に乗り出したので、地主側は譲歩して、小作人に対し従来からの約定となっていた合格米一石に付き五升の奨励米の外、大正五・六年の両年度においては一石に付き一円の肥料代を給与し、不合格米に対しては同じく五〇銭を給与することで、争議は一応解決した。なお大正五・六年の両年度における産米検査施行に伴う地主・小作の利害得失は、調査会を設けて精密に調査し、その結果によって奨励米の額を決定することとしたので、問題の根本的解決は、大正七年(一九一八)に持ち越されることとなった。
 このように小作争議の激しかった西新と違って、新居郡東部地域(東新)では大正四年秋の収穫時に、西新の小作人が獲得したのと同じ奨励米を地主に要求し、拒否されると小作人一同は申し合わせをして、大正四年度の年貢米を納付しないとして対抗したため、地主側は二百数十名の小作人を相手取り、年貢米支払いの民事訴訟を起こした以外小作争議は起こらなかった。大正五年一二月初旬、一年越しの小作米支払い請求に関する訴訟の判決が原告地主に有利な結果となったので、小作・地主双方とも妥協して有志の調停による協定が成立し、大正四年度分小作米未納についての紛争は大正六年一月解決した。
 宇摩郡の小作人たちは、大正四年九月中旬、地主・小作間の円満を期し、農事の改良、産米の改良などについての施設を要求する目的で、宇摩郡小作連合会を組織した。一〇月末には宇摩郡長宛に陳情書を提出し、一二月二五日には、本郡の小作農民五、〇〇〇人が三島町三島神社境内に集合のうえ、同町所在の宇摩郡役所に押しかける騒動を起こした。事の起こりは小作人側が、米穀検査法実施に伴って、従来納めていた口米を納める必要がない、正一石の年貢米を納めたいと主張したのに対し、地主側は米穀検査法実施によって、地主・小作間の個人契約である口米納付は消滅するものでないと反対し、地主と小作との激突となった。小作側は地主側と会見のうえ、示談で解決したいと郡長まで申し出ていたが、郡長が両者の対決を回避するのは、地主側への依古贔屓によるものと解してこの挙に出たものであった。しかし小作人連合会長より、郡長が来年一月一〇日までに地主側と交渉して返事をするとの確約を得たことを小作人に伝えたため、九時間に及ぶ集会は無事解散した。
 前年より懸案となっていた宇摩郡の小作人による奨励米要求運動は、大正五年に入ると、新居郡と並んで一段と活発になった。宇摩郡では、小作人に地主から給与すべき奨励米額を調査するため、郡長により委員会が設けられ、一月二五日調査結果(本年に限り年貢米・合格米一石に付き奨励米五升を給与する外、合格米に二〇銭、不合格米に三〇銭以内の手数料を出す)を発表し、一般の同意を求めた。しかし以上の案と小作人の要求額とには懸隔があり、到底円満な解決は望むべくもなかった。
 大正七年に入ると、先に大正五年一〇月新居郡長を会長として発足した農事調査会の、大正五・六両年度の米穀検査実施に伴う地主・小作間の利害得失関係調査結果を踏まえて奨励米額を決定するなど、小作争議の解決を図らねばならなかった。ところが地主・小作間の対抗関係が厳しく、相互牽制して、郡長の調停示談に応じようとしなかったので、郡長の意を受けた橋本徹馬が、地主・小作間の調停に努めた結果、地主・小作とも無条件で郡長の裁定に服することとし、上申書を提出した。八月二一日郡長は、地主及び小作の代表者を招集して、調停仲介者・関係町村長列席の上で、(1)地主と小作人は互いに融和し理解し合うこと、(2)地主は温情をもって小作人を指導し、農事の改良発達に努力すること、(3)小作人もまた真心をもって農事に精励し、進んで農事の改良発達に努力すること、(4)「百五桝ヲ以テ一石」と計算する旧慣を改め、「百桝ヲ一石」とし五桝分は産米改良の報償として小作人に給与すること、(5)天候不順のため不合格米が四割を超す場合を除き、年貢米は生産検査の合格米を納めること、(6)県輸出米検査の合格米を産した小作人には、合格等級に応じて米穀改良奨励米を賞与することなどを骨子とする裁定を与え、大正四年米穀検査実施以来数年にわたる小作争議は、ここに一応の根本的な解決をみるに至った。この郡長の裁定によって、紛争に紛争を重ねた小作争議が全部解決して、新居郡一円が平穏となったのは一二月一八日で、争議発生以来四年ぶりのことであった。
 大正八・九年の二年間についてみると前述のような根本的な解決がなされた関係もあって、従来争議の多かった東予はもちろん、全県下にわたって静穏であり、わずかに九年に二件の小作争議を記録しているにすぎない。
 以上大正初年から第一次世界大戦終了の大正九年に至るまで、県下に発生した主な小作問題と争議についてその概略を述べたが、まずその大部分が東予、特に新居郡を中心として宇摩・周桑に及んで集中的に発生していることに気が付く。これはおそらくこの地方が、従来農民運動の所産と思われる間免などの特殊な慣行小作権が認められており、県下において最も小作意識が強かったこと、農民運動の盛んであった香川県の影響を受けて従前から農民運動が続けられており、小作農民の団結が堅かったことによるものであろう。右のような小作農に対する小作米の賦課は、封建時代より踏襲してきた古い方法によって行われ、一部地主たちは苛酷な誅求を敢えてしたものもあったから、小作農が平素から抱いていた不平不満は大きかった。これがたまたま米穀検査問題を契機として爆発し、小作料の減免・引き上げ反対、口米の廃止など一切の収奪を軽減するよう叫び、これを地主に対し奨励米(報償米)を要求する形に絞って、主としてその額について争議を続けたのである。
 しかし、この四~五か年にわたる争議を全県的にみると、局部的・一時的・非組織的のきらいがないでもない。しかも争議の底に流れる地主・小作の意識は、双方とも階級的意識とは随分距離があった。「小作紛議について」という温泉郡長片野淑人の談話がそれを明らかにしている。すなわち「元来地主と小作との関係は団体的なものでなくして個人的関係のものである。例えば親と子との如き関係のものであって極く円満に解決を告げねばならぬものである……地主会を開くにしても、小作人に対抗するという意味で会合を催すべきものでない……小作人等も矢張り其の通りで地主に対抗する意味において、小作人大会を催すごときは、頗る不穏当である」(「愛媛新報」大正五・一・九付)と述べているが、これが当時の社会通念として一般的に存在し、地主・小作関係のありかたを規制していたと思われる。いわば当時の地主・小作関係は温情的・身分的であったわけで、このような関係のもとでは、小作問題の抜本的な解決は望むべくもなかったといえるだろう。やがて大戦後新思想の流入につれ、大正一〇年以後の小作争議の昻揚を引き起こさなければならなかった原因はこのような点にあるかと思われる。

 大正後期~昭和初期の争議概況

 第一次大戦終了は、それまで好況を続けていた県下農村に大きな影響を与えた。戦後農産物の価格殊に米価が暴落する一方、諸物価殊に農村に必要な肥料価格は上昇を続けたため、中・小自作農・小作農の農業経営は甚だしく困難となり、その経済は窮迫するようになった。
 大戦前から戦時を通じて進行していた地主制の発展と、それに伴う貧農・小作農の経済的窮迫による地主と小作農との利害の対立は、このためますます激化するようになった。小作農が経済的窮迫を切り抜ける方法としてとったものは、直接的には、前々から彼らの上にのしかかっていて一向に改められようとしない封建的諸負担を排除軽減することであったし、基本的には、封建的な地主制によってきわめて不安定であった小作権を確立することであった。また大正初期の検米問題を中心にして、五か年間にわたった東予の小作争議や、大正七年の米騒動における県民の動き、さては戦後のデモクラシー思想の流れは、このような小作農民たちの運動に様々な刺激と教訓を与えた。
 こうして「小作人は団結しなくてはならないと云ふやうになった。小作人白身が階級的に自覚して来た」(「愛媛新報」大正一二・二・一六付)ので、大正前期の小作争議にはあまりみられなかったような、強固な組織と団結とをもった小作農が、地主に対して小作料の軽減その他の諸要求を突き付け、要求を貫徹するため様々な手段方法をとるようになった。地主もまた小作に対抗して激しく応酬し、既得の権益を譲らないという地主・小作激突の争議が頻発するようになった。
 表3―65によると、第一次世界大戦終了後わずか二件を数えるにすぎなかった小作争議発生件数は、大正一〇年(一九二一)以降戦後不況が浸透するにつれて激増し、一二・一三年には最高潮に達し、三九・四二件を数えるに至り、一五年、昭和二年にもそれぞれ三二・二六件に上った。
 このように争議発生件数が激増した理由の一つに、天災・病虫害などによる不作という偶発事故もあげることができるが(表3―66参照)、その基底には大正一二年以降盛んとなった小作人組合運動を見逃してはならない。殊に大正一三年日本農民組合が県下に進出して以来、争議は日を追って激化していったといえる。
 このことは、争議発生の地域的分布と併せ考察すると明らかになるであろう。表3―65によると、大正一〇年以降一三年まで四か年間の争議は、温泉郡を中心とする中予地域に集中的に発生し、東予の越智郡がこれに次いでいる。しかし昭和三年当局の弾圧を受けて、東予の農民組合が解散するとともに、争議の中心は南予に移ったが、南予の組合勢力もまた五年以降は衰え、中予に移ることとなった。

 争議発生の原因と特色

 表3―66によって争議発生の原因をみると、小作人による小作料減額要求に原因しているものが最も多く、争議全体の七〇~八〇%を占めている。そのうち大正一三・一五年のように、風水害旱害虫害による不作のため小作料軽減を要求したものが、争議の大体三〇%余りを占めている。減免要求も不作により、その年限りの一時的な要求に端を発して毎年繰り越され、次第に豊凶にかかわりないものへ移行した。大正一三年日本農民組合運動が県下に波及するに伴って、日農の掲げた「小作料の永久三割減」のスローガンに刺激されて、小作料の永久減免要求が出され、昭和二年には争議原因の約六〇%がこの要求によって起こるようになった。「愛媛新報」大正一二年(一九二三)一月八日付は、東宇和郡土居村(現城川町)の争議を載せて、「小作料の永久三割減を要求したのは、本県としては小作争議の新しい傾向である、不作だとか豊作だとかと云ふやうな一時的問題をはなれて永久的に闘争の準備をしたのである」と、永久三割減の要求の意義を高く評価している。
 更に小作料の不合理性とか欠陥をついて、合理的な改訂を要求したことを原因とする争議も多くなり、一時は全体の二〇~三〇%を占める状態となった。すなわち従来一俵四斗五升入りとして計算し納入していた年貢米を、四斗入りに減額改定すること(大正一一年越智郡九和村・同郡鈍川村)、口米(小作米一石に付き五升)は小作料として納入する根拠がないから免除を要求し(大正一一年越智郡桜井町・近見村・鴨部村、大正一二年宇摩郡川之江町・同郡中曽根村、温泉郡久米村・同郡拝志村・同郡三内村、大正一三年越智郡小西村、大正一五年越智郡大井村)、田地の地位が低いのに小作料が高額であるから、地割減を求め(大正一一年温泉郡三内村)、地主が小作料を引き上げたため、小作人の生活が脅威を受け生計が困難となったから、旧畝に準じて小作料引き下げを要求したり(大正一一年温泉郡石井村、大正一二年松山市持田、温泉郡拝志村・同郡三内村)、減免一割(大正一二年伊予郡南伊予村)、あるいは年貢米が四俵であるのを一斗ないし二斗の減額(大正一二年温泉郡潮見村)を要求した事例があった。
 殊に注意をひくのは、一か年間の小作農家の収支決算を明らかにして地主側に提示し、小作料の減額を要求したことであろう。大正一一年一二月温泉郡三内村(現川内町)井内の小作農組合は、「大正四年産米改良以来数年間米麦収支決算の結果、小作者に於て非常なる損を蒙り、尚本年度は村税などは嵩み物価は騰貴し肥料代高価なるに米麦共に暴落し、付ては児童の教育は申すに及ばず今日の糊口にも差支へる有様故、此処に小作者一同協議をなし地主貴賢に対し救済方法御願の儀は従来の定米を四割減に本年より御引下相成度」と地主に嘆願した際、大正一一年度収支決算明細書を地主の手許に提出し、収入一〇〇円四〇銭、支出一三四円四五銭(内訳省略)差引三四円五銭の不足を訴え、温泉郡潮見村(現松山市)吉藤の小作農は、一か年間(大正一五年)の収支を書き上げ、「この表によってみるも我等の主張は何等不当なるものとは愚考致さず侯」と結んで、正確な数字を基礎として、小作料減免要求が妥当であることを主張している。

  支出内訳 苗代経費五円三七銭 本田経費四七円七〇銭 農具損料六円八六銭 支出合計 五九円九三銭
  収入内訳 合格米五俵 六六円 不合格米一俵 一二円 子米 半俵 二円 藁 二円 収入合計 八二円

 この外、奨励米一石に付き五升の増加とか、農業界不況のため小作者救済として、特別奨励米を出すことなどを地主に迫って起こした争議(大正一一年温泉郡粟井村、同一二年越智郡近見村・同郡清水村、同一三年温泉郡河野村、同一五年宇摩郡天満村・同郡小冨士村)や、奨励米を出さない地主に反対する争議(大正一四年宇摩郡妻鳥村)があり、また各地で小作争議が起こり、しかも有利に解決されるのをみて、小作料の減額を要求して争議を起こした事例(大正一二年宇和島市、越智郡近見村、同一三年温泉郡粟井村、同一四年松山市山越、北宇和郡明治村・同郡吉野生村、同一五年周桑郡壬生川町)もみられる。
 以上、この期の争議勃発の主な原因をなしている小作側の小作料減免要求を主として取り上げたが、減免要求は大正一五年(一九二六)を境として永久的なものが減り、一時的なものが増加する傾向が現れてきた。これは単純に以前の状態に逆戻りしたのではなく、永久減免は地主の経済を破壊することになるから、地主側の反対が多くて要求貫徹が困難なため、一時的減免をそれも相当高率の要求を毎年継続して出す方がより得策と考えるようになったからであろう。なお争議の原因として、大正一五年ごろより小作農の拡張、小作契約の継続要求、地主の土地返還要求によるものが漸次増加してくる傾向が表れてくることが注目される。

 争議における地主と小作の動き

 小作争議に際して小作農はどのような手段をとったかをまずみよう。小作農の階級的自覚は、彼らを団結させ集会をもち小作組合を組織させた。その決議をもって団体交渉の方法で、受け身であった地主に対し激しい圧力を加えた。交渉が一度でまとまる事例は少なく、多くの場合地主の意見と小作の主張には多少の開きがあるので、その間の調整がつかず、要求が拒否されると、地主に対して様々な対抗手段を講じて要求を貫徹しようとした。大正一二年五月、温泉郡三内村の争議では、地主に対抗する手段として八十八夜になっても苗代に種子を播かなかったため、二〇人の地主は四〇町歩の持地に自ら種子を播かねばならぬこととなり、七〇人の小作人は村内地主のいうことには一切従わぬこととした。
また苗代期に入っても苗代を作らぬ申し合わせをし、違反した者には三〇〇円の罰金を取ることにした事例(大正一一年温泉郡久米村)もあった。しかし対抗手段として一般的に用いられたのは、小作料納入拒否であった。小作側内部で、小作料不納同盟を結び違反する者があった場合には玄米一俵を罰として徴収し、違反者を摘発した者には賞として半俵を与えることとした(大正一五年温泉郡三津浜町古三津)。また小作米を一か所に集蔵し、あくまでも地主と戦った場合もあった(大正一二年東宇和郡土居村)。これらよりもっと手の込んだ対抗手段は、地主から立毛を差し押さえられることを避けるため、収穫米全部を手早く刈り取った上、売却して銀行に預金し、長期にわたる対地主交渉に優位な態勢をとろうとしたことである(大正一五年温泉郡堀江村・和気村、周桑郡小松町)。このため小作人が要求を地主に突き付ける時期は、稲の取り入れが完了した一二月が選ばれ、地主たちはこの月を「争議発生月」と唱えて、警戒を怠らないのが普通であった。
 小作料不納につづいて小作側のとった手段の多くは、小作地返還である(大正一一年温泉郡三内村・同郡雄群村・同郡久米村・同郡生石村―八〇町歩返還―、大正一二年越智郡清水村・同郡小西村、北宇和郡日吉村、温泉郡雄群村、東宇和郡宇和町、大正一三年温泉郡河野村、伊予郡原町村・同郡岡田村・同郡南伊予村、越智郡富田村など)。小作地返還は小作にとっては、以後の全生活の保障を放棄する全く致命的な自殺的行為であったが、地主を困らせ小作側の要求を通すためには、有効な方法であったから、小作一同が返還申し合わせを決議して、地主を脅かすばかりでなく、交渉が決裂した場合には実際に返還を行ったうえ、地主の雇用に応じて耕作などしないように申し合わせ(大正一二年越智郡近見村)、もし申し合わせを破って耕作する者は村八分にする規約をつくり(大正一四年越智郡鴨部村)、また返還によって耕地を失った者には相互に融通し合い(大正一二年東宇和郡魚成村)、生活困難となった者に対しては、小作同志の間に相互援助をする(大正一三年越智郡日高村)という強い団結によって、地主側に要求を受け入れさせようとした。
 それでも要求が聞き入れられない場合には、小作人が日本農民組合に加入し、組合本部から幹部が応援に来村する予定であるとして、地主を威嚇したり(大正一二年東宇和郡魚成村)、「要求が聞き入れられない場合には小学児童に同盟休校させ村税の不納同盟を結ぶ」との題下に、争議指導者が新聞に所見を載せて、地主に小作の要求を受け入れるよう威嚇したような特異な事例(大正一三年温泉郡拝志村)もみられた。
 このような小作側の攻勢に対して、地主側は最初は強い団結もなく、全く受け身であった。地主にとって最も苦手であったのは、ほとんどすべての争議の際に、効果的手段として使われた団体交渉であったから、「直接面接すれば、地主側に不利なることを感じて、警察署に出願して地主側の意向を署長を通じて小作に伝える」(大正一四年周桑郡石根村)などの配慮をしたうえ、なお「個人交渉ナレバ交渉ノ余地アルモ団体交渉ハ之ヲ拒絶スル」(大正一一年温泉郡久米村、松山市持田)とか、「個人交渉ニ応ゼズバ要求ニ不応」(大正一二年温泉郡朝美村)とか、「小作人個人ヨリ納米ノ際交渉セバ相当減税」(大正一一年伊予郡北伊予村)すると述べて、団体交渉を避けたり、団体交渉権を否認した(大正一一年温泉郡三内村)。そればかりでなく「親善阻害ノ惧アル組合組織」はつくってならない(大正一二年越智郡九和村)とか、小作組合・小作団体の解散を要求する(大正一三年越智郡日高村)とか、「組合ヲ脱退シテ地主ノ温情ニ浴スルガ得策」(昭和二年温泉郡潮見村)と小作人を説得するとか、小作組合の切り崩しを図り、その団結を弱めて要求を緩和し、争議を有利に解決しようとした。
 だが「地主が小作人の団結を嫌忌し、団体交渉を拒否する事は、かへって小作人の団結を強くすることになるから、小作争議を解決しようとするならば、まず第一に小作組合を承認し、これを利用するのが解決の捷径であると認めねばならぬ」という意見が出たり、また「過激な小作組合に対して、放任して置くと云ふのは問題であるかもしれないが、無産者の唯一の武器と云へば、団結するより外はないのである。この団結の力を阻まれては、無産者は立行く道がなくなるのだ。否官憲の力をもって無理解な圧迫を加へたら、野火は益々地底深くへ潜り込むやうになるであらう」(「愛媛新報」大正一一・六・一一・同一二・二・一六付)と、地主の態度を批判している世論があることは見逃せない。しかし地主の中には、小作人の要求は全く不当であるとして、返還を受けた小作地がたとえ荒蕪地になっても小作料は減額しないと頑張る者があり(大正一二年伊予郡南伊予村、東宇和郡宇和町、大正一三年温泉郡難波村など)、また他村から小作人を呼んできて、返還地を小作させるものもあり(大正一一年温泉郡久米村)、返還地を地主組合の共同耕地とする(大正一二年温泉郡雄群村、大正一三年伊予郡岡田村・原町村)とか、あらかじめ他県の地主共同耕作地を視察して対策をたてる(大正一三年温泉郡味生村)など、強い態度をとったものもあった。大正一二年(一九二三)越智郡近見村(現今治市)の争議では、地主たちは土地管理規定をつくり、返還地の共同耕作のため、籾乾燥場・灌漑用水池を新設して小作に対抗したが、小作は藁縄製造機一二台を共同購入して、小作地を失った後の生活補助手段を講じ地主に屈しなかった。しかし地主の中には小作人の土地返還の先手を打って、進んで小作地返還要求の訴訟を起こしたものもあり(大正一二年越智郡九和村、大正一三年新居郡船木村、昭和二年宇摩郡小富士村)、小作人を選定して不良分子には、次年度よりは小作を断り自作農あるいは組合農にしてしまい、温良な小作人とは契約証書を取り交わした後小作させる(大正一五年温泉郡和気村・同郡堀江村)というような厳しい態度で向かっている地主もあった。極端な地主になると「自己の土地を自由にするのに何の不都合があるか。小作人が強硬に争うなら、最後は腕力だ、金だ、法廷だ。……田地の一反歩位は裁判費に投ずる考えだ。」と放言するものもあったくらいだった(大正一四年伊予郡北山崎村)。
 地主の最も嫌忌する小作料の滞納に対しては、納付督促状を出し、小作人が応じないときには、小作料支払命令を出し、それでも解決がつかない時は小作料請求訴訟を起こすなど、地主の絶対権を発動した。例えば大正一四年四月東宇和郡魚成村(現城川町)下相で、小作料三割減を要求して争議中の小作人に対し、地主側より前年度の滞納小作料支払いの訴訟を起こし、執達吏が来村して小作の所持米の仮差し押さえを行おうとしたが、手持ち米皆無のため、小作人八一戸の家具一切を差し押さえた。つづいて松山地方裁判所宇和島支部法廷で公判が行われた結果、「小作契約は永久小作権にあらず何時にても解約を為し得る事及小作料は減額に及ばず」との判決があった。このように小作との交渉が決裂して争議が最終の段階に到達したとき、地主がとった法律的手段―法廷戦は、ほとんどの場合地主にとって圧倒的に有利に解決された。これは明治民法による小作関係法規の内容が、地主の土地所有権を保障し擁護する性格をもっていたからであろう。
 大正一三年の越智郡日高村(現今治市)の争議では、土地を返還し今治市の工場などに出稼ぎして、辛うじて生活を続けていた小作人は、地主の態度が依然として強固であったため、折れて従前通り小作にしてほしいと哀願する状況となった。そこで地主は、(1)部落内を通じて何事によらず円満を旨とし親善を図ること、(2)小作団体の解散をなすこと、(3)小作人の選択は地主が自由になすこと、などの地主に都合のよい一方的な条件を押し付けたが、小作人たちはこの全面的降伏にも等しい条件を争って受け入れ、ついに地主側が小作側を圧倒してしまった。このように地主側が勝利を占めた二、三の事例がないではないが、一般的にいって、地主は争議に当たって、受け身の態度をとって小作の要求に譲歩し、小作と妥協する場合が多かった。このような態度を多くの地主がとったのは、小作人のような強い団結と組織を持たなかったことが大きな原因であった。

 小作組合

 小作争議は、小作農民の団結的組織である小作組合の結成を待って、本格的に展開する場合が多い。小作組合の結成は、その対抗団体としての地主組合の結成を促し、二つの組合の対立抗争を緩和、鎮静するための協調組合を生み出した。本県においては、既に東予を中心として、米穀検査問題に関係して起こった大正三~七年の小作争議の際、地主団体である農事奨励会、小作団体である小作人連合会などが結成されたが、地主・小作それぞれが当面の解決すべき問題について、利害を一つにして共同団結して行動したもので、本格的な組織を持たず、組合とは呼びにくいものであった。
 しかし、小作争議が本格的に発展するにつれて表3―67のごとく大正一一・一二年ころから次第に小作組合の結成が行われ、一三年を画期として急激に増加してきた。次いで大正一一年四月、「日本農民運動を新しい方向に立てる火花の如き合図であり、来るべき全国的農民運動の波がしらであった」といわれた日本農民組合(以下「日農」と略称する)が賀川豊彦・杉山元治郎らによって創立され、同一三年九月本県最初の日農支部が林田哲雄の奔走で周桑郡壬生川町(現東予市)に結成され、一一月には井谷正吉を中心に北宇和郡明治村(現松野町)にもつくられたが(いずれも日農香川県連合会に属する支部)、これら小作組合運動の発展につれて本県の小作組合も増加してきた。大正一四年になると日農支部は、東予中心に六つを数え、一五年四月二四日には周桑郡小松町で、日農愛媛県連合会が創立された関係から、その支部組合が三倍の一九に激増し、翌昭和二年(一九二七)にはその上に一〇の支部が結成された。同年八月四日には日農の分裂に伴って生まれた全日本農民組合愛媛県連合会が北宇和郡日吉村明星ヶ丘に本部を置いて結成され、支部組合数は昭和六年までに一三に達した。しかし昭和二年八月普通選挙による最初の県会議員選挙前からはじまった日農に対する当局の弾圧は、三年から四年にかけて激しくなり、また同三年五月日農と全日農が合併して全国農民組合となったので、県下の日農各支部のほとんど大部分が解散し、同四年末までには日農傘下の組合は全く姿を消した。このような関係で昭和三年以降の組合結成数は激減した。表3―68によると、昭和二年末現在で全国農民組合支部数や組合員数に対し、単独組合及び組合員の数がはるかに多い。このような組合勢力の消長が、小作争議のそれと密接に関係しあっていることはいうまでもない。
 さて小作人組合の趣旨・事業・行動などを組合規約によってうかがうと、だいたい次のようである。まず組合員の一致団結と、それを基礎として小作条件の改善維持を規定している。すなわち「小作共同一致協力団結シ小作者共同ノ利益ヲ図ルヲモッテ目的トスル」(大正一〇年温泉郡久枝村久万小作組合)「一致団結シテ小作料ノ減額ヲ期シ……」(大正一二年東宇和郡魚成村下相小作人組合)「小作権ヲ擁護シ、小作人ノ福利ヲ増進ス」(大正一三年宇摩郡関川村小作組合・大正一五年周桑郡田野村北田野小作組合)「団結力ヲ養成シ法律ノ範囲内ニ於テ不当ナル利益分配ヲ更正シ小作料減免ノ実現ヲ期ス」(昭和二年周桑郡中川村志川小作組合)などをうたい、更に団結のためには小作相互の競争を防止する必要があるとして「耕地借受ケノ競争等ノ弊風ヲ革新スル」(大正一二年温泉郡久米村奉徳会・大正一三年温泉郡正岡村八反地互助会)、「互に小作地の争奪を防止すること」(大正一二年温泉郡拝志村小作組合)、「会員ハ相互ノ信義ヲ尊重シ他人ノ小作権ヲ侵害又ハ他人ノ小作権ヲ獲得セザルモノトス」(大平農民会)、「小作人ニシテ小作権横領又ハ秘密的ニ取り上ゲヲナサザルコト」(大正一三年温泉郡南吉井村北野田小作会)、「小作料引き上げの要求ありたる時は単独に諾否を決せざること」(大正一二年拝志村小作組合)と規定している。
 小作人間の相互扶助も組合の重要な仕事であった。「耕地を奪還されたる小作人に対しては相互に残地を融通すること」(大正一二年、同右)「会員全体ノ小作地ヨリ等分ノ小作地ヲ分割シテ小作ヲナサシメ、ソノ分担者ニ対シテハ相当ノ義損金ヲナスコト」(大正一三年温泉郡生石村南吉田農事奨励会)などの箇条は、小作地を地主から取り立てられた場合の相互扶助についての規定である。この外「農村発展ヲ期センガタメ、肥料ノ共同購入ソノ他日用品ノ共同購入ヲナサンコトヲ期ス」(昭和二年新居郡玉津小作組合・喜多郡新谷小作組合)「肥料其ノ他必需品等ノ共同購入ヲナスヲ以テ目的トス」(大正一二年東宇和郡魚成村下相小作人組合)など、経済上協同組合的傾向をもった事業を規定している組合もある。
 次に小作組合は地主に対してどんな態度で臨んだかを組合規約でみると、「小作人ノ人格ヲ向上シ地主ノ折衝ヲ円満ナラシムルヲ以テ趣旨トス」(大正一二年温泉郡下伊台小作人組合)、「小作争議ノ解決並地主小作間ノ円満ヲ図ル」(大正一三年新居郡神郷村小作保安組合)、「地主小作間ノ親善融和ヲ図リ自作農ノ創成ヲ以テ目的トス」(大正一三年温泉郡北吉井村志津川農志会)という具合に、多くの組合では地主との親善融和円満を図ろうとし、穏健妥協的態度をとっている。これは農民組合運動が本県に入る前の単独組合において、その傾向が著しい。例えば大正一一年(一九二二)の温泉郡北久米小作組合の規約をみると、地主・小作間の円満を期すことが第一の目的であり、組合員は組合の指定した期日までに、地主に小作米を納入せねばならぬ、もしそれができない場合には、組合が立替納入をする規定であった。期日までに立替米が納まらない時には、組合は小作地を地主に返還する役割まで引き受けていた。そしてこの組合規約に違反する者に対しては絶交し、その使用農具や牛馬を組合に引き渡させた上、違約金として五〇〇円を提供せしめることとしている。このような地主に対する組合の穏健妥協的態度が、争議における小作側の成果を十分あげさせないことになる。表3―69はそれを示している。
 単独小作組合が地主に対して、穏健妥協的であったのに反して、系統的農民組合はきわめて激越対抗的な態度をとった。大正一五年四月二四日の日本農民組合愛媛県連合会創立大会宣言はそれを明確にうたっている。

  我等無産農民が米を作る過酷な労働をしながらますます貧乏になるこの不思議の真相は何か。
  一、小作料が余り不合理に地主に搾取された事である。
  二、小作人が父祖伝来血と涙によって培い耕した耕作権が横暴にも蹂躙されたことである。
  三、商工階級に搾取されることである。
  四、租税の加重が益々その度を加へる事である。
  五、金融資本の搾取が特に近来露骨になってきた事である。
  我が愛媛県は過去に百姓一揆の歴史をもつと雖も最近に於ける日本無産階級運動中重大なる使命をもつ我が農民運動は微々として振はなかった。然し農村の冬は去って漸く春に廻り合った。(中略)我が連合会はこれらの現状に鑑み次の如き政策をとる。
  一、小作料分配の合理化、
  二、耕作権の確立、
  三、県内未組織地方宣伝及び未加盟支部を獲得して県下を統一する事、
  四、組織を確立して僚友団体に勝る活動をなす事、
  五、政治行動を積極的に開始し労働農民党を支持する事、
  六、消費組合の設立、
  云ふは易くして行ふは難い如何に必要な政策も皆組合員の共同一致の行動によってのみ、実現されるものである。行動は団結の力によってなされ、団結の力は組織によって有効に運用される。愛媛県十五万の無産農民団結せよ、日本の無産農民は日本農民組合旗下に固く団結し組織せよ。日本の無産者団結せよ!!

 このような態度が日農傘下の県下各支部農民(小作)組合に共通したものであったことは、各支部の綱領規約をみれば一目瞭然であろう。ここに小作争議がより一層高まっていく原因が潜んでいると思われる。

 地主組合

 地主組合は小作組合の結成、小作争議の頻発につれて、地主の対応策として結成されてくる。本格的な地主組合が結成された当初の越智農事研究会(大正一一年一〇月創立)の規約には、「農家ノ安定及農村ノ振興ヲ図ルヲ以テ目的トシ……」とあり、湯山地主会(大正一三年一月創立)の会則には「本会は地主・小作間の融和親善を図り小作者を保護誘導し農業の改良発達を図るを目的となす」とあり、表立って小作組合に対抗するとはうたっていない穏やかなものであった。しかし争議の激化につれ、大正一三年以降組織された地主組合の中には、争議の拠点とみられた小作組合に対し、対抗意識をあらわにした綱領を掲げているものが現れてくる。「小作人ノ横暴ニ対抗スルヲ目的トシ」(大正一三年越智郡日高村興農会)、「小作争議ニ関スル小作側ニ対抗スルタメ」(大正一五年周桑郡小松町北川地主組合)、「小作争議ノ対策トシテ相互ノ連絡ヲ図リ侵害ヲ防止」(昭和二年小松昭和会)、「小作人ノ不当要求ヲ拒絶シ会員一致協力シテ土地所有ノ利権擁護ヲナス」(昭和一年新居郡氷見町昭和会)などその一例である。
 地主の小作人に対する対抗手段は、まず地主側の団結を強くし、統一行動をとることであった。「本会ノ会員ハ本会ノ規約ニ従ヒ、単独行為ヲナスコトヲ得ズ」(昭和二年新居郡神戸村地主会)、「本村内ノ小作争議ニ関シ会員協同一致ノ歩調ヲ以テ交渉シ利益ヲ擁護スル」(昭和二年周桑郡石根村昭和会)、「本会員ハ小作人ニ対スル応酬ノ場合ハ其ノ個人ノ名義ヲ以テスルモ常任委員会ノ承諾ヲウルコト」「小作人ガ小作米ヲ収納期ニオイテ滞納スル場合ハ一斉ニ差押ヲ為シ又ハ土地ノ立入禁止立毛差押、土地返還請求等訴訟ヲナス」(昭和元年新居郡氷見町昭和会)などの規約が設けられるようになった。地主組合は小作組合に対しては、守勢的立場に立っていたから、表3―71のごとく多くは結成されず、日本農民組合愛媛県連合会が発足した大正一五年(一九二六)、その翌昭和二年の両年、小作組合運動が絶頂に達して、小作組合数が最大となった時でも、地主組合結成数はそれぞれわずか四・六を数え、しかも争議の激しい東予地域でのみ結成されるにすぎないという状態であった。

 地主・小作の協調組合

 大正一〇年代から昭和初頭にかけて争議を中心にしての地主・小作間の対立は、暴力を行使するような悽惨な闘争ではなかったが、広範かつ深刻な階級対立抗争として、当時の識者を憂慮させ、なんらかの緩和策をとらせずにはおかなかった。協調組合はこのような地主・小作間の協調を図ることを目的としてつくられた。
 大正一〇年三月に創立され、地主一一七名・自作農一五〇名・小作農一二六名からなる温泉郡余土村自作農奨励会は、このような組合の最初のものである。この会はその名の通り、主として自作農創設を目標としたものであって、村農会の資金を受けて、小作人をできるだけ自作農に向上させるよう奨励することにより、小作人の不満を緩和して争議の勃発を予防しようというのであった。そのために地主は小作農民の希望する土地については、なるべく安価に分譲する義務があると規定している。また小作人に対し、会より農耕地の分譲を受ける資金の低利貸し付けを実施して、ある程度の成績をあげている。翌一一年四月には、県下農村で最初の労資協調会が、労資間の悪風矯正、善風作興に努めることを目的として、北宇和郡立間村に発足した。
 このように地主・小作間の協調を目的とする組合は、大正一三年ごろからの争議頻発、多数の小作組合結成などの事情に刺激されて、表3―72のごとく増加の傾向をたどった。この協調組合の性格を顧耕会を例として述べてみよう。この会は明治二二年に創立され、田地一二一町歩を所有する大地主久松伯爵を主幹とし、久松家の小作人六三五名(大正一三年現在松山市・伊予郡・温泉郡の一市二郡一四か町村にわたっている)をもって構成され、かねてから地主・小作相互間の融和親善を会の目的としたものであったが、大正一三年八月、改善協議会を開いて、争議の防止のため会の目的の徹底を図った。小作人の収入を増すため、副業として乳牛一頭・鶏一〇羽を各小作農家で飼育するよう、会から補助金を出して奨励した。会の所要経費年額六、〇〇〇円は全額久松家が負担し、小作人に負担させることがなかったし、しかも凶作の場合における減免も甚だ寛大であった(「愛媛新報」大正一四・一一・九付)。地主久松家の飯米は選ばれた耕作者が入念に耕作収穫調製し納入したものを用いたが、一般の小作人はそれぞれの特産物を献上して報恩の誠を表すという封建的主従関係を思わせるような恩顧関係をもって、地主・小作相互間の協調に努めたから、両者間の紛争は全く起こらなかった。
 協調組合には、争議の勃発を未然に防止するために作られたものと、既に争議の発生の気配があるか、または争議が発生した地方で、争議のもととなった小作条件について協定を結び、両者の協調を図るために作られたものとがあった。後者の場合、小作の要求が、往々にして協調の名のもとに押しつぶされてしまうことがあった。
 大正一四年(一九二五)五月、伊予郡北山崎村(現伊予市)本郷では、明星ヶ丘系(日農)の小作組合が組織的で力強い小作争議を大正一二年来続け、地主と対峙していた。これを憂えて、争議の仲裁者県・村当局の計らいで、農事協調会をつくったが、この組合について「愛媛新報」五月七日付は、「争議に小作人敗北 地主と小作人が農事協調会をつくる」との見出しで、「遂に地主・小作人を打って一丸とした農事協調会が出来たので小作組合は崩壊してしまった。従って小作人の主張はうやむやに葬り去られてしまったのである」と述べている。
 元来、協調組合はその性格上、地主・小作農あるいは自作農によって構成されているが、組合によっては組合費が全額地主から出されており、また地主と小作人の間に組合費に差別があり、組合の集会の運営が発言力の強い地主の手中に帰していた場合も多く、協調という名のもとに、実はきわめて地主組合的ニュアンスの濃いものがあった。地主はその組合を利用して、上からの改良主義的考え方で、温情的手段により、地主・小作関係を少しずつ改善しながら、従来の地主制を維持しつづけようとした。このような協調組合のもつ性格について、「愛媛新報」大正一二年二月七日付は、「温泉郡の小作争議は如何に解決されたか」の見出しのもとに、「之(協調組合をさす)はうまく行くと最もよいもので有り、拙く行くと此の機関の力に依って強い者を益々強く安全ならしめ、弱い者は手も足も出なくなり、多くは地主の主張が此会の主張なりとの仮面を冠って横行を逞しうし、むしろ斯の如き会の無き方が都合が好いと感ずる者さへ出でて終には会又は組合の解散をさへ望まれるに到るものである」と論じている。
 こうした欠点を伴いがちであったが、県及び警察当局は小作争議対策として、抗争団体である小作人組合・地主組合を解散して協調組合を設立させることが、争議の勃発を未然に防止し、既発の争議の解決を円滑に進めるのに劾果があるとして、昭和二年以降、協調組合設立を積極的に奨励しはじめ、争議調停の際、委員制度を内容とする協調組合設立を、解決条件の中に協定するよう勧告するなどの方法をとった。特に農民組合運動が活発で絶えず激しい争議が起こり、これに対抗して強い地主組合が存在する東予(殊に宇摩・新居・周桑の三郡)地域では、協調組合の設立が奨励され、全県下の約六割に当たる組合がこの地区に設立されるにいたった(昭和五年現在)。こうした勧奨により昭和二年現在組合数一八、組合員数二、五七一人、昭和五年には組合数四四、組合員数一万余人と人数において四倍もの激増をみた。このような協調組合の発展は、全国農民組合の衰退(昭和二年組合数三九、組合員二、一六○人が昭和五年には組合数一一、組合員四六九人と約五分の一に激減している)とまったく対称的な様相を示していることは注意すべきであろう。

 昭和農業恐慌以降の小作争議

 昭和五・六年を中心とする農業恐慌で、米・麦をはじめ多くの農産物価格が激落し、加えて間欠的に襲った凶作によって、県下農村は深刻な不況にあえぎ、殊に中小地主・自作中堅農民・零細小作農民は不況のしわ寄せを受けて農業経営は困難となり、その生活は極度に窮迫してきた。
 中小地主の中には、所有田畑の処分のため小作人に対し小作地返還を要求し、小作権を取り上げようとするものができ、零細小作農もまた生活の困窮から小作料を滞納し、地主の請求を受けるようになった。小作地の返還・小作権の取り上げは、小作人にとってはその死命を制する重大問題であったから、小作地返還反対・小作権確認・小作権継続要求をもって地主に対抗し、もしやむを得ず小作地を返還する場合は、地主に対し小作権の賠償・作離料を請求した。このような原因で起こった争議の件数が昭和五年ごろから急増し、五・六・七の三か年では不作を原因とする争議件数に次いでいるが、八・九・一〇の三か年では全争議件数の半分以上を占めるようになった。生活困窮による滞納小作料を、地主が請求したことが原因となって起こった争議は、前期(大正一〇年より昭和四年まで)には全く見られなかったが、この期に入って現れてくることも注目される。
 争議の推進力となった小作人組合運動=農民運動は、恐慌を契機として、争議に比例して盛んとなり、昭和八年(一九三三)には最高潮に達するが、運動の中心勢力は単独小作人組合であって、系統的な農民組合(本県では全国農民組合系統)はその一部が昭和七年一〇月一斉検挙を受けて、壊滅し微力化し、全県で一四組合、二五〇人の組合員を数えるにすぎなかった。昭和一二年日中戦争勃発以後は、「重要農産物の増産」のための「戦時農業の再編成」の農業政策がとられ、自作農創設事業の拡大と並んで、小作調停制度が強化され、農民組合運動は弾圧された。一方、組合自体もその活動の基調を階級闘争より農村建設におくことに切り替え、「銃後農村強化」・「応召軍人遺家族援護」に主力を注ぐようになり、昭和一三年以降組合数は更に激減の傾向をたどった。
 昭和初頭より当局の勧奨により漸増していた協調組合は、満州事変・日中戦争を通して、全体主義・協調主義思想の流れの中に、当局の保護を受けて激増し発展した。しかしこれも太平洋戦争勃発の影響を受けてほとんど壊滅してしまった。

表3-65 郡市別小作争議発生件数

表3-65 郡市別小作争議発生件数


表3-66 小作争議原因別件数表

表3-66 小作争議原因別件数表


表3-67 年次別各種組合結成表

表3-67 年次別各種組合結成表


図3-13 県下農民組合組織系統図

図3-13 県下農民組合組織系統図


表3-68 郡市別各種組合分布図(昭和2年末現在)

表3-68 郡市別各種組合分布図(昭和2年末現在)


表3-69 小作争議の結果

表3-69 小作争議の結果


表3-70 小作人組合(その1)

表3-70 小作人組合(その1)


表3-70 小作人組合(その2)

表3-70 小作人組合(その2)


表3-70 小作人組合(その3)

表3-70 小作人組合(その3)


表3-70 小作人組合(その4)

表3-70 小作人組合(その4)