データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)
一 米騒動
米価騰貴の原因
大正時代に起こった事件のうち、県民の耳目を集めた最大の事件は米騒動であったといえる。これは大正七年(一九一八)七月二三日以降約四週間にわたって、全国的に展開された騒動の一環として、同年八月九日以降県下一円にわたって勃発したものであるが、伊予郡郡中町(現伊予市)・松山市・宇和島町のように群衆による大規模な暴動の形をとったものもあるし、その他越智郡今治町など多くの町村に起こった騒擾のごとく、暴動としては未発だったけれども、不穏な情況を呈したものもあった。
米騒動の最大の原因は、一般物価、殊に米価の暴騰で下級サラリーマン・労働者・零細漁民・日雇い稼ぎなど購入米によって生活する細民の生活が窮迫したことによるものであった。
明治四四年から大正七年の米価を表3―59によってみると、第一次世界大戦に入った大正三年に比べて、五年まではむしろ低落の傾向さえたどっているが、同六年六月以降は一升二〇銭代に達し、著しく高騰し始めた。
この原因は、国内では戦争による工業の発展と人口の都市集中で、米の消費量が急増したことと、農村内部の階級分化が促進され、大正初期まで伸長していた農業生産、特に米穀生産が停滞傾向を示すようになったことなどがあげられる。表3―60は本県における粳米生産の推移を示したものであるが、未曽有の豊作であった大正五年を除いて、一年から七年にかけての米穀生産は明らかに停滞現象を示しているといえる。それに外米輸入が中絶するなどの事情もあって、米穀の需給関係が窮屈になってきつつあった上に、大正六年は気候不順で、米麦作ともに悪影響を受けると懸念されたから、米価は上昇の一途をたどった。
米価暴騰とその対策
大正六年以降上昇していた県下の米価は、翌七年に入っても、表3―61のように騰貴を続けていった。大正七年六月の「愛媛新報」には「白米卅銭五厘 空前の新高値」、「白米卅二銭 定期二八円台」などの見出しが続出している。米価騰貴の原因は七月二日付の同紙が指摘しているように、七月一日時の県下の在米(保有米)が、内地米で農家保有三万三、二六三石、商人保有一万五、一四〇石、合計四万八、四〇三石で六年の在米より六万石余減少した。一方、消費高は六年より若干増加の傾向であることからこのような在米の減少が起こったものであろう。この外、在米減少の原因は、伊予米の県外移出が盛んであったことによるとも考えられる。事実七月中の県下の移出米四万俵は、前年同月に比して一万俵増加した。伊予郡の在米は六万俵で前年に比し四万俵も減少しているが、これは郡中港から一か月平均約一万二千俵(この俵数は郡中町で消費する俵数の一か月分に当たる)が県外へ移出したからである。
それにも増して米価を騰貴させたのは、シベリア出兵の動きがあり、軍用米の政府買い入れを見越しての投機的買い占めが行われたことである。殊に七月二八日シベリア出兵が決定され、八月二日出兵が内外に宣言されると、商人による投機的買い占めは極点に達し、二八日付の新聞は「米価頻騰停止する所を知らず」の見出しで「如何に労働者側の景気が好いとしても物の上る割合に応じてソウソウ賃金を増すことは不可能だらう、やがては到る所に悲劇の幕が開かるるに至るだらう」と訴えている。
八月に入ると、買い占めの悪影響が更に強く現れ、米価は一段と大暴騰を続けていった。この月初旬の新聞記事をたどっていくと、「白米遂に一斗四円となる、是から中流階級は何うする、或は一升五拾銭と言ふ開闢以来の珍値を現はした。(中略)夫のみか政府が損をして迄安く売らして居る例の西貢米も当地方の小売値段は弐拾弐銭より上らぬものと思って居たのに、之さへ内地米に連れて鰻上りを始め昨今では安い処で弐拾参銭、甚だしきは(二拾)六銭にも売って居る」(八月五日付)、「白米苦もなく四円を抜く 尚強硬の成行」(八月六日付)、「白米暴騰又復値上げ 松山に於ける白米相場は殆んど停止する所を知らざる有様にて日々破竹の勢を以て昻騰しつつあるが、本日の新値付栄吾米四円二十銭にて前日より斗十銭跳ね上げ其他一・二・三等共各五銭上りとなりたり、(中略)下級者も昨今に至って弗々騒ぎ初めたれば此勢を以て進むときは終に如何なる結果を生ずるに至るやも測られずと観測する者あり」(八月七日付)と米価暴騰の状況を報じて不測の結果が生じるかも知れないと警告しているが、ついに「愛媛新報」八月一一日付記事では、四日の白米一升四〇銭からわずか一週間のうちに五〇銭に達した狂騰ぶりとその原因を追求して、一揆(米騒動)の勃発の危険性があることを指摘している。
このような米価の頻騰は、労働者の生活を次第に苦境に陥れた。早くも六月には従業員の賃金引き上げに関する争議が、新居郡神拝村(現西条市)の西条織布会社、温泉郡三津浜町の愛媛県製礬所、松山市役所(常雇掃除夫によるもの)で起こってきた。大正七年の三月と九月における労働者の普通賃金を表3―62によって示すと、米騒動前の三月の賃金が米騒動直後の九月には、かなり手直しし引き上げられていることに気づくが、それにしても米価の暴騰が低賃金の労働者の生活に大きな打撃を与えていたことが分かる。
これら米価暴騰とそれに伴う社会不安に対して、県当局はどのような対策をとっただろうか。米価暴騰の気配を察した県当局は、いち早く大正七年四月一九日付知事若林賚蔵名による訓令で、米価の暴騰の気勢がみえるのは、供給者が将来の高値を気構え、売り惜しみをすることが原因となっており、堅実な供給者としては最も慎むべきことである。行政の局に当たるものは、政府の意を体し、これを管内一般に徹底させ、日常必需品を保蔵して社会の平静を攪乱することがないようにせよと戒めている(資近代3六〇四)。
しかし県下の米価は上述のように暴騰を続けたので、県の警察部は八月初め「米価の暴騰は公安を害すること尠からず、この際米の買い占め・売り惜しみをなすが如きは、啻に暴利取締令に違反するのみならず、徳義に悖戻せるものと認められ候條、一般に査察を加うるは勿論、同時に左記の者に対し、売惜しみの行為なきよう充分注意・警告を加えられたし」と管下各警察署を通じ、八月一日の在米調査による三〇石以上の所有者に警告するよう指令した(「大正七年米価問題ニ関スル暴動顚末」)。
一方松山署は、運賃を含め原価二二~三銭の外米を、市中の店によって二三銭から二七銭で販売しているなど、不当の暴利を貪っているものがいるのは、「奇怪至極なりとて(中略)署員を管内八六軒の外米販売店に派し取調べを敢行」(「愛媛新報」大正七・八・八付)した。
松山市役所では八月九日に外米三、〇〇〇袋を直接購入し、市の公設市場を古町・外側の二か所に設けて原価販売することを計画し、一一日には外米購入のため大阪へ係員を派遣した。一五日になると、市内大富豪二家から松山市に寄付された白米の廉売を開始し、市役所の玄関に山と積まれた五石余の白米をまたたく間に売り尽くしたが、正午までの四時間に売り渡した人数は約四五〇人で、市の総人口約五万六、〇〇〇人の口を糊するにはあまりに僅少で焼け石に水の感じであった。
この白米廉売と同時に、同年八月一五日午前中、松山市当局は緊急臨時市会を開いて、県下に先駆けて外国米販売のための公設市場を設置する議案を上程し、長井市長は「此ノ際外国米ノ輸入ヲヤッテ貧民ヲ救済スル傍ラ地方米価ノ緩和ヲ計ルタメ販売市場ヲ開設シ度イト思ヒマス、(中略)差当リ三百五十俵丈ケ購入ガ出来マシタ何レ三千俵丈ケハ購入シタイ考ヘデアリマス」と提案理由を説明した。
この議案は一二日に起案されたものであったが、一四日夜中に郡中町で騒動が起こったのに驚いて、松山市に非常事態が起こることを防止する意味から、急いで上程されたものであろう。議案は市場費の予算五万六、九八二円余とともに可決されたが、これまた時期を失したようであり、この日一五日の夕刻、松山市にも米騒動が勃発している。このような県や松山市の米価対策と並んで、民間有志による米価対策として、県下各地で米の廉売や米金寄付が行われた。
喜多郡大洲町では、八月七日米商店共同で「大洲町民に限り、一回五升以下の白米を一升につき三八銭で売渡し、将来如何ほど米騰貴するも右価格より断じて値上げせざることを宣言」(「愛媛新報」大正八・八・九付)したのをはじめ、温泉郡三津浜町でも、某米商は細民の窮状をみるに忍びないとして、同地方の細民に限り、白米一升につき時価一五銭落ちの安価で廉売したいので、該当細民の調査を三津警察署に依頼した後、一一日から廉売を実施、同じころ同町定秀寺住職河野正興師外数十名の有志は、貧民救助の目的で外米五〇〇俵を注文し、到着次第原価販売することを決め、翌一二日には某精米業者が外米を細民五〇戸に一戸五升ずつ施米したい旨、三津警察署に申し出た(「海南新聞」大正八・八・一二~一三付)。
一三日温泉郡久米村高井(現松山市)、一四日同郡石井村(現松山市)、一三・一四日の両日新居郡大町村(現西条市)でも米の廉売が行われた。
八月一三日には、松山市にあった海南新聞・愛媛新報・伊予日日新聞の三新聞社は共同して、「緊急公告」を各新聞紙上に掲載して、白米廉売への協力を求めた。
このように県・市・民間有志をあげて、米価調節・細民救済の様々な対策が講じられたのは、県下各地で米価暴騰に対しての県民の不満が現実的に高まり始めたことを証明するものであるとともに、既に八月九日以降今治町で起こっている騒動の拡大を防止しようとするものであったと思える。しかしこうした官民挙げての努力にもかかわらず米騒動を阻止することはできなかった。
米騒動の勃発
本県では、八月九日越智郡今治町で騒擾が勃発したのを初めとし、郡中町・松山市・宇和島町の暴動を経て八月二六日宇摩郡上分町(現川之江市)の騒擾が終わるまで、一七日の短期間のうちに一五か所で騒動が発生した。以下各地での米騒動の情況を当時愛媛県保安課長であった高橋惣太郎が警察部長の命により手記した「大正七年米価問題ニ関スル暴動顚末」を中心資料として、「愛媛新報」、「海南新聞」など地元紙に掲載された記事(新聞の煽動的記事が米騒動をあおるという理由で、政府は八月一四日米騒動に関する一切の報道を禁止したが、報道機関の抗議にあって、同月一七日事実の報道ならば差し支えなしと、記事差し止めを解禁した。従って県下の米騒動記事は、一九日付の新聞紙上に初めて姿を現した)を交えて述べよう。
伊予郡郡中町の暴動
八月一四日午後八時、県下最初の暴動が伊予郡郡中町で起こった。暴動を起こした中心は湊町の漁民であり、約三〇〇戸が一区画をなし、そのうちの大部分は零細漁業を営んでいて、平素から生活が苦しかったが、米価が暴騰したため生活難を訴えるようになり、それはやがて米商らが暴利を貪っているとして不穏な状態が醸成されつつあった。この状態を心配し、不平憎悪の暴発を未然に防ごうとした町有志たちは細民救済のため金穀を拠出して、それで外米を買い入れて廉売するとか、白米一升二五銭で一回五升に限って売り出すことを計画し、八月一五日から実施する予定を立てていたが、その前日一四日夜暴動が起こったのである。それには次のような理由があった。
灘町の酒造業兼米商の某が、自宅店頭及び洗い場で細民救済について世間話をした際、「今日この好景気に、白米一升四〇~五〇銭位のものを食べることができない者は首を縊って死んだらよい」と放言して、暗に漁民部落を侮辱したということを伝え聞いた人々は、その暴言を糾弾することとした。すなわち一四日夜一戸一人ずつ出て対決することとし、夜の出漁は取り止め、出漁中のものは呼び返し、午後七時ごろにはホラ貝を吹き鳴らして約三〇〇名が港神社に集合し気勢をあげた。この報知を受けた所轄の郡中警察署長は巡査数名を率いて神社に行き説諭したが、容易には聞き入れられず、予定した通りその店に乱入して店を破壊し、店にあった米を街路上にまき散らし空俵に火をつけた上、酒倉に入り二〇余石入りの大桶一七本その他二、三槽を打ち破って、ことごとくこれを流出させ、帳簿その他重要書類を街路上に持ち出して焼却した。この暴動の知らせを聞いた港神社残留の群衆は署長の説諭を聞かず現場に殺到したため、暴徒は大いに勢を得て群衆心理にかられ、稲田・宮田の両米店を襲い、戸障子・器物を破壊したり、米を路や溝にまき散らし投げ捨てた。この時暴徒は約三〇〇人を数え、数隊に別れて灘町全部の米商一九戸を襲って乱暴をはたらき、勢いに乗って理髪業・綿商各一戸に対しても暴行を加えた。暴徒は襲撃を恐れた酒店が提供してくれた酒を飲んで、ますます気勢をあげ、町内の門灯・街灯を片っ端から打ち砕いて、道路を真っ暗にした上、更に北山崎村三島に押し寄せようとしたが、警官に鎮圧された。
これより先、郡中署長は署員わずか五、六名では郡中町の暴動を鎮圧できず、緊急の事態に立ち至ったから、至急応援隊を派遣されたいと県警察部長に申請した。この申請が県庁の警察部に届いたのが午後九時、大森県警察部長は高橋保安課長以下二八名の警官を引率して、同九時四○分松山発列車で、郡中の手前新川まで行き(暴徒の襲撃を恐れて、汽車が郡中駅に入らぬため)、そこから郡中町まで駆け足で急行して鎮圧に当たった。暴徒が三島方面に集まるとの情報を得て、その方面に急行して警備に努め、午後一一時までには三時間にわたる暴動は鎮圧された。しかし暴動再発の懸念はあった。
翌八月一五日は漁民部落全員が漁を休み、朝から港神社に集合し、警察署に押しかけたため取り調べが遅れ、また拘束を受ける者があればその釈放を訴えた。警察署内では、既に深夜より未明にかけて検挙した暴行容疑者二〇〇名が留置場におり、外からは数百人の漁民が訴えに押しかけており、内外相応じて喊声をあげるなどの不穏な光景を呈した。町内には、警察署を襲撃して被告を奪還するとか、郡長・町長・町会議員が被告のための世話や陳情をしなかった場合にはこれを襲撃する準備をしているとか、あるいは伊予郡中山村や松前町に暴動が起こるとか、様々な流言飛語が飛んで人心は安定しなかった。警察側は、「或一部落団結シテ殆ンド一致共同的ニナシタ騒擾」であるだけに、強圧手段を避けて「所謂懐柔ノ方法ヲ講ズ」(大正七年七月「県会議事録」大森警察部長答弁)るとともに、いっそう警戒を厳重にしたため暴動は再発しなかった。暴徒の検挙は容易に進展せず、部落内の団結が強固で、善悪とも共同一致互助の気持ちがあったため、現場から犯人を引致しようとすると、彼らは極力反抗して犯人を奪取しようとした。そこで私服警官が朱肉をハンカチなどに包み持ち、暴徒に接近してその着衣に朱肉を押捺して、後刻検挙の際の目印とした。このようにして一五日午前二時漁民部落を襲って未明までに一四〇名を検挙し、任意出頭者と合わせて二〇〇名を取り調べ、その後暴徒の中の主な者五一名を起訴するに至った。起訴者を職業別から見ると、漁業四八名、商・農・日雇い各一名であって、漁民が圧倒的に多かった。暴動による被害者は米商一三・酒商二・理髪店一・煙草商一であり、被害は米四六九俵その外雑穀・酒・家財等総額約四万円に上った。
松山市・温泉郡素鵞村の暴動
伊予郡郡中町に暴動が起こった翌日、県警察部長の言葉を借りると「殆ンド伝染病的ニ」県都松山市で暴動が勃発した。かねて松山市中の米商のうち、安価な米を大量に仕入れた上、小売米の値上げをし、また量目をごまかすなど悪疎な方法で暴利を貪ったり、定期米の買い占めをして米価を暴騰させて利益を独占し、大方市民の利益を顧みない「奸商」を懲戒し、米価の引き下げを図らねばならぬという動きが新聞にしばしば報じられていた。八月一五日午後九時ごろ、松山市の東南郊にある温泉郡素鵞村(現松山市)岡田米店へ同村の某が入って来て、細民救済のため米価を割引販売せよと強硬な談判をしたところ、店主は自分は相当の義損金を寄与しているから、特に割引販売をする必要はないと答えた。戸外で某の交渉をうかがっていた細民十数人は、同店に入り込んで安価販売をしないというなら叩き潰せと叫んで、戸障子・器物を破壊し投石するなどの暴行をし、米一升一五銭にて販売するという張り紙をさせた。勢いにまかせて次には小唐人町加藤米店などを襲って同様の暴行をし、続いて定期米の買い占めをしたと噂される湊町三丁目の神谷呉服店に殺到したが、小唐人町・湊町筋は納涼散歩者の出盛り時で、途中から暴徒に加わる者も多く、その数は漸次増加して約五〇人となり、陳列箱のガラスを破壊して商品を道路に投げ出すなどの暴行をした末、米五〇〇俵を一升一五銭で売るとの掲示をさせ、続いて弁天町の森川精米所、香川米穀取引所理事宅を襲ったが、警戒厳重のため表戸を小破しただけにとどまった。
これより先、素鵞村の岡田方で十数名の者が強談しているとの報告に接した所轄松山署長は、巡査六名を現場に急行させたが、その時には同店で暴行を終えた暴徒の人数も増加し、野次馬も数百名に達していたので、少数の警官では取り締まりができない状態となっていた。そこで暴動鎮圧のために郡中町へ行っていた警察部長の指揮を求めたため、部長は部下を連れて急いで帰松し、松山署で鎮圧及び検挙の方針を指示して現場に向かった。警察の方針は「松山ノ暴徒ハ附和雷同ノ一ツノ群集ニ過ギナイ故ニ、頭カラ威圧ノ方針ヲ執ルト言フコトハシナイデ、徹底的ニ打摧クダケノ方法」(大正七・一二「県会会議録」大森警察部長答弁)をもって臨むこととし、末広町で香川方を襲った一隊を追撃圧迫、弁天町で森川方を襲った一隊も挾撃圧迫して主な者数名を逮捕したため、これらの群衆は四散し、神谷方を襲った一団も弁天町で取り鎮められた。こうして全く暴動が鎮圧されたのは午後一一時過ぎであった。
暴動の翌日は、予想外の流言飛語が飛んで、市内の治安については一層厳重な警戒を要する状態であった。昨夜襲撃された米商が廉売の張り紙を撤去したから、大々的に襲撃する計画を立てているとか、神谷・森川両家には今夜必ず放火するとか、米商の廉売を知事が差し止めたのは不都合である、よって知事官舎を襲撃する準備をしているとか、松山軌道会社・伊予電気会社も焼き打ちするとか、本日石油の売れ行きが盛んで小売店は売り切ったものが多いとか、種々風説が乱れ飛んで物情騒然たるものがあった。また松山市長や助役は市役所及び市長宅襲撃の計画があるからと警察に保護を願い出、富豪・大商人も流言に驚いて保護を頼み、医師は薬価が、理髪店は散髪料が高いから襲撃を受けるかもしれないと他に避難し、老幼者は放火を恐れて市外に避難する有り様で、市中の混乱は名状すべからざるものがあった。
県都にこれ以上の騒擾が起こった場合、全県下の治安に及ぼす影響は極めて大きいので、警察当局は松山署・巡査教習所の署員や生徒に加えて、西条・角野・丹原・久万・内子・卯之町六警察署の署員計一六八名を松山市に集結させた。警官隊はこれを本隊と三方面隊(外側東部・外側西部・古町の三方面に警備区域を設けた)の四隊に分けて全市に配置し、通信伝令部を設けて通信連絡を密にし、司令部には自動車二台、騎馬を備え、予備隊の派遣を敏速にするなど、警備に万全を期して、暴動の再発拡大防止に努めた。更に分隊長以下七名の憲兵の出動を要請するとともに、松山歩兵連隊に交渉し、一六日午後三箇中隊を武装して市内の主な通りを示威行進させ人心の鎮静を図った。また同日市内各所に、「一六日夕刻より練兵場にて市民大会を開催する」との張り紙があり、暴徒集会のうわさがあった城北練兵場では、松山連隊が夜間演習を実施、歩兵一箇大隊を待機させ、要所要所に着剣の歩哨二名ずつを立てて未然に暴徒の集合を防ぐなど、軍隊の協力態勢がとられた。市民大会が城北練兵場で開催できぬ場合は、会場を道後公園に移すという流言で道後公園内にも警官を派遣して警戒に当たらせた。このような厳重警戒のもとに一六日の夜は更けていった。
当夜の形勢は単に風説だけにとどまらず、相当の計画をもってことをたくらんだ煽動者もいたらしく、また昨夜の騒動再発の期待感もあって、市内外より多くの群衆が午後八時ごろより市内目貫通りの湊町・大街道などへ集合した。もし何らかの紛争でも起こるようなことがあれば、一触即発この大群衆は直ちに暴徒の集団に化するかもしれない恐れがあったので、道路上に佇立している者には注意し、団体の通行は禁じ、群衆に対しては騎馬憲兵が集団中に乗り入れ、右往左往させて解散に努めた。このように隙のない警備体制がしかれていた外側方面では、ついに暴動の余地を与えなかったが、比較的手薄の古町方面では、数百名のものが本町の岡酒造会社宅前に群集し、うち反古買、日雇い稼ぎ四名によって会社その他数か所の米店に対する白米・清酒の廉売強制事件が起こったが、直ちに鎮圧された。
翌一七日は、表面上平常の警備体制にもどり、暴動発生の場合にはすぐ発動できるよう通信伝令部は前夜通り配置し、応援の警官は予備隊として武徳殿内に潜伏待機させたが、不穏の状態も起こらず人心が鎮静したので、一八日警戒を解除した。
松山の米騒動で引致あるいは召喚して取り調べた者約六〇名、暴徒の主な者はほとんど検挙した。そのうち起訴されたもの三一名に達した。その内訳は、松山市民二三・市外民八、職業別にみると、日雇い五、古物商六、反古買四、荷車曳二、看守一、商業四、農業二、張物商一、職工一、無職五となっていて、細民階級の人たちが大部分を占めていた。
北宇和郡宇和島町の暴動
松山の暴動から一週間たった八月二二日、宇和島で暴動が勃発した。当地では郡中・松山で細民が先頭に立って暴動を起こしたことを考慮して、数日前から細民救済のため米廉売の計画を立て、そのための義損金を募集し富豪からの寄付金も集まっていたが、実施に移らない間に騒動が起こった。
八月二二日未明、「米価調節のため協議すべき件あり、今夜午後九時鶴島町に集合あれ 共助団」と記した紙片を、町内三〇か所にわたって掲示したものがあった。これを発見した宇和島警察署では、直ちに張り紙を撤去したが、これを単なる悪戯と誤認し、ただ念のため同夜刑事に内偵させたところ、点灯時刻から三々五々鶴島埋め立て地へ集まってきた群衆は午後八時ごろには約五〇名にも及んだ。刑事が本署に電話連絡し、巡査部長が数名の巡査を率いて急行したときには、既に三〇〇名位の集団に膨張していて、容易に鎮圧することができない勢力になっていた。そのうちに数名のリーダーが米価暴騰は米商などが暴利を貪っているためだから、米商に廉売交渉をしようではないかと呼びかけ、群衆のうち半数は一隊となり、なだれをうって春日屋をはじめ一一軒の米店を襲った。戸を打ち破り、器物建物を破壊し、米俵を破棄するなどの暴行をしたのみならず、強制的に白米一升を二五銭で売る契約書を取り、その旨表戸に張り出させた上、道々の醤油店(竪新町堀部本店外)・酒店(袋町大西屋外)・酢店など商店九軒を襲って、大西屋では店頭にあった四斗入の酒樽を街路に持ち出し、またこれを店内に投げ込むなどの暴行をした。
一方、鶴島埋め立て地に集まった群衆の残り半数からなる一隊は、町に隣接した北宇和郡八幡村藤江にある神戸市鈴木商店経営の日本酒類醸造会社を襲った。元来この会社は酒精会社といい、地元宇和島人の経営によるものであって、原料の甘藷が豊富にあるという地の利を得て発展し、鈴木商店経営の同種会社と競争して常に優位を保っていた。しかし、鈴木商店は大資本にものをいわせて、同会社の株式九割以上を独占併合し、監査役一人のみを地元からとり、その他の重役は鈴木商店系で占めて会社を組織していた。鈴木商店経営に移ってから後は、地元民と会社及び支配人との関係は円満でなく、工場残滓の除害工事施設問題でとかくの非難があり、会社は憎悪の対象となっていた。会社では襲撃を予想して、数日前から人夫四〇名を夜間も詰めさせ、タンクその他の箇所に貯水し、ポンプを据え付けて工場防衛の準備をしていたが、警察署は不用意にも工場に対しては何ら警戒していなかったようで、暴徒は容易に会社に乗り込むことができた。暴徒は事務員に対し、原料甘藷の暴騰を防ぐため、三か年買い占め(価格一貫匁二五銭)中止方を強要し、契約書を書かせその旨を戸外に張り出させた。更に、暴徒のリーダーは貯蔵米を廉売せよとの要求を出したが、同会社は酒精会社であって酒造会社ではなかったから、社員及び職工の食糧用の米が約五〇俵くらいある旨を答えたところ、暴徒はそれならば倉庫内を検査するといって、会社構内に侵入し、社屋外の焼酎容器雲助を破壊し、その破片を投げる者もあり、群衆は喊声をあげてこれらの暴行を声援した。そのうち裏手に向かった一部の暴徒は、焼酎の残滓を入れた納屋に放火した。会社の職工が備え付けのポンプで消火しようとしたところ、暴徒は執拗に消火を妨害したため、ついに火の手が上がった。これを見た町の商店を襲った暴徒の一隊は、急いで会社構内に殺到し、その数は数千名にのぼった。更に事務所や倉庫を破壊して内部二か所に放火し、納屋の分と合わせて一〇か所から火が出て、凄惨な光景を呈した。
宇和島町では、郡中町・松山市にみられなかった工場焼き打ちという事態を生じた。これは当時憎悪の的となっていた大資本に対する反感が米騒動に関連して爆発したものと考えられるが、群衆が二隊に分かれて暴動を起こしたために、警官も二隊に分けざるを得ず、しかも警察署襲撃のうわさもあり、署前に三〇〇名の群衆もいたので、これにも一部をさいたため、酒精会社焼き打ちの際には、数千の群衆に対して警官の数があまりにも少なく、どうすることもできなかったことからみて、警察力の不足と情況判断の誤認、警備計画の粗漏もその原因の主なものであろう。また事件の発生日が旧盆の一六日に当たることから群衆心理的な要素をもって、暴動化した一面もあると思える。
暴徒の検挙は、現行犯として逮捕した者が一名もないなど困難であったが、警官の目撃した者、現場に残留して挙動服装等不審者など約一〇〇名を引致取り調べた。しかし、放火犯は出なかったので家宅捜査をし、衣服履物その他容疑十分な者を引致取り調べ、放火・鎮火妨害者約一〇名の犯人を検挙した。検挙された犯人は二四日までに四八名にのぼり、その内訳は次のようになっていた。
住所別 宇和島町三一 八幡村一五 三間村一 九島村一
職業別 理髪一 魚商二 易者二 料理者二 農業四 籠細工二 人力車夫一 日稼六 大工六 氷行商一 樽屋一 鍛冶職一 画家一 表具師四 彫刻業一 鉄工職一 竹細工一 石工一 豆腐屋一 繭仲買一 店員二 仲仕二 木炭商一 青物屋一 製糸職工一 無職一
更に二八日までに起訴された犯罪容疑者は、放火犯八名・鎮火妨害三名・家宅破壊騒擾三〇名・付和雷同二〇名、合計六一名に上った。
なお暴動にはならなかったが、それに近い騒擾が八月中、県下各地でみられた。その概要は表3―63に示した。
米騒動以後の施策
約半か月間、ほとんど全県下にわたって大小いくつかの米騒動が勃発したが、その間、県当局は警察力を使って、懐柔あるいは圧迫の手段をもって鎮静に努めた。また市町村当局とも協力して、米騒動の起こった直接原因と考えられる米価の暴騰を抑え、外米を買い入れ、内地米とともに廉売して米の融通を図った。
まず県は、八月一七日に、政府から県に割り当てがあった恩賜金の県分配額五万三、〇〇〇円、内務省からの救済資金県分配額四万九、四八〇円を、人口に正比例し所得税に反比例し、細民数を参酌したうえ、表3―64のように各郡市に割り当てた。そして各郡市に対し、恩賜金・寄付金を民心安定のための米廉売の資金とし、廉売は必ず市町村の直営にして商人の手を経ないように注意するよう指示した。同時に地方の富豪たちに米廉売のための資金になる寄付を勧めた。
続いて八月一九日、県は米廉売に関し米の供給が不足するおそれがあるとして、麦使用を奨励するよう各郡市に通達した。翌二〇日には各郡市から外米の配給方についての申請が続々出されたのを受け、三万袋(約二万石余)の外米購入のため県費四五万円の支出を決定した。なお九月に入って、山下亀三郎の寄付金一万円及び日蓮宗宗務代表よりの寄付金一七万円余の県割当額を配分した。
八月二七日には、県は「米騒動防止の訓令」(資近代3六〇七)を出して、先般の米騒動は、日常生活の困難に起因しているが、いたずらに流言飛語に惑わされて激化したきらいがある、政府の調査によると、米不足のおそれはなく、外米の輸入、国費支出による穀類収用令施行などにより米の需給関係は円滑となり、米価は順調に回復しているから、無稽の流言などに惑わされることのないよう、部内一般に懇諭して民心の安定に努めよといっている。
県当局の米騒動後の措置・施策に対応して各郡市では種々の対策を講じたが、大正七年八月中の「愛媛新報」の記事によって概述しておこう。
まず松山市内日刊三新聞社共同の白米廉売が、騒動の後を受けて民心の動揺の静まらない一六日の午後二時から、古町は第二尋常小学校、外側は第三尋常小学校で、白米一升二〇銭という時価より格段の廉価で売り出され、合計六〇石の白米が全部売り尽くされた。警察から三日だけでもよいから、非常市場で販売してもらいたいと依頼された市役所の白米廉売も引き続き行われ、五石余を売り尽くした。また同日伊予郡郡中町某富豪は窮民の惨状を察して、特米三五〇俵に限って一升二五銭の割合で、町役場内や夜学校内で町民一般に販売を開始した。松山市の有楽座では一七・一八の両日義捐興行をし、純益金を白米廉売資金中へ寄付することとし、西宇和郡八幡浜町役場では細民救済のため外米を購入して廉売を開始することに決した。この外喜多郡大洲町・同郡内子町・新居郡西条町・同郡氷見町・温泉郡東中島村・同郡道後湯之町では、それぞれの町村の有志・篤志家・米商などの拠出金米あるいは世話によって、白米一升三〇~三五銭で廉売して下層民の救済に当てた。殊に内子町のように、某富豪の寄付金によって町内の県税戸数割平均額納付者以下の者に対し、一人一日白米二合(一升三五銭)麦二合(一升二〇銭)の割合で廉売し、市価が同価格に低落するまで販売を続ける計画を進めるなど、積極的な施策を町内有志でとった所もあった。このように何らかの応急策をとった市町村では、興奮していた民情も次第に落ち着き、小康状態を続けるようになってきた。
ところで米の廉売は意外にも薄給の月給取りを苦しめるという結果を招いた。八月二一日から二六日付の「愛媛新報」は「生活に虐げられる月給取 高い米を泣きつつ喰べている」という見出しで、まず第一に救済の手を下さればならぬのは、中産階級・安月給の生活者であると指摘した。松山市では御下賜金二、五三四円を生活扶助を受けている者七一人に、五〇銭~一円ずつ賦与し、残金を二六~二七日の公設市場での廉売費用にあて、一戸二升ずつ一升二五銭の廉価で売りさばくこととし、約五、〇〇〇戸・一万二、〇〇〇人が恩恵を受けた。西宇和郡八幡浜町では、二五日より恩賜金で内地米二五銭・外米一〇銭で一戸五升を限り売り出した。越智郡今治町の恩賜金による廉売は、二、九五一戸を対象として行われ、一戸白米四升ずつを一升二〇銭として販売した。北宇和郡宇和島町においても、二一日(騒動勃発一日前)町会を開いて御下賜金及び篤志者からの寄付金の使用を協議し、二五日から廉売を開始した。なお前述した県当局の購入した外米三万袋(二万余石)は、二二日今治港到着の分は東予四郡に配給し、二四日高浜・長浜両港到着の分は、それぞれ中・南予地域に配給することにした。
米騒動の性格と影響
米騒動は、都市部の日稼ぎ・仲仕・労働者、農・漁・村民などのうち主として細民階級の人々が参加して、米を廉価に販売してもらいたいという経済的要求をもって立ち上がったが、自然発生的・散発的で暴発のきらいがあり、従って組織化され一貫した指導の下に行われた運動ではなかった。だから騒動に加わった群衆も「烏合の衆」視された。大正七年一二月の愛媛県会において、「本県ノ暴動事件ハ世間ノ所謂危険ナル思想ノ為メニ起ッタ暴動デハ断ジテナク唯米価ヲ引下ゲルタメニ、智力ノ浅薄ナル下層ノ民が、唯暴動致セバ直チニ米価ノ下ルモノト心得テヤッタコトデ、一面新聞紙ナドノ記載ナドニ駈ラレテ彼ノ無謀ナル暴動ヲ敢テシタノデ、唯単純ナルサウ云フ事件デアルト思フ」と発言した県会議員がいるが、このような意見も出るほど、この騒動は表面上からみると、根の浅い刹那的な動きしかしていないようである。しかし子細にみると騒動の底には、根深い庶民感情の激流があったことは見逃してはならない。すなわち「その事たるや決して単に米価激騰の為のみにて起これるには非ず、時局の影響を受けて商工業隆盛に赴き多大なる利得を博したる成金輩が虚栄奢侈の風潮に駈られて豪奢を極め、又は横暴・驕慢なる振舞を為して社会に悪風を流す等、寒心すべき現象ある傍には貧富の懸隔益々甚だしきに至れるを以て、中流以下の階級に属する者は不平の念に堪えず米価騰貴の機会に乗じ鬱憤の勃発を見たる(中略)今回の暴動が唯に米価問題のみに起因する如く論断するは誤れり(下略)」(「愛媛新報」大正七・八・二七付)という意見は、騒動の原因について核心を突いたものといってよかろう。細民・薄給生活者の生活をよそに暴利を貪っている成金や米商・家主に対する感情的な反発に、これらの成金・商人を利して豪奢を抑止することもせず、肝心の米価調節についても適切な施策を実施しなかった為政者への不信と怒りが加わって、「社会的矛盾」を突き「社会的公正」を要求する大衆運動となって展開したものである。
この点で、この騒動はやがてより高い、より強い政治運動・社会運動にまで発展する萌芽を包んでいたといえよう。「愛媛新報」は八月二六日付の「騒擾の教訓」で「今回の騒擾は真の導因は疑ひもなく米価高に発したるも、騒擾の経過を仔細に観察すれば分配の不公平に基く資本家思想の破裂せる機微の消息あるは之また否認すべからざる点に属する故に、心ある実業家にありては従来の如く徒らに己れをのみ利せんとする営業方針を改め、漸次社会政策とも称すべき精神を営業の上に加味せざるべからず、従って今回の騒擾も広く本邦事業界に一種の新しき色彩を加ふるに至るべしと説くものあるに至りたるは大いに注目すべき点なるべし」と論評し、騒動が資本家社会政策という新しい方向をとらせるようになるであろうと論じている。しかし騒動はひとり資本家ばかりでなく、騒動の主体者であった細民階層を含めた一般大衆にも大きな影響を与えた。一般大衆、殊に従来社会の下層にあってその生活状態について一顧さえも与えられず、絶えず押し寄せる貧苦にさいなまれつつも、訴えるすべすら知らなかった細民階層に、例えそれが「烏合の衆」と呼ばれるものであったにしても、威力を自覚させ、自己の生活権を主張する勇気と機会とを与えた。事実この騒動は、大衆の力、集団の力が偉大であることを、社会一般に認識させるよい機会となったのであって、騒動の鎮圧に当たった県警察幹部(保安課長)は「今回の暴動が、その多くは何等根底なく何等連絡なく、単に群衆心理に左右せられたる烏合の衆なりしに拘らず、斯く暴動を遂行したるは、其多衆なるものの力の如何に大なるかを認めざるべからず、烏合の群衆已に斯くの如し、若し之に対し秩序あり連絡ある団体たらしめば、其の力の恐るべき事を知るべきのみ」と述べ、次に来るであろう大衆の力の組織化を恐れている。一方、民衆の間にこの集団の力を組織したならば、新しい社会の展開も望め、生活も改善されるという意識が、多かれ少なかれ植え付けられた。これまでもあった本県の小作争議・労働争議は、この騒動を契機として新しい展開をみせ、水平社運動も活発になっていった。
表3-59 米騒動前の米相場 |
表3-60 本県における粳米作付け反別、収穫高、反当収穫高 |
表3-61 大正7年松山市内白米小売り値段 |
表3-62 普通賃金(日給)表 |
表3-63 愛媛県下の主な騒擾 |
表3-64 恩賜金・救済資金割当て額 |