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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

二 普通選挙と県政界

 民政党愛媛支部の結成

 大正一四年(一九二五)七月加藤護憲三派内閣は閣内不統一で総辞職、八月に憲政会単独の第二次加藤内閣が成立した。与党憲政会と野党政友会は第三党政友本党の抱き込みを画策、″憲本提携″と″政本合同″が両面から盛んに進められた。一二月に入り憲本提携が実現したが、政本合同を進めていた中橋徳五郎ら代議士は政友本党を脱しほどなく政友会に復帰した。本県選出の政友本党所属三代議士のうち成田栄信は、党紀違反で除名されていたが、小野寅吉・太宰孫九は本党に留まった。大正一五年一月加藤首相急逝、若槻礼次郎が内閣を引き継いだ。昭和二年(一九二七)四月、若槻内閣は台湾銀行救済問題で枢密院により総辞職に追い込まれ、代わって田中義一を首班とする政友会内閣が成立した。
 憲政会は政権を失ったが、田中内閣の成立で対立意識を強めた政友本党との合同が一層具体化した。同二年六月一日立憲民政党が結成され、新党の総裁には前蔵相の浜口雄幸が選ばれた。民政党の成立によって本県における憲政会・政友本党両支部は自然消滅したので、前者は愛媛新党倶楽部、後者は本党倶楽部と改称し、両倶楽部解消による民政党県支部の発会式は六月末と予想された。しかし小野寅吉・太宰孫九の旧政友本党両代議士が民政党入党の態度を明らかにせず、とりわけ小野は一時民政党不参加説が伝えられたため、両派幹部による協議は容易に進まず、七月下旬まで遅延した。
 民政党愛媛支部創立準備協議会は七月二七日にようやく開会、党則の草案、役員選考その他の準備を進めることにした。八月四日、村上紋四郎・小野寅吉・太宰孫九の三代議士がそろって上京、支部創立準備諸般について本部と交渉、若槻・床次両顧問の出席を要請したが、八月中の遊説日程が既に決定していたため支部発会式を九月上旬に延期した。
 九月五日、民政党愛媛県支部の発会式が顧問床次竹二郎・前商工大臣藤澤幾之輔・政務調査会長小川郷太郎らを迎えて午後一時から松山で挙行された。参会者は四、八〇〇人に達し、国伎座(市部)と新栄座(郡部)の両会場に分かれて開催された。第一会場では武知勇記、第二会場では松田喜三郎が登壇して、「諸君と共に新に作る我支部は進んで中央の政治に参画努力すると同時に退いて地方政治の啓発に任じなければならない。此重大な使命を企画せんが為め和衷協同して当面の政敵たる政友会を葬り以て我党の主義政綱を国政の上に実現せしむるの覚悟を要するのであります。」と開会の辞を述べた。次いで、宣言書、決議、規約案が付議されて満場一致で可決、役員は選考委員を選んで一任することにし、浜口総裁、若槻顧問らの祝電を披露して式を終わった。決議の中には、「四国循環鉄道及び予土横断鉄道の速成を期す」「本県に四国大学の設立を期す」「伊予中国鉄道連絡の速成を期す」などの本県特有の目標も含まれていた。発会式の後、第一会場は松山部会の発会式を挙行、つづいて床次顧問ら本部派遣来賓の演説会を行い、第二会場でも遅れて演説会を開催、終わって祝宴に移った(「愛媛新報」昭和二・九・六付)。
 九月五日の民政党愛媛支部と松山市部会の発会式につづいて六、七日には今治市と宇和島市部会の発会式が行われた。役員は選考委員協議の結果、支部長は差し向き適任者なしとして置かず、以下、幹事長松田喜三郎、常議員会長相田梅太良、政務部長岩泉泰、党務部長宇和川濱蔵、庶務部長岡田源之助、財務部長日野政太郎、遊説部長武知勇記を選んだ。
 民政党愛媛支部の結成が民政党誕生から三か月余も遅れたのは主として本部派遣幹部の調整がつかなかったことに原因していたが、一つは田中政友会内閣の下で不利を予想される県議選告示を前に新党ブームを巻き起こして戦いを有利に展開しようとする配慮も働いていた。

 第二〇回県会議員選挙(最初の普通選挙)

 昭和二年九月二五日の県会議員選挙(定期改選)は、衆議院議員選挙に先だつ史上最初の普通選挙という点で注目された。大正一四年「衆議院議員選挙法」の全文改正があり普通選挙制度が公布されたが、その翌年の六月に「府県制」「市制」「町村制」中改正があり、地方議会の選挙にも普選の制度が適用されることになった。府県制による県会議員選挙制度の主な改正点は、(1)帝国臣民で二年以上府県内の市町村に居住する年齢二五歳以上の男子が選挙権、三〇歳以上の男子が被選挙権を有すること、(2)選挙区の区域表示方法を改め、開票区を設けたこと、(3)選挙人名簿は市町村会議員選挙人名簿により選挙を行うことにしたこと、(4)議員候補者制度を採用したこと、(5)選挙運動は衆議院議員選挙法と同様の取締規定を適用し、選挙運動費用の制限や戸別訪問の禁止など厳重な制限を付したことなどであった。
 立候補者届け出は投票日一週間前の九月一八日に締め切られたが、定員三七名のところ出そろった県会議員侯補者は総数五七名に及び、党派別内訳は政友会二七、民政党一九、無産党四、無所属中立六であった。候補者は、職業・住所・生年月日・届出年月日とともに順次「愛媛県報」に選挙公示として登載された。有権者数は二〇万六、四二一人であり、大正一三年の県議選と比較すると九万五、〇〇〇余人が選挙権を得て、全人口比九・七五%から一九・八二%に拡大した。
 「海南新聞」昭和二年九月二〇日付は社説「県議選挙を前にして」で、「普選の実施は二倍近くの新有権者を増加し、地方政治に参加せしむることとなったのである。この新有権者の動きこそ、堕落せる現今の政界を廓清するか否かの重要なるバロメーターでなければならない。然るか故に、新有権者が如何なる活動をなすか。いかなる意義を発揮するかに注目してゐる所以のもの、また此処にあると云はざるを得ない」と普選の意義を説き、「有権者は目ざめよ。有権者は自己の信念により清き一票を投ぜよ。ただ、有権者諸君の心にささやく正義の流れこそ、いまの政界を廓清せしむる第一歩なのだ。」と有権者の自覚を促した。
 今回の選挙民の拡大に備えて選挙運動の取り締まりが厳しくなった。新聞は、「戸別訪問はまかりならぬ、運動員は制限せよ、選挙費が規定額以上昇ったらとか、運動員が同一有権者に連続的に逢い話をするといけぬとお巡りさんの鋭い眼が光って居る」(「海南新聞」昭和二・九・一六付)「世は普選とは云ふもののややこしい法規に手も足も出ない、なにかしら普選の一票が魔物のやうにさへ思ふ、おそろしくて一体誰に投票してよいやら事実見当がつかぬものらしい」と報じ、「取り締まりの任に当る官憲が此の程度の取り締まりで選挙を終えることを希望する、従来の選挙戦に徴すると、よく選挙目睫に迫った直前に反対派の運動員や有権者を検挙したり拘束して、選挙の自由を奪ひ反対派の当選を妨げる事例を見てゐる」と官憲に警告した(「海南新聞」昭和二・九・二四付)。事実、官憲の監視は野党民政党の候補者に集中しており、松山市内民政党所属某派の某事務長のごときは多数の刑事に尾行され、初めは二、三人であったのが終わりには八人までになったという。また、刑事のある者は反古買いや薬売りに変装して郡部にも多数入り込み、選挙の話でもしようものなら「ちょっと来い」と連行、松山警察署に例をとれば二〇日朝から翌二一日正午までに召喚された者三十数人に及んだという(「海南新聞」昭和二・九・二二付)。
 こうした官憲の支援もあって与党の政友会が有利に選挙戦を展開した。「海南新聞」九月二四目付は「県下を通じて政友は圧倒的優勢、各地とも苦戦の民政党」の見出しを付して、政友会の立候補者二七名の内当確二一名、民政党一九名の内当確一三名、中立は当確三、初陣の無産政党は当選圏内に入る者はないであろうと観測した。また同日付「海南新聞」は普選劇第一幕と題して、「普選がもたらす県下の選挙戦は有権者が増加しただけに、以前の家長制に等しい納税制限選挙と違って一家の内に二名も三名も、多い内では五名からの有権者があり、これがため親父は政友会の候補に長男と二男は民政党に三男と伯父とは中立派に何れも力を入れると云ふあんばいで、中には家庭の平和を乱す所もある。ある村では選挙の事から親と親とが喧嘩して相愛の仲である新夫妻がなま木をさかれたやうな悲運を見た所もある」と報じた。
 昭和二年九月二五日県議選の投票日を迎えた。当日の朝刊は、「海南新聞」が「けふ愈よ決戦の日、投票は午前八時から午後四時まで」「貴重なる一票を無駄に棄つるな」「正しきもの、清きものに栄光あれ」の見出しを掲げ、「愛媛新報」は「あなたの清き一票を投ずる日はいよいよ今日二五日であります。今回の県会議員選挙は、明年五月の衆議院議員選挙の偵察戦であり前哨戦でありまして、殊に国民的多年の要求たる普通選挙法第一次の総選挙であり、その試練を受けるのでありますから、今回の県会議員選挙が公正に行われると否とに依って実に県民の政治的能力、その自覚如何が決定されるのであります」、「あなたの政治のために一人も洩れなくあなたの尊い選挙権を守護して、潔く行使して下さい」と選挙民に呼びかけた。
 県下各地で一斉に行われた県議選の投票総数は一五万五、〇九三票で内棄権総数は五万三、四四二票、投票率は六五・五四%であった。開票は九月二六日午前八時から行われ、開票の結果は表3―9のようであった。当選者は一〇月三日付県告示で公示された。当選者三七名の党派別内訳は、政友会二四・民政党一一・中立二で、前議員で引き続いての当選者は大本、清家(俊)、高畠、織田、越智、工藤、大野、竹内、清家(吉)、清家(政)(以上政友)、武知、松田、日野、西村、末光(以上民政)、村瀬、山中(以上中立)の一七名であった。
 「海南新聞」九月二八日付は社説「県議選挙の戦跡を顧みて」で県議選の結果を報じ、与党政友会勝利、野党民政党の敗戦は官憲の干渉と選挙民の無自覚にあるとして、「愛媛県二十万の大衆有権者の中に多数の無自覚なる選挙民があって、僅か一円や二円の金に買収され、もろくも候補者の前にひざまづいて尊い選挙の自由意志を売込み票の行使を誤るやうでは到底理想選挙は行はれない所であるが、更に選挙民の自由意志を束縛し選挙権行使上に圧迫を加へこれに脅やかされて棄権し或ひは心にもない候補者に投票するが如き事も、亦昭和新政の御代に最も嘆かはしい現象であると云はねばならぬ」と論評した。
 選挙に勝利した政友会は、一二月一五日の総会で幹事長に清家俊三を再選、「一、地租委譲、二、地方分権の促進、三、県内鉄道未成線の速成及道路港湾河川の改修速成を期す、四、本県に四国大学の設置促成を期す」などの決議を行った。また二〇日に開かれた臨時県会で議長・副議長に同派の清家吉次郎・竹内鳳吉を当選させた。

 第一六回衆議院議員選挙(最初の普通選挙)

 大正一四年(一九二五)五月五日法律第四七号をもって公布された「衆議院議員選挙法改正(普通選挙法)」は、懸案の納税要件を撤廃して二五歳以上の男子が選挙権、三〇歳以上の男子が被選挙権を有するという普通選挙実現のほかに立候補・供託金制度の採用、中選挙区制(定員三~五人)の実施、選挙運動に関する諸種の規制(選挙事務所・選挙運動の制限、戸別訪問の禁止)など、我が国の選挙制度の基本的性格を定めたものとして選挙法史上に重要な位置を占めていた。この普通選挙法は次回の衆議院選挙から適用されることになっていたが、昭和三年(一九二八)に至り実施された。
 昭和二年六月に発足した民政党は衆議院で二一九議席を有し、一九〇議席の政友会を大きく上回っていた。多数野党・少数与党による政局不安定のため、衆議院議員選挙の早期実施が必至となり、田中内閣は昭和三年一月不信任案上程を契機に衆議院を解散した。
 既に選挙を予期して準備に入っていた両党愛媛支部は、解散と同時に政友会支部が梅の家、民政党支部が大谷旅館に選挙本部を置き、久松定夫と岩泉泰をそれぞれの選挙委員長として、幹事岡田源之助と大本貞太郎を候補者選考のために相前後して上京させた。本部や各選挙区分会との調整が終わり、二月一~八日に予想された候補者が次々と届け出て、一三日の立候補締め切りまでに供託金を納付したのは次の一七名であった。立候補者の党派内訳は、政友八・民政六・中立二・労農一で、成田・河上・村上・小野・高山・佐々木の六名が現職であった。

  第一区(定員三名) 岩崎一高・須之内品吉・高山長幸(以上政友)、武知勇記、松田喜三郎(以上民政)、成田栄信、石丸富太郎(以上中立)
  第二区(定員三名) 河上哲太、竹内鳳吉(以上政友)、村上紋四郎、小野寅吉(以上民政)、小岩井浄(労農)
  第三区(定員三名) 佐々木長治、二神駿吉、清家吉次郎(以上政友)、村松恒一郎、本多眞喜雄(以上民政)

 こうして愛媛県をはじめ各地で候補者が出馬する中で県民を驚かせたのは、愛媛県知事尾崎勇次郎が現職のまま兵庫県第五区から立候補したことであった。官吏が議員を兼ねることはできなかったから、尾崎は当選すれば知事を辞任する予定であったが、現職の知事が出馬したのは全国でも珍しく、非常識との批判を受けた。
 民政党の結成によって少数与党となった政友会は、この選挙で多数派を奪回することが目標であった。既に田中内閣は、府県会議員選挙と衆議院議員選挙に備えて昭和二年五月地方長官の更迭を断行、一府三六県の知事、三八県の内務部長、一道二府四一県の警察部長の大異動を行い、翌三年一月にも三知事・四地方部長を休職にして反政友会系官吏を一掃した。政友会系地方官配備による選挙態勢を整えた政友会内閣に対抗して、民政党側では伊澤多喜男を中心とする反政友会系官僚が選挙監視委員会を組織し、選挙革正運動の名の下に官憲の干渉を監視防止しようとした。愛媛県には前知事香坂昌康が派遣され、二月二日来松した。
 香坂を迎えて民政党愛媛支部は、愛媛新報社社長安藤音三郎を会長とする普選擁護会を結成し、政談大演説会を県内各地で開いた。七日夜、大街道の西法寺での政談大演説会に臨んだ香坂は、「余が来県の趣旨」と題して演説、「選挙は自由公正に、官憲を恐れるな、干渉圧迫に断然対抗せよ」と叫んだ。香坂は、松山市内をはじめ東予・南予各地を巡歴して「普選擁護・革正演談」を行うかたわら、官憲の圧迫・干渉の調査排除に努めた。
 官憲による民政党への干渉は相当なもので、「愛媛新報」二月八日付は「県下においても村上、小野、武知、松田諸候補の政見発表演説会に対する警察当局の態度は、単なる言葉尻を捉へて一々注意の連発、果ては中止を命ずるということはいかにも不法非立憲だ」と、警察の選挙妨害を非難した。更に投票日二日後に迫った同紙二月一八日付は「一七日早暁からは反政府党側の各候補者選挙事務所や反対党選挙事務所の入口には数名宛の私服巡査を張番せしめて出入りの者を片っぱしから誰何し一々その用件を訊問すると云う有様で、兎も角その物々しいことは恰も戒厳令下の如き状態を呈してゐる」と日ごとに高まる官憲の圧迫を報道した。この状況を黙視することはできないとして、香坂昌康は県庁の尾崎知事に面会を求めたが、知事は忌避した。
 政友会は政府与党の立場で有利な選挙戦を展開、一〇月には同会顧問の勝田主計が帰松して、一一日夜松山市内朝日座での岩崎一高演説会の応援を最初に一九日まで二十数回にわたり県下各地で応援演説を行った。政友会と民政党候補の対決の中にあって、第二区から立候補した唯一の労農党候補小岩井浄は、官憲の厳しい警戒と圧迫を受けながら、各地で政見発表演説会を試みた。
 昭和三年二月二〇日第一六回衆議院議員選挙の投票日を迎えた。同日「愛媛新報」は、「悪逆暴戻の限りをつくす昭和の怪物、普選の賊政友会を葬れ!!憲政を紊し国民を売る不倶戴天の敵」「普選の貴い一票は普選人の面目にかけ良心の命ずるままに自由に公正に投ぜよ」の見出しを掲げ、民政党候補への投票を呼びかけたが、この二〇日付朝刊は政友会を誹謗した見出しが不穏当であるとして警察から発売禁止を命ぜられた。同紙二〇日付夕刊は、朝刊発売禁止の抗議記事を掲載するとともに、「初春日和うららかに″清き一票″が殺到する、いづれも緊張した顔」の見出しで、「昭和新政の第一歩をふみ出すべき普選第一次の総選挙、げにも国民の翹望した普選の今日初めて実現する歴史的意義深き記念の日」「朝の程はお役所通ひ銀行会社員等が九時出勤前の時間に投票するのが多く、其の間に交って自転車で駈くる厚衣姿の商家の得意廻りと云った連中からハッピ姿の労働者人力車挽が門前に車を置いて投票場に走り込む、普選の気分を濃厚に織り出して行く、」と、松山市の普選投票風景を報じた。
 開票は三市が二一日午前九時を期して開始された。つづいて二二日には郡部の開票が行われた。開票の結果、第一区は須之内品吉・高山長幸・岩崎一高の政友会勢が議席を独占、武知勇記・松田喜三郎の民政党候補者はそろって落選した。第二区は政友会の河上哲太と竹内鳳吉、民政党の小野寅吉、第三区は政友会の二神駿吉・佐々木長治と民政党の村松恒一郎が当選した。党派内訳は政友会七対民政党二で、党派別得票数は政友会一一万三、二六三に対し民政党六万一、九五〇であり、政友会の圧勝であった。この中にあって、官憲の監視と圧迫を受けながら遊説を続けた小岩井浄が八、四二九票を得て予想以上の票を集めた。現職知事のままで兵庫県から立候補した尾崎勇次郎は落選して本県知事に引きつづき在職した。

 第一七回衆議院議員選挙

 田中内閣の与党政友会は普選で民政党をわずか一名上回っただけで、安定多数を得られなかった。このため民政党に中立を加えた野党の鈴木内相弾劾決議案を阻止することができず、内相は辞任に追い込まれた。田中内閣も″満州某重大事件″で天皇から不信を示されて昭和四年(一九二九)七月総辞職、後継首班には浜口雄幸が推され、民政党内閣が誕生した。
 浜口内閣が成立すると、民政党愛媛支部はにわかに活気を呈し、各地に分会を設け演説会を開催するなど党勢の挽回に努めた。一〇月八日には支部大会を開いて支部長に武内作平を再選、幹事長に富田嘉吉、総務に村上紋四郎・西村兵太郎・松田喜三郎・武知勇記らを選んで、今後の発展を期した。野党となった政友会愛媛支部では、一一月一五日に中四国政友大会と愛媛支部大会を開催して国会・県会での多数党としての気勢をあげた。当日、本部から総裁犬養毅、前内相望月圭介、前文相勝田主計、前鉄相三土忠造らを迎えて、松山市大街道の新栄座を会場に午後一時から愛媛支部大会、二時から中四国大会を開いた。支部大会では、「一、国鉄南予線及予土横断線の速成を期す」などの決議文を可決、支部長高山長幸(再任)、幹事長大本貞太郎(再任)、顧問勝田主計・岩崎一高・河上哲太・佐々木長治・二神駿吉・竹内鳳吉・須之内品吉・山村豊次郎ら、総務越智茂登太・久松定夫・清家俊三・野本半三郎・清家吉次郎らの支部役員を選出した。続いて開かれた中四国大会では、高山支部長の歓迎の挨拶の後、浜口内閣の緊縮経済政策批判と政友会の政策を網羅した宣言・決議文が朗読されて満場一致でこれを可決、犬養総裁、望月前内相の演説があった。
 浜口内閣は、対外的には協調外交、国内政策では財政緊縮・合理化・金解禁を掲げ、国民の多くは前内閣の不人気の反動としてこの内閣に好意を寄せた。与党民政党は少数党であったので、選挙は必至であった。内相安達謙蔵は内閣成立早々の八月五日地方長官・警察幹部の大異動を行い、府県知事の依願免官一六名、休職一二名合わせて二八名を整理した。
 昭和五年(一九三〇)一月一一日金解禁が実施された。その前提として浜口内閣は非公債方針を貫いた緊縮予算を編成し、国民に信を問うとして一月二一日議会を解散した。政友会愛媛支部は一月二六日梅の家で幹部会を開催、各郡市代表幹事三五名が集会して、野党としての選挙戦の不利を予想して当選確実を期するため県下各区から二名ずつの候補者を擁立することにした。選挙長清家俊三を中心に選考の結果、第一区高山長幸・須之内品吉、第二区河上哲太・竹内鳳吉、第三区白城定一・清家吉次郎が立候補した。一方、民政党は相田梅太良が選挙長となって調整を図り、第一区武知勇記・松田喜三郎・西村兵太郎、第二区村上紋四郎・森達三、第三区村松恒一郎・本多眞喜雄を候補者に推薦決定し、二月三日本部から正式に公認通知を受けた。
 選挙演説は候補者が出揃った二月三日ごろから本格化し、文書合戦がこれに呼応した。中央からは民政党陣営で江木鉄相、俵商相、貴族院議員伊澤多喜男ら、政友会には前文相勝田主計らが応援のため来県、各地でそれぞれの候補者支持演説を行った。選挙運動は日を追って激しくなり、中傷・流言が飛び交い、買収・戸別訪問などの選挙違反が続出、同じ党派の地盤協定も崩れて大混乱と化した。前回の選挙とは攻守立場を変えて与党となった民政党には、木下知事はじめ県当局が支援したから有利に選挙戦を展開、政友会の機関紙「伊予新報」は「選挙に関する官権の濫用、選挙干渉」を連日のように掲載して選挙民に同情を求めた。
超党派の選挙報道に終始した「海南新聞」は投票日前日の一九日付社説「愈よ明日は投票日」で、「国を挙げて選挙運動の渦中に巻き込まれ、選挙関係者はいふまでもなく、選挙人さへも冷静を失ひつつあり、この分では選挙人大衆が果たして自覚ある投票を行ひ得るか否かを疑はざるを得ない、もう一度静かに立ち止まって選挙に対する正しい観念を呼び起こす必要があらう」として、「民政党の政策を取るべきか、政友会の政策を迎ふべきか」「政界の堕落を救済するには人物の優れたものを選ぶにある」の二点を冷静に考えて、「一点のやましさなく、票を入れよ」と有権者に訴えた。
 二月二〇日、投票日を迎えた。県下有権者二三万七、九八五人中投票者数は二〇万四、三一五人であり、投票率は八五・八五%の高率で、有権者の選挙への関心の高さを示した。開票の結果、第一区では武知勇記・松田喜三郎・高山長幸、第二区では村上紋四郎・森達三・河上哲太・第三区では本多眞喜雄・清家吉次郎・村松恒一郎が当選、予想通り民政党の候補者が強く、民政党六・政友会三の党派内訳で、得票数は民政党一二万四、六八〇、政友会七万六、七八五であった。当選者は二月二三日付「愛媛県報号外」で当選告示され、二五日付県報で当選証書付与が公告された。
 民政党は今回の選挙で一挙に一〇〇名以上増加して二七三名の絶対多数となった。しかし国民の浜口内閣にかけた経済建て直しの期待は裏切られた。世界大恐慌に巻き込まれた深刻な不況とロンドン軍縮条約調印に見られる軟弱外交の非難の中で、昭和五年一一月浜口首相は右翼のテロで重傷を負い、翌六年四月若槻礼次郎に内閣を引き継がねばならなかった。

 第二一回県会議員選挙

 県会では政友会が多数派であったが、民政党愛媛支部は昭和五年一二月七日に支部総会を開き、来年九月の県会定期改選に多数派奪還を目指して陣営を整えた。かねて辞意を申し出ていた県支部長武内作平(本部総務・大阪支部長兼任)に代わって村上紋四郎が後任支部長になり、幹事長には西村兵太郎が選ばれ、顧問に井上要・富田嘉吉・小野寅吉・武内作平・太宰孫九・八木春樹・安藤音三郎・阿部光之助・山本義晴・村松恒一郎・森達三、総務に本多眞喜雄・岡田源之助・松田喜三郎・武知勇記・相田梅太良・宇和川濱蔵がそれぞれ就任した。また、「一、広く土木事業をなし失業者の救済を期す、一、米繭価を調節し農漁山村の救済を期す、一、中小商工業者に対し低資融通の緩和を期す、一、四国循環鉄道の完成を期す、一、豫土横断自動車道路網の速成を期す、一、銅山川疎水事業の速成を期す、一、肱川・重信川の国庫負担による改修を期す、一、宇和島・三津ヶ浜港の修築の完成を期す、一、瀬戸内海を中心とする国立公園の設立を期す、」の政策スローガンを決定した。一方、政友会では西宇和郡選出の三県議和田清治・辻侃一・菊池儀蔵が先の衆院選挙で支部幹部が佐々木長治を冷遇したとして脱会するなど、支部長岩崎一高らの統制が意のごとくならず内部動揺のうちに県議選の時期が到来した。
 選挙告示は昭和六年九月一日であったが、民政・政友両党とも不況の影響で候補者難に陥り、一〇日正午時の立候補届出者はわずかに七人という有り様であった。民政党支部では一一日、政友会支部では一二日に候補予定者を一応内定したが、指名を受けた人々の辞退や郡市部会での調整の遅れなどで、新聞の紙面を賑わす候補予定者の顔ぶれは日々変わった。こうして候補者難に苦しみながらも、一八日午後一二時をもって締め切られた県会議員候補者の届出はようやく五二名に達した。政党別に見ると、民政党二七名、政友会二二名、民政党系無所属一名であった。なお喜多・宇摩・西宇和・東宇和の四郡と宇和島市は定員数の候補者しか立たず無投票区となった。この立候補者難に加えて不況による。戦費難で今回の県議選は従来になく盛り上がりを欠いた。
 九月二五日、雨の中県下二三七か市町村の投票区で一五万五、五五〇人の有権者により投票が行われ、投票率は七九・九%であった。開票の結果、表3―10の人々が当選、九月二七日付県報号外で当選告示、一〇月六日付県報で当選証書付与が公告された(資近代4一二~一四)。党派内訳は民政二四・政友一四で、民政党が長い少数派を脱して絶対多数を獲得した。当選者の職業は町村長などの公吏二六名が最も多く、議員中最年長者は森恒太郎六八歳、最年少者は桂作蔵の三〇歳であった。今回の選挙は候補者難を反映して五〇名の候補者中新顔が三〇名を占めており、前議員中再起者はわずかに一六名に過ぎなかった。そのうち再選されたのは一三名で、政友会支部幹事長大本貞太郎らが落選、県政界に大きな衝撃を与えた。

 第一八回衆議院議員選挙

 昭和六年(一九三一)一二月、若槻民政党内閣は満州事変をめぐる軍部との対立や閣内不統一を理由に総辞職した。後継首班には政友会総裁犬養毅が推された。犬養内閣は、成立早々金輸出再禁止を断行して経済政策を転換し、少数与党政友会の党勢挽回のため昭和七年一月二一日衆議院を解散、二月二〇日第一八回総選挙を実施することにした。
 衆議院が解散になると、政友・民政両党の愛媛支部では慌ただしく候補者の選考にとりかかった。政友会支部は二月一日梅の家で最高幹部会を開き、与党として九議席独占の期待をもって各区三人の擁立を予定した。候補者は第一区で須之内品吉・岩崎一高・大本貞太郎、第二区で河上哲太・森昇三郎・近藤敏夫、第三区で清家吉次郎・白城定一が六日までに立候補を届け出、三区の残り一人の候補者は当初高畠亀太郎が噂されたが、岩崎が山村豊次郎の決起を促し、山村は兄の村松恒一郎が民政党から出馬する関係で固辞したものの九日に至り立候補を決意した。民政党は、第一区が武知勇記と安藤音三郎、第二区が村上紋四郎と小野寅吉、第三区が村松恒一郎と本多眞喜雄を予定したが、小野が立たないため安藤を第二区に回し第一区は松田喜三郎を勧誘した。しかし松田は家業の事情が許さぬとして出馬を辞退、代わって支部長西村兵太郎を促したが西村も固辞して受けず、結局一区は武知のみとなった。更に三区で立候補の届出を済ませ選挙運動を開始していた村松が、遅れて出馬した山村と全国的にも珍しい兄弟決戦と注目されたが、終盤の二月一九日に至り立候補を取り消した。この結果、民政党の候補者数は二区二名のみで一、三区は各一名という野党の悲哀を味わうことになったが、政友会でも不景気のため選挙費に苦慮、運動の盛り上がりを欠いた。
 立候補供託届出は一三日をもって締め切られ、定員九名をめぐって政友九・民政五の対立となった。民政党は候補者を極力少数精鋭に絞って全員当選を期したものの各地で苦戦を強いられ、政友派は乱立気味であったが各区で有利な戦いを進めた。これには、いつもながらの政府与党有利・野党不利に働く官憲の干渉が作用していた。
 二月二〇日の投票日は午前六時ころから猛烈な吹雪となって天候は次第に悪化、八時過ぎに降雪はやんだが零下二度という寒気が投票者の出足を極度に鈍らせた。しかし農村は折からの旧正月一五日の休みを利用しまたサラリーマンは土曜日の半どんによって続々一票の行使を果たし、棄権は心配したほど多くなく、有権者二四万〇、三三三人中八二・一%の一九万七千余人が投票した。
 翌二一日市部、二二日郡部で開票が行われた。政友会は大本・須之内・森・河上・白城・清家・山村の七名が当選、民政は一区の武知、二区の村上が当選して三区の本多が落選した。当選者は二月二三日付「県報号外」で告示、三月一日付県報で当選証書付与が公告された(資近代4一六)。全国では、政友会二九八、民政党一四六で政友会が絶対多数を確保した。しかし五月一五日犬養首相は青年将校に暗殺され、海軍大将の斎藤實が次期首相に推された。ここに「憲政の常道」といわれた政党内閣は崩壊し、太平洋戦争の終了まで復活しなかった。なお、任期七年の貴族院議員中多額納税議員の互選会が昭和七年九月一〇日実施され、本県では松山市の金融界の重鎮仲田傳之□(長に公)が無競争で当選した。

表3-9 第20回県会議員選挙当選者

表3-9 第20回県会議員選挙当選者


表3-10 第21回県会議員選挙当選者

表3-10 第21回県会議員選挙当選者