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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

一 護憲・普選運動と県政界

 第一次護憲運動

 明治四五年(一九一二)七月三〇日明治天皇が崩御され、皇太子殿下が即位して大正と改元された。その三か月余り後の一二月第二次西園寺公望内閣が陸軍二個師団増設問題で総辞職した。後任に桂太郎が指名され第三次桂内閣が成立すると、その経緯から軍部及び桂太郎に対する批判の声が高まった。交詢社の提唱で憲政擁護会が組織され、犬養毅・尾崎行雄らが先頭に立った。″閥族打破・憲政擁護″をスローガンとする護憲運動は、新聞を通じて全国に広がった。大正二年(一九一三)一月、愛媛記者倶楽部は閥族打破・憲政確立を期するため内閣弾劾上奏案の議会提出を県選出代議士に働きかけた(「愛媛新報」大正二・一・一八付)。
 当時、愛媛県政界を二分する政友会愛媛支部と国民党系の愛媛進歩党は、県会の議席相半ばしていたが、大正元年一二月通常県会の予算案審議で同一歩調をとるなど提携を深めていた。この両派提携を背景に、大正二年一月二二日喜多郡の有友正親(進歩党)と亀岡哲夫・高橋三保(政友会)らは大洲由井楼で憲政擁護大会を開き、「一本会は閥族を倒し憲政擁護の目的を以て議会が適当の手段を採らん事を要望す、一 本会は現内閣が解散の暴挙に出づる場合は本会の主旨に則り行動せる代議士の再選を期し進んで其の応援をなすべし」の決議を行った(「海南新聞」大正二・一・二六付)。翌二三日、政友会愛媛支部は幹事会を開いて今後の政情によっては民党の大会・大演説会を開催することを申し合わせた。同日、愛媛進歩党も幹事会で政況を分析した。
 中央政界では、桂首相が護憲運動に対抗して議会を停会し、新党結成を画策した。かねてから総理犬養毅の護憲運動まい進に反発していた国民党幹部の大石正巳・河野広中・島田三郎らは同党を脱党してこれに同調、外相加藤高明・内相大浦兼武・逓相後藤新平らと新党結成に動き、本県選出の国民党所属代議士清水隆徳も新党参加を明らかにした。愛媛県政界に対する新党勧誘は、池内信嘉によって進められた。当時、池内は東京で能楽の振興に尽くしていたが、知己の桂の内意を受けて帰郷、親友の高須峰造ら愛媛進歩党幹部に働きかける一方、政友会派の岩田鷹太郎・黒田此太郎・伴政孝・辻進・野間恒太・紀伊安太郎・井上久吉らとも会合して新党参加の同意を得た。一月三一日、池内・岩田・伴らは市内実業家に呼びかけて清東館に四〇余名を集め、愛媛県政同志倶楽部の仮発会式をあげた。高須峰造らは上京して池内の仲介で桂と会談、新党結成に協力することを約した。
 こうした桂新党結成の動きは、中央政界での政友会切り崩しが功を奏さなかったこともあって、予期した成果を得られなかった。桂自身は、二月五日停会明けの衆議院で有名な尾崎行雄の演説による内閣弾劾決議案を突き付けられ、その後の再三の議会停会が世論に攻撃されて、二月一一日内閣を投げ出した。
 愛媛県では、倒閣後の二月一六日、山村豊次郎・赤松泰苞・太宰孫九・清家俊三(以上政友会派)、久松操・小笠原長道・佐々木高義(以上進歩派)らを発起人とする南予各郡憲政擁護大会が宇和島で開催された。大会には、一五〇余名が出席、久松・赤松・清家吉次郎・堀部彦次郎らの演説の後、「憲政を蹂躙し国論を無視し袞龍の袖に隠れて非違を逞しくせんとしたる桂内閣は正義輿論の声に圧せられて崩壊するの已むを得ざるに至れり、然れども彼等は名を憲政に藉り形を政党に托して同志相倚り国民を欺瞞せんとす。吾人同志は彼等閥族を根絶し偽党を絶滅し、以て先帝陛下の欽定し給へる憲政を擁護して責任内閣の樹立を期し、各自の責任を明にし以て憲政の基礎を確立せんことを期す」といった宣言書を決議して、桂新党に同調する愛媛進歩党の主流と政友会の一部の動きを牽制した(「海南新聞」大正二・二・一八付)。
 四月下旬、尾崎行雄と犬養毅の護憲領袖が中四国地方を遊説した。県内二大紙「海南新聞」「愛媛新報」は、尾崎・犬養の四国遊説を報道しなかった。政友会愛媛支部は本部の指令で護憲運動に関与せず、高須峰造ら愛媛進歩党首脳が桂新党に同調していた状況下にあって、両派の機関紙である両新聞は護憲遊説を完全に無視した。このため、尾崎・犬養の来県は「県政界ニ何等ノ感興モ与ヘズ、恰モ風ノ吹キ去リタルガ如キ」(「愛媛県政党沿革概要」)感触を残したに過ぎず、遊説日程など不明の部分が多い。五月一九日には、尾崎らと共に政友会を脱会して政友倶楽部を結成した竹越與三郎・福澤桃介が来松、新栄座で憲政擁護大演説会を開催しているが、これも「愛媛新報」のみが演説会広告を掲げ、松山市には護憲派に組する一人の同志者もなく開会の辞を述べる者もいなかったと、演説会の模様を半ば嘲笑して報道した(「愛媛新報」大正二・五・二一付)。

 立憲同志会愛媛支部の結成

 桂太郎は首相辞任直後発病し一〇月死去したが、桂が願望した新党は、一二月加藤高明を総裁に立憲同志会として発足した。翌三年三月山本内閣がシーメンス事件で倒れ、四月第二次大隈内閣が成立、立憲同志会はその与党となって党勢拡張の好機をつかんだ。
 ここに至り、高須峰造、御手洗忠孝ら愛媛進歩党幹部は立憲同志会加入に踏み切り、大正四年一月二日愛媛新報社内に事務所を設け、九月一七日新栄座で立憲同志会愛媛支部の発会式をあげた。本部からは総理加藤高明・総務片岡直温、政務調査委員長浜口雄幸、幹事長武内作平らが来賓として出席した。支部長高須峰造は、政界の過去を顧みれば、政友会が多数をたのみ藩閥と結託して横暴を極め、その打破を期していた際大正二年の春に至り立憲同志会が発足したので、我らは多数党打破の目的を貫徹するのはこの時にありとしてこれに参加したのである、大隈伯が内閣を組織できたのも、内閣を解散して多数党政友会の横暴を打破していわゆる二大政党の樹立を実現させたのも実に同志会の功績である、今後とも理想の政党づくりのため諸君の奮闘を頼むと、開会の挨拶を行った。次いで清水隆徳が座長となって議事を進行し、宣言と「一 吾人は現内閣を援助し我党の主義政策を実行せしめるに努力すべし」などの決議文を付議可決した。その後、加藤総理らの演説があった。村上紋四郎の発声で天皇陛下・立憲同志会・加藤総理の万歳を三唱して散会した(「愛媛新報」大正四・九・一八付)。
 こうして結成された立憲同志会愛媛支部は、支部長高須峰造、幹事伴政孝・村上紋四郎・徳本良一・富田嘉吉・宇和川濱蔵・野間恒太・仙波良太郎・御手洗忠孝らが幹部に選ばれた。代議士武内作平・清水隆徳・今西林三郎らが顧問となり、実業家田内栄三郎・山本義晴や松山市長長井政光らと政治的気脈を通じ、旧愛媛進歩党員を構成員とした政治勢力を形成することになった。

 国民党愛媛支部の結成

 立憲同志会愛媛支部の結成の動きに対抗して、国民党に残留した代議士村松恒一郎と大関信一郎・天野義一郎・久松操らは国民党愛媛支部の結成準備を進めた。大正四年(一九一五)七月一四日その結成式が県公会堂で行われた。集会者一三〇名、中央本部から総務犬養毅と渡部勝太郎・砂田重政が出席した。大会では、「官僚閥族を根本的に掃蕩し以て政党政治の完成を期す」「選挙権の拡張、教育の改善、営業の発展は亦吾党多年唱導せる所なり、今後倍々進んで其目的を貫徹せんことを期す」などの決議を可決、幹事に大関信一郎・大西良實・天野義一郎・麓次郎・長坂啓次郎を選んだ。(「愛媛新報」大正四・七・一六付)。
 立憲同志会と国民党の愛媛支部が結成された大正四年の三月には第一二回衆議院議員選挙、九月には第一七回県会議員選挙が実施された。政友会を加えた三党愛媛支部は、国会と県会の議席獲得を目指して激しい選挙戦を展開した。

 第一二回衆議院議員選挙

 大隈内閣は、海軍拡張と陸軍二個師団の増設案を野党の政友会に否決されたことから衆議院を解散、大正四年(一九一五)三月総選挙を行うことにした。
 愛媛県政界では、選挙に備えて各政党が候補者を選定した。立憲同志会は、清水隆徳・武内作平・才賀藤吉の代議士と阪神電鉄などの重役で大阪商業会議所副会頭の今西林三郎を郡候補者にして、才賀―喜多・上浮穴・伊予郡、清水―温泉郡、武内―越智・周桑郡、今西―宇和四郡と地盤割りをした。また松山市部は尾崎行雄らの中正会に属する代議士高野金重を非政友候補として推薦することにした。政友会は、現職の渡邊修の外に故伊藤博文の秘書であった古谷久綱、シャム政府の法律顧問として活躍した政尾藤吉を公認し、更に前回の選挙当選後失格した成田栄信を追加推薦した。同党候補者の地盤割り当ては、渡邊―南北宇和・越智郡、古谷―東西宇和・周桑・宇摩郡、政尾―喜多・上浮穴・伊予郡、成田―温泉・新居郡であった。同党所属の代議士であった武市庫太は、先の国会で二個師団増師案に賛成したため公認をはずされたが、温泉・伊予・上浮穴郡地方を支持基盤として無所属で立ち、政友会の地盤を乱した。松山市では高野金重の独走を許す状況にあったので、政友会は伊予日々新聞社長で俳人として著名な柳原正之を懸命に口説き、柳原は中立を条件に立候補を承諾した。国民党は、唯一の所属代議士村松恒一郎の再選のみを期し、北宇和・西宇和郡を中心に県内各地での同党支持者に応援を求めた。
 内務大臣大浦兼武は、政友会系知事の大更迭を断行して政友会打倒を目指し、選挙運動期間中にも官憲に指示して極端な選挙干渉を行った。本県では、三月二一日から投票日前日の二四日にかけて古谷・渡邊・政尾・成田の政友派候補幹部運動員を酒食饗応などの容疑で一斉に逮捕し、選挙事務所を捜索した。
 大正四年三月二五日投票が行われた。有権者二万五、七六四人(県内人口中二・三三%)中二万四、一三八人が票を投じた。開票の結果、郡部では武内・今西・才賀・清水の同志会四名と古谷・渡邊・政尾の政友会三名、市部では高野が当選した。このうち、伊予水力電気社長の渡邊修は明治三五年以来六回目の連続当選を果たし、古谷・政尾・今西は初当選であった。党派別には、立憲同志会四・政友会三・中正会一であったが、この年八月才賀藤吉が死去して次点の成田栄信が繰り上げ当選したので、政友会と非政友派の議席は同数になった。
 全国的には与党の立憲同志会が大勝、野党の政友会が半数近く減るという大敗を喫した。選挙後の臨時国会では二個師団増設案が多数で可決されたが、やがて大浦内相の引責辞任問題で大隈首相と加藤外相らが対立した。

 政友会中四国大会

 党勢挽回の機会をうかがっていた政友会愛媛支部は、大隈内閣の不人気に乗じて大正四年九月六日政友会中四国大会を開催した。中四国各県選出代議士をはじめとする一、五〇〇余名が松山市の新栄座に集まり、本部からは総裁原敬・総務床次竹二郎らが来松した。大会では、大隅内閣打倒の大会宣言を可決、次いで原敬らが演説を行った。午後は新栄座で床次や三土忠造・望月圭介らを弁士とした政友会大演説会が開かれ、更に県公会堂で政友会総裁原敬歓迎会が催されて、県知事・松山市長らも出席した。原は、「西園寺内閣に内相として在職中幾度か当地に於ける交通機関の発達に付き計画する所ありしも、不幸にして未だ実現されざるを遺憾とす、而も交通不便なるに拘らず都市並に地方の発達は隆々として見るべきものあれば今後も奮励ありたし」といった挨拶を述べ、酒宴に移った。原はその日に高浜から広島に向かったが、床次竹二郎は政尾・古谷・渡邊・成田の各代議士らと共に今治・西条・大洲などで遊説を続けた(「海南新聞」大正七・九・七~八付)。

 憲政会愛媛支部の結成

 加藤高明らか閣外に去った後の大隈内閣は、立憲同志会との関係が次第に悪化した。大隈首相は、大正五年(一九一六)一○月加藤を後継首班に推して辞表を提出した。元老山県有朋は加藤を嫌い、長州閥の陸軍元帥寺内正毅を推挙したので、一〇月官僚中心の寺内内閣が成立した。大蔵大臣には本県出身の勝田主計が就任した。勝田は、松山に生まれ、松山中学・帝国大学を卒業後大蔵省に入り、大正元年大蔵次官に昇った。退官後の同三年貴族院議員に勅選されていたが、今回本県人で最初の国務大臣に就任したのであった。
 政権工作に失敗した立憲同志会は、中正会及び公友倶楽部(大隈伯後援会)を併合して一〇月一〇日憲政会を組織した。同会は衆議院で過半数を制し、野党の立場をとった。これに対し政友会は寺内内閣に対し当初是々非々主義を採っていたが、次第に与党化していった。
 立憲同志会愛媛支部は、一二月七日に幹事会を開き、同会を解散して憲政会愛媛支部を結成することを申し合わせ、県に届け出た。支部長高須峰造以下幹事には富田嘉吉・御手洗忠孝ら同志会時代の幹部が留任した。同日、国民党愛媛支部も総会を開き、村松恒一郎が中央政況を報告し、大関信一郎・天野義一郎らを幹事に再選した。政友会愛媛支部はこれより先の一二月三日に総会を開き、岩崎一高・夏井保四郎・野本半三郎・大政章津・清家俊三・渡部綱興・久松定夫らを幹事に選任した。

 第一三回衆議院議員選挙

 寺内内閣の成立直後の大正六年一月国会で、国民党の提案に憲政会が同調して内閣不信任案が可決された。政府は、議会操縦のため憲政会の多数を粉砕する好機として衆議院を解散した。
 憲政会・政友会・国民党の各愛媛支部は選挙準備にとりかかった。三月一六日には大蔵大臣勝田主計が一三年振りに帰郷した。大阪商船第六相生丸で午後七時高浜に着いた勝田蔵相は本県初の大臣のお国入りにふさわしく、若林知事ら一〇〇人以上の出迎えを受け、伊予鉄電特別仕立ての貴賓車で道後に入った。翌一七日午後四時より四五〇名が参加して官民合同歓迎会が県公会堂で開催された。勝田は若林知事の歓迎の辞に応えて、「今日自分が幾分か社会に認めらるるに至れるは敢て政党又は所謂藩閥の後援によるものに非ずして自己の実力によりて是を得たるものにして、財政及経済に終始一貫せるは誰人の前にも広言するを得る所なり、今後微力ながら諸君に助勢し得る事を信ずると共に諸君の御同情御後援を望むものなり」と挨拶した。その後、勝田は墓参や伊予銀行同盟会・北予中学校での講話・地方財界の歓迎会に臨むなどして、二〇日今治港から大阪に向かった。この間、与党政友会のてこ入れのために、「鮒屋旅館に陣取って政友会幹部、知事及警察部長などと共に憲政会を如何にして圧倒せんかの作戦に余念がなかった」(『高須峰造先生』)という。
 勝田の支援を受けた政友会愛媛支部は、古谷久綱・政尾藤吉・成田栄信の現職に加えて、勝田の推挙による国民新聞記者の河上哲太と大阪堂島米穀取引所理事の藤野正年を郡部公認候補者とした。市部では松山市出身で中国銀行取締役の尾崎敬義を推薦した。
 憲政会愛媛支部は、勝田の帰郷に対抗して憲政会総務尾崎行雄の遊説を実施、市部で高野金重、郡部で清水隆徳・今西林三郎・押川方義を候補者に決定した。この中で注目すべき人物は押川方義であった。押川は、松山藩士族の家に生まれ、藩の貢進生として上京、開成学校に学び、横浜に移って英学修業中キリスト教に入信受洗した。宣教師として東北伝道を続け、仙台教会・東北学院を設立、明治キリスト教界を代表する重要な人物の一人となった。日清戦争時大日本海外教育会を結成して海外伝道活動を展開するが、その思想は次第に大アジア主義の政治的色彩を帯びてきて、押川自身も伊藤博文・大隈重信らと気脈を通じた事業家として活躍するようになった。衆議院議員選挙には、大正四年三月の選挙に大隈のすすめで福島県から立候補して落選していた。今回は故郷に帰っての選挙戦であった。井上要は、「愛媛新報」四月五日付に「巨人押川方義先生」を投稿して中央での押川の活動と評価を紹介、「今回の総選挙に当たり憲政会の諸君が候補として押川方義先生を推し其奮起を促して幸に承諾を得たる一事は誠に此局面に名手を下したるもので敬服に堪へぬ、世間の滔々たる群小候補中本県に於て先生の如き天下の俊豪一世の巨人を見ることを得るは大に誇るべきことである」と推薦の弁を述べた。松山市の五百木良三(瓢亭)はじめ三宅雪嶺・内田良平・頭山満ら著名な思想家も推薦文を寄せ、「愛媛新報」がこれらを掲載喧伝した。国民党は前回の選挙で落選した村松恒一郎を立て雪辱を期した。
 選挙戦中、官憲の圧迫・干渉を受けて不利と予想された憲政会愛媛支部は、四月一七、一八日同会総務若槻礼次郎を招いて懸命の防戦に努めた。そして投票日の四月二〇日付「愛媛新報」に「今回の選挙は意義極めて簡単明白、帰する処は国民が官僚政治を可とするか、政党政治を可とするか、何れか其の一を撰んで国民的答案を与ふるのみ、是れ今回の総選挙の総ての意義なり、」「何となれば今回の選挙は政党と政党との政策主張の相異より起れる争ひにあらずして、官僚と国民との政治思想上の争ひなればなり、問題は簡単明白なり、然れども最も重大なり、而して有権者の一票は比の重且つ大なる問題の総てを決す、請ふ諸君の政治的良心に問へ、国民勝つか、官僚勝つか、挙げて有権者の掌中にあり、」といった「憲政の興廃此の一戦」の宣伝広告を掲げて選挙民に訴えた。
 大正六年四月二〇日投票が行われた。開票の結果、市部で尾崎敬義(中立・準政友)が当選、郡部では村松恒一郎(国民)が各郡で同情を集めて最高点で当選、次いで河上哲太・成田栄信・古谷久綱・政尾藤吉・藤野正年の政友会勢が全員当選を果たし、憲政会は押川方義が当選したのみの惨敗であった。憲政会の痛手は大きく、特に本部幹部の武内作平が落選したことは予想外であった。地盤を同じくする河上哲太は、「武内君の高点当選は当然の事と信じられて居た。然るに開票の結果は、意外も意外、弱者の私が第二位で当選して、武内君は落選したのである。武内君は将に党の最高幹部に列せんとする大事な時であった。其の大事な時に落されたのである。然も郷里で青二才と争うて落されたのである」(『武内作平君伝』)と、この時の選挙を述懐している。また憲政会支部長高須峰造は、官憲の干渉は想像以上であったとして、「時の知事は若林賚蔵であったが、旧式な封建思想の持主で、政府の味方の議員を一人でも多く当選せしむることが国家に対する忠義であると思って居たらしかった。彼としては夫れが官吏としての奉公の道であると信じて居たらしい。かやうな考で知事が総選挙には総指揮官として乗り出して、政府反対党の当選妨害をやったので、憲政会は手も足も出ぬ有様となった」(『高須峰造先生』)と語っている。
 大正七年(一九一八)六月一〇日には、七年任期の貴族院多額納税議員互選会が実施された。互選人員は県内多額納税者一五名(新居郡八、温泉・越智・北宇和郡各二、宇摩郡一)で、平均納税額は四、八五一円であった。互選会での開票の結果、西条銀行頭取の岡本栄吉が他郡に比べて圧倒的に多い新居郡選挙人の支持で当選した。

 原敬内閣の成立と衆議院議員補欠選挙

 大正七年九月、米騒動で倒れた寺内内閣の後、原敬を首班とする最初の本格的な政友会内閣が成立した。勢いづいた政友会愛媛支部は、組織を強化するために大正七年一一月二〇日に幹事会を開いて藤野政高の政界隠退以来久しく欠員中であった支部長に岩崎一高を推挙した。岩崎は一二月一一日の支部総会で正式に選任された。幹事には、夏井保四郎・久松定夫・野本半三郎・清家俊三・門田晋らが選ばれた。一方、憲政会は、先の第一三回衆議院議員選挙の惨敗から立ち直れず、高須峰造の支部長辞任を求める動きなどがあって支部総会が混乱した。
 こうしたとき、政友会所属代議士古谷久綱が死去したので、その補欠選挙が大正八年三月四日に施行されることになった。政友会愛媛支部は前蔵相勝田主計を最適の候補者としたが、本部の難色や勝田自身の固辞で、支部長の岩崎一高を立てた。憲政会は難航のすえ御手洗忠孝を立候補させた。両政党とも候補者推挙に手間どったため、候補者の挨拶状や推薦状が県内各郡に届きかねる状況であった。両派は言論を戦わす暇もなく、専ら地盤固めに終始した。
 選挙情勢は政友会が圧倒的に有利であった。愛媛支部は機関紙「海南新聞」で、原内閣が平民内閣であり民意を代弁する内閣であることを連日宣伝した。選挙の結果は一万一、四五六票対四、五九〇票で岩崎一高が圧勝した。御手洗候補自らが、「幸に小生の犠牲により仮令ひ党勢を挽回し得ずとも現状を維持するだけの効果あらば邦家の為め我党の為め御同慶の至り云々」と支持者に挨拶状を送っているほどであったから、憲政会には最初から勝算はなかった。高須支部長はこの惨敗の責任をとって辞任の意思を明らかにした。
 高須の辞任は五月五日の支部臨時総会で承認された。支部長の席は当分欠員のままで置かれ、御手洗幹事長がこの責務を代行することになった。幹事には、御手洗のほか宇和川濱蔵・仙波良太郎・武知勇記ら一五名が選ばれた。七月五日、同会支部大会並びに松山市・温泉郡部会創立発会式を寿座で催した。出席者六五〇名、本部から若槻礼次郎と森田勇次郎が来賓として出席、宣言・決議文を付議決定して、近くに迫った県会議員選挙に備えての党勢回復を申し合わせた。若槻らは数日県内にとどまり、八幡浜・今治などで憲政会演説会を開いた。

 選挙法の改正と愛媛県普通選挙期成同盟会の結成

 大正八年五月、原首相は衆議院議員選挙法を改正して有権者納税資格を一〇円以上から三円以上に引き下げた。選挙法改正で有権者資格の納税額を引き下げたのは米騒動以後拡大しはじめた普選運動に対する譲歩であったが、新しく有権者となるのは農村の小地主・自作農が大部分であった。この階層は一般的に政友会の地盤であったから、原敬は与党に有利な小選挙区制の実施とあいまって巧妙に政友会の地盤拡張を図ったのであった。これにより、愛媛県の選挙区は従来の市部・郡部の大選挙区制から七区の小選挙区制に改められ、議員定数は二区と三区が各二名、他が各一名であった。
 普選運動は、原内閣に失望して一層の高まりを見せるようになり、知識人・言論界だけでなく、一般市民・学生・青年・労働者も加わって各地で全県的な組織が生まれた。愛媛県では、大正八年秋に高須峰造・森肇・近藤鑑・大関信一郎・夏井保四郎・岩泉泰・三並良らが発起人となって愛媛県普通選挙期成同盟会を結成した。
 同会の発会式は、松山の交友会(印刷工組合)会長森田団三郎や屋外労働者団(筋肉労働者団体)代表黒川静夫ら労働団体の指導者を加えて、大正九年一月一一日松山市三番町の寿座で開催され、同時に普通選挙促進演説会も開かれた。演説会には、周桑郡小松町出身で松山中学校を卒業した大阪選出の無所属普選派代議士今井嘉幸が出席した。今井の来松に当たり、松山活版職工組合・松山筋肉労働団・松山青年団・朝日新聞購読者団らの関係者数十名が「迎 普選の神今井博士」の白旗を押し立てて高浜港に出迎えた。演説会は、会場一杯の聴衆を集めて午後六時から開かれた。近藤鑑の開会の辞、山本富次郎・西田正義・大関信一郎・森肇の前座演説があった後、主催者一同舞台に登壇、夏井保四郎の代表挨拶に続いて高須峰造が座長となり、次の宣言・決議を付議、満場拍手喝采裡にこれを可決した。終わって再び演説に入り、夏井・高須・今井嘉幸・武知勇記・東京帝大学生門田武雄・法政大学生坂本利蔵・黒川静夫が普選を論じ、午後一〇時ごろ閉会した(「愛媛新報」大正九・一・一三付)。

   宣 言
  駸々として止むなき世界思潮の進転は今や吾人を圍繞して有ゆる方面の改造、旧弊打破を叫びつつあり、古き時代精神の基調たる平等を得んとする運動は政治的改造に於て最も緊要なりと言ふべく、憲政布かれて三十有二年特権階級のみに独占されたる選挙権の如き国民平等の理想の上より速かに是れを打破し去るべきものたるを信ず、吾人は従来政治上一部権力者のために麴を求めて幾度か石を与へられたり、明らかに時代精神に反する特権階級選挙制度を撤廃するは時勢の要求にして既に大勢抗すべからざるなり、而かも尚ほ一部に是れを阻まんとするものあるが如き却って建国の大本を忘れ禍乱を醸さんとする素因を作るものと謂はざるべからず、宜しく此際速かに民衆運動の安全なる向上を図るべく、断乎として先づ普通選挙を実施し、国民をして平等に政府に参与せしむべきなり、

  決 議
 一 第四十二議会に於いて普通選挙法案の通過を期す、
 一 前項の目的を達する為上京委員若干名を選挙す、
 一 国県郡市町村会議員選挙に関する納税資格の撤廃を期す、
 一 吾人は此の運動の達成を期する為同志を以て普通選挙期成同盟会を組織す、

 なお、吉野作造・尾崎行雄らと共に普選運動の先頭に立ち、「普選博士」と称せられた今井嘉幸は、「普選運動も愈々白熱化して来た。今度は労働者を始め多数民衆の真の要求があるから普通選挙運動の大なる強味である。普選がモノになるか何うかと云ふのは前の憲政運動の際の如く民衆の気勢が挙るか何うかと云ふ点にある。恃むべきは民衆運動より外にない」と大衆の盛り上がりを期待した。
 普選運動の高まりの中で、大正九年一月三一日に労働・思想団体など四三団体が全国普選連合会を結成、次いで二月五日に友愛会などを中心に関東関西普選期成労働大連盟が組織された。二月一一日には東京で一一一の労働・思想団体の代表数万人が参加して上野・芝公園から日比谷公園への普選大示威行進が実行され、日比谷で警官と衝突した。首都での普選運動の高揚を背景に、憲政会・国民党・無所属の普選実行会は、開会中の国会に別個の普通選挙法案を提出したが、やがて三派は歩み寄り憲政会案を修正してこれを支持することにした。原首相と与党の政友会は、普選運動に屈服することの危機感からこの普選法案に反対した。
 普選法案が国会に上程されると、愛媛県普通選挙期成同盟会は森肇・近藤鑑を政情視察のため上京させ、二月二一日には交友会・屋外労働者団と共催で普通選挙促進同志大会を県公会堂で挙行した。当日の参加者五〇〇余名、高須峰造が座長となって議事を進め、「普通選挙の実行は今や挙国一致の要求にして国運民命の繫がる所極めて重大なれば速に法案通過に御尽力あらんことを切望す」の決議文を可決して、これを総理大臣・貴衆両院議長・本県選出代議士に打電した。次いで演説に移り、井上要・岩泉泰・大西良實・黒川静夫・森田団三郎らが登壇し、午後五時散会した。同夜、普選大会参加者一〇〇余名が「普通選挙促進」「デモクラシー」の大提灯を先頭に気勢をあげた。一行は、県公会堂を起点に大街道・湊町を練り歩き、愛媛新報社・伊予日々新聞社を訪ね、海南新聞社前で散会した(「愛媛新報」大正九・二・二四付)。
 こうした普選運動の盛り上がりに対し、県内の政党支部はおおむね冷淡であった。高須峰造の回顧談によると、普選期成同盟会の発企人の一人であった政友会支部幹事の夏井保四郎は周囲の圧力で大正九年には普選運動から離脱、政友会支部長の岩崎一高は運動に耳をかさなかった。高須がかつて支部長を務めていた憲政会も、支部長御手洗忠孝が大関信一郎の勧誘を拒否した。高須は、「憲政会の普選論は、政権を掌握していた政友会に対して唯一の在野党たりし憲政会が、政友会に反対せんがための党略にこれを利用したのであって、真剣を以て普選を高唱したのではなく、党利党略にこれを利用したに過ぎなかった」と論評している。要するに、「当時普選同盟会は本県政党員の侮辱嘲笑を受けて、普選同盟会を目して″普選組″と綽名し、組という字に一種の蔑みと嘲りを含んで」遇され、「口を開けば、普選組が何事をしようぞと嘲笑された」と高須は述懐している(『高須峰造先生』)。

 第一四回衆議院議員選挙

 大正九年(一九二〇)二月二六日、原首相は普選法案審議中に衆議院を解散した。原が野党の普選案をとらえて解散を断行したのは、政友会の絶対多数確保と普選運動を鎮静させることにあった。
 各政党の愛媛県支部は、五月一〇日の投票日を期して選挙準備にとりかかった。各派は、選挙制度が大選挙区から小選挙区に変わったので、候補者の選考調整に苦慮し混乱した。
 政友会愛媛支部は、支部長岩崎一高を中心に候補者を選考した。その結果、第一区(松山市)は無所属現職の尾崎敬義を推薦、第二区(温泉郡・伊予郡、定員二名)は現職代議士の成田栄信と藤野正年、第三区(越智郡・周桑郡・今治市、定員二名)は県会議員深見寅之助と現職の河上哲太、第四区(宇摩郡・新居郡)は現職で支部長の岩崎一高、第七区(北宇和郡・南宇和郡)は明治三五年以来連続当選を果たしながら前回出馬しなかった渡邊修をそれぞれ内定した。しかし第五区(上浮穴郡・喜多郡)と第六区(西宇和郡・東宇和郡)は意見続出してまとまらず、幹部が改めて地元と調整することになった。支部幹部は、第五区で現代議士政尾藤吉を、第六区で八幡浜出身の大阪府会議員矢野丑乙を予定したが、第五区で地元有力者の組織である喜多倶楽部が大洲銀行頭取檜田一を強く推し政尾を疎外した。このため、急遽元代議士高山長幸に交渉して本人と地元の了解をとりつけ、政尾を第六区に回そうとしたが、地元出身の矢野の方が有利に戦えるとする第六区関係者の反対で、政尾は出馬を辞退した。既に岩崎に内定していた第四区では、岩崎が松山からの「輸入候補」であるとして地元政友派の一部が高橋鐵太郎を擁立し、当の岩崎をはじめ支部幹部に衝撃を与えた。選挙戦中には第二区の候補者藤野正年が実業多忙を理由に辞退したので、急ぎ夏井保四郎を代理候補に立てねばならなかった。政友派は、第一区以外の各区で定員一杯の候補者を立て議席の独占を狙ったが、内部は支部幹部と地元との軋轢があり、各地区で苦戦を強いられた。
 前回の選挙では押川方義を当選させたのみで惨敗を喫した憲政会は、新人候補の発掘に努めた。第二区では伊予郡郡中町出身で日本綿花重役の門屋尚志、第三区では当初今治市の実業家で県会議員の八木春樹を予定したが、本人が辞退したので県会議員の村上紋四郎を立てた。第四区では新居郡氷見村の資産家に生まれ東京で弁護士を営む森達三、第六区は地元の銀行家本多眞喜雄を候補者とした。第一区は尾崎敬義を推薦し、第七区は普選問題で国民党を離れた現職の代議士村松恒一郎を中立を条件に推挙することにした。第五区は候補者を立てなかったが、地元の憲政派は喜多郡出身の在京実業家池田龍一を本人の承諾を得ないままに擁立した。
 これらの候補者は、支部の選考会で内定した後、各選挙区で予選会と称する集会が催されて、後援者の推薦、本人の受諾演説、支部幹部の激励演説を経て本格的な選挙運動に入った。
 政友会・憲政会両支部から嘲笑されていた普選派は、今回の選挙に当たり尾崎敬義を擁立しようとした。尾崎は、前回の選挙で当選以来無所属中立を堅持するとともに普選実行会に属して普選法案に賛成、愛媛県普選期成同盟会とも接触していた。ところが、選挙運動開始早々に政友派及び政友会系実業団体の後援を受けることが明らかになり、次いで憲政会からも推薦されることになったので、普選派は尾崎と絶縁した。これに対抗できる候補者として、普選派は、前回の選挙当選後憲政会を離れて中立となり普選実行会にも関係していた押川方義に交渉し内諾を得た。四月一六日、寿座での普選演説会に招かれた押川は、高須峰造・森肇の演説に続いて「時局に対する予の感想」と題する演説を行った。二三日には、松山市普選有権者大会が県公会堂で開かれた。大会には一二〇名が出席、普選派候補者として押川方義を正式に推薦決定した。押川は、二八日寿座での普選市民大会で受諾演説を行った。
 選挙の争点は普通選挙実施の可否にあったが、実態は対立候補の攻撃誹謗に終始した。選挙運動には相変わらず買収供応が横行した。予想では、官憲の庇護を受けた政友派が有利であったが、前回の雪辱を期す憲政派の対抗もすさまじく、予想を許さない状況にあった。
 五月一〇日投票日を迎えた。有権者は前回の二万三、〇七二人(県内人口の二・〇五%)に対し五万六、四三三人(県内人口の四・九五%)と二倍半近くに増え、このうち五万〇、二五五人が投票した。開票の結果、第一区押川方義、第二区門屋尚志と成田栄信、第三区河上哲太と深見寅之助、第四区森達三、第五区高山長幸、第六区矢野丑乙、第七区渡邊修がそれぞれ当選した。党派別の内訳は政友六・憲政二・普選派一であった。
 各区の独占をねらった政友派にとって、第四区の岩崎一高、第二区の夏井保四郎の落選は目算違いであった。岩崎の場合は地元有志に擁立された高橋鐵太郎に政友票を分断されたこと、夏井は藤野正年が中途辞退した後の代理で運動期間が短かったことが敗因であった。憲政会は、一議席確保を意図した第三区で村上紋四郎の立ち遅れが敗北につながり、打撃を受けた。共通して予想外であったのは、両派が推薦した尾崎敬義が普選派の推す押川方義に敗れたことであった。当初「勝敗を眼中に置かず理想選挙に終始」と評していた「愛媛新報」は、五月一一日付の「総選挙当落予想」では、「押川氏は普選派の後援に依り専ら言論を以て戦ひたるが、松山市の選挙に於て今回の如くに熾んに演説会を開きたることなく人気大に上がり、智識階級は多く押川氏に傾き居りたれば或は意外の結果を見るやも測られず」と判定しがたい状況を示した。そして、押川の当選が決まると「海南新聞」五月一二日付は、「意外も意外!!遂に押川氏当選の栄を担ふ、言論戦に狂奔した甲斐ありて乎」の大見出しで、開票場の「県公会堂前は松山選挙界始まって以来未曽有の人出であった」と報じ、普選派は「市内を自動車或は人力車で旗押立て至る処で万歳を高唱して歓喜に熱狂してゐた」と伝えた。
 第一四回衆議院議員選挙の全国集計結果は、政友派の圧勝であった。原首相は与党の絶対多数を背景に、国防の充実・教育の振興・産業の奨励・交通の整備の四大政綱を推進したが、大正一〇年一一月右翼青年により暗殺された。

 原内閣以後の県政界

 原内閣以後、高橋是清内閣、次いで加藤友三郎内閣においても与党的立場にあった政友会は、地方官人事を左右することで全国府県行政を掌握してきた。これを背景に県会多数勢力を維持した本県の政友派は、その地位と勢力を背景に道路・港湾改修などの土木事業と県立学校増設などを県当局に働きかけ、更に一層の党勢拡張を図った。従来憲政派が優勢であった松山市会でも大正一一年一月の議員選挙で多数派を奪った。しかし政友派内部では派閥争いが激化、機関紙「海南新聞」の経営をめぐって社長成田栄信と支部幹部が対立し、遂に大正一一年一二月支部は「海南新聞」と絶縁して翌一二年八月一日から機関紙「伊予新報」を発行した。
他方、憲政派は党勢回復策を模索し、普選派と提携して同一一年六月一四日新栄座で憲政擁護大会を開催、普通選挙法の早期実現を訴え、加藤友三郎内閣・政友会批判の世論を高めようとしたが、反響は鈍かった。

 第一七~第一九回県会議員選挙と選挙権の拡大

 大正期の県会議員選挙(定期改選)は大正四年、八年、一二年と四年ごとの九月に実施された。明治四四年の第一六回県会議員選挙では、愛媛進歩党が一九対一七の僅少差で政友会を制し、正副議長を独占した。大正元年通常県会を前に両派提携が謀られたが、その後の国民党分裂・立憲同志会結成などで愛媛進歩党が混乱してやがて解体状態になったので、政友会が優位に立とうとしていた。
 こうした政情の中で、大正四年九月の第一七回県会議員選挙が実施された。選挙に当たり、政友会愛媛支部は、小野寅吉・深見寅之助・八木雄之助・渡部綱興・芝鉄治・清家吉次郎の六現職県議をはじめ野本半三郎・村上五郎・武智雅一・太宰孫九・松本経愛・松田喜三郎ら二四名を公認候補とした。立憲同志会愛媛支部は、山中振三郎・一色耕平・村上紋四郎・八木春樹・石原實太郎・都築九平・菊池虎太郎・加藤常吉の八現職県議を含めて御手洗忠孝・富田嘉吉・白石大蔵・相田梅太良・高田春男・小西左金吾ら二一名を公認した。なお一色耕平は前回の選挙では政友会公認で当選したが、その後武知勇記の主宰する愛媛青年党に加わり、同党が立憲同志会と提携しているところから同志会の推挙で立った。国民党愛媛支部は、天野義一郎・大関信一郎・上甲廉・久松操・中尾定吉を候補者に選んだが、天野は出馬を辞退し、中尾は政友会からも推薦されたため中立を標示した。
 選挙中、互いに他党の批判・中傷が続けられた。立憲同志会は、「政友会本部が内外の国政に対して何等の抱負意見なきが如く、地方の政友会も県政に対し更に定見なく或は東に歩み西に行き浮気は其日の出来心と言った調子である、偶ま多数党になると、愛媛県の財力も何も顧みず七百五拾幾万円と云ふ土木事業を計画するかと思へば、少々世上が不景気と云っては無暗に予算の削減をなし、主務省の不認可に逢ふて原案執行の不面目を見るが如き、積極やら消極やら頓と分らない、恰かも盲蜻蛉のやうである」と政友会を攻撃した。政友会は、「過去四ヵ年間における進歩党多数時代の愛媛県会を観んか、彼等が多数を占めたことによって愛媛県政上の幾干の利益を与へたであらうか、彼らは理事者に迎合して役員の分取りに全力を傾注した以外一事の成したる事蹟の無いばかりでなく、反て無能と無定員の醜を晒したに過ぎないのである」と切り返した。
 こうした舌戦の末、九月二五日投票日を迎え、有権者四万七、三七五人(全人口の四・二七%)のうち四万一、二六九人が票を投じた。翌二六日開票が行われ、表3―8に示す人々が当選、三〇日県報で告示された(資近代3五九七~五九九)。党派内訳は、政友会一八・立憲同志会一八・国民党三であった。
 政友会が勝利したのは、衆議院議員選挙の失敗を反省、原総裁の来松を要請して中四国政友会大会を開くなど勢力挽回に努めたこと、大隈内閣の不人気によるものと評されたが、松山市と越智・伊予両郡で同志会に全敗するなど、安定した多数派とはいえなかった。このため政友会は、選挙後の組織県会で国民党と妥協して副議長を同党に譲り、深見寅之助・大関信一郎を正副議長に選んだ。
 大正八年九月の第一八回県会議員選挙が近づくと、県政界の政党支部はそれぞれ郡市の候補者を選考決定した。原敬内閣の有利な態勢の下で県会における絶対多数を目指す政友会は、村上五郎・石川理吾郎・小野寅吉・日野松太郎・深見寅之助・松田喜三郎・浅井平三郎・菊池重久・清家俊三・太宰孫九・清家吉次郎の現職に加えて、前回落選した野本半三郎・村瀬武男らを再び立て、二九名を公認した。党勢の挽回を図る憲政会は、前谷武一・富田嘉吉・八木春樹・岩田鷹太郎・浦中友治郎の五現職はじめ、宇和川濱蔵・黒田此太郎・村上紋四郎・武知勇記・西村兵太郎ら一九名を推薦した。国民党は、前回の選挙で大関信一郎・久松操・中尾定吉の三名を当選させて政友・憲政伯仲の県会で漁夫の利を得た。しかし党勢衰退はおおいがたく、大関ら現職はすべて立候補を辞退した。その身代わりに立った麓常三郎・高畠亀太郎は、政友会の支援を受けるため中立を標ぼうした。
 九月二五日に施行された選挙では有権者四万七、三二三人のうち三万八、五三一人が投票した。開票の結果による当選者は表3―8の通りであり、一〇月四日に県報で告示された(資近代3七三二~七三三)。当選者の党派別内訳は政友一九・憲政一六・中立一・国民一であったが、「海南新聞」は、中立の麓は当選後政友会に入党する確約があり、国民党の高畠は終始政友派と行動を共にする内約の下に選挙を戦ったとして政友二〇・準政友一としている。選ばれた新議員三七名中再選された者一五名、このうち大正初年以来の連続当選者は小野寅吉・深見寅之助・清家吉次郎のわずか三名であり、二六歳の武知勇記ら多くの新人が進出した。議員の新陳代謝が激しくなったのは、選挙民の選択の基準が候補者の属する政党に置かれるようになったことを示していた。なお、大正九年二月の今治市制、同一〇年八月の宇和島市制施行に伴い、八木春樹と高畠亀太郎がそれぞれの市に属する県会議員として告示された(資近代3七四六・七五三)。
 府県会議員の選挙権・被選挙権は、明治三二年三月の「府県制」以来直接国税三円以上を納める公民に与えられていたが、大正一一年四月の「府県制」改正で直接国税を納める公民に緩和された。これは、衆議院議員の選挙権納税資格を三円に引き下げたことに伴う処置であり、愛媛県の有権者は、大正八年時の四万七、三二三人(県内人口の四・二%)から同一二年には一一万一、一一九人(県内人口の九・八%)に増大した。
 政友会・憲政会の両愛媛支部は、大正一二年になると県会議員選挙の準備にとりかかった。憲政派は、六月一八日に幹事長村上紋四郎、幹事相田梅太良・武知勇記・御手洗忠孝・富田嘉吉・宇和川濱蔵ら一二名が選挙対策を協議、候補者選定は村上幹事長が各地に出張して決定することにした。同じころ、政友派でも支部長岩崎一高、幹事久松定夫・野本半三郎・清家俊三・井上久吉・大本貞太郎・夏井保四郎・大政章津らが会合して支部幹事会を開いた。同会では、岩崎の松山市長就任に伴う支部長辞任を認め、久松・野本・清家の三常任幹事を中心に、合議制で選挙事務を処理することにした。ところが、選挙資格の緩和による有権者数の増大で運動費がかさむなどで、九月の選挙月になって予定した立候補者の辞退が相次ぎ、「未だ出揃はぬ各郡候補、一般に妥協気分漲る」といった新聞見出しが続いたが、両派幹部の懸命の奔走により、九月中旬には県下の選挙区でようやく候補者が出揃った。
 政党中心の選挙戦の中で従来に見られない活動をしたのは、各郡農会に設けられた農政協会であった。農政協会は、自作農層の選挙権拡大を背景にして、政憲両派の公認にかかわりなく農会に関係の深い候補者を推薦した。また選挙権のない青年たちが選挙運動に参加、味方すべき候補と信じた人物への徹底した応援活動が目立った。投票日が近づくと、政友・憲政両派所属の代議士も続々帰県して選挙区自派候補の応援に努めた。候補者は戸別訪問と演説会で東奔西走した。「愛媛新報」九月二四日付夕刊の見出し「壮烈な白兵戦に政略の秘術を尽す、昼夜兼行の各運動員、鋭く光る官憲の目」は、選挙前日の模様を端的に伝えていた。
 九月二五日の投票の結果、表3―8に示す人々が当選して一〇月五日に県報で告示された(資近代3七七二~七七四)。当選者の党派別内訳は政友会二三、憲政会一〇、中立三となった。憲政会は改選前より五人減り、政友会が圧勝した。県会での安定勢力を確保した政友会は、一〇月の臨時県会で議長に清家吉次郎、副議長に松田喜三郎を推挙当選させた。一二月一五日には支部総会を開いて勝利を祝賀し、久松定夫を幹事長に、常任幹事に野本半三郎・夏井保四郎・清家俊三・門田晋を選んだ。
 今回の選挙では初めて選挙資格を得た者が多かったにもかかわらず、一・五%強の一万七、一五三人が棄権した。「海南新聞」九月三〇日付は、社説でこの「棄権者の増加」を解説し、「この大切な権利の行使を怠るのは全く政治的に何等の感激のない自己の存在を忘れたもののすることである。政治的感激のない者が生活の向上を叫んでも夫れは何れの時代にも実現しないことである」と有権者の覚醒を訴えた。「愛媛新報」九月二八日付も「県議選と棄権者」を取り上げ、「選挙権と云ふものは持って居ても果してその権利を如何に行使すべきであるかと云ふことを知らない者があるのであろう。議員の候補者になろうとする者や政党に関係のある人々は選挙の時に興奮するのみでは何にもならない、日常に於て一般民衆に対して政治的に訓練して置かなくてはならない」と論じた。

 第二次護憲運動と政友本党愛媛支部の結成

 大正一二年(一九二三)一二月虎の門事件の責任を負って第二次山本権兵衛内閣が総辞職した後、山県系官僚の元老で枢密院副議長の清浦奎吾が後継首班に推された。清浦は、貴族院を母胎に翌大正一三年一月に内閣を組織した。同内閣の大蔵大臣には勝田主計が寺内内閣の蔵相経験を買われて任用された。政友会・憲政会・革新倶楽部は、この特権内閣に強く反発して三党首が会談、内閣打倒・政党内閣実現の共同行動を申し合わせた。ここに護憲三派連合による第二次憲政擁護運動が始まった。
 政友会では、かねて総裁高橋是清に批判的であった床次竹二郎・元田肇ら党内保守派が、護憲三派の提携を不満として脱党、一月二九日政友本党を結成し清浦内閣唯一の与党になった。本県選出の政友会六代議士のうち渡邊修・矢野丑乙・成田栄信が政友本党に所属した。
 政友会愛媛県支部は、一月一八日幹事長久松定夫と幹事夏井保四郎・門田晋が上京、本県選出代議士・本部役員と意見を交換して帰松、三〇日四八名が出席して幹部総会を開いた。会は久松・門田から本部分裂の経過報告を受けた後、支部の態度決定について協議、各郡代表から意見発表がなされた。大勢として、支部は本部と行動を共にしようとする意向が強かったが、意見一致を見なかった。二月一三日支部総会が開催され、政友会に留まった深見寅之助・河上哲太・高山長幸の三代議士も出席した。まず久松幹事長が成田ら三代議士の政友会脱党の顚末を報告、次いで「政友会愛媛支部ハ本部ノ主張ヲ是認シ、一応憲政ノ大義ニヨリ益々結束ヲ鞏固ニシ勇往邁進以テ国家ノ為貢献センコトヲ期ス」の宣言文提案がなされた。この宣言には、各郡代表がおおむね同意して政友会に留まる意向を示したが、三脱党代議士の選出区である温泉郡の松田喜三郎、西宇和郡の佐々木秀治郎、東宇和郡の緒方陸朗らは郡部会の態度未定を理由に意見発表しなかった。深見代議士は、とりあえず政友会総裁高橋是清に「支部ハ本部ノ主義主張ニテ進ム」と打電した(「愛媛県政党沿革概要」)。
 この支部総会については、幹部が事前に決めた留党決議をおしつけ、脱党三代議士の出席弁明を拒絶したとして、成田らの選挙区を中心に批判が高まり、政友本党に傾く者が次第に増加しはじめた。二月二〇日に開かれた温泉部会総会では、門田・久松の上京報告と成田代議士の脱党理由説明を受けた後、野本半三郎・宮脇茲雄の留党演説に野次罵声が集中した。やがて去就問題が採決に付され、現状維持説一六名、解散説一三〇名で部会解散を決定、多くの同志が相結束して政友本党に参加することを申し合わせた。次いで二月二二日、県会議長小野寅吉・副議長松田喜三郎をはじめ竹内鳳吉・日野政太郎・高野島太郎・小原林治・村瀬武男・阿部芳太郎・緒方陸朗・松本経愛の一〇県議が政友会支部に脱党届を提出し政友本党支部結成の準備を始めた。政友会脱党県議は、成田・矢野・渡邊の三代議士につながる者が大半であったが、小野・村瀬らは支部幹部の独断に対する不満から離反したと評された(「海南新聞」・「愛媛新報」大正一三・二・二一~二三付)。政友本党愛媛支部発会式は、四月八日松山市公会堂に本部総務元田肇らを迎え、二、〇〇〇余名が参集して開かれた。
 こうして、県政界は政友会・憲政会・政友本党の三派鼎立となり、県会議員の党派は政友一四、憲政一〇、政友本党一〇、中立二の内訳で、政友派の絶対多数が崩れた。

 第一五回衆議院議員選挙

 清浦内閣打倒を目標に結束した護憲三派の党首は、大正一三年一月三〇日の憲政擁護関西大会に出席、帰途、三党幹部乗車の列車転覆未遂事件が起こった。翌三一日、衆議院でこの事件に関する緊急質問中に、清浦内閣は議会解散を断行した。
 この選挙は解散から投票日まで三か月余という間隔があったため、いろいろな候補者が取りざたされたが、最終的には七選挙区で九人の定員に対し二四候補が立った。
 第一区では、海軍中将山路一善が憲政会から推されて立候補し、次いで普選派として押川方義、実業同志会から高須峰造が出馬、最後に一時立候補が検討されていた大蔵大臣勝田主計の身代わりとしてその秘書杉宜陳が立ち、四人の争いとなった。実業同志会は、大正一二年四月武藤山治らが結成し、同一三年三月二五日その愛媛支部が生まれ、支部長に高須峰造が就任した。同志会は、当初水野広徳を立てようと本人に交渉したが成功しなかったので、やむなく七〇歳に近い高齢の高須が出馬した。杉には、勝田蔵相が五月上旬に帰郷して肩入れした。勝田は松山の財界に働きかけ、支持をためらう岩崎一高ら政友会幹部を説得、勝田後援会を中心に支持態勢を整えた。政友本党は、政友会が杉を支持したのに対抗して山路一善を推薦した。
 第二区では、政友会を脱し政友本党に走った現職の成田栄信が早くから立候補を宣した。政友会は成田への憎しみから岩崎一高の出馬を検討したが、岩崎が松山市長の要職にあることと温泉部会が解体同然の状態であったことから実現せず、勝田蔵相の推挙で出馬した中立の須之内品吉を推薦することにした。伊予郡農友会の青年たちは、長く県庁・農会の技師として農村を指導して人望があり当時帝国農会幹事として東京にいた岡田温の立候補を促した。岡田はその任でないと辞退したが、再三懇請して遂に承諾をとりつけた。伊予郡農友会は、温泉郡農友会や温泉・伊予両農政協会と提携して「手弁当ワラジばき」で運動に走り回った。憲政会は、現職の門屋尚志を候補に内定したが、門屋が強く辞退して帰郷しないのに加えて、学者の岡田温がその無党派清新さから人気を博しているのを見て、急拠、松山高等商業学校教授・松山高等学校講師の渡部善次郎を説得した。渡部もこれを受け、松山高等学校校長由比質・同校教授北川淳一郎など松山高校・松山高商の教官生徒による応援態勢をとった。
 第三区は、政友会に残留した現職の河上哲太・深見寅之助に対抗して憲政会が前回落選した支部幹事長の村上紋四郎を立てた。事実上、この三者の争いであったが、ほかに憲政会系の渡部鬼子松と政友本党系の村上貞一が越智郡から出馬して深見の地盤を脅かした。第四区は、政友会を脱した県会議長の小野寅吉が政友本党公認で立ち、憲政会の現職森達三と対決した。ほかに新居郡から政友本党系の橋本徹馬、宇摩郡から政友本党系の森實昻・高橋鐵太郎が出馬した。第五区は、政友会の現職高山長幸の独走の観があったが、遅れて旧大洲藩主加藤氏の女婿で外交官の窪田文三が憲政会の支援を受けて立候補し、予断を許さない情勢になった。第六区は、政友本党の現職矢野丑乙が再出馬を断念したので、西宇和郡を地盤とする政友会公認佐々木長治と東宇和郡を地盤とする憲政会公認本多眞喜雄の一騎打ちとなった。第七区は、太宰孫九が渡邊修の後継者として政友本党から立ち、太宰・渡邊と対立する山村豊次郎・清家吉次郎らは、城辺出身の実業家二神駿吉に出馬を促し、政友会公認とした。憲政会は、元代議士村松恒一郎を支援して立候補させる動きが一時あったが、立ち消えになった(「海南新聞」・「愛媛新報」大正一三・四・二一~二八付)。
 以上の候補者を党派別にみれば、政友会は河上哲太・深見寅之助・高山長幸・佐々木長治・二神駿吉を公認し、須之内品吉・杉宜陳を推薦した。憲政会は山路一善・渡部善次郎・村上紋四郎・森達三・本多眞喜雄を公認し、窪田文三を推薦した。政友本党は成田栄信・小野寅吉・太宰孫九を公認し、山路一善を推薦した。このうち、河上・須之内・杉は勝田蔵相の推挙する人物であり、清浦内閣と対決する政友会が政府派の候補者を支援するのは選挙民を愚弄する行為であるとして憲政会・政友本党の攻撃材料となった。
 今回の選挙戦は、運動期間が長くしかも政友派の分裂直後の混とんとした情勢にあったので、激しい運動が展開された。このため、金銭授受の買収供応が続出し、戦い途中で警察の捜査を受け逮捕される運動員が相次いだ。また暴力が横行し、五月五日松山市の新栄座で開かれた杉宜陳の政談演説会で、二名の暴漢が壇上に躍り出て杉を殴り組み伏せるという事件が起こった。同じ日東宇和郡宇和町栄座での佐々木長治の演説会では野次に腹を立てた佐々本派の運動員と聴衆とが殴り合うという大乱闘を演じた。
 こうした中で、政治に目覚めた青年が活発な選挙活動を行った。温泉郡青年団有志は、大正一三年二月立憲青年党を結成して最適任と思われる候補者を推薦支援することを申し合わせた。しかし、四月中旬に至り党員の過半は幹部が勝手に成田栄信と結託したとして脱党、別に農民青年党を組織し、農村に理解のある候補者として岡田温を擁立して奔走した。温泉郡垣生村には自由青年党、浅海村には護憲青年党が結成され、学生連盟と提携して渡部善次郎を支援した。伊予郡の青年は、農友会に結集して温泉郡農友会や農民青年党と共に岡田温を支援した。松山には、大正一一年に愛媛青年党が結成され理想選挙を標ぼうしたが、同一三年四月下旬一派がこれを脱し国民青年党を組織して山路一善の応援を始めた。愛媛青年党の残留組は高須峰造を支援した。喜多郡には四月に立憲青年党が誕生、普選を期待して窪田文三を支持した。「愛媛新報」四月二二日付は、評論「青年と政治良心」で、「今次恰も衆議院議員総選挙に際し、又しても往年の醜態を繰返されるにやと心有るもののひそかに眉をひそむる所ありしに、ここに実に我等をして快哉を叫ばしめたるは、純真なる政治的訓練、理想的政治運動、厳正なる選挙監視等を旗印として立てる青年政治結社の殊に本県各所に其の声を聞きたる一事である」として、青年の純真な政治運動に称賛の言葉を贈った。
 一か月にわたる激しい選挙戦の後、五月一〇日投票日を迎えた。一一日の開票の結果、第一区杉宜陳、第二区成田栄信・岡田温、第三区河上哲太・村上紋四郎、第四区小野寅吉、第五区佐々木長治、第七区太宰孫九がそれぞれ当選した。当選者の党派別内訳は、政友会三・政友本党三・憲政会一・無所属二で、得票数は政友会二万一、〇〇〇、憲政会一万六、三〇〇、政友本党一万一、六〇〇であった。清浦内閣の唯一の与党として護憲三派から裏切り者扱いされ全国で苦戦を強いられた政友本党は、本県では三候補者が全員当選を果たした。政友会分裂で有利な選挙戦を伝えられた憲政会は、本県では一名しか当選しなかった。機関紙「愛媛新報」は五月二〇日付論説「政戦の跡を尋ねて」で、「惨敗を極めたのは憲政派で、全国第一の敗者たる汚名を受けたのは誠に以て不面目のことにして、憲派の人々は天下同志に対して慚死す可き事であると思ふ」と敗戦の弁を述べ、その原因を「幹部の無能に帰す可きや、地盤の荒廃に帰す可きや、将、戦略の罪か、戦費の不足か、之等の諸因が何れも多少ずつ加味して此戦敗を示したるものと推断するより外なし」としている。
 この選挙での激戦は得票にも反映して、第五区の高山長幸と窪田文三の票差及び第六区の佐々木長治と本多眞喜雄の票差はいずれも一二票であり、最終結果を待たずに発表した「愛媛新報」などは本多の当選を顔写真入りで報道する有り様であった。しかし、その後の得票確認段階で疑問票の再審査により本多六票佐々木三七票が有効とされた結果、佐々木が一二票差で逆転した。本多派は、選挙長の西宇和郡長国西藤三郎が佐々木派の立会人・運動員の脅迫的言辞におびえて疑問票取り扱いに片手落ちの採決をしたとして憤慨して郡長を糾弾、再選挙を行うとの檄文を東西宇和郡内に撒布した。次いで浦中友治郎・別宮良ら代表委員二〇名が五台の自動車に分乗して上松、宮崎知事・中野内務部長・毛利警察部長に面会して投票再審査か選挙再執行を陳情した。県や司法当局も事態を重視した。遠藤検事正は八幡浜に急行して国西郡長らから事情を聴取し、疑問票の審査を強要したといわれる佐々木秀治郎ら佐々木派運動員三〇余名を召喚して取り調べたが、最終的には郡長の非は認められないとして本多派の陳情を退けた。本多派はこれを不満として、国西選挙長を相手取って選挙無効訴訟を行ったが認められず、次いで上告した大審院でも敗訴した。
 第六区と同様高山と窪田の差一二票であった第五区でも、落選した窪田文三派から選挙長を相手に選挙無効訴訟が起こされた。郡役所が選挙人名簿の調整を怠ったため隠居者が依然選挙権を持ち相続者が有権者として投票できなかった事例が多いので、今回の選挙は無効であるというのが訴訟理由であった。広島控訴院と大審院はともにこれを認めて、選挙再執行を県に命じた。再選挙は、大正一四年六月一五日に施行された。政友派が高山長幸を再び擁立したのに対し、憲政派は窪田が立たず候補者難に陥り一時政友派との妥協も噂されたが、ようやく大洲出身で在京の尾中勝也を出馬させた。尾中が帰省して立候補宣言したのは六月五日であり、本部幹事長三木武吉以下一八名の代議士が来県して懸命の応援をしたが、運動の立ち遅れと尾中自身の知名度の低さで、当初から戦いは憲政党に不利であった。開票の結果は、高山四、二〇三票・尾中三、〇九五票で、高山長幸の再当選が確定した。

 護憲三派内閣と愛媛県政倶楽部

 第一五回衆議院議員選挙で憲政会は全国で一五一の当選者を得て第一党となった。憲政会と護憲三派を形成した政友会は一〇五、革新倶楽部は三〇であった。本県で善戦した政友本党は一〇九にとどまった。護憲三派の勝利は清浦内閣を総辞職に追い込み、大正一三年(一九二四)六月憲政会党首加藤高明を首班とする連立内閣が成立し、政友会党首高橋是清・革新倶楽部代表犬養毅も入閣した。孤立した政友本党は、床次竹二郎を正式に総裁に推薦し党員の結束を決議した。同党愛媛支部でも五月一六日に総会を開催、幹事長に松田喜三郎、幹事に香川熊太郎・清水勇三郎・日野政太郎・阿部芳太郎・村瀬武男・竹内鳳吉・緒方陸朗を選び、成田栄信・小野寅吉・太宰孫九らの三代議士は顧問になった。
 愛媛県では政友本党と憲政会が提携を強め、中央政界での護憲三派と政友本党との対立と異なった動きを示した。衆議院議員選挙直前の四月二七日、松田・村瀬・阿部・小原林治・高野島太郎の政友本党六県議と村上紋四郎・金岡重吉・宇和川濱蔵の憲政会三県議が会合し、県会での連携協調を申し合わせた。選挙後も双方で再三折衝を重ね、九月一一日松田と村上の両支部幹事長会談がもたれ、一〇月八日の両派幹事会で提携を正式決定、一一日両派所属県会議員が懇親会を開いた。
 こうして憲政会と政友本党の県会議員で結成された愛媛県政倶楽部は、一一月一四日海南新聞社楼上でその創立総会を開いた。総会では、「本会は愛媛県政に対し誠実と公平を旨とし、偏頗なる党争を匡正し発展を計り県経済の安定を期するを以て目的とす。」などの規約を制定、幹事に宇和川濱蔵・窪田吾一(憲政会)、松田喜三郎・阿部芳太郎(政友本党)、宮内長(無所属中立)を選び、県会での協調を確認した。しかし憲・本両派の中には県政倶楽部に批判的な県議もいて必ずしも堅固な結束ではなかった。政友会は県政倶楽部の切り崩しを試み、政友本党の緒方・高野・村瀬・竹内を離脱させることに成功した。
 政友本党が政友会の切り崩しで混乱している中で、憲政会・政友会の両派はそれぞれ支部総会を開き役員改選を行って組織を固めた。憲政会は、一一月二三日の総会で、支部長清水隆徳、総務宇和川濱蔵・黒田此太郎・窪田吾一・相田梅太良・西村兵太郎、幹事長武知勇記、政務調査会長西原寀一、常議員会長白石小平、顧問武内作平・村上紋四郎・門屋尚志・森達三・村松恒一郎・御手洗忠孝らを選んだ。政友会は、一二月一四日の総会で支部長高山長幸、幹事長野本半三郎、常任幹事清家俊三・大本貞太郎・栗原善次郎、顧問河上哲太・佐々木長治・岩崎一高・久松定夫・夏井保四郎・山村豊次郎・深見寅之助・門田晋の役員を選んだ。翌一四年には、政友会が一一月二三日総裁田中義一、三土忠造・小川平吉らを迎えて支部大会を開くと、憲政会もこれに対抗して一二月四日逓相安達謙蔵・代議士中野正剛の来松を求めて支部大会を催した。

 普通選挙法の成立

 護憲三派内閣の公約である「衆議院議員選挙法改正」案(普選法案)は、大正一四年(一九二五)三月二日衆議院で可決され、五月五日公布された。これは、二五歳以上の男子に選挙権、三〇歳以上の男子に被選挙権を与えるものであったが、生活上の救助を受ける者、満一年以上同一市町村に居住しない者、女子のすべてには選挙権がなかったので、完全な普選とはいえなかった。三月七日には、衆議院で国体を変革または私有財産制度を否認する結社や運動を取り締まる「治安維持法」案が可決され、四月二二日公布された。「普通選挙法」と「治安維持法」の同時成立は、民衆の政治的成長に適度の譲歩をして階級闘争の激発を予防することを意図していた。
 五月五目、松山市で日刊四新聞社共催の普選祝賀デーが開催された。これに先立ち「愛媛新報」四月二五、二六日付は愛媛県普選運動史を連載し、次のように結んだ。 

  「普選」「普選」普選時代は遂に来た。併し「普選」は実質上単なる選挙権の拡張に過ぎないものである。貧困者を除き、女子を除外し、二十五歳以上の男子を認めてゐない。国民は此のまま普選の時代来ると喜び終る訳にはゆかない。先ず国民は「普選」の第一歩を踏みだしたのだ。多数民衆の政治的勢力を増大し、国政の運用に国民の声を入れんが為には尚一層の努力を要する。真の普選は今後にある。普選通過祝賀式は五月五日大大的に開かれんとしてゐる。五月五日、普選通過を祝すると共に今後に活動を期さねばなるまい。

 二つの重要法案を成立させた護憲三派の提携は、わずか一年間しか続かなかった。大正一四年春、政友会の高橋是清・革新倶楽部の犬養毅の両党首は、相次いで政界引退を表明して党首と閣僚を辞任した。政友会は後継総裁に元陸相の田中義一大将を迎え、次いで革新倶楽部・中正倶楽部と併合して第二党となり、内閣への批判的傾向を強めた。革新倶楽部にあって政友会との合同に反対した尾崎行雄は中正倶楽部残留組と新正倶楽部を組織、本県選出代議士岡田温もこれに参加した。七月、護憲三派内閣は税制改革問題で閣議不統一のため総辞職した。政友会は次期政権奪回を意図して政友本党との提携を謀ったが成功せず、八月憲政会単独の第二次加藤内閣が成立した。憲政会は衆議院で過半数に足りなかったが、両野党の政友会と政友本党を巧みに繰って政権を維持した。党勢不振の政友本党は、憲政会・政友会の勧誘を受けて動揺する者が多かった。七月には本県二区選出の成田栄信が党紀違反で除名され、一二月に至り中橋徳五郎ら合同派二〇余名が集団脱党して政友会に復帰した。同党愛媛支部でも、緒方陸朗・竹内鳳吉・村瀬武男・高野島太郎の脱党と阿部芳太郎の死去で、所属県議は松田喜三郎・日野政太郎・小原林治・松本経愛の四名に減少した。大正一五年時の県会党派勢力分野は、政友会一五・憲政会一二・政友本党四・無所属五となった。

 第六回貴族院議員選挙

 これより先、護憲三派内閣は、保守の牙城貴族院の改革を企図し、大正一四年五月「貴族院令」を改正し、有爵議員を減じ帝国学士院互選の勅選議員を設置するなどの改革を行った。この改革で多額納税議員の互選資格者は従来の一五名から一〇〇名に増員された。この互選方法の改正は、大正一四年九月一〇日の第六回選挙から実施に移されたが、互選権資格者の郡市別内訳は、温泉郡一〇・越智郡八・周桑郡六・新居郡二四・宇摩郡五・上浮穴郡〇・伊予郡二・喜多郡四・西宇和郡五・東宇和郡一・北宇和郡九・南宇和郡一・松山市一五・今治市七・宇和島市三で、一人平均納税額は二、五六一円であった(大正一五年「愛媛県統計書」)。
 この選挙は、有権者が増加したこともあって著しく政党化し、衆議院議員選挙と変わらない選挙戦が展開された。憲政会は今治市の八木春樹を、政友会は松山市の清水義彰を擁立した。清水は元進歩派県議でもともと憲政会系統の人物であったが、同じ政派の八木に対抗して中立をかかげて立候補を表明した。当初、仲田傳之□(長に公)を推挙しようとした政友派は仲田が辞退したので清水を支援、憲政派・政友本党の一部も清水を応援したから、一時八木の不利が伝えられた。しかし南予の政友派が清水の選挙運動に消極的であったことと佐竹知事が八木を支援したので、開票の結果、八木五四票、清水三六票で八木が当選した。投票は県庁知事室(中予)、西条町公会堂(東予)、北宇和郡役所(南予)の三か所で行われ、県庁に投票箱が集められて開票された。

表3-8 第17回(大正4年9月)~第19回(大正12年9月)県会議員選挙の当選者

表3-8 第17回(大正4年9月)~第19回(大正12年9月)県会議員選挙の当選者