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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 戦後経営と安藤県政

 安藤謙介の着任

 戦時下にあっては、全国的に一連の戦時特例の行政措置がとられた。愛媛県の場合、その上に明治三七年三月松山俘虜収容所が設置されるなど、県政もまた戦時色の中、繁忙を極めることとなった。
 明治三七年一一月一七日、休職となった菅井誠美知事の後任に、安藤謙介が任ぜられた。
安藤は、旧名安岡仁太郎、安政元年(一八五四)土佐国(高知県)安芸郡羽根村に生まれた。明治六年、一九歳で上京、ニコライ塾外国語学校でロシア語を学び、同郷の先輩中江兆民についてフランス語も習得した。同九年四月勝海舟の推挙で外務省に出仕、露国コルサコフ領事官付書記一等見習を振り出しに、露国公使館在勤の外務三等書記生・外務書記生、帰朝後外務属を経て司法省に転じ、明治二〇年七月検事に任ぜられ、名古屋控院・岐阜始審裁判所詰から、同二四年一〇月に前橋地方裁判所検事正に任じ、以後、熊本・横浜地方裁判所検事正を歴任した。同二九年四月、第二次伊藤内閣下で富山県知事を拝命、一時非職となったが、同三一年一月第三次伊藤内閣の時再び官界に復して千葉県知事となり、憲政党内閣が成立すると再び非職を命じられた。以後、成田火災保険、植田無烟炭鉱などの会社社長を経て、明治三六年の第八回衆議院議員選挙で富山県から当選、翌三七年一一月本県知事に就任したのであった。安藤の拝命は、松山市に露国俘虜収容所が置かれたことに伴いロシアに精通している関係で、桂内閣の逓相芳川顕正の推挙によったといわれるが、同三八年一二月成立の西園寺内閣においても、かねて知己の政友会領袖内相原敬や法相松田正久の後援で引き続きその地位を維持することができた。
 以後、明治四二年七月休職となるまで、安藤は政友会系の知事として、藤野政高ら同会愛媛支部と緊密な関係を保ちながら県政を執行した。したがって、政友会は安藤を高く賞賛し、愛媛進歩党は安藤を痛烈に批判し、これほど県政界の評価が分かれた知事はかつてなかった。同四一年七月に成立した第二次桂内閣は、内閣更迭ごとに地方官の異動を行うことは地方政治の発達を阻害するものとしてこれを控えていたが、安藤が県治上においてとかく政友会に偏する行為があり、不偏不党を本旨とする地方長官の職務を忘却しているとして、同四二年七月三〇日安藤に休職を命じた。
 その後、韓海漁業会社社長に就任していたが、第二次西園寺内閣の下で明治四四年九月長崎県知事に返り咲いた。この復職登用には内相原敬の意向があり、原はその日記の中で次のように記録している。

 (明治四四年九月二日の条)犬塚(勝太郎)の後任には安藤謙介を登用せり。安藤は愛媛県知事たりしを政友会に結托せりとて休職にし、其跡に伊澤をやりて検挙をなし政友会に打撃を与へたり。政友会に対し如此処置も甚しき事なれども、第一安藤が左までの悪政をなしたるにも非らず、又品性は決して醜汚の点なし、只弁口常に人の非難を招く次第なるも、用ゆべからざる人物にあらず。故に断然人言を排して之を登用したり。

 その後、安藤は大正二年に新潟県知事に転任、翌三年再三の休職を命じられた。以後、横浜・京都市長を歴任することとなった。

 土木問題をめぐる政友会県支部の内紛

 安藤知事が赴任早々直面したのは、継続土木事業の不正問題と政友会県支部の内紛、分裂であった。不正問題とは、継続土木事業中犬寄峠改修工事入札において、県参事会員の久松定夫(上浮穴郡選出)が斡旋(あっせん)した土木業者が指名入札を受けた事件で、「愛媛新報」がこれを暴露して激しく非難した事件であった。この問題が明るみに出ると、政友会内部でもこれを批判する者が少なくなかった。
 これより先、県は戦時軍隊輸送の便宜に交通の完全を図らなければならないとして、高浜道路拡張に伴う海岸埋め立てを計画し、県参事会急施会に諮問した。これに対し政友会員で構成する参事会は、「最モ時ノ機宜ニ適セリ」と答申したため、当時三津浜町民の要望を受けて三津浜築港問題を推進しようとしていた同会愛媛支部長藤野政高を激昻させ、藤野の政友会脱会という事件を引き起こしていた。そして、この二つの土木問題は、県参事会員更迭問題とからんで、明治三七年通常県会開会中に副議長松井健三・県参事会員赤松甲一郎以下一二県議が政友会を脱会し、一二月一日に先の藤野を代表者とした愛媛同志倶楽部結成という、政友会支部の分裂にまで発展した。その後、政友会本部・代議士の調停で同三九年四月末愛媛同志倶楽部員は政友会に復帰した。そして六月開催の支部総会で新幹部を選出、引き続き開催の評議員会では懸案を幹事一任とした外、戦後経営の重点目標として県下全体にわたる土木計画を企て交通機関の完備を図ることを申し合わせた。
 この決議を携えて藤野らは、政友会寄りの姿勢を示す安藤知事を訪ね、土木事業の推進を訴えた。これに対し、戦後経営を検討中の安藤は、賛意を表すとともに県下諸施設について世論のある所を調査せよ、県は諸君の調査を参考にするとの意向を示したので、藤野ら支部役員は支部を挙げて取り調べに着手し、三津浜築港を含めた土木計画調査案を知事に提出した。

 高浜港と三津浜築港問題

 城下町松山の外港である三津浜港は天保一四年(一八四三)に埠頭(ふとう)が築造されて港湾の形を整えていた。しかし、この港は遠浅であるとの難点を持つため、船舶の大型化に伴い欠陥が表面化し、隣接の高浜が天然の良港として注目されるようになった。高浜はわずか漁民十数戸の寒村であったが、天和三年(一六八三)参勤交代の臨時乗船所、藩主の休息所となった。その後、文久元年(一八六一)には松山藩が購入した西洋型帆船「弘済丸」などの停泊所として使用された。
 明治維新後、三津浜・高浜の築港計画が各方面から提唱されたが、具体化するまでには至らなかった。明治一九年七月、小林信近らは高浜築港の目的をもって、道路改修・海面埋め立てを出願して県の許可を得、梅津寺の寄洲に沿って道路を改修し、高浜の一部を埋め立てて桟橋を架設した。この高浜築港の推進は、明治二〇年九月に創設された伊予鉄道会社の路線拡張とも関連し、同社社長となった小林は、同二六年四月に松山~三津区間の鉄道路線を高浜まで延長した。さらに、井上要らは、同二七年七月高浜築港期成同盟会を設立し、同三〇年と翌三一年の通常県会に内務大臣に対する高浜港の特別輸出港及び外国貿易港指定を要望する建議を提出し、可決を得ていた。こうした動きは、井上ら進歩党系愛媛同志会の手によって進められてきたが、同三一年八月の憲政党愛媛支部の結成を機に自由党系の藤野政高らが同盟会に加わることとなり、高浜築港は超党派の運動に発展した。
 その後、中央政界における憲政党の分裂により県政界も二大政派に再び分裂したが、県会で多数派を占める井上要ら憲政本党非増租派は、明治三五年三月臨時県会に上程された一〇か年継続土木事業案に、高浜の四十島と陸地をつなぐ防波堤工事を内容とする高浜築港を加え、これを可決した。ついで井上の奔走によって、翌三六年三月大阪商船豊浦丸が高浜寄港を開始し、同三七~三八年の日露戦争中にあっては、松山・高知連隊の出征、ロシア兵俘虜の輸送などに同港が使用され、宇和島運輸会社の商船なども高浜のみに寄港するようになった。これに伴い、海岸埋め立て、道路改修、新桟橋の架設が進められ、明治三九年九月一日高浜港開港式が挙行されるに至った。
 これに対し、古来港湾として存在し、人口一万有余を有する三津浜町は、豊浦丸などの高浜寄港や高浜開港計画などに大きな衝撃を受け、港湾都市三津浜の生命にかかわるものだとして、町を挙げて猛烈な対抗運動を開始した。
 明治三六年三月一七日三津浜町会は、本町の西海面に一大埠頭を新設して近代的設備の港湾に改修することを決議し、築港設計調査費を計上するとともに、その測量設計を帝国工科大学の南博士らに依頼した。また、三月二六日には、願成寺に町長逸見義一以下一〇〇余人が集まって三津浜築港推進を決議し、具体的な運動方針を協議し、政友会愛媛支部に協力を求め県に働きかけることとなった。四月二五日、逸見町長らは支部幹事藤野政高・柳原正之・大久保雅彦らと会談し、三津浜を同会の地盤とする代償として築港推進に関する同会の全面的支援の確約を得た。後年、藤野は三津浜築港を選択した理由について、本来自分は三津浜改修が希望であったが、明治三二年ごろ、当時の千種県技師の見積もりでは二〇〇~三〇〇万円を要するのに対し高浜築港は三〇万円程度で可能だといわれたため、やむを得ず従来の希望を捨てて同盟会に加入した、ところが三六年四月に三津浜町長らと会談した際、南工学博士らの見積もりでは三〇万円内外で三津浜築港が可能と聞かされ、政党員である自分は多数の人民の幸福を希望する見地から高浜は人口少なく三津浜は一万人が港湾によって衣食しているところで高浜の繁栄は三津浜の困苦になると考え、翻意したと述べている。こうして三津浜町では、五月に三津浜港湾改修協賛会が結成され、対抗する体制が整ってきた。
 この密約は、政友会が多数派となった同年一一月の通常県会で、三津浜築港測量費五、〇〇〇円を可決するなど早速実現に移された。しかし、先述のように日露戦争時の高浜港使用で同港の整備が着々と進行し、同三九年九月開港式がなされるにおよび、三津浜町民の焦慮が増幅され、九月四日に開催された町民大会では、伊予鉄道不乗運動を起こし、さらに県当局に反省を促すとして赤十字社・海員掖済会を退会し、場合によっては徴税の義務を破棄するなどの強行手段に訴えようとするまで激した。こうした強硬論は、逸見町長らの要請に応じて出向いた藤野政高らの説得・慰撫によってようやく鎮静する有り様であった。

 日露戦後経営と安藤県政

 安藤知事就任一年後の明治三八年通常県会は、日露戦争後最初の県会であった。安藤は、国税の負担はいまだ軽減せず歳入増加を計ることは極めて困難であるため、一般経費の緊縮・土木継続費の巨額の繰り延べなど前年度と異なるところなしとしながらも、就任以来の県内巡察で県事業として実行必要なものが多くあると認め、明治三九年度予算においてわずかだが戦後経営の端緒を開くと述べ、西宇和郡立商業学校の県立移管、農業試験場の整備、水産試験場の宇和島移転などのため、前年度予算より六万円余の増額を図っていた。
 翌三九年通常県会では、四〇年度予算編成方針を、土地に賦課する制限がいまだ撤廃されず歳入増加を図ることが困難なため、大体前年度の計画を踏襲したとしていたが、一方財政の許す限りは教育の振興、産業の奨励及び交通機関の施設など極めて急要に属するものを選び、拡張・創設して県民の福利を増進せんとするとして、村立弓削商船学校の県立移管や各種教育補助などで前年度比六万余円を増額していた。安藤県政は、この年から戦後経営施策の方向を鮮明にしてきたわけである。
 明治四一年になると、地方税制限の緩和が施行され、戦後経営に弾みがつくことになった。そこで後述の二二か年継続土木事業が立案・施工されるとともに、四一年通常県会では、師範学校の女子部を分離して三か年計画で女子師範学校の創設が決定され、その他勧業面での整備充実が図られた。
 こうした中で、安藤は戦後経営の最重点策を土木事業の推進に置いた。この施策は、鉄道敷設・道路開鑿(かいさく)・港湾改良など産業基盤を整備することで産業を振興し、その面から日本の国力を増進しようとする政友会与党の第一次西園寺内閣の積極的政策と一致していた。明治三九年通常県会において安藤知事は、議員から出された土木事業優先の施策や財源捻出策である地方税制限に関する規定の解除についての主張に対して、県下全体にわたる土木計画を目下調査中であり腹案もあることを示唆し、さらに、地方税制限解除に関しては昨年の地方官会議において解除積極論を一人で主張、本年の会議では同調者があったので、連署書面を提出したと答弁し、解除論の先頭にあることを強調していた。
 一方、議会側では藤野を中心とする政友会幹部は、戦後経営として土木計画の企画を第一とする意見を等しく主張するところであり、知事に推進方を要望し、知事からは県の調査とは別途、党独自の調査を求められていた。また、進歩派でも、「土木事業ハ県下利源ノ開発ニ関シ幸福増進ノ根源ニシテ戦後ノ最モ急務ナルモノ」との立場から、速やかに調査完了のうえ臨時県会を開催し、該予算の提出を望むとの建議案を提出するなど、土木振興については政友派同様積極的であった。

 大野ヶ原軍用道路の開鑿と土木事業に関する諮問

 こうした状況を受けて、安藤知事は、明治四〇年五月に臨時県会を招集し、「今ヤ国運ノ進展ハ益々交通機関ノ必要ヲ感シ戦後経営ノ事業一ニシテ足ラスト雖モ運輸交通ノ利便ヲ開キ富力ノ増進ト人文ノ啓発ヲ促スヨリ急ナルハナシ」と式辞を述べ、大野ヶ原軍用道路の開鑿予算を計上し、土木計画に関する諮問案を提出した。
 大野ヶ原軍用道路とは、県道土佐街道上浮穴郡父二峰(ふじみね)村字落合から分岐して大野ヶ原に至る道路のことで、県は明治四〇・四一両年度の継続事業として県債により三二万一、四三〇円を支出しようとするものであった。日露戦争後の明治三九年、陸軍省では四国に砲術演習地を設置するため候補地を物色し、山砲はもちろん野砲演習も可能な上浮穴郡大野ヶ原を適地に指定した。この誘致に関して、安藤知事は大野ヶ原に通じる道路改修を県において実施・提供する条件を申し出ていた。県会では、安藤正楽が「此事業タルヤ純然タル国家事業ニシテ其性質ノ分明ナル本事業ニ対シ県トシテ何等施設ヲ許スヘキニアラサルナリ、……之ヲ国家事業トスルナラハ仮令ヒ不生産ニモセヨ暫ラク之ヲ忍ブノ外ナケレト、不生産的ニシテ何等ノ利益ナキ事業、而カモ軍事上ノ設備ヲ県事業トシ、其費用ニ参拾弐万円テフ巨額ヲ請求スルニ至ツテハ吾人ハ唯吃驚ノ外ナキナリ」と批判するなど進歩派の反対を受けたが、「不毛ノ地ヲ拓キ一ハ軍事上ニ便宜ヲ与へ他ハ殖産上ニ利益アルヘシト信ジタレバコソ発案シタルモノ」と答弁する安藤知事を支持する政友派によって、原案が可決された。しかし、県財政緊縮の折から、三二万円の支出は大きな負担であった。そこで、安藤は陸軍省と交渉を重ね、ついには陸相寺内正毅(まさたけ)との直談判によって、道路建設事業を同省に移管しその事業費の二分の一に当たる一六万余円を寄附することで了解点に達した。このため、安藤知事は一二月通常県会に大野ヶ原道路開鑿費寄附案件を提出し、承認を求めた。県会では、進歩派議員から工事費が半額に減じられたことを歓迎しながらも、「実ニ戦後経営民費多端ノ今日ニモ拘ハラズ陸軍省ノ費用ヲ分担スルハ遺憾ニ思フ」といった疑義が示されていた。この点については、安藤と提携する政友派も本来、「費金の大なるに驚きて喜ばざる処」であったが、安藤知事が「師団に対して軽率にも県費改修を受負ひたる結果、軍用道路の通過は死力を賭して之れを勉め」なければならなかったので、政友派の要求する土木計画を条件にこれに同意させたと「愛媛新報」掲載の「安藤知事横暴史続編」(明治四〇年六月一〇日付)に述べている。
 次に、土木事業に関する諮問であるが、第一は既に継続中の二土木事業に三津浜築港など新規事業を加えた計画諮問(表2―111)であり、現状では「地租ノ附加税ニ対スル戦時ノ制限ハ仍ホ未タ撤廃セラレサルニ依リ今ニシテ之レカ施行ニ着手スルヲ得サルハ遺憾」であるが、「必スヤ近キ将来ニ於テ適当ノ財源ヲ得ヘキ見込アルニ依リ、此ノ場合ニ於テハ直チニ前記重要ナルエ事ハ継続事業トシテ之ヲ起工スルノミナラス、市町村ニ於テ施設スル急要ナル事業ニ対シテモ亦相当ノ補助ヲ与ヘ以テ此ノ目的ヲ遂行セントス」というものであり、政友会支部が求めていた土木事業推進にほぼ即応した内容であった。また第二は、明治三五年度より実施中の継続土木事業中、高浜波除堤及び船越堀切工事は不急の事業であるので削除しようとする諮問であった。
 前者については、県参事会より「(今治街道の併行線である)龍岡街道ヲ除クノ外ハ異議ナシ」という意見書が提出された。さらに一三名の進歩派議員からは「諮問列記ノモノノ外尚必要ナル事業アルヲ認ム………当局者ハ………速ニ調査ヲ遂ケ設計及予算ヲ定メテ計画ノ発展ヲ為サンコトヲ望ム」との答申案が提出されたが否決され、続いて参事会修正案が可決された。後者については、宮川県技師から三津浜港が高浜港より数段有利である旨の調査結果が示され、諮問案支持多数の答申が確定した。
 かくして、夏井保四郎(政友会)の言う「此諮問案通リヲ実行スル上ニ於テ約七百万円ノ費用ヲ要スルト云フ」大土木事業計画の実施は、いつに「地方税賦課ニ関スル制限」の緩和による財源措置の到来を待つばかりとなったのである。

 政友・進歩両派の論争

 この大土木事業計画は、県政史上空前の政争史を生むことになった。この五月臨時県会を前にして、まず進歩派の「愛媛新報」紙上にその発端が現れた。すなわち、進歩派幹部の井上要が、四月五日から二五日にわたって「安藤知事横暴史」を連載し、知事と政友会の提携によるこの計画を批判し、安藤とその政治を完膚(かんぷ)なきまでに激しく攻撃した。その緒言によれば、

 安藤氏が知事として愛媛県に在る事茲に四年、その間、彼果して何事をなせる、(中略)教育、衛生、土木、勧業其他百般の事に於いて知事として貢献したるところのものは絶無なり、(中略)然かも彼は、昨年以来俄かにその爪牙を現はし、県下一部の人士と結托して偏私邪曲を営み、法規を無視し県政を紊乱(びんらん)し以て害毒を我が愛媛県に流さんとす、

と罵倒(ばとう)し、さらに、昨三九年以来特に政友会寄りの姿勢を取り始めた背景として、昨年の地方官会議の際に原内相ら政友会幹部と密談して、「愛媛県の党勢を拡張すべきことを条件として永く此地に在住すべきの保障を得たり」と指摘し、「茲に於いて愛媛県に於ける政友会員と結托し、あらゆる手段を以て政友会の党勢を拡張することは彼れの義務となれり、彼れが横暴偏私を営むことは即ち彼れの地位を高むる所以(ゆえん)となれり」と述べた。
 この横暴史に対し、政友派の機関紙「海南新聞」は、四月二六日から五月二二日にわたって弁駁(べんばく)の社説を連載し、「彼等前には県会に多数を占めたるをたのみとして種なる悪事を企て自案の私利を営み私人の腹を肥すに汲々たりしが、悪運遂に久しからずして忽(たちま)ち県民の信頼を失ひ県下各郡の民心悉(ことごと)く霧散し、進歩党は一変して退歩党となり、而(しか)も内訌の絶間なく所謂内憂外患交々至るの窮態に陥ゐり、終に奈何(いかん)とも為すなきに至れるを以て…最後の手段として愛媛新報紙上に毒言を吐きたるもの即ち是れ一編の『安藤知事横暴史』なりとす」と嘲笑し、さらに、土木事業については横暴史に対し、次のように反駁した。

 愛媛県に大土木事業の必要あるは県下百年の為にして又実に県民の輿論(よろん)といふべき也、安藤知事が赴任以来此所に着眼せられたるは流石(さすが)に知事の職責に背かず、よく県民の輿論を視て最も本県に痛切なるものを施行せんと企てたる也、而して政友会の方針がたまたま知事の意見と一致して愛媛県会の決議が凡(すべ)て積極的に一決したるは毫(すこし)も怪むに足らず、何となれば彼等進歩派の議員すら昨冬の県会に於ては本県に土木事業を起すの急を唱え一の建議案を提出して政友会を出し抜かんとしたは今尚ほ県民の記憶に新たなる処……即ち土木事業は県下の各政党各政派間に一致した方針にあらずや、然るに進歩派は不幸にして少数なるかため此の大事業を自派に横取りすること能はず、優秀なる政友会の手によりて決議され協賛さるゝを見て嫉妬怨恨の情に堪へず(中略)彼等が今日知事に対して悪声を放ち政友会に対して呪咀(じゅそ)せんと欲するは即ち彼等が嫉妬怨恨の声に外ならず、陰険手段に外ならず(中略)而して彼等か奈何に悪声を放つにも不拘本県の大方針は毫も変更さるゝものにあらず、

 こうした「海南新聞」の反響を受けた「愛媛新報」は、さらに五月二八日から六月二三日にわたって「安藤知事横暴史続編」を掲載し、「詐欺的土木計画の由来」などを進歩派の立場から詳説して、安藤県政の糾弾に拍車をかけた。

 別子銅山争議・四阪島煙害の対応

 明治四〇年六月四日から三日間、別子全山をゆるがした大暴動が発生した。原因は、近代的企業経営を図ろうとする住友別子鉱業所の労務管理制度の抜本的改革とこれに対する労働者の不満を背景とし、直接的には賃上げ要求を提出した首謀者の解雇であった。当初、不穏の情報に基づいて警察側では、角野分署長は巡査一〇名、鉱業所請願巡査二八名により警備に当たっていたが、暴動化したため県保安課長に要請し、東予地方各署からの応援一〇〇名で強化した。しかし、暴動の激化に伴い、県警務長和田健児は警部九名・巡査一一〇人を率いて松山を出発、六日午後別子山に到着、厳戒体制のなかで説諭にあたり、ようやく鎮圧した。
 この事件について、政府に状況報告のため上京した安藤知事は、「今回の暴動は新旧両思想の衝突とも言うべく、即ち住友には先年来万事改良を計る為、新知識ある者を雇入れ旧弊を打破して改良に努め、坑夫側に在りては、また万事改良されては不利益の点甚だ少からざるより、漸次悪感情を抱くに至りしなり」と新聞記者に語り、また鎮圧指揮にあたった和田警務長は、「決して社会的深き意味ある行動ではない、彼れ坑夫等は極めて単純なので、詰まる処は鉱主側の当局者が操縦其宜しきを得ぬのである、斯る銅価は騰上して利益の多大なるにも拘わらず、其利益の幾部を彼等にも分ちて以て壟断(ろうだん)を私するといふ風を今少し改めたなら、此のやうな事は発生しなかったと思ふ」(海南新聞明治四〇・六・二三)と談じている。
 この時期、東予地方では住友別子鉱業所四阪島製錬所の煙害が大問題となっていた。明治三九年八月、周桑・越智両郡の一九町村長は連署して被害状況を調査されたい旨安藤知事に上申書を提出した。事態を重視した県当局は翌四〇年六月庁内に県臨時鉱毒調査会を設け調査を開始した。その結果、同年九月の第一回報告において、明治三九・四〇両年度の越智・周桑両郡における作物被害の直接原因は四阪島熔鉱炉の煙害であると断定した。四一年春になると硫煙の飛来激しくなり、麦作に未曽有の減収が見込まれるに至った。四月末、周桑郡三芳村に農民三、〇〇〇名が集会し、県知事、別子鉱業所支配人への煙害解決要求、大阪鉱山監督署・農商務大臣に陳情書提出を決議し、県農会もまた煙害解決の建議を総会で決議して県知事に送付した。
 これを受けた安藤知事は、四月末から五月初めにかけて周桑・越智両郡の被害地を視察し、煙害状況報告書を内務・農商務大臣に提出した。また八月一八日には、松岡農商務相に対し関係の局長・技師派遣を要請するとともに、住友吉左衛門に対し重役の派遣・現地視察を求めた。こうして四阪島煙害問題は重大な社会問題として表面化したのである。以下詳細は別項に譲ることとする。なお、県会は、明治四一年及び四二年通常県会において内務大臣と県知事に対し建議「煙害救済ノ義ニ付キ陳情」を満場一致で決議、送付していた。

 県庁舎の増改築

 明治四二年六月二六日午後二時、県庁舎の増改築落成式が、同庁舎正面上り口で挙行された。県知事安藤謙介の式辞、県会副議長門田晋の祝詞が朗読されて式は終了した。安藤知事の式辞は次のようであった。

 国家の進運に伴ひ行政の事務亦其の多きを加ふ、然るに本庁舎は(明治)一一年の創築に係り漸く其の狭隘を感するのみならず執務上の不便も亦た少しとせず、由て百方考慮し、新に県民の負担を増加せしめざる範囲に於て副築を設計し、県会の協賛を経て昨年一一月廿日を以て工を起し、茲に落成を告ぐるに至れり、此副築中素より輪奐宏壮(りんかんこうそう)の美なしと雖も聊(いささ)か執務上の不便を免かるゝに足らんか、今而後益々時務を企画して一県の福利を増進せしめ以て県民の信頼に負かざらんことを期す、

 引き続いて午後四時から、官民五〇〇余名を招いた知事主催の園遊会が催された。あいにく降雨となったため、男性は道の向かい側の県立松山中学校雨天体操場、女性は官邸内庭にテントを張った仮設饗応場を会場とし、余興は新栄座に興行中であった京山若丸の革新浪花節と芸妓の手踊りなどが演じられ、盛大であった。
 新築の庁舎は、従前の平家建てに替わって、木造二階建て、本館七五坪、玄関七坪五合、渡り廊下二階建て一五坪、総計九七坪五合で、間口一五間、奥行き五間、高さ四八尺の洋風建築であった。特徴として、玄関下部はコリント式、上部はドーリア式の構造で、外部の壁はドイツ式見透し張り、天井は新式打ち出しメタル張り、屋根瓦は耐火アスベストを用いていた。開庁当時は、玄関を入って東側に人民控室と受付室の二室、西は三つの応接室と町村吏員休憩室及び吏員宿直室とし、正面階段から上った二階は東側を知事室及び官房に区画、西は五間半に四間の参事会室に用い、東西の壁面には歴代一三知事の肖像を掲げていた。
 この増改築については、明治四一年五月の臨時県会に、本館七五坪、付属玄関七坪五合、在来事務室移転並びに模様替え七八坪など一万四、八七五円余が計上され、安藤知事はその式辞のなかで、県庁が狭隘のため執務上の不便を感ずることが久しい、そこで一部の改築を行い、時代の急要に応ぜんとするものであると趣旨を述べていた。県庁舎の改築は明治四一年一一月二〇日起工された。
 その後、同年通常県会において、事務室がなお狭隘であるとの理由で、本館北側の事務室を二階建て(四〇坪)とし、渡り廊下を改築するなど三、一〇三円余を追加し、四二年度には度量衡検定室の副築、玄関建築の追加工事や土木課製図室の増築などの工事を続行したため、全体整備が完了した明治四三年度決算では、三か年で総額二万一、三二五円余の経費を要した。
 この県庁舎は、昭和二年に現在の愛媛県庁が建築されるに伴い他へ移築するため解体されることになったが、その間、明治・大正・昭和の初期まで約二〇年間にわたって、県政の推移を見守ることとなった。なお、図2―39の平面図は、昭和二年時のものであり、当初に比して変改、増改築がみられるが、当時の状況を示すものとして興味深い。

表2-111 道路河川港湾改良調査書

表2-111 道路河川港湾改良調査書


図2-39 解体時の愛媛県庁平面図

図2-39 解体時の愛媛県庁平面図