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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 菅井県政

 菅井県政と県会

 明治三七年一月二五日、本部泰知事が休職となり、後任には栃木県知事であった菅井誠美(すがいまさみ)が任ぜられた。菅井は、鹿児島県士族、嘉永二年(一八四九)薩摩藩郷士佐藤夢介の三男として生まれ、明治三年菅井誠貫の養子となり、同六年家督を相続した。旧名を友輔といった。明治七年内務省権少警部、警視庁権少警部に任ぜられ、同九年一一月末、彼は警視庁中警部として、内務卿大久保利通の密命を受け同僚の中原尚雄ら二三名とともに鹿児島に帰省、西郷隆盛の動向の探索・私学校党の説諭に当たろうとして逆に私学校生徒に捕縛された。これが遠因ともなり西南戦争を誘発したといわれる。戦後、警視庁三等警視に進み、その後宮城県・神奈川県警部長、三池集治監典獄(てんごく)、明治三二年愛知県書記官に任じ、同三四年熊本県書記官、翌年警視・警視総監官房主事から栃木県知事に転じた経歴を持っていた。
 菅井は、本県在職わずか一〇か月で、明治三七年一一月に休職を命じられ、のち私立獣医学校長に就任した。
 日露戦争勃発直前に本県に赴任してきた菅井知事は、戦時下にあって独自の施策を展開する間もなく、しかもその在任中には県会は一度も開催せず休職してしまい、治績を残すまでに至っていない。主要な施策はすべて前任本部知事時代に懸案されていた事項を引き継いだに過ぎなかった。ただ開戦を背景に、地方財政の緊縮方針が採られたため、県当局は明治三七年三月県参事会急施会を招集、明治三七年度歳入歳出予算追加更正案を提出した。その理由は、「今回ノ事変ハ振古未曽有ノコトニシテ国家財政上ニ容易ナラサル関係ヲ来スニヨリ、県民ヲシテ予メ戦時財政ノ急需ニ応スルノ余力ヲ存セシムルハ刻下ノ急務ナリト認メ、従テ県施設経営事業中其緩急ヲ稽査シ時局平和ノ克復ニ至ルマテ之カ中止繰延ヲ為シ、或ハ土木教育及勧業ノ補助ヲ節減シ、以テ県経済ノ緊縮ヲ図リ県民ノ負担ヲ軽減セン」として、地租割五万余円、戸数割二万五、〇〇〇円余など歳入を八万六、〇〇〇円余削除し、歳出で郡市町村土木補助費を全額削除、教育費・教育補助費・勧業補助費の削減、継続土木事業の繰り延べなどを内容とするもので、参事会はこれを可決した。
 このことを踏まえて、菅井が去った直後の明治三七年通常県会の冒頭に、「(前任知事は)時局ノタメ既定ノ予算ヲ変更スルニ当リ他府県ハ大概特ニ臨時会ヲ開キタリ、然ルニ本県ハ府県制ヲ曲解シテ急施会ニテ済マシ巨額ノ減額ヲナシタリ、シカモ中ニハ県参事会員カ異議ヲ挾ミタルモノアリシニ拘ハラス妄リニ原案ヲ施行シタルハ甚タ不親切ト云ハサルヲ得ス」と一部ではあるが施政方針について厳しい批判がなされていた。