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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

三 水産業の近代化 ①

 明治初年の漁業

 明治初年の県下の漁業は、旧藩時代の複雑な漁業慣行や、錯綜(さくそう)した漁業権のままに出発した。廃藩後の行政の対応の遅れで、自立意識の強い漁民は操業範囲を拡大し、結果は紛争が増加して県も対策に苦慮した。漁船の管理や漁業税の徴収は、廃藩後は一九か所の船役所で行ったが、明治七年五月からは区長・戸長の取り扱いとした(民俗上 三〇五)。政府は地租改正に対応して明治八年一二月、海面を官有化して慣行漁業権を撤廃し、借区願により操業させて税収増を図ったが、漁民の猛反対や混乱により同九年七月には旧慣に戻し、府県税を取る形に改正した。
 県では明治八年五月からの慣行調査に続いて取り締まり強化に乗り出した。しかし香川県との合併で漁場が広域となり、再び紛争が増加したため同一〇年一二月「漁場及営業取締収税仮規則」(資社経上 五〇五~五〇九)と、同一二年九月の同法の修正「漁業規則」を布達した。同法は県の海域を二三区(伊予分は一四)に分け、各区に二、三人の取締人を置き、操業希望者には鑑札を交付して、過去五年間の平均漁獲額の三%の漁場税、一~〇・二%の営業税を取るものであった。その結果各村浦から借区願いが相次ぎ、広く公許されたために、旧庄屋や古百姓(ふるびゃくしょう)らの専有漁場が、一部解放されることになった。
 三瓶湾では漁獲高五〇円、漁場税一円五〇銭の横網代など五四の鰯大網網代鑑札が下付された(「三瓶町誌」)。壬生川(にゅうがわ)浦では鯛鰆大網一(六隻四四人乗り 四五〇円)、巻網一(三隻二四人乗り 一九〇円)、繰網一(四隻二六人乗り 五八円)、鯖小網三(各一隻四人乗り 一〇五円)の網営漁が申請されている(東予市教育委員会所蔵文書)。南宇和郡内海村でも漁師が我先にと漁場貸与・営業願を出し、その件数は鰯大網三〇、ハツ小網六七、メジカ小網など合計二二六件に及んでいる(「御荘町誌」)。
 しかしこの借区制を特色とする漁業規則は、第一〇条仮規則では他県の者も県下各村浦に寄留して従うべきとしたため広島・岡山両県から異議申し立てがあり、内務省から改正の指示を受けた。ために県は明治一五年二月にこれを改正して漁区を廃し、一六条を削除して従来の慣行重視の原則をとった。借区制を廃止し、権利を営業権に一本化し、知事の委任事項として、郡長に操業許可証の交付権を与えた。ために広島県側の漁民の中には、愛媛の専用漁場が解放されたと解釈する者もあり、後日の燧灘(ひうちなだ)漁場紛争の要因となった。

 漁業法と漁業組合

 県は明治一九年二月一〇日「水産取締規則」を公布して、県下を一五(伊予分は九)水産区とし、区毎に漁業組合と規約を定めることにした(資社経上 五〇九~五一二)。これは旧慣によりながらも、漁具漁法の進歩に対応し、国の「漁業組合準則」とともに、松方デフレ策以降急増した漁場紛争に対処しようとしたものである。第一五(香川分県後は第九)水産区の南北宇和郡では、組合の頭取に赤松泰苞、取締役に森誠一が就任した(「御荘町誌」)。さらに取り締まりのより具体化のため明治二二年一一月一九日、「漁業組合規則」と「漁業取締規則」を公布した。就業者は適宜区画を定めて組合と規約を作り、知事の認可を要することになった。漁業は網漁・配繩漁・釣漁・採藻など九種に分けられ、一帖・一具・一人または一か所ごとに鑑札を受けねばならなかった(資社経上 五一二~五一六)。
 明治二六年に国会に提出された「漁業法」が、ようやく同三五年五月に公布された。同法も基本的には旧慣を成文化したもので、漁場を定置・区画・特別・専用と区分して漁業権を設定し、漁民の保護と漁村の維持を図るものであった。漁業権は移転防止のため原則として組合有となり、地元専用漁業権は地付漁業組合のみに認められた。県に提出された漁業権の申請は、共有二、三八四件、専用一、九四六件など八、〇〇〇件を越え、九か年をかけて慎重に決定された(「愛媛県誌稿」下)。しかし本法は、明治三〇年ごろからの漁船の近代化や操業の沖合化と合わず、漁場紛争に解決を与えるものではなかった。
 同法により明治三五年末から翌三六年にかけて、ほぼ旧村単位に漁業組合が認可されたが、現八幡浜市域の場合は舌田(しただ)・川上など六組合で、平均組合員数は六〇名であった(「八幡浜市誌」)。現長浜町域七組合のうち青島漁業組合は、大正三年版「愛媛県水産要覧」に模範組合として紹介された。それによると同組合は漁獲六万円余をあげ、避難港築造・魚付林経営・資金貸付・共同販売・壮丁訓育、青年団活動など広範な組合活動を行っている(「長浜町誌」)。漁法は伝統的な鰯揚繰や吾智網などであった。
 組合の得た漁業権は、伊予郡松前(まさき)浜の場合、専用漁場九・特別漁業二・区画漁業権二で、漁業の種類は鰮(いわし)地曳四九・手繰(てぐり)網三二・釣二三など九種類一三五件にわたった(松前村郷土誌)。今治漁業組合では専用九・定置(区画)二・特別八・入漁権二で、漁法は鰯(いわし)地曳、イカナゴ網、磯建(いそだて)網、鯛吾智(ごち)網など二五種であった(「今治市誌」)。なお、明治一九年ごろから越智郡漁業組合連合会や宇和四郡漁業組合など各水産区内調整のための組合や傘下の旧漁業小組合も成立していたが、漁業法によって改組合併が行われた。明治二二年の漁業取締規則なども、同法に合わせて同三二年七月に改正を行った(資近代3 二三五~二三八)。
 漁場・養殖・水産加工などの研究試験のため、県では明治二五年から、水産巡回教師の派遣あるいは水産物試験費を支出してきたが同三三年四月、県庁内に水産試験場を設置した(資近代3 二四〇)。同場は明治三九年四月に宇和島に移転し、新居郡での海苔やかきの養殖、宇和海での鯛配縄実験などに成果をあげた。また各所での講習会や実地指導も、毎月二回ずつ行った(「愛媛県誌稿」下)。

 漁業税と魚市場

 近世の漁民は、多種多額の運上と水主(かこ)役や現物納、冥加(みょうが)金を負担し、漁業は各藩の大きな財源となっていた。廃藩後は網干場税、魚税を負担したが、明治八年から魚歩一税、同九年には網代税・魚市税・川魚瀬張税となり、同一〇年から借区制による漁場税と、個人へは漁具漁法によって七等級の漁業税が課せられた。明治一二年に海藻税、のち採草税を加え、同一五年には漁法による五種の営業税とし、同一九年に漁業採藻収税規則の改正で六種とした。採藻税は収穫の二%である。明治二二年は収税規則を全面改正し、年々減少する漁獲高による方法を改め、漁業税を町村単位の定額とし、同時に河川漁業税や採藻税(一人五銭)も定額とした。その後は明治三〇年、同三二年、同四四年二月に多少追加修正が行われただけである。越智郡菊間村では明治二四年から同三五年までは三〇戸、同三六年から大正二年までは三四~四〇戸が六等級の海面漁業税を納付している(「菊間町誌」)。
 魚の売買は、維新後は藩の御用商は廃業する場合が多く、新興商人数戸が組合を作って開市する例がみられた。ただ初期の魚市は、旧城下に立地することが多く、南北宇和郡でも八市場のうち宇和島と吉田魚棚(うおたな)町が各三であった(表2―41)。八幡浜浜之町にも明治初年に魚市が成立したが、売掛代金の回収困難その他で、明治三〇年九月に八幡浜魚市㈱が設立するまでに場所・経営者が六回も交代している(「八幡浜市誌」)。吉田でも本格的な魚市場経営は、明治三五年設立の合名会社吉田魚市場が初めてである(「吉田町誌」)。松山では長い伝統の三津魚市場が、明治一三年二月に会社組織として近代化を試みたが、新興の愛魚社もこれに対抗した。しかし明治二一年五月両社は合併し、三津魚市場は県下最大の魚市として知られた。市場に欠ける南宇和郡では、夜通し天秤棒で担って、宇和島の朝市へ出荷するしかなく(魚駄賃(うおだちん)という)、鰯などが豊漁で加工能力を越えた時は、肥料となった。
 魚市税は、明治一二年から「地方税規則」によって売り上げの二%になったが、同二二年からは七等級の定額に改正され翌年には六等級となった。村浦の小規模市場の乱立に対しては、まず明治二六年の「魚市場取締規則」によって、開設を県の許可制とし、同則の改正で整理統合を進めた。今治町では数軒の魚問屋が海岸や道端で営業し、価格や取り引きが不安定で、漁師・町民ともに不便であったが、明治四三年に阿部光之助らが㈱今治魚市場を開設し、翌年の田坂亀二郎らの設立した合資会社を吸収一本化した(「今治市誌」)。

 漁法の発達

 愛媛の漁業は、瀬戸内と宇和海では漁種漁法に差があり、その発展過程も異なる。明治期は沿岸漁業の確立期であるが、回遊魚の減少によってその生産高は停滞した。明治三〇年以降は、漁網が綿糸となり能率的となって沖合や遠洋漁業も伸展した。漁法は一〇〇種以上あるが、沿岸漁業では釣・延(のべ)縄の外、地曳網、手繰(てぐり)網、小網、敷(しき)網、建干(たてぼし)網、底刺網、船曳、八手(やつで)、地漕(じこぎ)、桝立(ますだて)網、沖合漁業では旋網(まきあみ)、打瀬(うたせ)網、流網、大敷(おおしき)網、揚繰(あぐり)網、縛(しばり)網、吾智(ごち)網、巾着(きんちゃく)網、鰕滑網、沖取網などが主なものである。
 鰯漁は、明治二〇年ごろまでは近世以来の地曳網や船曳網を主体とした。しかし同二四、五年ごろから漁獲は明治一〇年代の三割に激減し、代わって沖合の巻網や刺網、明治末期からは巾着や揚繰・四ツ手網が盛んとなった。これら新漁法は、漁船や網子が少数で繰業できる能率的な網で、分配も歩合制から近代的な賃金制へ移行しはじめた。四つ張は、鰯が光り集まる習性を利用し、夜間篝火(かがりび)を焚いて操業するもので、他の網との競合もなく安定した漁獲が得られた。
 南宇和郡内海村の浦和盛三郎は、明治二二年五月に米国の巾着網を参考にして浦和式金輪網を考案し特許を得た。はじめカツオ・マグロを追ったが船足が遅くて漁獲が上がらず、鰯・鯖用に変更して成功した。巾着網の先駆者として功績が大きい。鰯巾着は明治二九年に宇摩郡、同三二年越智郡、同三五年伊予郡上灘(かみなだ)で使用され、同三七年には県水産試験場でも試験操業を行って次第に普及し、鰯漁の中心となった。同網も魚群を見つけて点火集魚する能率的漁法で、明治三八年に南宇和郡だけでも二四帖の新設をみた(「御荘町誌」)。
 明治初年から沿岸雑漁の主役であった手繰網は、漁具の改良で打瀬網と変化し、明治三〇年代にその全盛期となった。大きな帆を張り風力を利用する漁法であるが、船体・網ともに競って大型化し、より沖合へ進出して大量の漁獲を狙った。鯛漁も、明治初期は近世と同じ地漕、吾智網、葛(かずら)網を使用した。漁獲は沿岸漁業の鰯に比して変化は少ないが、明治二四年三五万七、〇〇〇貫(全国五位)、同三四年一九万七、〇〇〇貫(八位)、同四〇年二五万八、〇〇〇貫(二位)と減少気味である(農商務省統計)。
 新漁法の鯛縛り網は、はじめは土佐から伝来した前繰網や、魚島の前原紋左衛門が改良した網が使用された。明治二五年ごろは安芸・備後にはじまる改良網が燧(ひうち)灘に五〇帖も普及し、特に吉田磯を中心とする魚島近海が好漁場であった。縛り網は一〇隻の漁船と漁夫六、七〇人の分業による雄壮な漁法で、瀬戸内の漁業に活況をもたらした。

 遠海出漁

 明治後期の漁業の特色の一つに、外地漁業の発達がある。日清・日露の戦勝の結果、領土と海域が拡大し、漁民の安全の保障や有望漁場の発見によって、遠海出漁が増加した。韓国水域へは明治一〇年代から出漁し、同二三年一月に「両国通漁規則」が結ばれ、鰯を主に鯛や鯖、鰆(さわら)などを曳網・流網・延縄などで取った。朝鮮半島南岸の巨済島、絶影島、馬山浦などが主要漁場である。越智郡魚島から出港した鰯網の場合、一船団は網船運搬船各二隻と小船一隻に約四〇人の漁夫で構成される。早い者は一二、三歳から乗り組む。漁場まで約一〇日間の荒海を五丁櫓で押し切り、約一〇か月間の重労働を続けた(「魚島民俗誌」)。
 遠海出漁の漁獲は、明治三五年で県総漁獲の五・四%、同四五年では一五・五%となっている。韓国出漁は出稼ぎ的漁業でいわゆる遠洋漁業ではないが、その下地となるものであった。大正元年末、県下には二六の遠海出漁組合があり組合員は七〇〇名以上であった。各組合は相互扶助や分配、災害時の見舞金などを定めた仲間規約を作っていた。県では明治二九年度から調査監督費と出漁者の食費補助、同三三年度からは漁船の事故対策のため、新造船について一隻七〇円を限度に一、五〇〇円以内、組合経費として八〇〇円を補助した。明治三八年度からは出漁団体連合会へ一括補助と改めている。同三五、六年ごろから、韓国に移住して操業する者も増えたため、同三九年から家屋建築や畑地買収の補助も開始し、明治末年までに九七戸分一万三、〇〇〇円を支出した。なお明治二九年四月には台湾沿海の資源調査を行っている。
 韓国以外では明治二六年に沿海州のサケ漁に出漁した波止浜の八木亀三郎、同四二年にカムチャッカ西岸に出漁した三瓶の朝井猪太郎らがいる。進取の気風の強い南宇和郡船越地方では、オーストラリアで真珠貝採集に従事し、明治四四年一〇月、木曜島を中心に操業する浜田才市ら三八名は、平城観自在寺に仁王像を寄進した(「西海町誌」)。

 漁場紛争

 県下の沿岸には多数の漁村が連続し、漁場を接するため、漁業制度の変革期であった明治初年は特に紛争が多い。県では明治一〇年以降独自の漁業規則や漁区を定めて、その防止に努めた。漁業法施行以後は、件数は減少したが紛争は町村や郡単位となって大型化した。
 燧(ひうち)灘は全国一の鯛漁場で、隣県からの入漁も多く、早くから紛争も記録されている。対広島県では明治六年八月から同二〇年六月の間に三九回の紛争があり(愛媛県水産例規)、対県交渉や裁判事件に至るものもあった。県では明治一九年から全県下と広島県漁村に依頼して入会慣行を調査し、対策を検討中の同二六年五月に両県民の乱闘事件が発生した。この解決は難航したが、明治三六年一一月に政府は今治・桜井など一六漁業組合に燧灘の漁業権を認め、広島県側には一定数を限っての入漁を許した。しかしその後も侵漁は続き、明治四四年一二月の農商務省の調停でやっと協定書が締結された。越智郡の単位漁業組合や関係町村は、翌年六月に燧灘共同専用漁場の出願をし、大正三年四月燧灘漁業連合会を組織して、漁場の保護に努めた(「燧灘漁業史」)。
 宇和海でも近世から入漁慣行があったが、明治に入って大分県漁民の侵漁や紛争が増加した。明治一二年九月、県は入漁の隻数や料金などの事前協定を要望し、宇和四郡漁業組合でも再三大分県側と交渉した。明治四四年の宇和島・別府会談でようやく妥結をみ、翌年一月に協定書を交換したが、今治漁民の大分県域出漁では、同地の妨害により操業不能の状態であった(「今治市誌」)。
 近世、宿毛湾頭の沖ノ島北半分と姫島・鵜来島は宇和島領であったため、同湾は南宇和郡漁民の鰯・鯵(あじ)・烏賊(いか)などの重要漁場であった。しかし明治五年の漁場紛争を機に、三島が高知県域となり、明治一一年に決定された海面の境界線は、県側の漁業に著しく不利であった。ために東西両外海村の漁民は、慣行権により宿毛湾入漁を続けた。高知県側は、明治二〇年四月に高知県海面漁業組合を設立し、愛媛県入漁者の鑑札料を、同県漁民の一五倍の一円一〇銭とし、同三二年には沖合への入漁にも鑑札を要求して、本県漁民の締め出しを図り紛争が続いた。農商務省の調停により、明治三三年四月に協定が結ばれたが、漁業法の施行で失効となり再び紛糾し、同四四年七月に再度協定が結ばれた。しかし大正期に入ると、漁船漁具の進歩で紛争が再燃した(「愛媛県巻網漁業史」)。

 水産加工と養殖

 近世の水産加工は、漁肥を主としたが、明治期は食生活の向上や軍の需要、県の奨励などにより乾魚が中心となった。また各地特有の加工法が均一化して、品質が向上した。煮干鰯は、内村式四連窯と矢野式乾燥器によって、能率が向上した。南宇和郡の鰹節は、西外海村猪崎保直の運搬船の考案や、石油発動機の使用によって新鮮な原料が提供され、高知や鹿児島などから技師を招いて品質改良を図った。缶詰製造は、明治二八年に宇和島の宇都宮次郎が輸出用に開始した。日露開戦により明治三七年五月から翌年一〇月の間に、県から軍に納入した水産加工品は缶詰五万八、〇〇〇貫(一二万七、〇〇〇円)、煮・丸干鰯三万六、〇〇〇貫(六万六、〇〇〇円)、削節二、三五六貫(五、四八九円)であった(「愛媛県誌稿」下)。蒲鉾は宇和島・今治など城下町で起源が古い。明治末期、三津には七軒の業者があった。八幡浜の創始は明治二三年で、宇和島から来住した鈴木峰治郎による。
 県下の水産養殖場は明治四四年に一三七か所六七万坪、大正二年では一六四か所二〇〇万坪であり(「愛媛県誌稿」下)、明治末期が急成長期であった。牡蠣(かき)は西条沖の干潟が先進地である。県でも温泉郡山西村(現松山市内)に、一五町歩の貝類蕃殖試験場を設け、明治一三年二月から、牡蠣と真珠貝の生育試験を行っている(資近代1 七四三)。その後同四四年に新居郡多喜浜村(現新居浜市内)、温泉郡新浜村(現松山市内)に牡蠣原種地を設けた。今治城濠では、明治一五年から広島から種牡蠣を移入し、増殖に努めた。
 海苔養殖は農家の副業として発達、明治一八年一〇月に西条の村上房太郎が篊建(ひびだけ)法、そのころ近藤定吉・藤田善太郎が竹の簀(すのこ)により営業した。明治三〇年代の県水産試験場の指導に続き、同四四年八月から禎瑞(ていずい)漁業組合の津島増右衛門が、各地を視察して技術を改良し、漁民と海面使用を交渉して生産拡大に努力した。県下の真珠養殖は、明治三九年の南宇和郡御荘村小西左金吾の試験にはじまる。同四二年一一月には内海浦漁業組合から養殖漁業権を得て、三重から海女(あま)を招いて本格的に着手した。県水産試験場でも同年から御荘湾に試験海区を設け、アコヤ貝の分布や成長調査を行った。

 製塩業の推移

 明治初年の塩田は、近世の各藩の自給体制のままに全国三二県に広く分布した。愛媛県では明治一六年でも八郡二一か村三浦に分布している(愛媛県統計書)。しかし量的には、瀬戸内を巡る十州塩田地域(香川・広島・愛媛など一〇県)で、明治二一年全国塩田面積の五六%、生産高の七七%を示し、塩田規模も一釜当たり一・五~二町歩で、他県の八、九反以下に比して大規模であった。明治一〇年代の県下の生産高は約三〇万石で全国の六・二%、塩田面積は三七〇町歩前後で四・五%であった。郡別では越智郡が約一〇万石を産して全国八位、同郡と新居・野間の東予三郡で県下の九五%を占めた。二四か所の塩田のうち過半は五町歩未満であった。
 十州塩田組合では、近世後期から塩田の効率的経営のため休浜(やすみはま)法を続けて来たが、維新期には塩価が高騰したため不参加塩田が増えた。しかし明治五年ごろから塩価は下落し、労賃や燃料の値上がりで経営が悪化した。明治八年七月、九か国一三浜が参加した同組合員の丸亀集会以降、休浜の増加、相互監視など組合の再編強化を図り、明治一七年ごろからは休浜法を法制化するための塩田条例制定の運動を展開した。やがて十州塩田組合が政府公認となり、未加入塩田にも強力に加入を勧めた。しかし中小塩田は農家の副業的なものが多く、休業すればたちまち経営不能となる、地方の注文に応じられないとの理由であまり参加しなかった。
 製塩改良では、明治一五年に県は内務省雇のドイツ人オスカルコルセルトを招き、波止浜の田窪藤平ら地元の塩田改良家が能率化と優良塩の生産を指導した。塩田側でも経営を会社組織に改めるものが増加した。しかし明治一八年ごろから外塩輸入が増加し、日清戦争後は諸物価の高騰と台湾塩の輸入により再び経営難となり、廃業する塩田も現れた。政府は財政収入増加と塩田保護策の両面から明治三〇年より移入塩に課税すると共に、同三八年六月に専売制を実施し、同四三年からは第一次製塩地整理により、県下でも数多くの塩田が廃業した。

 塩田の経営

 多喜浜(たきはま)は、明治九年に東分・西分・北浜などを併せて多喜浜村となり、塩田経営も協業化に向かった。まず明治一六年に盛塩館を設立して石炭と塩を共同で売買した。また翌年の水害を機に旧藩主松平家所有の塩田を購入して地主経営をすすめ、同二六年には塩業の改良と拡大のため、塩田所有者二七戸と資本金三万円により東浜産業㈱を設立した。
 波止浜(はしはま)塩田も、廃藩後は藩の保護を失って経営難となり、塩浜の合併が進行した。明治九年の塩田台帳によると六軒所有の矢野嘉吉、五軒所有の大沢宣之・今井新治郎・木原直三郎はいずれも地元波止浜の人であった。これら浜持は「塩田組」を組織して経営を相談した。販売は明治初年から製塩会所と塩商社の共同で行っていたが、明治二六年の商法実施によって合併して塩産合名会社となり、さらに塩の専売制により改組して波止浜塩業合資会社とし、営業を拡大した。下部組織には、近世以来の上荷(うわに)組があって、四五株の組頭に統率される仲仕(なかし)たちが荷役を行った。明治三二年に石釜に代わって鉄釜が移入されたが、塩の品質は悪く五等塩が大半であった。
 今治藩直営であった伯方塩田は、明治九年に旧藩主が売却した。しかし島内で購入し得た者は少なく、明治二〇年四六浜(七九町八反余)の所有者のうち深見藤平(三浜所有)ただ一人であった。今治町が深見理平(六浜)外一二人で合計二六浜、近島が岩城の三浦与惣治ら四人(六浜)であった。所有者に綿業経営者が多いことが注目される。浜主ら一五名は、販売購入の便のため明治一八年八月に「木浦塩田会社」を設立し、規則一六章一〇〇か条を定めて浜子の雇い入れや賃金などを協定した。

表2-34 愛媛県の漁獲と全国順位

表2-34 愛媛県の漁獲と全国順位


表2-35 郡市別漁家と漁船数

表2-35 郡市別漁家と漁船数


図2-6 愛媛県の漁獲

図2-6 愛媛県の漁獲


表2-36 愛媛県の種類別漁船数

表2-36 愛媛県の種類別漁船数


表2-37 郡別漁船数

表2-37 郡別漁船数


表2-38 郡別網漁法の分布

表2-38 郡別網漁法の分布


表2-39 愛媛県の魚種別漁獲高

表2-39 愛媛県の魚種別漁獲高


表2-40 郡別魚種別漁獲高

表2-40 郡別魚種別漁獲高


表2-41 愛媛県の魚市場と魚商

表2-41 愛媛県の魚市場と魚商


図2-7 地域による魚種別漁獲の差

図2-7 地域による魚種別漁獲の差