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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 養蚕・製糸業の確立

 製糸業の近代化

 明治前期の座繰(ざぐり)製糸は、中南予の四郡を中心に発達した。糸業の近代化も同地方が早く、明治一〇年に大洲の大橋有が、県下で初めてケンネル式器械製糸工場を経営した。県初の蒸気機関使用工場は、明治二二年五月宇和島の小笠原長道の創立した「南予製糸㈱」である。原動力使用工場は、同二五年以降増加して同三三年末までに二五工場となったが、これは県下原動力付工場の六割に当たり、他産業に先駆けての近代化がみられる。また輸出増大に伴い座繰・器械を問わず工場の規模拡大もみられた。器械製糸による生産が座繰を上回ったのは明治二〇年ごろであるが、原動力使用工場に移行する以前には、座繰器の改良や水車使用工場もみられた。
 先の松山養蚕伝習所は、明治三四年四月に、県立農業学校に吸収されたが、その間二二五名もの伝習生を出した。また各郡の郡立農業学校でも養蚕科を併設して、多くの技術者を養成した。県は明治二九年「蚕種取締規則」、同三一年「蚕種検査法施行手続」などの県令や、同三八年「蚕病予防法」、同四五年一月「蚕糸業法」などの法律に基づき蚕業の改良や品質向上、病虫害の予防に努力を続けた。県農会でも明治四一年から桑苗の無償配布をはじめた。県は共同事業推進のため明治三九年春「共同養蚕組合規定」を公布、県費補助によって同年末に二一組合が成立し、同四〇年に四六組合、同四一年に八〇組合、同四二年中には八五の計二三六組合が設立された。
 明治から大正期の養蚕は、婦女子の手伝いで農家の副業の王座を占めたが、四~五齢の壮蚕期は桑摘みや給桑など、早朝から深夜までの重労働であった。製糸工場の主力もまた農家の娘、少女であり、親や家のために長時間働いた。低賃金の上に等級制によって賃金の上限は押さえられ、平均以下だと賃金は割引となる。器械化が進むと技術は簡単になり賃金はさらに下げられる。昇給とか労働者の地位向上などの概念の未熟な時代であった。

 蚕業地域の形成

 県下の明治三五年ごろの桑園面積、繭や生糸の生産は、明治末年の一割にも満たず、三○年ごろからの増加が著しかった。しかし東中予地方では伝習勧業期を経てもなお普及せず、明治二〇年以降も宇摩郡は紀伊郷篤、新居郡飯尾麒太郎、越智郡は原島聴訓(とものり)・小笠原通策らの努力が続けられた。松山では池内信嘉・三好保俊・村上是哉らが熱心に唱導したが、一般への普及は南予に少し遅れて、ともに明治三五年ごろからである。
 中南予の山間地帯は桑栽培の気象、地形条件に恵まれ、蚕業が災害にも強いため発展が著しい。大洲では郡長下井小太郎はじめ河野喜太郎・程野宗兵衛・今岡梅三郎らの努力もあって木蠟に代わって製糸業が増えた。工場の規模も大きく五〇釜前後のケンネルまたは共撚式工場が、明治三〇年には八工場あった。河野らは円滑公正な繭取り引きのため、大洲本町に「大洲繭売買所」を設立した。当初は年間三~四、〇〇〇貫(四万円)程度の取り引きであったが、明治末年には六万貫となっている。内子・五十崎では、大洲より少し遅れて明治二〇年代後半から養蚕が盛んとなり、製糸工場の設立は同四〇年代であった。
 西宇和郡では明治二二年設立の養蚕伝習所などにより蚕業が普及し、同三〇年までに双岩(ふたいわ)に摂津製糸、曽我亮の喜須来製糸、川之石に伊予製糸などの器械製糸工場が設立された。明治四〇年ごろから大正初年の間には八幡浜に四工場など郡内に二一工場が設立された(「八幡浜市誌」「三瓶町誌」)。
 東宇和郡では清水長十郎・末光三郎らの先覚者に続き、明治二〇年代には四郎谷(しろうたに)村の御手洗(みたらい)千代治、中筋村大野重敏、野村緒方(おがた)久治・土居農右衛門・春野万八ら、俵津(たわらず)村中村重太郎らが、大規模な桑園を営み蚕種を改良した。ためにこれに習う農家も増え、明治三五年ごろには、ほぼ郡内全域に普及した。製糸は明治二三年の「卯之町製糸」を先頭に、同三二年ごろには東多田や伊延(いのべ)村(現宇和町内)などに五工場が設立された。明治三七年四月、卯之町に「蚕業試験場」が設置され、郡共同養蚕組合も結成された。先の蚕種検査所を同三八年に改組した県立蚕病予防事務所卯之町出張所の開所、同四一年五月の郡立農蚕学校創立など、行政面からも振興策が重ねられ、まず卯之町が同地方の中核となった。明治四三年、現宇和町域の蚕業は桑園三六七町歩、飼育一、七五〇戸、産繭一万二、一七〇石であった(「宇和町誌」)。
 幕末から維新期にかけて、最も熱心な奨励と授産事業を展開した宇和島地方では、蚕糸業の定着も早く、技術改良でも先進的であった。先述の蒸気機関使用工場や吉田町紀伊シガの足転器製糸機の移入、同町佐藤春興の信州稲扱(いなこぎ)風穴の蚕種の移入、三間(みま)の岡本景光が改良した岡本蚕種、田鶴谷岩次郎の繭乾燥場の建設などは、いずれも県下の先駆となるものである。製糸工場は二九年末までに六工場が設立された。
 南宇和郡内海(うちうみ)村では明治二五年ごろの飼育農家は四〇~五〇戸であったが、糸価の高騰により同三七年ごろにはほぼ全戸となり全部落に共同養蚕組合が設立された。同村明治四三年の桑園は二七町一反、収繭高三、四〇四貫、一万二、二四一円で、漁獲に次ぐ産額であった(「内海村史」)。

表2-29 主要養蚕県の蚕糸蚕種の生産

表2-29 主要養蚕県の蚕糸蚕種の生産


表2-30 年次別郡別原動力付製糸工場の設立

表2-30 年次別郡別原動力付製糸工場の設立


表2-31 愛媛県の生糸生産の推移

表2-31 愛媛県の生糸生産の推移


表2-32 愛媛県の規模別製糸工場数

表2-32 愛媛県の規模別製糸工場数


表2-33 郡市別蚕糸業の推移

表2-33 郡市別蚕糸業の推移