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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

三 室・牧・篠崎・大庭・本部県政と県会

 室・牧・篠崎県政と県会

 明治三〇年から同三二年にかけて、愛媛県では、五人の知事の更迭が頻繁になされた。明治三〇年四月七日、三年三か月在職した小牧昌業が非職となり、室孝次郎(むろこうじろう)が知事に任命された。室は、天保一〇年(一八三九)九月、越後国(新潟県)高田に平民として生まれた。「高等官履歴」によると、明冶元年会津征討従軍に履歴を発し、御親兵隊付として転戦し銃創を受けた。明治三年高田藩校修道館助教、同八年彌彦神社宮司、同一一年新潟県第八大区長、高田中学校長兼務、同一二年新潟県西頸城(くびき)郡長などを歴任した。退官後、信越鉄道の敷設に尽力するとともに、明治二三年七月の第一回衆議院議員選挙において新潟県第八区で当選して以来、同二七年九月の第四回選挙まで連続して国会に議席を得ていた。所属政党は進歩党で、同二九年九月の松隈内閣の成立により与党となった同党を代表して、愛媛県知事を拝命したのであった。岩村高俊以来、薩長土肥出身の藩閥官僚知事(藤村紫朗のみ肥後熊本出身)が相次いだ愛媛県に、初めて迎えた政党知事であった。その意味で、新しい施策が期待されたが、室は在任わずか七か月にして、同三〇年一一月大隈重信の外相辞任に随い依願退官した。なお、室孝次郎は、翌三一年八月の隈板内閣の成立に伴う第八回総選挙で再び衆議院議員に復活した。
 室孝次郎の知事在任中、愛媛県では郡制に続いて、明治三〇年一〇月一日から府県制を施行した。この施行に伴い、県会議員選挙が行われ、これまで少数党であった進歩党系愛媛同志会が二一議席を確保し、一三議席の自由党を圧した。これは、当時の松方内閣が意図した地租増徴案に対する反対表明であるとともに、進歩党系知事の県政与党として、地域の利益推進を公約する愛媛同志会の戦術が、多くの郡会で地主層の支持を得、郡市会議員の互選による間接選挙として行われた県会議員選挙の勝利に結び付いたものであった。室知事は、この選挙後の臨時県会に臨んだ外、明治三〇年通常県会の告示をした直後、県政方針を述べることなく愛媛県を去った。
 明治三〇年一一月一三日、青森県知事から牧朴真(まきなおまさ)が愛媛県知事に転補された。牧は、安政元年(一八五四)肥前国(長崎県)生まれの士族、明治八年に長崎県等外一等出仕以来、同県及び福岡県属として出仕、明治一三年太政官内務部に転属、参事院書記生、内閣法制局参事官、枢密院書記官を歴任した後、実業界に入り総武鉄道会社社長となった。明治二三年の第一回衆議院議員選挙には長崎県第三区から立候補して当選、同二五年の第二回選挙で再選されて吏党員として活躍したが、同二八年再び官界に入り、陸軍省雇員、台湾総督府内務部長心得、台中県知事を経て、明治二九年八月から青森県知事に任ぜられていた。本県にあることわずか三か月にして、第三次伊藤博文内閣下の内務省警保局長に転じ、さらに同年一一月農商務省水産局長に転じて八年間務め、同四〇年から一年間農務局長の任にあった。
 牧知事は明治三〇年通常県会に臨むこととなったが、開会式には未着任のために欠席した。彼は会期中に着任し、年明け早々に離任したため、県政方針を何ら示す間もなく愛媛県を去った。このような室の離任、牧の未着任の状況下の県会は、役員を独占する進歩派の主導で進められた。内容をみると、中等学校設置順序諮問の答申において、超党派の調査委員が作成した原案が進歩派議員により一部修正され、尋常中学東予・南予分校は三二年度から本校に引き直すこと、農工商の三学校は追って設立の時期を定めること、女子中等教育は当分の間適当な私立女学校に補助を与えることなどの答申案になったことや、高浜港の特別輸出港指定申請の件、県費負担の河川海岸港湾調査のための臨時土木委員設置の件、別子鉱山新居浜鎔鉱炉煙害調査の件などの建議がすべて進歩派所属議員の手によるものであったことに表れていた。
 明治三一年一月二二日、篠崎五郎(しのざきごろう)が愛媛県知事に任命された。篠崎は、弘化四年(一八四七)一二月生まれの薩摩藩(鹿児島県)士族で、明治四年東京府第一大区取締組組頭となり、翌年少警視、同七年徴集隊副指揮長として征台の役に出兵、除隊後の明治八年宮崎県に出仕、翌年以来兵庫県にあって警部・少書記官・大書記官をつとめ、明治一八年四月、新潟県令となり、以後知事として二二年まで在職。その後、同二四年から復職して島根県知事となり、二六年依願免となっていた。篠崎の在職期間もわずかに一一か月に過ぎなかった。
 篠崎が臨んだ県会は明治三一年通常県会のみであり、ここでも、これまで部分的補修に止めてきた道路・橋梁・河川堤防・港湾などの施設が前年度の風水害により大きく破損したため、予算編成ではそれらの大規模な改修に重点を置かざるを得ず、新しい施策を示すことができなかった。進歩派が多数を占める県会は、実業学校設置の外五つの建議を採択していたが、このうち、地租増徴反対の決議に対しては「県会ノ権限ヲ超エタルト認ムルヲ以テ府県制第八十四条第二項ニヨリ之ヲ取消ス」との取消し命令を発していた。
 この時機、中央政界では、八月に憲政党の結成、一〇月には憲政党(自由党派)と憲政本党(進歩党派)への分裂といった変転があり、県政界も混迷の状況下にあった。

 大庭県政と中等教育の振興

 明治三一年一二月二二日、篠崎五郎が免職となり、後任に前静岡県書記官大庭寛一(おおばかんいち)が愛媛県知事に任命され、翌三二年一月二日に赴任した。この繁雑な知事更迭に憤慨した「愛媛新報」は一月一日の紙面に「遙に内閣諸公に質し併て県下の有志者に告く」と題する論説を掲載して、「県知事更迭の頻繁なるは県治上に大害あること、……不幸にも我愛媛県は所謂人材登庸の遣繰(やりくり)算段的の図中に画かれ居りて小牧以来の知事は何事もなすなく恰かも素通の旅人の如し、斯くては実に愛媛県の大不幸と信ず」と述べ、政府人事への疑問を呈し、県下有志や在京有力者へ注意を喚起していた。
 大庭寛一は、元治元年(一八六四)に長門国(山口県)萩に生まれ、旧山口藩士族、当時東京府士族であった。明治二〇年七月、帝国法科大学卒業の法学士、卒業とともに内務属に任官、警保局勤務となった。本県最初の学士知事であった。翌二一年、同年施行の「文官試験試補及見習規則」の適用により内務省試補(奏任官候補者)となり、同二三年群馬県参事官、同二五年兵庫県参事官、翌年非職、依願免となり、同二八年に朝鮮政府の招へいによって韓国内務顧問官となった。明治三〇年佐賀県書記官に任ぜられ、翌三一年静岡県書記官に転補されていた。本県知事在職二年四か月の明治三三年四月に病気を理由に休職し、翌年休職満期で退官した。後には、日韓併合とともに京城府尹に任じ、明治四五年に辞職していた。
 大庭の県知事在任中、第一の施策として、一農学校・三高等女学校の設立と師範学校女子部の新設など中等教育の振興が挙げられる。農学校の設立は、前年度通常県会の建議を採納したものであった。高等女学校の設立は、明治三二年二月の「高等女学校令」による県立高等女学校設置義務化に伴うもので、県当局が同年三月臨時県会に諮問し、松山・宇和島・今治に同時設立の答申を受け、同年通常県会で実現の運びとなった。師範学校女子部の新設は、普通教育の充実を図るための一環として女子教員の養成を推進しようとするものであった。このため、教育費は前年度より一二万余円、当初予算比で一三六%増となった。
 県会では、三高等女学校の同時開校は県の財政負担に堪えないとして一校に削減する修正意見が出されたが、わずか二票差で原案が可決された。原案を積極的に支持したのは、設立予定地区の議員が中心で、党派利害よりも地域的利害が優先していた。また、同県会では、郡立喜多学校及び私立北予学校補助要請の建議が可決され、県はこれを採納し、補助規程を諮問、可決答申を受けたので、一二月臨時県会に補助予算を提出していた。
 大庭県政が苦慮したのは、土木事業の方策であった。県は、先述のように明治二九年以来主要道路・河川改修のための六か年継続土木事業を遂行していたが、工事が遅々として進まないため、通常県会に一か年延長を提案し承認された。しかし、知事自身が施政方針の中で、「此七十万円ノ金ニテハ到底充分ト思フヘカラス」と吐露しているように、当初予算の額では予定している改修完工は不可能であった。また知事の演説によれば、水害のため破損した河川・海岸堤防の復旧、河川水源涵養のための土砂扞(かん)止、県下主要港湾の築港などが土木行政の急務であり、このために二四三万余円を要すとあり、大庭知事は、第一期継続工事が終わり次第、これらのため第二期改修工事を推進することが必要だと示唆した。
 緊急事業としては、明治三二年八月に宇摩・新居郡地方を襲った風水害復旧問題があった。通常県会では、地元県議の発議で、氾濫の一原因は住友鉱業の設置した井堰にあるとして派遣技師による調査を求める建議と、他の一因は河川の川底固結による水路涸渇にあるとしてその調査と救済を求める建議が提出され、満場一致で可決された。これに対し県当局は、前者を「原因ガ鉱毒ニ在リトスレバ現在県庁ノ技師ニテハ出来ヌナリ」と調査を回避したが、後者を採納して、通常県会に引き続き臨時県会を開催し、土木施設の復旧及び被害町村への土木補助、宇摩郡関川堤防改修のための継続土木費など、追加予算を提出した。その費額は三七万八、〇〇〇余円の巨費となり、明治三二、三三年度の予算追加で支出を計画していた。
 議会では、決壊した諸河川のうち、ひとり関川のみ大規模な堤防改修を行うことに反発する議員が多く、財源難と相まって復旧工事にとどめるべきだとの修正案が出され、激論の末、原案が辛うじて可決された。しかし、これを不満とする一一議員(憲政党九、進歩派二)が退場したため、残った議員は超党派で原案の二年継続年期を三年に延長する組み替え案を可決し、年度割支出額を減じた。この財源としては、地租割・戸数割の増徴が限界に達しているとして、県債一五万円の起債による補塡(ほてん)を認めた。当時の県会は多数を占める進歩派を中心におおむね施策に協賛的であり、党派的対立は少なく、論争も党派別というよりは地域対立の傾向が強かった。

 本部県政と土木・教育・勧業の振興

 明治三三年四月二七日、大庭寛一が休職、後任に本部泰(もとべやすし)が任命された。本部は、天保一四年(一八四三)七月、因幡国(鳥取県)邑美郡馬場町生まれ、士族、明治三年鳥取藩大主簿、大属に任ぜられ、同八年鳥取県五等警部、翌年鳥取県廃止のため島根県警部として鳥取警察署に勤務、同一二年島根県邑美法美岩井郡長、同一四年鳥取県少書記官となり、同一七年に福井県に転じ少書記官・大書記官・書記官、同二五年宮城県書記官、同二八年京都府書記官と歴任して同三〇年依願退職した。退職後は郷里の鳥取市に帰り、同三二年七月に結成された帝国党に参加、中央政界では山県有朋系の派閥に属し、この愛媛県知事拝命は、第二次山県内閣の与党帝国党の拡張策と評された。本部の本県在職期間は三年一〇か月で、明治三七年一月二五日に病気を理由に休職を命じられ、愛媛県を去った。
 本部知事は着任早々、吏員に対して「本県は不幸にして高等官の更迭頻繁なり、或は夫れか為に事務の渋滞するか如きことありては県庁の不幸なるを以て諸君は宜しく一致提携して事務の精勤せんことを望む」と挨拶した。そして、赴任後最初の通常県会では、議案審議の冒頭で要請された県治方針について、本部知事は、県下の事情をかなり詳しく理解した上で諸般の方針を定めたいと慎重な姿勢を示しながらも、「其重ナルモノハ土木、教育、勧業ノ三者」であって、これには十分な力を用いる考えであることを強調し、施設の中心をいわゆる戦後経営の三本柱に置き、その拡充発展を図っていくことを明らかにした。
 次に、この三本柱についてその具体的施策の展開をたどってみると、まず土木では既定継続土木事業の促進と新土木継続事業の実施であった。明治三三年通常県会において、明治二九年から進行している「六か年継続土木事業」では、県下の道路・河川・海岸・港湾施設などの完備は期し難いとの観点から、既定工事以外の改良必要箇所を調査選定するため、「自明治三四年度至明治三七年度土木費継続年期及支出方法・測量費」を新設した。次に、明治三五年臨時県会では、先の六か年継続土木事業について、諸物価の高騰と国庫補助の不足を理由に、総額一六万余円にのぼる追加支出と工期の明治三八年度まで繰り延べを内容とする更正案を提出し、さらに、後述の「自明治三五年度至明治四四年度土木費継続年期及支出方法」(一〇か年継続土木事業)、一〇年間で県下主要道路網、主要河川・港湾施設を一挙に完成する目的の総額一六六万円余におよぶ壮大な新計画を提起した。この両案はともに紛議の末、可決され実施に移された。明治三六年臨時県会では、愛媛県発足以来の懸案となっていた「土木費負担区分」の改正諮問案が提出されたが、紛糾の末、延期の答申案が可決され、またしても改正は成功しなかった。さらに、同年の通常県会は進歩派に代わり政友派が議会多数派を占めたが、旧継続土木事業は国庫補助の見通しが立かないことを理由に、明治四〇年度まで再び二年間繰り延べされ、三七年度支出分は、予定の一〇万円から一挙に三万円と削減される有り様であった。
 次に、教育方面では中等教育の充実であった。明治三三年通常県会では、西条中学校今治分校と宇和島中学校大洲分校の三四年開校、商業学校の三四年開校準備、三五年開校案が提出されたが、大混乱の末、大洲分校と商業学校は原案どおり、今治分校は三五年開校に修正された。また実業教育振興の観点から、臨時部に「教育補助費」の款が新設され、八幡浜商業学校・宇摩郡農学校・新居郡農学校・弓削海員学校・愛媛教育協会・伊予教育義会・北予学校への補助が開始された。三四年通常県会では、今治分校及び商業学校の三五年開校が決定したほか、宇和島商業学校、周桑農業補習学校補助が新設された。三五年通常県会では、師範学校農業科の復活新設、郡部実業教育の振興のため、教育補助費中に「公立実業補習学校補助」の目を新設した。三六年通常県会では、三四年に開校した大洲分校の三七年度本校昇格案を可決、師範学校に手工科を新設した。
 勧業の面では、各種試験場の整理・開設が行われた。まず、明治三三年四月に農事試験場・同南予分場・同東予分場が新設され、この年新設された水産試験場は三四年度からの本格的な事業開始のため、県会で大幅な予算増となった。翌三四年には、工業及び蚕業奨励のため、それぞれの短期講習所を各郡に、染織試験の調査所を松山に設置した。染織調査所は、同三六年度より工業試験場として独立機関化する措置がとられた。但しこれら勧業試験場の運用費は明治三七年度の緊縮予算編成方針で大幅に削減されたため、県の勧業策は一貫性がなくいわば「猫目的政策」であると県会で批判された。
 以上が本部の言う三本柱であり、他の費目と比較して努力と費額が傾注されている。ただ、このような施策のほとんどが、国の方針に基づくもの、県会建議の具体化、あるいは既に予定されていたものであり、当時の社会や経済界の状況からみて当然施策対象にならざるを得ないものであった。

 明治三〇年代の県会

 この時期の議会側の動向は、明治三〇年以来、三六年三月臨時県会までは進歩派が多数派を占め、三六年九月の選挙では進歩派一八、政友会派一七と、進歩派がわずか一議席上回る結果となった。ところが、都築三喜太郎(伊予郡選出)が脱退して政友会に転じたため、立場が逆転して政友派が多数派を形成し、議会の主導権を奪還した。多数派を形成することは、議会指導権を持つ議長及び副議長職、副議決権を持つ参事会員の独占を行うことができた。理事者側で作成した予算原案は、まず参事会の審議にかけられ、理事者側も議会運営上多数派の意向を無視できないので、参事会の修正案を大体において受け入れる傾向にあった。特に、明治二〇年代の議会では一般に、議会会派の形成が未熟のため、多数派の機能が十分に生かせず、その間にあって、理事者は独自の予算案を提出して、議会と対立する状況が多かった。ところが明治三〇年代に入って、いわゆる戦後経営の掛け声の下に産業資本の成長期を迎えると、地域や資本・産業の利害の関係を代弁する議員の活動は、むしろ理事者を督励してあるいは一体となって、道路・交通・教育・勧業など産業資本や地域社会の整備発展に欠かせない諸施設を積極的に予算化・具体化する方向になってきた。その意味で、理事者にとって議会多数派の意向が重視され、議会においては多数派を占めることが重大視されることとなった。
 ところが、この政党政派を軸にした多数派、少数派の区分も、こと利害が議員の出身地域に深刻に係わる問題となると、たちまち拘束力を失い四分五裂の状態に陥った。この時期の県会は、このような「地方主義」を抜きにしては語れないようである。そのような典型的な例が、明治三三年通常県会における「宇和島中学校大洲分校、西条中学校今治分校開校問題」と同三六年三月臨時県会における「土木費負担区分改正問題」であった。
 前者は、中学校入学志望者数の増加のため、現在の三中学校の収容能力では処理しきれなくなったことと、併せて中等教育全体の拡充発展を図るとの見地から、三中学校本校の拡張ではなく、今治・大洲という新しい土地に分校を設立し、明治三四年度から開校しようとするものであった。県会では、この分校新設によって既得権が侵害されると考えた三中学校(松山・宇和島・西条)の関連郡部の議員が、たちまち党派を越えた強固な反対派を結集した。これに対し、分校新設によって直接利益を得ることのできる越智郡・喜多郡選出の議員は、これまた党派を越えて結束し、両派ともに利害関係が比較的薄い地域選出の中立的立場にある議員の争奪合戦を演じた。両派はそれぞれ、獲得した議員を他派に奪われないようにするため、賛成派は二番町「梅廼家」に、反対派は「県会議場」に布団や食糧を持ち込んで籠城し、議会審議を放てきしてにらみ合うといった有り様になった。結局最終的には、両派の妥協が成立し、大洲分校は原案どおり三四年開校、今治分校は原案より一年遅らせて三五年開校に修正ということで決着をみた。
 これに対し後者の「土木費負担区分改正問題」は、さらに複雑な展開を見せた。内容は、道路・河川・海岸・港湾施設などの工事について、県費負担で実施するか、町村負担で実施するかの区分の問題であった。愛媛県では、明治一一年の太政官達無号による行政処分、明治一二年の慣行調査も不徹底に終わり、結局当時に至るまで旧八藩以来の遺制と慣行を踏襲してきた。そのため、明治三〇年代に入ってからの土木事業の急進展の中で、様々な矛盾や不合理が生じ、各方面から抜本的な改正の声が高まっていた。先述のように、明治三〇年通常県会で公民からの選出による五名の実地調査委員の設置が決定され、三一年から調査が開始されていた。本部知事は赴任後、さらに調査の精確を期すため、新たに庁内に委員を設けるとともに、技師による調査を実施して、明治三六年三月召集の臨時県会に諮問案を提出した。これを受けた県会では、改正により有利となる地域(越智郡・周桑郡・伊予郡・上浮穴郡・喜多郡)選出の議員は、一層地元利益の拡大を図るため、修正案を提出する動き(修正派)を示し、改正により不利益を被る地域(宇摩郡・宇和四郡)選出議員は、諮問案を否決して延期する立場(延期派)をとった。ここでは、党派的結束が解消し、地元利害の確執が表面化したのである。ところが、この改正による影響の比較的少ない地域(新居郡・温泉郡・松山市)選出の議員は、進歩派が修正説、政友派が延期説をとり、議会内の多数派(進歩派)と少数派(政友派)の立場が微妙に反映されていた。結局、修正説は賛成者一五名で否決、延期説が賛成者一八名で可決された。
 この結果は、その後の県政界に少なからず影響を及ぼすことになった。それは、多数派であった進歩派が党派として修正説の方針をとったため、その後延期説に立った議員との間にあつれきが生じ、党内に動揺を来すこととなった。このことが、党内の結束に不協和音を生み、ついには明治三六年九月選挙に敗北する要因となったのである。

 一〇か年継続土木事業の施行

 先述のように、知事独自の行政施策が打ち出しにくい背景のなかで、理事者側が独自に企画立案し実施に移した数少ない例に、新たな継続土木事業があった。その発端となったのは、明治三三年通常県会に提出された「自明治三四年度至明治三七年度土木費継続年期及支出方法」(継続測量費)であった。本部知事は、予算主旨説明において、県下を一巡して見た実況として、「道路の不完全なことを初めとしてその他治水港湾等に至りても手を着くべきところすこぶる多し」との所感を述べ、明治二九年度以来遂行中の「六か年継続土木事業」では満足できないとの認識を得たとし、目下の経済上では措置ができないので、当面は、従来の継続事業を推進し、将来に備えて測量調査を行うとしていた。測量費は総額五万八、〇〇〇円で四か年にわたり支出し、初年度は一万八、〇〇〇円としていたが、その後、再三にわたって更正され、結局総額は五万八、五〇〇円、年期は七か年を要することとなった。この測量の進行を背景に、県当局は新たな「一〇か年継続土木事業」を企画立案し、明治三五年三月の臨時県会に提出した。その具体的な規模、工事箇所などの内容については、臨時県会開催直前の参事会に計画案が提出されるまで、まったく秘密にされていたため、原案作成過程に議員・政派の介入する余地はなかった。このため、議員のなかには、「僅々一週間ニテハ調査考究ノ遑ナキ故、仮スニ時日ヲ以テシ、徐々ニ考究ノ後適当ニ決議シタシ」と計画の当否を判断するに十分な日時を置くべきだとして、基本的な観点から反発を示す者もいた。
 この臨時県会には、二つの土木関係議案が提出されていたが、その一つは、明治二九年度から遂行中のいわゆる「六か年継続土木事業」の更正議案であった。この事業は、当初六か年継続、六四万余円の計画であったが、明治二九年通常県会で二改修工事を加えて七五万余円に増額、明治三三年通常県会で一年延期、同三四年通常県会でもう一年延期更正されていたが、本議案では、物価の高騰と国庫補助が意の如く受けられないとの理由で、継続年期を二年延長して明治三八年までとすると同時に、工事費不足額として一六万余円を追加し、総額九二万円余とするものであった。内容からみて本来、相当の論議を呼ぶべきものであったが、第二号議案という大問題を抱えているためか、影が薄くなった感があり、全体にやむを得ずという空気が強く、格別の論議もなく可決された。
 さて、新規の継続土木事業の内容であるが、道路の部で国道三一号線・五一号線を中心に、県道八線と里道二線の整備改修に一〇〇万余円、河川港湾航路の部では高浜湾波切堤防・船越堀切や蒼社川など六河川土砂扞工事などに四九万余円、工事諸雑費など一五万円余、総工費一六六万二、〇〇〇円に及ぶ大計画であった。道路の部については旧事業と重なるものが多く、性格的には旧事業の進ちょくを前提として、県下主要道路網を一挙に完成させるという壮大な規模になっている。河川港湾航路の部で注目すべきことは、「船越堀切」「高浜湾波切堤防」など旧事業では着手できなかった港湾航路整備が、はじめて取り上げられたことである。海岸線の連なる本県にあって適切な港湾設備を整備することは、産業振興の見地からも最重要な課題であったが、予算、地域利害、入り組んだ複雑な海岸線の地形などの諸条件に阻害されて整備は極度に遅れていた。例えば中予においては、三津浜港が唯一の外港として繁栄していたが、年ごとに増加する貨客に十分な対応ができず、近年次第にその港湾機能の限界を各方面から指摘されていた。そして、この新計画において、三津浜港に代わる本格的な外港として、前面に興居(ごご)島を控えた天然の良港たる高浜港を取り上げたのである。工事は、興居島と陸地部(白井鼻)の中間点に位置する四十島と呼ばれる岩礁と陸地部を結ぶ防波堤(一〇一間八分=約一八三メートル)を築くというもので、工費二一万六、〇〇〇円余を予定していた。
 この支出計画の要点は、向こう一〇年間の県歳計規模を年間一〇〇万円に固定(県民約一〇〇万人とし、一人あたり県費負担能力を一円と仮定)すること、新継続土木費の年度割支出額は、旧継続土木費の支出を要する明治三八年度までは一〇万円前後にとどめ、その分は通常土木費を削減することによって捻出し、旧継続土木の終了する三九年度からは、三八年度旧継続土木に支出した約一〇万円を新継続土木費に加算し、一挙に二〇万円規模に拡大していく、という二点から成り立っていた。しかし、一〇年という長期にわたって一定の固定枠を設け、費目の移転や加減によって歳出操作を行うこと、通常土木費に極度の削減を加えるおそれがあること、国庫補助の希望を相当含んでいることなど、様々な問題点を含んでおり、特に財源確保については詰めの甘さを残していた。
 審議では、理事者が県経済の動向を勘案して計画立案したから実現可能だと強気の論を張り、計画の妥当性を大いに強調した。議会側では、将来の歳計見込みに対する質疑があった後、昨年通常県会で県知事は「民力休養」のため緊縮予算を組んだが、現状では景気回復となっていないこと、改良箇所については現在測量中であり、その結了を待って計画するのが至当なこと、土木費のみに巨額の経費をとること、工事計画には玉石混淆があることを理由に議案廃棄説が提出されたが、採決の結果、廃棄説は少数で否決され、第二・第三読会では論議なく、原案どおり可決された。県経済の動向を大きく左右し、その多方面に与える影響力からいえば、県行政の鍵を握るとさえいえる大事業であったが、それに見合った質量の論議が展開されたかというと、必ずしも問題の本質が総体的に論じられていなかった。その理由としては、先述のように十分な検討の余裕がないこともあったが、交通運輸施設の極度の遅滞という現状認識については、議員全体に一致があり、工事自体の必要性を認めていたことがあげられる。
 この「一〇か年継続土木事業」は、やがて勃発した日露戦争による地方財政緊縮の影響の大波を受け、大幅な繰り延べを余儀なくされ、明治四〇年度までの六年間にわずか三五万四、五一四円の支出しか認められず、戦後経営のなかで新企画される後述の「二二か年継続土木事業」のうちに編入され、姿を消すのである。