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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 府県制・郡制の施行と県行政機構の確立

 府県制

 明治二三年五月一七日法律第三五号で公布された府県制の内容を紹介すると次のようである。府県の主機関は、府県会及び府県参事会であるが、府県会並びに府県参事会の議決を執行し、府県有財産並びに営造物を管理し、府県の費用をもって支弁する工事を執行するのは府県知事であった。

 〈府県会〉 府県会は府県内の郡市で選挙した議員で組織する。議員定数は勅令で定めるが、各郡市から少なくとも一名を選挙する。選挙は複選制、列記無記名投票であり、被選挙権資格は府県内市町村の公民中、市町村議会議員の選挙権を有し、その府県で一年以来、直接国税一〇円以上を納める者である。議員は名誉職とし、任期四年で二年毎に半数改選となっていた。
 府県会の議決事項は、(1)府県の歳出入予算を定める事、(2)決算報告を認定する事、(3)府県税の賦課徴収方法を定める事、(4)府県有財産の管理及び営造物の維持方法を定める事、(5)その他法律命令により府県会の権限に属する事項などを議決するとなっており、権限は包括的でなく、法律命令によって厳しく限定されていた。府県会は官庁の諮問に応じて意見を陳述し、府県の全部または一部の公益に関する事件につき府県知事または内務大臣に建議することができるとされていた。
 府県会は公開で毎年一回秋季に「通常会」を開く。会期は三〇日以内、必要あるときは事件を限り七日以内の期限で「臨時会」を開くことができた。招集・開会・閉会は府県知事が行うが、解散は勅令をもってした。

 〈府県参事会〉 府県参事会は、府県知事と高等官二名及び名誉職参事会員四名で組織、府県知事が議長を務めた。
 参事会は、府県会の権限に属する事件で、委任を受けるか臨時急施を要する場合に府県会に代わり議決するのを主要職務としていたが、予算については府県会に付議する前に審査する権、予備の支出につき議決をなす権を有していた。

 〈吏員〉 府県の執行機関は府県知事であるが、府県知事は一方では国の行政官である。したがって府県執行部官吏の規定は、「地方官官制」の定めるところによる。知事は、府県会の議決により、府県の費用をもって有給県吏員を置くとしていた。

 〈会計〉 府県が負担しなければならない費用は、府県有産及び営造物管理の費用、府県会府県参事会及び委員の費用、府県吏員の給料、退隠料その他諸給、従来法律命令慣例により並びに将来法律勅令により府県の負担と定める事件の費用で、その財源は、府県税その他府県の収入をもって充て、旧債償還、天災事変のためのやむを得ない支出や永久の利益となる支出を要するに当たり、負担に堪えない場合に限り、勅令の定めるところにより府県会の議決をもって府県債を起こすことができることになっていた。

 〈監督〉 府県の行政は内務大臣が監督した。このため府県債の起債と償還の方法、地租四分の一を超過する府県税の賦課などに関する府県会の議決は、内務・大蔵大臣の認可を要し、また府県有不動産の売却譲渡、土木事業に関して府県内の特定部分への夫役、現品の増課が必要な場合などの府県会の議会は内務大臣の認可を得なければならないとされた。なお、府県知事の府県会及び府県参事会に対する広範かつ強大な権限(再議、取消、原案執行、専決処分)の規定があった。

 郡制

 「府県制」と同日に法律第三六号で公布された「郡制」の主要な点を紹介すると次のようである。府県を上級の団体とすれば、郡は中級の団体である。郡の機関は郡会・郡参事会で、郡会及び郡参事会の議決を施行し、郡有財産及び営造物を管理し、郡の費用をもって支弁する工事を執行するのは郡長である。また、郡長は、府県税をもって支弁する郡吏員のほか、郡会の議決をもって郡の費用で必要な郡吏員を置くことができた。但し、これを任免監督するのは、府県知事であった。

 〈郡会〉 郡会は、郡内町村において選挙した議員及び大地主が互選した議員でもって組織された。町村選出議員の数は毎町村一名とし、二〇名を限度とした。大地主は、町村選出議員定数の三分の一に相当する議員数を互選した。大地主とは、郡内で町村税の賦課を受ける所有地の地価が合計一万円以上を有する者をいった。被選挙権者は、郡内町村公民にして町村会の選挙権を有する者及び大地主中の選挙権を有する者であった。議員は名誉職とし、町村選出議員は任期六年で三年ごとに半数改選、大地主議員は任期三年であった。郡会の議決すべき事件は、郡歳入歳出の審議や決算報告の認定などであった。

 〈郡参事会〉 郡参事会は郡長及び名誉職参事会員四名をもって組織された。名誉職参事会員のうち三名は郡会で互選し、一名は府県知事が郡会議員もしくは郡内町村の公民中から選任した。

 〈郡の会計〉 府県と異なり、郡には課税権がない。したがって、郡の支出に充てる費用は郡有財産から生じる収入その他雑収入の外は、郡内各町村に分賦した。各町村分賦の割合は、各町村前年度の直接国税及び府県税の徴収額によるが、各町村分賦の額は各町村でこれを町村の予算に編入し、町村税として徴収し、その総額を郡金庫に収めた。

 〈監督〉 郡の行政は、第一次において府県知事、第二次において内務大臣が監督した。郡長には、郡会及び郡参事会に対して再議、原案執行、専決処分などの強大な権限が付与された。

 府県制・郡制の施行

 市制町村制の施行は、明治二二年四月一日から地方の情況を参酌し府県知事の具申により内務大臣が指定する地にこれを施行すると定められた。全国的には、大半は両法が同時に施行されたが、一部には町村制のみ施行という県もあり、必ずしも全国一律ではなかった。ともかく法律公布の一年後には大多数の府県で実施され、二年を経ずして全国的に施行されるに至った。しかし、「府県制」・「郡制」の実施はそのように簡単にはいかず、すこぶる難航した。難航した最も大きな理由は、両法案の内容そのものにあった。というのは、両法案は附則で府県制は、郡制・市制を施行した府県に施行し、郡制は町村制を施行した府県に施行するとし、それぞれの時期は、府県知事の具申により内務大臣がこれを定めるとされていた。したがって、府県制の施行は郡制施行が前提となるが、法案制定当時の郡は小規模なものが多く、区域も錯雑していたので、これをそのままにして郡制を施行することが不可能であった。
 そこで政府は、明治二三年七月一日内務大臣訓令を発し、小郡のうち、独立自治の力がないものはこれを合併し、地形民情において共同一致の目途がないもののうち、これを分割しても独立に堪え得る場合はこれを分割すべきであるとして、それらの事情を郡制施行前に、詳細な事実を具して内申するよう各府県に命じた。このため、両法の施行は順次遅れることとなり、郡制は、明治二四年四月一日から施行され、この年には青森県以下一一県に、府県制は同年七月一日施行でこの年には青森県以下一〇県のいずれも郡の分合を必要としない府県に施行されるにとどまった。
 その後の施行の実状を年度順にみると、郡制は、明治二四年四月一日の九県に続いて同年中に二県、二七年に一県、二九年に一一県、三〇年には愛媛県など一三県、三一年には一府二県に施行された。しかし、東京・京都の二府、神奈川・岡山・広島・香川の四県にはついに施行されず、これらの府県には、三二年の全文改正になる郡制が施行された。
 府県制は、明治二四年七月一日施行の長野県に続き同年中に九県、二五年に一県、二七年に一県、二九年には五県、三〇年には愛媛県など一四県、三一年には七県に施行された。しかし、東京・大阪・京都の三府と神奈川・岡山・広島・香川の四県には施行されず、三二年全文改正の府県制を待って初めて施行された。

 県内の郡廃合と郡制施行

 愛媛県については、明治二九年四月一八日法律第八七号により「愛媛県下郡廃置法律」が公布され、郡の廃置及び区域の変更が行われた。それによれば、(1) 伊予国温泉郡・風早郡及び和気郡を廃し、その区域と、下浮穴郡を廃しその区域の一部(三内村、南吉井村、浮穴村、拝志村、荏原村、坂本村)と、伊予郡を廃しその区域の一部(垣生村、余土村)とをもって温泉郡を置く、(2) 伊予国越智郡及び野間郡を廃し、その区域をもって越智郡を置く、(3) 伊予国周布郡及び桑村郡を廃し、その区域をもって周桑郡を置く、(4) 伊予国伊予郡に属していた区域の一部(南山崎村、北山崎村、郡中村、郡中町、南伊予村、北伊予村、岡田村、松前町)と下浮穴郡に属していた区域の一部(原町村、砥部村、広田村、出淵村、中山村、佐礼谷村、上灘村、下灘村)とをもって伊予郡を置く、となっており、法律の施行は明治三〇年四月一日からと定められた。この結果、従来の宇摩・新居・周布・桑村・越智・野間・風早・和気・温泉・久米・上浮穴・下浮穴・伊予・喜多・西宇和・東宇和・北宇和・南宇和の一八郡は、宇摩・新居・周桑・越智・温泉・上浮穴・伊予・喜多・西宇和・東宇和・北宇和・南宇和の一二郡に分合、再編成されることとなった。
 これを受けた愛媛県では、明治三〇年一月一五日県告示第五号により、本年四月一日より郡制を施行する旨示達するとともに、旧郡の分合及び新郡の設置に関し郡役所の位置を県告示第六号で次のように定めた(資近代3 一五七~一六一)。

 温泉郡役所(松山市)、越智郡役所(今治町)、周桑郡役所(福岡村)、新居郡役所(西条町)、伊予郡役所(郡中町)、北宇和郡役所(宇和島町)、南宇和郡役所(御荘町)

 また、同日付の県告示第七号で、宇摩郡役所の位置を四月一日より川之江村から三島村へ移転すると示達した。川之江とその周辺の村民はこれを不満として移転反対運動を起こした。

 宇摩郡役所の移転紛争

 従来、宇摩郡では、川之江が伊予国内における幕府の直轄地支配の中心地であり、かつ土佐へ通じる道路上の要衝であったため、郡役所などの官庁が置かれていた。しかし、川之江は地理的にみると郡の東端に偏するので、郡の中央部に位置する三島の方が郡制上便利であった。このため、県当局は、郡制施行を契機に郡役所・警察署を川之江村から三島村へ移転する方針を決めた。この方針が明らかになるにつれ、地元の川之江村を中心とする宇摩郡東部地方の一一か村から猛烈な反対の声が上がった。初めは一部有志の運動に過ぎなかったが、次第に地域住民全体に拡大した。各村民が川之江に続々と集まり、郡役所へ押しかけて郡長手島正誼や職員に暴行を加え、出勤の途中でもいやがらせや乱暴を働いて移転中止を迫った。騒ぎは一一月一七日から一二月一九日まで三週間にわたり、その間、川之江村の周辺は険悪な情勢に包まれた。県では、警部長中島平三郎、保安課長警部橋本是哉以下幹部が現地に赴くとともに、各署から警察官一〇〇人を召集して応援派遣した。地元の川之江警察署でも、署長警部松山豊三郎以下二〇名がこれに加わり、不法行為の鎮圧に当たった。
 この問題について混乱があることを案じた県当局は、先に県会常置委員会で意見を問うていたが、自由党が占める常置委員会では、理事者が示した移転案を異議なく同意していた。しかし、紛争が深刻な様相を呈してきたところから、当時開会中の通常県会で取り上げられることとなった。明治二九年一二月一九日、立錐の余地のない傍聴席を背景に、明治三〇年度地方税支出予算議案第三次会において、大森盛直(自由党)は、警察費郡吏員給料旅費及び庁中諸費に減額を加える形の宇摩郡役所・警察署非移転の修正動議を提出し、自由党議員の賛成で動議は成立した。審議では、進歩党の阿部光之助が「このことは、県治と国家行政に関するものにして、郡衙の移転は行政官の権能なり、(移転は)理の当然にして、只騒擾云々を以て口実とするは一の道理を見出す能わず」と反対した。また高須峯造は「(行政官衙の移転は)一方に於て特種の便宜を与ふると同時に一方に向ては不便を与ふるものなれば一方の喜び一方の悲しむは当然たり、この場合に於て局に立つ者宜しく公平に処置せざるべからず……吾人は賢明なる常置委員諸君が二次会まで無事通過せしめながら今日に於て此事を是非するは何の故たるを解し能はず、また議会が謂はれなく一部人民の苦情の為めに二次会の決議を翻すと云ふに至りては殆んどその独立を認め能はざるなり」と厳しく非移転派を論難した。一方、非移転派では赤松甲一郎が「今日まで十数年来一の故障なく需用供給の点に欠くる処なき……川之江果して何の不都合かある、徒らに地方の騒擾を来して人心を激劇昻せしむるは其罪理事者にありと云はざるべからず」と、また二神深蔵は、「当事者は能く郡内の意向を考へ、移転非移転に就き何れか利害得失あるか何れか騒擾の度を高むるかに就て一考せざるべからず、只徒らに地方の利害得失を情実の渦中に投じて人民の休戚を顧ざるに到りては地方行政の実行を期する能はざるなり」と県理事者の対応を非難し、その反省を求めた。採決の結果、賛成二一、反対二四で否決された。これは少数派の進歩党が党議で反対し、多数派の自由党は自由投票となったため、自由党の一部議員と中立議員が理事者の切り崩しにあったためと観測された。
 翌三〇年一月一五日に移転の県告示が出されると、これを不満とする川之江村長長野祐律以下村役場の吏員は、ただちに総辞職、反対派の各村々が次々とこれに追随したため、東部八か村の村政は完全に麻痺状態に陥った。一月末から二月初めは皇太后大喪のため、一時鎮静していたが、喪期が終わった二月一二日には、千数百人の村民が妙蓮寺に集まって気勢を挙げた。巡ら中の警察官三人が、鐘楼で鐘を打ち鳴らしている青年を拘引しようとしたところ、逆に村民に包囲された。そこで帯剣を抜いて抵抗を抑止しようとしたが、多勢によって組み敷かれた。急を聞いて川之江警察署から、四〇名の警察官が出勤し、ようやく鎮圧する有り様であった。
 この間の模様について当時の新聞は、次のように報じていた。「東部中八か村は一月十四日(ママ)移転の県令発付の日より自治機関停止し租税徴収期至るも令書を発せず、人民は死亡者あるも埋葬認許書を得ること能はず、郡衙又は警察署へ死亡届を差出すも取合はず人民は埋葬に困りて唯墓地管理者へ死亡届を無理に投込み置きて埋葬を為し居れり、八か村村役場は番人の小遣一人居るのみ、左れば各官衙より送附し又は人民より差出す書類及び官報新聞等堆積を為して開封するものなし」(海南新聞)。また、郡東部と三島村とは商業その外一切の交際が途絶し、なかには従来取り結んでいた縁組について離縁の申し込みをする者も現れる始末で、特に、三島から香川県へ行く荷車などは、東部地方を通過する間には平服巡査が後押しや先引にまぎれて保護する険悪な状況であった。
 ただならぬ事態に、小牧知事は三月初旬、書記官内務部長椿蓁一郎を現地に派遣して、関係地区の村長・有志を集めて説得に努めた結果、東部村長のうちにも移転に賛成を表明する者も現れて、反対運動もしだいに鎮静化していった。こうして、四月一日には懸案の宇摩郡役所と警察署の三島村移転が成ったのである。

 郡制の開始

 明治三〇年四月一日を期して郡制が施行されたわけだが、周桑郡の場合をみると、これに先立ち郡役所の位置問題で紛糾していた。それによると、小松・石根(いわね)・千足山・吉井・多賀の五か町村の有志は、その位置を小松町に、その他は福岡村(現丹原町)に置くことを求め、二派はそれぞれ各所に集合し、あるいは県に陳情し、また、西条町にあった郡役所に押し寄せるなど騒擾甚だしい状況を呈した。特に、福岡村への設置が示された段階では、小松町において吏員が総辞職したため、職務管掌上やむなく郡吏を派遣し、県からは書記官椿蓁一郎が出張して鎮静に当たるなどの措置がとられたが、説得は難航する経緯があった。しかし、大事には至らず、四月一日、福岡村大字丹原遍照寺内に周桑郡役所が開庁、初代郡長には元西宇和郡長山下興作が任命された。また、同時に、小松警察署を廃して福岡警察署が設置された。
 郡制の第一歩は郡会議員の選挙に始まった。四月八日、大地主互選議員登録名簿が作成され、住友吉左衛門外一六名が登録され、同月二四日町村選挙に属するもの、同月二八日に大地主選挙に属する選挙告示が示達された。五月一日、各町村において郡会議員選挙が行われ、中川村の越智茂登太など一七名が当選、同月六日に大地主郡会議員選挙が行われ、渡辺彦右衛門・菅久太郎・長谷部倉蔵・寺田市太郎・黒田広治の五名が当選した。
 五月二七日、第一回臨時郡会が開会され、郡会役員の選挙及び郡会議事規則、郡会傍聴人取締規則の付議があり、翌二八日に閉会した。議長は山下郡長で、議長代理は兼頭鶴太郎であった。六月一六日、臨時郡会議案審査のため郡参事会が開会され、同月二五日の臨時郡会で明治三〇年度郡費予算が付議、原案可決をみていた。以後、郡会開会度数をみると、明治三〇年度が五回、翌三一年度が三回で、その後大正末まで一~三回となっており、郡参事会は同三〇年度が五回、翌三一年度が一〇回で、その後、多い年で七回、少ない年は二回となっている。
 明治三二年七月、郡制改正の施行に伴い大地主議員制が廃止され、町村選出議員一七名の構成となり、議長も選挙制で初代には越智茂登太が就任した。なお、この年五月には、郡役所が福岡村大字丹原一二〇番地に新築移転した。
 明治期における周桑郡会の議決事項(予算を除く)をみると、郡立農業補習学校設置の件(明治三四年)、乙種農学校設置の件(明治三五年)、周桑教育部会補助の件及び郡農会補助規程制定の件(明治三五年)、土木費補助規則(明治四五年)があり、建議案件には、土木費負担区域に関する建議、税務署新設の義につき建議(明治三〇年)、県道編入の件(同三〇・三一年)、郡重要物産共進会開催方の件(同三九年)、鉱煙被害救済意見書提出の件(同四二年)、郡酒造組合事業への郡費補助の件・道路改修調査委員設置の件(同四三年)、道路港湾改修への郡費補助の件(同四四年)などであった。
 こうしたなかで、周桑郡が郡として施設した事業を概略すると、その主なものは勧業・教育・土木の三部門に集約される。まず勧業面では、産業の改良発達のため各種技術員を設置していた。明治期で養蚕技手と農事督励指導の農業技手、大正期には産業組合及び農業倉庫の経営指導のため産業主事補、その他畜産組合技手、林業技手、製紙業指導奨励に産業技手、産業統計吏員をそれぞれ設置した。また、団体に対する郡費補助関係では、明治期で明治三三年から郡農会、同四一年から町村農会(産米品評会)・共同苗代組合・共同養蚕組合・煙害調査会、同四三年から畜産会周桑支会、同四四年には酒造組合・製糸講習会などに助成をした。教育については、郡自治事業中で最も多大の経費と苦心を払っており、直営事業としては郡立周桑農蚕学校(明治三四年設立の郡立農業補習学校、同三六年郡立周桑農業学校に変更、四〇年に改称)の経営を第一に、貧弱村への義務教育費補助、実業補習学校及び各種学校の補助、教育部会及び青年団に対しそれぞれ助成措置を図った。また、土木では郡町村道の改修に当たっている。
 次に、西宇和郡の郡政をみると、郡制施行当初は周桑郡とほぼ同様である。郡役所は八幡浜町に設置、郡長は明治二七年来の下井小太郎が引き続き就任した。郡会議員は二二名、初代郡会議長には二木生村選出の笹田省三が選出された。郡会議員選挙の選挙状況をみると、棄権率が著しく高く、きわめて低調であったことがうかがわれる。明治四四年では、郡全体で有権者四、七〇六人のうち二、七四二人が棄権、その率は五八%、三瓶村では九四%が、神松名村で九三%が棄権した。大正四年では、全体で五二%、大正八年は五六%、神松名村は九一%、九三%と最高を記録している。明治期の諮問答申では、明治三二年通常郡会で八幡浜町から川之石村への里道測量費の諮問に対し、郡会は郡経済が許さないとの理由で実測延期を答申していた。また、郡立商業学校設立の件(明治三三年)、西宇和郡重要物産共進会開催の件(同四〇年)については、それぞれ適当との答申を行っている。建議については、教育関係で中等程度の学校設置の件(明治三二年)、郡立商業学校県営移管に関する件(同三七年)、実業補習学校補助の建議(同三九年)、女子教育に関する建議(同三九年)が決議され、勧業関係では、航海補助費の件・麦稈真田(ばっかんさなだ)補助の件(同三九年)、西宇和酒造組合補助の件(同四一年)があり、土木関係では、土木委員設置の件(明治三四年)、名坂道路改修の件・道路測量・改修の件(同三七年)、大洲道路改修の件・卯之町街道一部改修の件(同三八年)、里道改修に関する件(同四〇年)、里道改修補助申請の件(同四四年)が、それぞれ可決・決議された。
 こうしたなかで明治期における西宇和郡では次のような施策を展開していた。まず勧業政策をみると、農業では、普通農事で農業技手の設置(明治三四年)、郡農会補助・耕地整理工費補助規程の制定(同四〇年)があり、養蚕業で蚕業技手の設置(同四二年)、郡養蚕奨励保護会への補助や共同養蚕組合補助規程の制定などを施設した。水産業では、明治三三年に水産事務担当吏員を配置、水産組合の対馬・朝鮮海域の出漁への補助を行っていた。商工業については直接の奨励方針はないが、織物改良組合・郡織物同業組合・生糸同業組合・酒造組合などの商工団体に対する助成政策を行い、指導奨励に努めた。また、郡内重要物産共進会や各種品評会を開設し、当業者の指導啓発を図った。
 教育事業としては、小学校教員に地元西宇和郡出身者が常に乏しく、不利と不便とを痛感したところから、明治三三年以来教員養成の目的で郡立教員講習所を設置(同三五年廃止)、同四一年郡立尋常小学校准教員養成所を設立、経営を行ってきた。また、同郡は商工業地である関係もあって、郡立商業学校の設立を求める声が高く、先述のように明治三六年六月臨時郡会で設立の諮問を可決答申した。そして同年九月の通常郡会において、郡立商業学校設置調査委員設置規程を可決するとともに、郡立商業学校建築費として工費一万円、三か年継続事業を原案どおり可決した。そこで、郡は翌三四年二月、伺書を文部省に提出、文部省はこれを認めて、三月一四日付けで設置認可を告示した。郡は明治三四年郡令第二号で郡立八幡浜商業学校規則を令達し、同校は、四月二〇日甲種商業学校として八幡浜町に開校、愛媛県では最初の本格的な商業学校が発足した。県立商業学校の設立に先立つ一年前であった。なお、同校は明治三九年四月に県立移管された。そのほか、郡費補助としては、町立八幡浜女学校及び実業補習学校への助成、愛媛県教育協会西宇和部会への補助を講じていた。
 土木事業について述べると、西宇和郡は丘陵が直ちに海に臨む地であって、海岸の曲折が著しく自然の港湾に富み、海上の交通は便利であるが陸上は甚だ不便なため、地方民の道路熱はすこぶる旺盛であった。このことは郡会建議によく現れている。郡では、明治三三年土木費補助規程を発布し、町村道の改修に意を注いだ。この規程発布と同時に着手したのが双岩村の布喜川線であり、以後各地で改修が進められた。同四〇年には、同規程を改正し、測量費も対象となった。郡直営事業として計画されたものに、川之石街道の改修事業があった。明治三七年一月通常郡会において、理事者は三か年継続、総工費二万八、二七九円の予算案を提出したが、議会では土地買収費が不十分であるとの理由で協議会修正意見の三万三、三七五円に増額する案を可決した。しかし、間もなく日露開戦による地方財政の緊縮に伴い、翌年には実施の無期延期を議決するにいたり、その後、調査の要ありとの理由で手をつけぬまま繰り延べを繰り返し、遂に明治四四年二月の通常郡会において、その経営を関係町村の事業に移すため廃止するという提案となった。席上、質問に答えた郡長渡部綱道は、「此ノ線ハ既ニ郡営ニ決シ居ルト雖抑モ本線ハ県ノ指定線ニシテ補助額ヲ増加シタルト従来各町村ノ為シ来リタル工事ヨリ考フルトキハ決シテ本線ハ難工事ナリト認ムル能ハス、又施行中ニ於テハ県郡ノ監督ヲ厳ニスヘケレハ完全ヲ期スヘク且ツ将来修繕等ニ於テモ町村経営ノ方至便ナリト信スルガ故ナリ」と答弁した。さらに、今回の変更には内訓その他の事情が存したのではないかとの質問に対し、渡部郡長はそのようなことはないと否定していた。採決の結果、原案が可決され、結局郡営の土木継続事業は計画のみで実施に移されることなく霧散することとなった。
 さらに、肱川の流域にあって山林が大部分を占め、城下町の大洲町を中心とする喜多郡の状況をみると、まず勧業関係では、養蚕・蚕糸業と林業の奨励が特筆される。養蚕・蚕糸業については、郡制施行前の明治一三年から一三年有余にわたって在任し、名郡長と称せられた下井小太郎は、養蚕伝習所・模範桑園の設置、蚕業技術者の配置などすこぶる熱心に奨励に努め、民間製糸場の創立を促すなどの基盤があった。郡制実施後の一〇年間は、まだ勧業施策にみるべきものはない時期で、郡農会に対し蚕業講習及び屑繭整理講習について指定補助を行うに過ぎなかった。日露戦争後、戦後経営による事業興起の時期を迎え、当時の郡長植田延太郎は積極的な奨励策を展開した。
 明治四〇年、蚕業技手一名を設置、蚕糸同業組合及び植桑奨励に対する補助、郡農会の稚蚕共同飼育の指定補助を開始した。その後、養蚕組合・蚕種同業組合への補助や桑園・繭糸の品評会費の拠出を加えるなど、県下屈指の養蚕・蚕糸地域となる基礎固めが推進されていった。
 また、藩制以来名声を博していた大洲半紙とその改良半紙については、その奨励のため、明治四一年以後、製紙同業組合(大洲産紙改良同業組合)に郡費補助を行った。
 林業奨励については、明治四一年に郡有模範林の設置をもって始まった。同年二月、菅田村大字菅田神南(かんなん)山の国有林一四七町歩余を郡会の協賛を経て、三万〇、六七〇円で買い受けて郡有模範林とし、同年三月模範林管理規程を設けて、郡制廃止に至るまで郡が直接経営に当たった。
 土木関係では、国道第五一号線を除き車輛の通じる道路のない郡の状況から大いに改善の要が求められ、明治三〇年、郡会建議を受けて郡は臨時委員設置規程を設けて調査研究をした結果、改善を期するためには町村へ工費補助を与えて奨励するという結論を得た。明治三四年郡令第四号によって「町村土木費補助規則」を定め、翌年より実施に移した。なお、港湾については、長浜港修築に郡費補助を行っていた。
 教育関係では、中等教育において明治三〇・三一年に私立共立学校への郡費補助を行ったが、同校は経営困難のため廃校となった。明治三二年一一月、郡会は大洲町に郡立学校を設立することを決議、従来の共立学校を継承し、その規模を拡大しようとした。翌三三年四月、郡立喜多学校として開校した。やがて県立移管運動が興り、郡会は実現を期するために建築費として一万円の寄付を議決した。県では、大洲に県立中学校分校設立方針を採り、翌三四年三月に同校は廃止され、四月、県立宇和島中学校大洲分校が創立された。また、明治四〇年四月、大洲町立高等女学校を郡立に移管し、校舎・雨天体操場の新築など、多額の郡費を投じて内容設備の改善を図った。同校の経営は郡予算の大半を費やす、郡事業中の最たるものであった。
 以上、周桑郡・喜多郡・西宇和郡と三郡の郡制施行状況を明治期を中心に概略したが、郡制の制度上、その自治機能は極めて限定されており、特色を指摘することはできない。しかしながら、郡会の諸建議や郡の施設事業をみると、それぞれ地域的な特色やそれに伴う住民の要望が反映されていることは否定できない。東予の平野部にあって純農村地域の周桑郡、肱川流域で山林が七割を占め城下町を有する喜多郡、宇和海に面し山が海にせまる半農半漁地域で商業都市を有する西宇和郡、それぞれ主たる事業である教育・勧業・土木の各方面でわずかながらも特質を見い出すことができよう。

 愛媛県における府県制の施行

 郡制の施行をみた愛媛県では続いて、府県制を施行する段取りになった。その任に当たった知事は小牧昌業の後任である室孝次郎であった。ただ、この府県制施行については、明治二九年通常県会において、「県制実施延期ノ建議」が採択され、同一二月二〇日に県会議長藤野政高の名で小牧知事に提出されていた。その提出理由は、土木費の負担区域が、旧各藩の慣行を襲用しているため、地方税負担に属すべきものが町村費負担に、また町村費負担に属すべきものが地方税負担になっているものが少なくない、従って、この負担区域は県制実施以前に更改する必要がある、しかし、その更改の前提として緻密な調査が必要であるので、県制施行を明治三〇年以後に延期し、時間の余裕をもって更改すべきものを更改し、設備するものを設備するよう決議したものであった。
 しかし、この議会建議にもかかわらず、県当局は予定どおり県制を実施することとし、明治三〇年九月八日県告示第一四五号で、「府県制第九十四条ニ依リ本年十月一日ヨリ本県ニ府県制ヲ施行セラル」と布達し、懸案の府県制が開始されることとなった。
 一〇月一日、愛媛県では、県令第六八号で県会議員の数を新たに三五名と定め、県告示第一七三号で県会議員選挙の期日を一〇月一五日に定めると示達した。府県制下の選挙による新議員を招集した最初の県会は、同年一一月五日開催の臨時県会であった。この県会では、議会組織のほか新設の県参事会議事規則、地方税支出予算更正、各税賦課規則中改正など府県制施行に伴う審議が行われ、新制度での第一歩を踏み出した。

 府県制・郡制の改正と施行

 明治二三年に公布された府県制・郡制は、政府の意図どおりに順調に施行されていった訳ではなく、特に三府をはじめとして大きな府県には未施行のものがあった。このような施行経過と実際に施行された府県の実状などを勘案した結果、政府も法律の内容の検討と改正の準備を進め、明治三二年、政府(第二次山県内閣)は府県制・郡制の全文改正法律案を提出した。
 改正案の眼目は、府県会議員・郡会議員の複選制と大地主議員の廃止であった。この両制度の廃止の意味するものは、日清戦争後の戦後経営の過程で、土木・教育・勧業などの分野で急速に増加してきた府県委任事務を、適確に処理できる強力な府県行政機構の整備が必要なとき、「党争の弊」を被るような現行地方自治制度の問題点をまずもって排除しておこうという配慮であった。それはまた、府県知事の職務権限の整備と強化を図る一方、府県会の権限を実質的に縮小していく方向にも明確に現れていた。
 衆議院・貴族院で若干の修正を受けて可決された改正府県制・郡制は、明治三二年三月一六日、法律第六四号及び同第六五号で公布され、同年七月一日より施行された。
 旧府県制と比較した場合のおもな改正点をあげると次のようであった。(1)総則では、府県の法人性を明確化したこと、(2)府県会では複選制を廃止して直接選挙制に改めたことなど、府県会議員選挙に関する重要な改正が行われたこと、府県会の権限が実質的に縮小されたこと、(3)県の名誉職参事会員定数の改正(四名から六名へ)が行われたこと、府県参事会の府県会に対する独立機関としての性格が弱められ、純粋な議決機関としての性格が確定したこと、(4)府県行政では、府県知事の権限が行政権力の上で、また議決機関に対しても強化されたこと、広範な範囲で、知事任命の有給吏員を置くことができるようになったこと、(5)府県の財務では、積立金穀、特別会計など府県の団体性を強化する措置がとられた外、財務規定の整備が図られたこと、などであった。
 改正郡制による主な改正点をあげると次のようであった。(1)郡会では、複選制と大地主議員制を廃止、直接選挙制に改めたこと、議員定数は一五人~三〇人、選挙権の納税要件は直接国税年額三円としたこと、(2)郡参事会は郡長及び議員の互選による名誉職郡参事会員五名で組織すること、(3)新たに、二以上の郡をもって「郡組合」を設置することができるとしたことなどであった。
 改正府県制の施行に伴い愛媛県では、明治三二年八月二五日県告示第一一九号により、九月二五日に県会議員選挙を実施する旨示達した。この選挙から、単記無記名の直接選挙となり、選挙資格も直接国税五円から三円に引き下げられた結果、選挙人も人口比で二・四%から三・五%に増加した。明治三二年一〇月九日開会の臨時県会が、最初の改正府県制下の県会であった。県会閉会式の式辞に対し、議長井上要は、「今回ノ臨時県会ハ役員ノ選挙及ヒ会議規則傍聴人取締規則ノ議員等代議機関ノ成立ヲ見ンカ為メニ開設セラレタルモノニシテ、選挙及ヒ議定ヲ終ハリ代議機関ハ茲ニ全ク成立セリ、行政当局者ハ参事会員ト相謀リ新制度ヲ運転シ其妙用ヲ示サレンコトヲ望ム」と答辞を述べた。

 県庁機構の整備

 地方官の官制は、内閣制の創始とともに更新された。すなわち、従前の「府県官職制」を廃して、明治一九年七月二〇日、勅令第五四号をもって新たに「地方官官制」を公布した。この改正は、内閣制による新しい体制に適合すべく改められた画期的なもので、これが、その後若干改訂されつつ長く踏襲されたのである。
 「地方官官制」はその後、数度にわたって改正されているが、これは勅令によるものとされ、府県ではこれを受けて「官訓」・「庁訓」の形式により施行され、愛媛県としての独自性はなくなった。
 「地方官官制」のその後の主な動きをみてみよう。明治二三年一〇月の全文改正では、「知事官房」が新設され、従来の機構は内務部・警察部・直税署・間税署・監獄署の二部三署制となった。また、参事官を置いて知事の諮詢に応じて意見を具し、審議立案を掌り、内務部課長とした。さらに、明治二六年一〇月再び全文改正され、直税・間税の二署が「収税部」に改称統合された。この収税部は、のち同二九年一〇月に大蔵大臣管下の税務管理局に移され、収税部関係の条文は削除された。
 愛媛県では、その都度、「愛媛県処務細則」を改定公布し、県庁機構を改めた。明治二九年五月、内務部内に勧業関係を掌る第五課が設けられ、翌三〇年一〇月には警察部に衛生課が新設された。また、同三〇年には、郡制の実施を受けて、「小学校令」に基づく郡視学が、勅令に基づく地方視学が新設された。
 明治三二年の地方官官制中改正では、新たに視学官が設けられた外、内部の改組が行われ、県では明治三四年三月一二日「愛媛県処務細則」を改定(官訓 第八二号)して大規模な機構改革を実施した。その内容は図表「県庁機構改革」のようであった。
 このうち、監獄署については、明治三六年一〇月の地方官官制中改正及び監獄官制により、司法省の管轄に移った。その後も、官制改正が続き、明治三八年には内務部を第一部・第二部・第三部に分け、警察部を第四部とし、奏任の書記官・警部長・参事官・視学官を廃して事務官とし、それぞれを各部の長としたが、同四〇年にはこの四部制を廃して内務部・警察部の二部制に復し、さらに大正二年には、事務官を廃して内務部長・警察部長・理事官を置いた。

図表「県庁機構改革」

図表「県庁機構改革」