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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

五 別子銅山の近代化

 銅山の経営と広瀬宰平

 広瀬宰平(さいへい)が別子銅山の支配人に任命された慶応元年(一八六五)九月、銅山の経営は大きな苦難に直面していた。この年四月、住友家当主友訓が早世したため、浅田家に養子となっていた友訓の弟友親が相続し経営に乗り出した。その直後、幕府は長州再征の軍資金徴募と軍兵の食糧確保のため、銅山買い受け米の停止を通告してきた。この買い受け米とは、対外貿易の決済を銅で行っていた幕府が銅山開発・産銅増産のための保護策として、幕府領からの年貢米を稼人(かせぎにん)(鉱夫・炭焼人など)の食糧米として安価で住友家に払い下げていたものである。慶応元年には美作(みまさか)国からの買い受け米二、二五〇石が停止され、銅山稼行に支障をきたすようになり、翌二年には御用銅七二万斤の長崎回送が廃止され、さらに伊予国幕府領内からの買い受け米六、〇五〇石も作州米に加えて停止された。これは銅山稼行の命脈を断たれるのに等しい別子の危機であった。住友家は慶応元年、幕府に一、二五〇両の軍資金を献上し松山藩・津山藩などにも御用金を調達する一方、広瀬宰平を急きょ上坂させ、大坂本店支配人今沢卯兵衛らと取りあえず買い受け米停止の撤回について善後策を討議した。別子銅山で働く稼人やその家族など一万を越す人々の食糧米の確保のため、今沢は江戸で幕府勘定奉行に嘆願を繰り返し、広瀬は当主友親とともに京都所司代で幕府要人と交渉を重ねた。この間、幕府は長州再征を開始したが、挙藩体制を固める長州軍の前に戦況は不利であった。また、その背後では江戸・大坂での打ちこわしや百姓一揆に悩まされ、また将軍家茂(いえもち)が大坂城で病死するなど窮地に陥った。長州より撤兵が終了した慶応三年一月、広瀬宰平らの奔走で伊予国幕領米六、〇〇〇石の銅山払い下げが復活した。しかしその価格は松山城下の上米平均値段と決定され、従来よりも高値購入となったため稼人の生活や銅山の経営は圧迫された。
 この難関に住友別子銅山を背負って立ち向かった広瀬宰平は文政一一年(一八二八)五月五日、近江国(滋賀県)野洲(やす)郡八夫(やぶ)村の旧家北脇理三郎景瑞の二男に生まれ、幼名を駒之助と称した。父理三郎は医を業とし、兄の泰次郎がこれを継いだ。理三郎の弟治右衛門は幼少より住友家に出仕し、当時別子銅山支配人の要職に在任していたため、駒之助(後の広瀬宰平)は九歳の時、叔父治右衛門に伴われて別子に登り、一一歳で勘定場(勘場)に奉公した。一小僧として黙々と働きながら、彼は勘定場の一隅で寸暇を惜しんで四書を独習し、京都近衛家や曼珠院に儒者として招かれていた叔父北脇将監(治右衛門の弟、号は淡水)に詩文を送り添削を求めるなど刻苦勉励を極めた。駒之助は大坂の今西徳右衛門の娘相(あい)子と結婚後まもなく、安政二年に当主友視の推薦で元江戸支配方広瀬義右衛門の家に夫婦養子となり広瀬義右衛門を襲名した。やがて妻相子と死別し、八尾三右衛門の娘町子と再婚した。宰平と名乗るのは維新後のことである。
 慶応三年の暮れから同四年にかけて大政奉還・王政復古と揺れ動く社会の中で、別子銅山の管理権も一変した。別子銅山は川之江陣屋の管理下にあり、元禄四年以来、御用銅の上納を条件に請負稼行を認められた「請山(うけやま)」として、住友家によって経営されてきた。明治維新に際し、新政府は大坂にあった幕府銅座を封鎖するとともに、薩摩藩に命じて住友の銅蔵・本家銅吹所(大坂鰻谷)を封鎖させた。さらに、朝敵となった松山藩に代わり、伊予の幕領を管轄する土佐藩が銅山をも接収した。これにより幕府との間で一手稼行を約して永年採鉱してきた住友は岐路に立たされた。土佐藩の川田小一郎(のち日本銀行第三代総裁)らの一隊が別子に来て銅山を差し押さえ、「土州少将当分御預り別子銅山出張所」を開いたのは慶応四年二月八日である。これより先、一月二九日に土佐藩士二名と家来一名が銅山の下検分に来たため、支配人広瀬宰平は翌三〇日に土佐藩預り地川之江鎮撫所を訪れ、川田と会談した。宰平は「住友氏祖先以来吹銅ニ従事セシ顚末(てんまつ)及ヒ別子立川両銅山ノ来歴」を述べ、「数年来銅山稼方相続仕リ、年々莫大ノ御国益二備ヘ奉リ候」と、住友家の長年にわたる経験や実績を説いた。ついで広瀬は「銅山相続ノ御救済相成度候」・「稼方永続仕候様仰付ラレ候様」・「相替ス是迄通私一手吹仰付ラレ度候」という嘆願や停止されている御用銅の買い上げ価格の引き上げなどを訴えた。この時、広瀬宰平四一歳、川田小一郎三三歳、二人は夜を徹して会談し、川田は暫定的に従来通り伊予旧幕領米を別子銅山へ払い下げることを許した。また川田は二月九日~一二日まで銅山に登り、吹所(製錬所)、本鋪(ほんじき)などを検分し、銅蔵に保管している銅一、六一一貫余について「封印同様ト相心得候様」、また立川(たつかわ)の蔵にある米七五〇石、銅五、七〇〇貫に対しては銅山元への運送差し支えなしとするなど、寛大な取り計らいをしている。当時銅山勘定場の財は乏しく大坂本家支配方に送金を依頼する状態にあっただけに、土佐藩の寛大な措置は住友家・別子銅山の経営に寄与するところが甚大であった。また広瀬は住友家の財力の回復と請負稼行差し止めの解除を朝廷・薩摩藩・土佐藩に対して嘆願した。このことは『垂裕明鑑 巻二三』中の明治元年二月~三月の「預銅渡方及ヒ元銅座ヘ調達金下渡方ニ付左ノ書面ヲ差出ス」「別子・立川両銅山永続御冥加(みょうが)ノ為製銅千五百貫目朝廷ヘ年々奉貢又五百貫目ハ土州藩へ年々献納仕度旨出願」「出銅ヨリ吹分金献納ニ付土州藩へ出願」「支配人広瀬義右衛門京都ニテ別子銅山永続方ニ付土州侯ヘ願出、其後滞京ニテ屢々(しばしば)願出一層尽力セリ」といった記載からうかがい知ることができる。
 こうした「願出」の結果、慶応四年閏四月、政府は住友に対し、土佐藩管理のもとに銅山の請負稼行の再開と伊予旧幕府領の買い受け米の継続受給を認め、政府管理のもとに大坂鰻谷(うなぎだに)の銅吹所の再開を認可することになり、住友の危機は去った。

 経営の改革と近代化案

 明治四年の廃藩置県により、別子銅山は土佐藩の管理を解かれた。ついで翌五年、政府は鉱山心得書を頒布し、鉱山は「悉ク政府ヨリノ請負稼」であると布告したので、同五年六月、住友は別子・立川両銅山の請負稼行を石鐡県へ出願し、県はこれを工部省に取り継いだ。程なく伊豫国宇摩郡別子銅山を従来に引き続いて請負稼行することを願い出た件につき、願い通り許可する、今後洋式器械を据え付ける時は工部省へ申し出ること、請負条件や年限は追って申達する、納税については大蔵省へ伺い出ることという内容の回答を得、八月には大蔵省より毎年金六〇〇円ずつ上納すべしとの指令を受けた。こうして請負稼行を認められ経営権が安定して行くのと歩調を合わせ、住友では時代に即応する「諸事更新」体制がはかられた。
 これより先、明治二年一月、広瀬宰平は「諸事更新」の方針を打ち出し洋式技術の導入を前提にした徹底的な経営の合理化に着手した。別子銅山改革の第一は出銅高の増加を図らねばならない、そのためには、多くの雇員・鉱夫などの生産意欲を鼓舞するため賞罰の制を設ける、太鼓を打ち鳴らして時刻を報じ作業時間を規則的にすることなどを彼の「半世物語」に記している。この外、具体的には、大坂鰻谷の吹所を立川村(現新居浜市立川山)に移転して作業の合理化をはかるとともに、住友家の住宅と店が一緒であったのを改め、店部を水陸の便利な地に設ける、神戸に製銅売捌(うりさばき)出張所を設け直接外国商館と取り引きをする、全雇員・鉱夫に対して一分~三割の減俸を行う、従来から手代に与えていた給食を廃止して各自弁当を持参するなどの合理化方針が出された。この背景には、経営改善に苦悩し住友の要職にあった広瀬が、わざわざ新政府の鉱山局(旧幕府時代の銅座)へ出仕し(明治元年九月~翌年二月)、洋式経営や採鉱方法を学んで帰ったことが関係している。同四年四月にも彼は鉱山寮(旧鉱山局)へ出仕し、仏人技師コワニーとともに生野銀山の再開発を進め、この間、西洋の新知識を学び五年一月に別子へ帰った。同年一一月には別子銅山用物資と産銅の輸送を目的として、英国から蒸気船(五四トン余)を購入し、新居浜―阪神間を航行させている。
 産銅増を期すための打開策として、銅山に洋式技術を採用することは維新前後から考えられていたが、これを実現させるには莫大な資本を必要とするばかりでなく、雇員・鉱夫の職制や意識の近代化が必要であった。明治二年の「諸事更新」方針は少しずつ具体化された。同三年五月には黒色火薬を使用し始め、それに伴い、火薬をつめる穴をあけるための鋼鉄の棒(銅山では盛山(せいざん)棒と呼ぶ)が使用されるようになった。同四年九月に洋式器械設置方針が決定したので、生野(いくの)銀山へ出仕中の広瀬のもとに、辞職して別子へ帰り尽力して欲しい、「此上ハ予州表ハ素ヨリ其掛リ悉皆委任致サスヘク候」との書状が住友家当主友親より届いた。この時広瀬は銅山後見人に就き、「旧弊一洗諸費省略候様、諸役場ハ成丈(なるたけ)少人数勤務勉励」を旨として「今一層改法ヲ遂ケ候」ため、同五年一月、別子へ帰った。同年四月には早速別子銅山改革法を実施して、鉱夫に対して従来から貸与あるいは支給していた品々を廃止したり、木方(焼鉱炉)・床屋(溶鉱炉)・勘定場など諸役場の整理統合を図るなど経費節約と職制合理化を行った。さらに同六年三月には「維新政体ノ御趣意ニ基キ諸事旧習ヲ改革」する諸規則を制定し慣行改革を実施した。それによると、雇員の等級を支配人・副役を最高とし、元締格式・差配役格式・本役・見習・(見習)以下の者・従前々髪・子供までの八等と等外一等の炭掛りから等外五等の(小遣)以下の者までに分け、「今日文明開化ノ域ニ至リ無能頑愚ノ者上等ニ坐シ其権ヲ振フ謂レ之レ無キ事」とし「仲間ヨリ撰挙ノ手代モ多能ノ者等進致スヘキ」と昇級の道も開いていた。この外、この等級改革に伴う月俸の改革・雇員以下罰金法の判定・金銀貸借心得の制定・新暦採用に伴う心得など種々の改革を行った。その中で資本の蓄積と洋式技術の摂取・山内の陋習(ろうしゅう)打破が図られ、いわゆる近代化が進められた。
 明治五年七月、住友は別子銅山に洋式器械の設備と外人技師の招聘(しょうへい)を政府に出願し許可された。そこで翌年二月フランスのリリエンタール会社横浜支店の斡旋によって、仏人地質学者ルイ=ラロックを招くことになった。彼は月給洋銀六〇〇ドル(当時の日本円で約六〇〇円)で二二か月の契約で、明治七年三月別子に赴任した。この時、同道した通訳塩野門之助の月給は二五円であり、銅山支配人は三七円、住友後見人として当時住友第一の高給取りの広瀬でさえも一〇〇円という時代であった。ラロックは一年有余にわたって山上の小足谷(こあしだに)社宅に住み、その間、銅山の地質学的調査・鉱物学的調査を行った。その調査を基礎にして、欧米の採鉱・冶金技術を参考にして銅山の改革すべき点や整備すべき新施設などの設計、必要な経費など産銅増のため細部にわたり調査研究し、翌年には「別子銅山目論見書」を完成させた。この目論見書は、坑道の開掘・道路や鉱山鉄道などの運搬設備・溶鉱の技術と場所・砕石に要する新機械設備の四点から改善策を示していた。この中で注目すべき大構想は、東延(とうえん)より斜坑を開掘し、これに数段の支坑道を連絡させて、別子全山の採鉱作業と鉱石運搬に革命を図ること、惣開(そうびらき)に一大製錬所を建設して別子山中と立川の中宿にある製錬所を移転統合すること、新居浜~別子間に新車道を開いて別子の鉱石をすべて惣開に運んで処理しようという三点であった。また施工方法に加えて、使用すべき機械器具の種類、工事期間及び経費、坑口で使用すべきロール巻き揚げ用蒸気機関設備、鉱石運搬用鉄道の敷設など詳細をきわめていた。例えば東延に坑道を開掘することの理由を五か条あげているが、東延は他の候補地に比べ広く、受鉱・割鉱・砕鉱・洗鉱・搗(とう)鉱などの作業設備の用地があり、また酸を含まない水が豊富にあり作業用水が得やすいこと、東延の地形は南風を避けることができる地であるため、他所に比べて亜硫酸煙の被害に悩まされることが少ないなどの綿密な研究成果を記している。また東延の竪坑を垂直にすべきか斜坑にすべきかの理由についても、鉱床の肥厚度合や掘さく経費を考えて精密な計算のもとに斜坑にすべきであるとの結論を出している。ラロックの計算した全山の新規開拓総体費は六七三、七〇五円余の巨額にのぼった。
 ラロックが去った後、住友はこの計画に基づき、自らの手で近代化策を進めていったが、そのために、明治九年三月、前述の通訳塩野と雇員増田好蔵の二名が採鉱冶金学研究のため住友派遣中、最初の留学生として渡仏した。

 近代化事業の開始と進行

 ラロック案に基づく別子銅山近代化事業は、明治九年から開始され、明治二三年をもって第一段階としての基礎的事業を完了したといえる。
 「彼の地にはいわゆる道なるものなし、別子山中第一の問題は道路なり」とラロックが記しているように、別子―小箱(おばこ)越―入野-天満のルート(一次泉屋道)、別子―銅山峰―立川のルート(立川銅山道)など元禄期以来の道は人馬が通るにも危険であった。新道(牛車道)開さくの工事と東延斜坑掘さく工事は、他の近代化事業に先がけて明治九年に開始された。
 ラロックの設計では従来の人馬による一七里の道を別子山中高橋を基点にして銅山峰を迂回(うかい)し立川から惣開まで全区間牛車道による一三里の新道にしていたが、広瀬は迂回を止め勾配を急にして七里に短縮する計画に変更した。工事予算一〇万円を一度に支出する余裕がなかったために、一期工事は惣開~立川間、第二期に立川~別子間として明治一三年開通した。工事中、新車道開通により従来より鉱石や荷物の運搬に従事していた人々が、生業が奪われることを憂慮して、広瀬を馬の背の崖から谷底へ突き落とそうとしたという逸話が残るほど、省力化が図られた。ここに銅鉱産地別子と洋式製錬所建設予定地である惣開とを結びつける幹線道路が敷設された。
 佐渡鉱山の竪坑開掘(明治八年)に次いで、翌年別子では東延の地に斜度四九度、深さ五二六メートルの斜坑が掘られ始めた。黒色火薬による発破と盛山棒を駆使して岩盤を掘さくしても工事は遅延を重ね、同四年までの五年間にわずかに一二六メートルくらいしか掘さくできなかった。翌一五年(一五〇メートル地点)からは馬器械(掘り出した土石の搬出用の巻揚機)を使用し、掘り進むにつれて馬四頭・六頭・一二頭とその数を増し、二三年には蒸気巻揚機の導入によって工事の進ちょくが図られた。坑内の最深部である八番坑道と同じ高さに到達したのは起工以来二〇年目の明治二八年一月のことであった。大竪坑の稼動によって坑内の鉱石運搬・通気・排水・交通の便の効率もよくなり、また鉱床に合わせて支坑道を伸ばした。図1―11は昭和期の銅山概要図であるが、大正四年までには、大竪坑と第四通洞の接点に到達していた。このため産銅高は増大して銅山近代化を支える財力も増えていった。
 ダイナマイトは明治一五年から銅山でも使用されたが、これが日本の鉱山で使用された最初の例である。同一六年から再開された小足谷疏水道(明治二年に起工されたが、出水の多さのため同一一年に工事が中断していた)の工事にはダイナマイトが使用され、出水の少ない南西方向に疏水路を変更して明治一八年に完成した。これは寛政期以来、懸案となっていた大水抜が小足谷疏水道として完成し、過去ずっと人力(繰樋を操作して)に頼って水と戦ってきた人々がその苦労から解放された画期的な成功であった。そればかりでなく東延斜坑と連貫し、通気・交通・採用にも寄与することが大であった。
 第一通洞の貫通もまた銅山近代化事業の大きな柱であった。旧別子の歓喜坑など代々の旧坑と銅山峰を越えた角石原(かどいしはら)を結ぶ全長一、〇三〇メートルの第一通洞は明治一五年に着工し同一九年に完成した。ここでもダイナマイトを使用し、予想外の早さで別子山を南北に貫通した。この隧道は新居浜―角石原―第一通洞北口―西下り採鉱場―天満採鉱場付近―代々坑南口―別子本鋪と通じたので物資輸送、鉱石運搬の大動脈となり産銅の増加に貢献したばかりでなく山内の人々の苦労をも軽減させた。
 明治一二年四月、東延斜坑口の高橋に溶鉱炉を建設し、洋式製錬が開始された。翌年には高橋排水処理収銅場が建設され、また同一六年一月には惣開に洋式製錬所の建設が始まり、山根製錬所(現新居浜市角野新田町、大山祇神社、別子銅山記念館などがある)も同一九年八月に着工され、その設備も小高炉・中高炉・大高炉を持つようになり、技術的にも乾式収銅・湿式収銅など種々の発達をみた。
 ラロックが赴任して以来一五か年の間に、道路整備・斜坑開掘・通洞貫通・疏水道整備などの諸要件が相互に有機的に作用し別子銅山の機械化・近代化・経営の安定化はその基礎段階を終え、より太くより長く成長していく中で新たな問題も生じるようになった。なお、明治二三年、別子開坑二〇〇年を記念して、別子の産銅をもって大楠公の銅像を鋳造し奉献することを決め、三三年に献納した。この、高村光雲・竹内久一・後藤貞一・岡崎雪声らの手による名作は今も皇居前を飾っている。

図1-10 別子銅山全景

図1-10 別子銅山全景


図1-11 別子銅山の概要

図1-11 別子銅山の概要