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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

四 企業の設立と金融制度

 会社の育成

 明治初年、伊予の各藩も新政府の意により専売制や株仲間を廃止した。商工業の営業や、物品の他藩移出も自由となった。政府は民間の資本を集めて企業を育成するため為替会社・通商会社・陸運会社などの設立を助成した。県下の各地にもこれら諸会社が成立したが、設立が半強制であったり、会社の十分な知識もなく、経営も旧態から脱し切れず、失敗するものがほとんどであった。「会社」は幕末に欧米から移入した概念で初め庶民にはなじまなかったが、金融や商業の面から少しずつ使用されていった。 
明治初年の会社は、藩の物産会所を引き継いで、藩の全面的庇護を受ける官立的なものが多い。大洲藩の豪商高月(こうげつ)三伍らの「制産社」や「掌蠟社」、明治三年九月、蠟や楮の移出入のため宇和島・吉田両藩に設立した「商会社」などがこれである。明治二年に大洲藩の援助により大橋有ら数十名で設立した「養蚕会社」もある。松山藩でも御用商の栗田與三・藤岡勘左衛門らが明治元年に「商法社」を組織した。同社は同三年八月「興産社」、同五年八月「興産会社」と改名し、藩の保護を失った後も金融業や物産売買の会社として発展した。古三津(ふるみつ)村の土屋儀平は、明治四年四月に同社から酒造鑑札・居宅・土蔵などを担保に六か月間、二貫五百目の借財をしている。利息は毎月四五○目(一割八分)を五日限り納入の条件であった(古三津村庄屋日記)。
 明治一四、五年ころまでの会社は、士族授産事業によるものが多い。早い例では明治五年七月今治の「正米売買会社」、八月に宇和島で「信義社」、大洲で養蚕と製糸を営む「開盛社」、同九年七月松山小林信近らの靴・紙・織物業などの「牛行舎」、同一〇年吉田の金融「楽終会社」、吉田の遠山矩道(のりゆき)ら二〇〇余名の製糸「興業社」などがある。明治七年一〇月、旧大洲藩士野間勝重ら九名は、融通会社「協勤社」を設立した。同社の「結社大意規則書」一二か条によると、設立の理由は、家産の資本を不馴れの道に投資をすればかえって生計の途を失う、そこで同盟協力して一社を結び、融通の法を立て、その利益により社中の生計を立てるためであった。社中は一五名以内、脱社は禁じる、出資額は銘々の意志による、三〇円以上の貸し付けは惣代の印、一〇〇円以上は質物を要す、利子は時宜によることとし高利としない、特に応じ利金で社中の飯米を貯える、などが規則の内容であった(大洲市 岡田家文書)。商人では明治八年一二月、西宇和郡保内郷の有志が一万円で設立し、製糸資金を貸し付けた「潤業社」(社長清水一郎・幹事矢野小十郎)が早い。

 企業の設立熱

 県下の会社数は明治一三年末ではわずか一三社、資本金合計約一六万五、〇〇〇円であった。うち九社一四万八、〇〇〇円が金融関係である(県統計概要)。一八年では三〇社であるが、うち三年間を経過する社は一〇社で(表1―89)、盛衰の激しさをみせている。会社の設立ははじめ主務省の許可を要したが、明治一一年七月から知事の権限となり、設立の動きが活発化した。特に二〇年ごろから企業熱によって、銀行・製糸・海運などの会社が急増し、二三年の恐慌によって大混乱となった。同二六年七月、「会社法」の成立で法的にも整備され、三〇年代には会社も社会に定着した。この期には製造業が増加したが、資本金では依然金融業が大きい。明治三五年では各業種ともに越智郡・西宇和郡・松山市が活況で、製造業では織物・製糸・酒造・鉱業・精米が多い。商業は越智・西宇和・北宇和の三郡が多く雑貨と魚市会社中心、金融業は中予以南に多く、既に小社の合同の傾向をみせている。

 庶民の金融

 県下の山間や僻地では、明治に入っても自給自足の経済が続き、産物の商品化や貨幣の流通はわずかなものであった。しかし町域や農漁村では、流通経済の波は著しく、副業や出稼ぎで現金収入はあるものの公租・生活費・交際などのため金繰りに追われた。大口の資金が必要で担保があれば銀行が利用出来たが、庶民の一般的な金融は、明治・大正期では個人貸借・質屋・頼母子(たのもし)講・無尽(むじん)などであった。銀行や無尽会社の支店・出張所が周辺農村に出来るのは明治三〇年代である。
 最も普通の金策であった個人貸借は、有力者や金貸しに担保か請人を入れて融通を受けた。短期の小口金融では、家財を質物として質屋を利用する。明治末期には、各村に四、五軒の質屋があったといわれる。頼母子講は相互扶助の精神に始まり、貧民救済・家屋新築・事業の新設や拡張など多様の目的で行われるもので、少ない金銭を順番に活用する庶民の知恵である。講員は、小口なら近隣や身内、大型のものは数か村にも及び、規約によって口数と掛金を定める。無利子で長期の分割返済、集会時には飲食を伴い親睦を兼ねるものが普通であったが、多様の形に分化し、単なる営利目的のものや、不心得者がいて紛争を起こしたり産を失う者もあった。無尽も頼母子の一種であるが、長期の営業から相互銀行へ発展する例もあった。

 銀行類似会社

 通商会社や為替会社の経営は失敗したが、旧士族や御用商らの小規模な貸金業が、明治三、四年ごろから各地で設立された。前項でみた通り、明治前期の会社の大半はこれら半銀行的な金融業であった。政府の保護監督下には国立銀行があったが、これら私設の貸金業は国立銀行条例の規制外にあり、銀行の名称の使用は禁じられたが、設置は黙認されたため急増したものである。先の「興産社」、「潤業社」、「信義社」、「楽終会社」などがそれで、明治九年に設立の「栄松社」には、旧松山藩主も出資した。これら銀行類似会社は資金も大きく、製糸や印刷、醸造や物品販売も兼営し、在来産業を支えて共に成長し、後には銀行となる例もあった。しかし明治一〇年代のデフレ期には、不景気に困窮する農村や庶民を対象とした、短命の投機的な会社もあった。
 慶応四年(一八六八)正月、東宇和郡卯之町に、庄屋清水甚左衛門の発案で「種生(みばえ)講」が誕生した。これは恒例の庄屋宅で元服をした一五名を講員として各五〇匁と庄屋出資の七〇〇匁の合計一貫四〇〇目を元金とし、年二回ずつの積み立てと融通を開始したものである。八年二月に「種生会社」と改称して差配人・取扱人・勘定方の役員を置き、一四年七月に会社営業届を提出して「種生会社仮規則」を制定した。明治二〇年一月から全国初の年賦貸し付けを始め、取り引きが高知・大分・宮崎県にも拡大し、二六年六月に株式会社とした(本社貯積金取立簿)。明治四四年末では資本金三〇万円、預金高一五万円、貸付金四八万円の大会社であった(「宇和町誌」)。

 国立銀行の創設

 為替会社の不振をみた政府は、新貨条例により通貨を統一し、金本位制の確立を図った。ついで公的金融機関と不換紙幣整理の必要から明治五年一一月「国立銀行条例」を判定した。同法により、明治九年までに東京・横浜などに四行が設立されたが、紙幣増発と金貨流出による紙幣の下落から、正貨への兌換が不能となった。一方同九年には華士族の秩禄処分のため、一億七、四〇〇万円の発行が予定されており、公債の価格維持の必要から八月に同条例の大改正を行った。銀行券の不換券化、発行額の引き上げ、資本金の引き下げなど設立条件を柔らげ、西南戦争による好景気もあって明治一〇、一一年には設立が相次ぎ、同一二年末には全国で一五三行となった。同時にまた私立銀行や銀行類似会社も急増している。県下設立の三行とも、旧士族の金禄公債(出資金)を中心としたものである。
 川之石に四国で二番目に第二十九国立銀行が創立されたのは、同地の「潤業社」の実績と旧宇和島藩主伊達宗城(だてむねなり)の創立した東京第二十国立銀行の後援による。また西宇和郡は海運や商業・製蠟・綿業などで資産家も多く、企業の発展期にあり、創立の中心となった矢野小十郎らの尽力もあった。当初は第二十国立銀行や士族への貸し付けが大半であったが、次第に地元商家が対象となった。松山の第五十二銀行は資金が集まらず、途中には興産会社と共同出資も考えられたが、旧士族らの反対で士族のみの出資によった。設立場所の紙屋町は縞会所があり、伊予絣問屋が並ぶ繁華街であった。貸し付けは商人も対象としたが、三分の二は士族であった。西条第百十一銀行の頭取木村幾久太郎は、富豪で代々大年寄を務めた近江屋の当主であった。
 国立銀行は、発行の株金と預金を貸出金に運用したが、四行ともに貸付金が極端に多い。しかし純益が多く経営が順調なのは、貸付期間が平均六か月と短く、年利十数%の高金利のためであった。担保は、初期は公債証書であったが、明治一七年以降は田畑や家屋が中心となった。国立銀行は、東中南予に一行ずつあって、地方の産業発達に役立ったばかりでなく、旧士族や名望家が経営したことで、会社設立の普及や商工業者の社会的地位向上にも貢献した。

 普通銀行時代へ

 国立銀行の好調は、銀行類似会社の設立を刺激した。明治九年八月から銀行の名称使用が自由となり、一二年一二月から国立銀行の新設が禁止になると、各地に私立銀行が誕生した。県下では同一三年六月、宇和島本町に設立された「宇和島銀行」が最初である。同地の佐野屋為替店をうけて頭取は佐野徳治、資金を発券によらず預金による本格的銀行である。発展期は堀部彦次郎頭取の時で、堀部は宇和島鉄道や宇和島運輸も兼営した。折しも西南戦争後の、紙幣増発分の大整理の必要から、同一五年一〇月に日本銀行が設立された。同一六年五月には国立銀行条例が改正され、国立銀行は二〇年以内に解散か普通銀行に転じることになり、県下の三行も同三〇年に市中銀行となった。
 県下の銀行設立ブームは、明治一四、五年のデフレ期を過ぎてからで、同一九年三月に灘町の町老宮内惣衛らの「郡中銀行」、同二一年一一月に浦中友次郎らの「八幡浜銀行」、同二二年七月は河野喜太郎・程野茂三郎らの「大洲銀行」が創立された。大洲銀行は資本金三万円、頭取村上長次郎で製糸資金を融通した。同二三年四月の南宇和郡平城(ひらじょう)の「浦和銀行」など、これらは資本金も大きく経営も順調で、明治二〇年代の地元の産業革新に貢献すると共に、銀行業発展の契機となった。
 普通銀行と銀行類似会社は特に差異はなく、設立や営業が自由なために競争も激しく不良会社もあった。それと全国の増設傾向により明治一七年以降は大蔵省が設置基準によって許否を決した。二一年六月からは損益勘定や営業報告書を出させて監督を強化した。ついで二三年の恐慌を機に、銀行の信用を守るため同年八月「銀行条例」を公布し、施行の同二六年七月から銀行類似会社は、普通銀行に昇格するか同行に吸収されていった。

表1-85 愛媛県の諸会社

表1-85 愛媛県の諸会社


表1-86 愛媛県の種別会社累年比較

表1-86 愛媛県の種別会社累年比較


表1-87 愛媛県の業種別会社

表1-87 愛媛県の業種別会社


表1-88 業種別郡市別の会社数

表1-88 業種別郡市別の会社数


表1-89 愛媛県下の主要会社

表1-89 愛媛県下の主要会社


表1-90 郡別質屋店数

表1-90 郡別質屋店数


表1-91 種生会社の元金増加

表1-91 種生会社の元金増加


表1-92 愛媛県下の国立銀行

表1-92 愛媛県下の国立銀行


表1-93 県下4銀行の営業状況

表1-93 県下4銀行の営業状況