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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

三 県庁の新築と県行政機構の整備

 県政事務と県官

 明治一一年七月二五日、三新法と同時に「府県官職制」が制定された。同職制は、府知事県令・大少書記官・属・警部などの職務を規定するとともに「郡区町村編制法」で新しく設置された郡長・戸長の職務大綱を示した。県令の職務は、「部内ノ行政事務ヲ総理シ法律及政府ノ命令ヲ執行スル事ヲ掌ル」に始まり、内務卿の監督下で各省卿の指揮を受けること、施行規則を制定布達すること、地方税を徴収して部内の支費に充てること、属官・郡吏を判任進退することなどを挙げ、府知事県令の布達が政府の命令に背くか権限を犯した場合は「太政大臣若クハ各省主務ノ卿ヨリ取消ヲ命セラルヽコトアルヘシ」と地方長官の権限を制御した。以下、大少書記官は大少の内一人を置いて県令の補佐と代理に任じ、属は庶務を分掌し、警部は管内の警察を統率するとした。
 府県官職制の制定を機会に、愛媛県は明治一二年三月二九日「愛媛県庁事務定則」を改定して機構改革を行った。事務定則は、職制・事務章程・官吏心得・文書取扱例・委任条件からなる。職制では、府県官職制で定められた令・書記官を除き、課長・属・警部・巡査・等外出仕についてその職制を定めた。事務章程では、従来の第一~第六課の呼称を改めて本局・庶務課・勧業課・租税課・地理課・警察課・学務課・会計課とし、それぞれの課の下に掛を置いて事務事項を示した(資近代1 六八三~六八八)。
 この期の県官を明治一一年一〇月調の「愛媛県職員録」に見ると、県令岩村高俊(正六位、東京府士族)、大書記官赤川戇(こう)助(正七位、山口県士族)、一等属第一課長天野御民(山口県士族)、二等属第五課長肝付兼弘(鹿児島県士族)、三等属第三課長石原樸(愛媛県士族)、三等属第六課長信崎忠敏(愛媛県士族)、三等属高松支庁長伊佐庭如矢(ゆきや)(愛媛県平民)、三等属第三課竹場好明、三等属支庁藤野漸、三等属第五課内藤素行(以上愛媛県士族)、四等属第二課長杉山新十郎(広島県士族)、三等警部第四課長武藤正休(兵庫県士族)、五等警部高松署土屋正蒙(愛媛県士族)、七等警部松山署陶不窳次郎(愛媛県士族)らが県幹部を構成した。
 名簿に登録されている県吏員は一七二人で、内本県貫属の者が一三七人(士族一三一、平民六)であった。岩村県政は土佐・長州・薩摩の藩閥出身者を最高主脳に、幹部の一部と一般吏員に県士族を配置して運営していた。しかし讃岐国出身者が上層部に見当たらず、高松支庁を伊佐庭・藤野・土屋ら松山人が占拠していることは讃岐人の反感を呼んだ。

 県庁舎の落成

 愛媛県発足時の県庁舎は、松山城堀之内三の丸の旧藩庁を使用していた。三の丸館は明治三年三月に焼失していたからこの庁舎は北隅にある竹矢来で囲んだ粗末な平屋建てであった。この県庁舎も、明治一〇年西南戦争の勃発に伴い三の丸を丸亀連隊の練兵場に使用するため陸軍省から立ち退きを求められ、六月古町の大林寺を仮庁舎として移転した(資近代1 四三九)。これを機会に県は本格的な庁舎建設を計画、敷地を物色して、明治一〇年六月に一番町の旧松山藩家老奥平家の屋敷跡地五、八二四坪四合六勺(約一九、二二〇平方メートル)・家屋二八〇坪余を一、四四六円八〇銭(土地九一八円五六銭・物件五二八円二四銭)で買収した。庁舎は翌一一年一一月に新築落成、一二月一日から新しい建物で事務取扱いを始めた。これが現在地の場所で同時に松山裁判所も県庁に隣接して新築され、一二月一六日から開所している(資近代1 六六二)。

 岩村県令の転任

 地方長官として縦横に手腕を発揮した愛媛県令岩村高俊は、明治一三年二月に上京して内務省詰めの内示を受け、三月八日付で内務省大書記官戸籍局長に任命された。
 岩村の転任につき、明治一三年三月二六日付「海南新聞」は「政府ハ岩村君ガ今日迄ノ施政ノ法ニ慊(あきた)ラザル所アツテ然ルニ非ルヲ得ンヤ」と論説し、当時学務課長の地位にあった内藤素行も自伝『鳴雪自叙伝』で「今回県令の更迭は民権主義に傾くという事からである」と述べている。明治一六年本県を視察した巡察使山尾庸三が「復命書」の中で「放任主義ヲ以テ人望ヲ博シタル」と岩村の施策を人気取りと批判しているように、政府には岩村の県政が意にそわなくなった。啓蒙的で適度に開明性をもって県政を担当した岩村高俊の使命は終わったようであった。岩村の転出が決定して数日後の三月一三日、八年ぶりに帰郷した末広重恭(鉄腸)が松山市街巽小学校で催された公共社演説会に臨んで「東京土産」と題する演説を行った。この中で、末広は、「岩村君ノ其徳望ヲ人民ニ得タルモノハ他ニ非ラス、其施政ノ大着眼ヲ誤ラス人民ノ志望ニ従フテ民政ノ方向ヲ立ルニ因レリ、之ヲ再言スレハ人民ノ便利ヲ先キニシテ県庁ノ都合ヲ後ニスルニ在リ、其一例ヲ挙クレハ夙(つ)トニ町村会ヲ興シ人民ノ意想ニ従ツテ町村ヲ処弁セシメ、各地方ニ率先シテ県会ヲ開設シ、諸方ノ人望アル者ヲ選択シテ郡長ト為シ之ニ委任シテ敢(あえ)テ疑ハサルカ如キ是レナリ」と岩村の啓蒙的側面を評価したが、これが政府から見れば放任主義と映ったのである。
 岩村高俊は後任県令関新平との事務引き継ぎを済ませた後、四月三日離別を惜しむ県民の盛大な見送りを受けて三津浜港発の汽船で愛媛県を離れた。「海南新聞」四月六日付は「愛媛県令内務大書記官従五位岩村高俊君赴任発送の実況」と題し、岩村離県時の模様を詳細に報道した。

去る三日は兼て定められたる岩村君が出発の当日なりければ、前夜より人皆明日の日和如何と空のみ眺めて気遣ひ居たりける、斯て暁告る鶏の声も勿軽好(コケコ)と聞へ渡り、夜もほのゝと明る頃は黒雲天に覆ひ東風烈く吹荒れ居たるにぞ、こは折悪きかなと言ひあへる内空も漸くにはれわたり風も静まり、後には穏やかなる春の天気とぞなりにけるは、天公も君の行を送るの心なりけん、扨(さて)君が御邸の門前は早暁よりして数多の人々の出入なし、蜜蜂の巣に稼ぐ様にさも似たり、十時も過る頃となりければ三津までおん供せんと思ふ諸人は孰(いづ)れも人力車に打乗りて邸に集り来り、二番町は為に往来も出来ぬまで車にて塡充せり、最早十一時四十分ともなりければ、君には御召の車に乗りて出門せられければ待ち設けたる見送りの人々は各々車に打乗り、三津ヶ浜へと馳行きたる車の総数三百余輛、御通路たる本町通には軒毎に慢(まん)幕を張り店には緋の毛氈(もうせん)を敷詰め、奉送の諸人は坐正しく居揃ひたり、又三津口には小学校の生徒数百名が威儀整然と併列したり、該日は恰(あたか)も好し神武天皇祭に当りたるを以て家並に翻へれる日章旗は君の首途を祝し奉るの心を含みたるならんかと思はる、頓(やが)て三津ヶ浜の御休息所なる久保田に着ありければ、見送りの人々は満々たり、姑(しばら)くして酒肴を設け御別の盃を賜はり、夫々訣辞(けつじ)を述べ終つて艀(はしけ)船に乗移らる、久保田より浜手まで三丁余の砂原に警部巡査四十余名群集の人を排(おしひら)き、二列に対立して通途を作つて混沓を防(ふ)せけり、本船和合丸は遙に沖合にありて五色の大の吹抜を立て、時々汽笛を鳴らして用意の調ふたるを報す、漸くにして君は六七の紳士に伴はれ艀船に乗込るゝや、直に纜(ともづな)を解き三四艘の引舟艫音勇ましく漕出せば、一般の先舟にて太鼓を打つて取る調子に連れ楽船よりして御舟歌を声高く唱ふ、其解纜を見て、両傍に繋きたる五十艘の伝馬船は見送りの客を載せ同時に漕出し、乗船の艫に立ち梵天を振つて指揮するに従ひ前後左右を取巻き迂回して遅々進行す、其舟毎に紅白染分けたる旗を樹て、船子は赤の鉢巻したる杯実勇々敷ぞ見へたりける、顧みて浜手を見渡せば、幾千とも知らぬ老若男女は紅白の吹抜及び日本一の記号ある幟を中央に、蟻の如く群り声を心得揚げず、愁ひ悲を帯びて見へたり、御船歌の終る頃には孵船正に本艦に着したり、此時已に四時三十分なりき、間もなく錨を抜ひて運転を始め波をきつて馳行し去り、唯一抹の烟のみ百四十万民の愁の種にぞ残りたる、

こうして愛媛県に大きな足跡を残した岩村高俊は本県を去った。

図1-7 愛媛県庁舎配置図(明治中期)

図1-7 愛媛県庁舎配置図(明治中期)