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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 石鐡県政と神山県政

 石鐡県の成立

 伊予の国では、廃藩置県(明治四年七月一四目)前後から、愛媛県に統合(六年二月二〇目)されるわずか一年七か月の間、八県が松山・宇和島の二県に併合され、やがて石鐡・神山の二県に改称されるなど、あわただしい変化があった。その間における行政機構の下部構造の変遷は、著しく複雑多岐であって、それに中央政府から発布された「戸籍法」及び「村役心得条目」がからまり、簡単にこれを叙述することは難しい。また松山(石鐡)・宇和島(神山)二県以前の記録は極めて僅少であって、不明の点がはなはだ多い。そのうえ、これらの県では中央の指令どおりに機構改革が実施されず、各県独自の名称・構造を持つものが出現するので、これらを画一的に変遷したと考えてはならない。
 そこで本書では、まず八県の成立から二県への統合、さらに愛媛県の成立までの経過を記述したい。それらを理解した上で、次に各県の下部構造について、その複雑な変遷を追うことにしたい。
 明治四年一一月一五日に、県の廃合が行われた結果、松山・今治・小松・西条の四県と旧幕領(丸亀県管轄)とを合わせて、新たに松山県がつくられた。一二月九日に、元高知県大参事の本山茂任が同県の参事に、元大洲県大参事児玉氏精が権参事に任じられた。ついでに児玉に代わって、豊岡県の桜井勉が権参事となった(資近代1 一)。
 翌五年二月九日に、松山県は石鐡県と改称され、三月二日に開庁し、元松山県大参事菅良弼・丸亀県権少属小崎一義からそれぞれ事務の引き継ぎを行った。さらに一〇日に元今治県権大参事成瀬力・元西条県権大参事長谷川与一らから、二〇日に元小松県大参事喜多川久徴から、それぞれ事務の受け渡しを完了した。県名を石鐡県と改称した事情については、正月付の稟請(りんせい)書によると、「人民ノ耳目ヲモ一新致度」い考えから「四国第一ノ峻岳霊地」であり、「管内ノ中央」にある石鈇山(石鎚山、石鉄→石鐡と誤用したと推察される)の名をとって石鐡県とした旨を述べている。二月九日付の太政官布告で「松山県石鐡県卜被改候事」と通告された(資近代1 一)。
 明治五年三月、県当局は新県設置の告諭を発し、「嚮(さき)ニ藩ヲ廃シテ県トセラレ、今般又旧県ヲ廃シテ新県ヲ置レ候儀ハ、全ク封建ノ余弊ヲ去テ、更二郡県ノ体裁ヲ立ツルノ御趣意」であり、朝廷が民を愛したまうの御仁意を奉体して疑惑することなく、官民が一致して文明の向上発展に尽力すること、人民の意気を高揚させ、知識を広めていく覚悟が肝要であると説諭した。また県民に向けて片仮名文で、廃藩置県・新県設置の意義を平易に諭した。さらに、人々を決して抑圧せず、人々が自由に働けるようにし、知恵を伸ばし芸能を奨励して各自が持てる力一杯に働けるようにするのであって、制限を加えたり抑制したりしない政治をするのであると告げている。
 これより先、松山・宇和島の両県が設置された際、太政官の指令によって久米・浮穴の二郡を宇和島に、伊予郡一円を松山県に編入した。しかし、これは地勢のうえから考えても不自然であって、県境とするには問題点が存在した。そこで石鐡県では、四月四日にこれを変更するために「山川ノ形勢ニ於テ、万事不弁理」であり、かつ「経界明亮(ママ)二立兼」ねるから、両県で談合のうえ、「浮穴・久米両郡ハ山脈ヲ以テ分界」を立て、「久万ヨリ以北一円石鐡県二属シ、伊予郡ハ水絡」で境界をつくり、重信川以南はすべて宇和島県が管轄したい旨を伺い出た。これに対し、太政官は五月一五日にこの原案のとおり管轄替えを承認するから、これらの地所の「受取渡」しをするよう指示した(資近代1 三)。この措置によって、浮穴郡四五か村、久米郡一円、伊予郡四か村加石鐡県に編入された。浮穴・伊予両郡の残りの地域が神山県(宇和島県の後身)の領域に入った。したがって、石鐡県の管内は宇摩・新居・周布・桑村・越智・野間・風早・和気・温泉・久米・浮穴(北部)・伊予(北部)の一二郡五六一村九七市街にわたった。
 同五年一二月の調査によると、同県の地方官吏は参事一人・七等二人・九等一人・大属四人・一〇等一人・権大属七人・少属三人・一二等三人・権少属五人・一三等一人・一四等九人・県掌二人・一五等七人・等外四人で、合計すると奏任三人・判任四三人・等外四人からなっていた(資近代1 二六)。
 次節に述べるように、戸籍法の制定に伴い、区制が実施された。その結果、全域を一八大区二一七小区とした。区長一八・副区長五四・戸長二二〇の合計二九二人の区吏がいた。そのほかに学区取締一八人・邏卒七八人が配置された(資近代1 二六)。四月四日に行政上の円滑を期するために、西条に石鐡県支庁を置いたが、これは九月八日に廃止された。
 翌六年一月一三日に、県庁が松山から今治に移された(資近代1 二六)。これは前年九月四日に九等出仕植村徳昭が暗殺された事件に関連があると考えられる。この事件は参事本山茂任が公務で松山を出発した日に、留守を託された植村が本山の居住していた大林寺で熟睡中に起こったものであって、おそらく凶漢は本山を暗殺しようと企て、誤って植村を殺害したのであろう。なおこの事件は迷宮入りして、下手人はわからなかった(資近代1 六五)。

 神山県の誕生

 明治四年一一月一五日に、宇和島・吉田・大洲・新谷の四県を合併して、宇和島県が生まれ、県庁を宇和島に置いた。一二月一日に名古屋県の間島冬道が権令に、また奈良幹・白洲直温の後をうけて、翌五年一月二〇日に山口県の江木康直が権参事に任じられた。三月二日に開庁し、七日に元宇和島権大参事成田忠順から、一二日に元吉田県大参事荻野朝匡から、二二日に元大洲県権大参事口分田成美、新谷県権大参事香渡晋から事務の引き継ぎを完了した。三月二四日に行政上の円滑を期するために、旧大洲県庁に宇和島支庁を設置した(資近代1 六六)。
 先に述べたように、五月一五日に従来管轄区域であった久米郡一円と、浮穴郡北部を石鐡県に転属させ、浮穴郡の南部五四か村と伊予郡のうち重信川以南の三〇か村とを宇和島県に編入した。そこで宇和島の管内は、宇和・喜多両郡の全域と伊予郡の大部分と、浮穴郡のほぼ半分とにわたり、四郡四四〇村四〇市街を包含した。
 県当局は明治五年三月一一日から政治を開始することを県内に告示し、四月二五日には新県を設置した以上は、旧四県時代「他県ノ振合ニ仕来候事ハ更々ニ相止メ、何事二限ラス一和シテ相交リ申スヘク事」と説諭した(資近代1 六七)。ついで、宇和島県は隣県石鐡県に倣(なら)って県名を改祢することになり、旧宇和島・大洲の両県にまたがり、ほぼ新県の中央部に位置する「矢野ト申処ニ出石山ト称スル名山」があり、景勝の地であるばかりでなく、「往昔著名ノ矢野ノ神山ノ由」の伝説を持っているので、これを県名としたい旨を太政官に申請した。この時の届書に、古い地名に紛らわしい嫌いはあるが、出石がよろしいかと付記した。六月二三日に太政官第一八六号布告によって、「宇和島県自今神山県ト改称相成候事」の指令があった(資近代1 六八)。
 松山・宇和島県→石鐡・神山県→愛媛県への変遷の経路を表示すると表1-1のようになる。

 戸籍法の制定

 明治四年七月から同六年二月に至る県の廃合当時における下部組織の複雑な変遷について、簡単にたどってみる。
 廃藩置県の実施(明治四年七月一四日)される前、新政府は四月四日に「戸籍法」三三則を制定し、翌五年二月一日から実施されることになった。これが後に「壬申戸籍」と呼ばれ、広くその名を知られるに至った。この戸籍法は明治維新によって激しく変動した戸口の実態を正確に掌握して、新政府の諸政策の基礎とする目的を持つものであった。戸籍法を施行するに当たり、戸籍編成のための区画として、全国に大区・小区が設けられることになった。ここに出現した区の構成については、同法第三則のなかに、「一府一郡ヲ分チ、何区或ハ何十区トシ、其一区ヲ定ムルハ四五丁、モシクハ七八村ヲ組合」せてつくり、「小ナルモノハ数十ニ及ヒ、大ナルモノハ一二ニ止ルモ」、すべてその地域の便宜に任せることとした。すなわちこの区は市街の四~五町、あるいは村落の七~八村をその境域として設定することになる。ここで留意すべきば、これらの区が将来において、国政事務を分担する新たな地方行政単位に指向したものであったことである。これらの区に、戸長・副戸長を配置したことは、戸籍法第一・二則のなかに、「長並副ヲシテ其区内戸数人員生死出入等ヲ詳ニ」させ、またその戸長・副戸長の任用については、「是迄各所ニ於テ荘屋・名主・年寄・触頭」らを補任しても、「別人ヲ用フルモ妨ケ」ないとした。要するに戸長・副戸長は戸籍事務を取り扱う吏員であった。
 伊予国における各県の状況を見ると、戸籍法による区制がいつから実施されたかは、史料が僅少であるため明確でない所もある。松山県では、旧四県合併直後の明治四年一二月に区制が実施され、戸長・副戸長が任命されたことは庄屋記録などで判明する。『古三津村御用日記』明治四年一二月一三日の条によると、和気郡太山寺・新浜・和気浜など七か村が第三六区、同郡馬木・志津川・吉藤などの一五か村が第三七区、古三津村と三津浜各町を加えて第三八区と想定し、それぞれ戸長・副戸長が任命されている。また、『三輪田米山日記』同四年一二月一八日の条に、久米郡和泉・古川・東石井・西石井などの一〇か村(戸数五一〇軒)を第一二区とし、また天山・福音寺・星岡・鷹子などの一七か村(戸数一、二六五軒)を第一三区とし、南方・北方・則之内・河之内などの六か村(戸数二九四軒余)を第一四区とし、井門(いど)・森松・土居・荏原(えばら)などの一五か村(戸数一、四七五軒)を第一五区とし、牛淵・田窪・見奈良・下林などの一〇か村(戸数一、三一五軒)を第一六区とし、各々の区における戸長・副戸長の名を挙げている。

 大小区制の実施

 ところが、政府の指示による区制には問題が存在した。その一つは地方長官のいる県庁と下部行政単位の区との距離が余りにも開き過ぎ、統治の面でも監督の面でも考慮すべき点があった。区を設置する段階では、県と区との間に行政機関を設ける必要が生じた。そこで同五年九月一九日に、大区・小区制の実施について、「各地方土地ノ便宜ニ寄リ、一区ニ区長壱人、小区ニ副区長」を配置するように指示し、去る四年以来混沌とした地方政治の機構がようやく一元化した。これによって、旧来の郡・町村に代わって大区・小区による行政組織が整備されることになった。しかし、政府はこの機構を地方に強制せず、むしろ地方官に任せる態度であった。したがって、区の統治責任者の名称も地方により異なっていた。多くの地方では、府県の下に数個の大区を置き、その大区は数小区を、その小区は数町村を包括する形をとり、大区には区長を、小区には戸長を配置した。
 この大区・小区制は、従来の群―組―町村の組織を全く否認して、廃藩置県後、激増した国政事務を分担する新しい地方行政単位として出現した。これは幕藩体制の下で自治体としての性格を有するものとして取り扱われてきた町村の組織を新行政制度によって消滅させ、中央集権体制を固めていったものといえよう。旧村規模を超えた区戸長制を通じて、新政府が村落内の「家」を直接に把握する方式によって、国家から「臣民」に対する一貫的支配を確保しようとする意図を持った画期的な変革であった。しかし現実には、この大区・小区制は旧来の村役人層を完全に否定することができず、地方政治には混乱や反動が現れることになった。

 石鐡県における大小区制

 翌五年二月九日に、松山県は石鐡県と改称された。「石鐡県布達々書」によると、四月に大区取締役一員を置き、「乞食追放」をはじめ区内の取り締まりに当たらせている。同月九日に政治的・経済的支配体制を強化するために、区による行政組織を推進するよう通達した。それによると、大庄屋・庄屋(名主)・年寄などの旧称をすべて廃止して、官選の戸長・副戸長を置くよう指令した。この戸長・副戸長は旧村役人としての行政争務を収り扱うこととし、末端組織の統合と画一化を図ったものと考えられる。
 石鐡県は、この方針に従い、村落改革の大改革を断行した。五月一〇日に、大中小の各里正(旧大庄屋・改庄屋・庄屋の名称を明治五年三月ごろ改称)・組頭らを廃止して、その事務を新戸長らに移管するよう指示した(資近代1 三~四)。この布達と同時に戸長の給料が定められ、当分の間戸長の月給を一〇両、副戸長八両、小区長四両、差配方二両とした(資近代1 二五)。その結果、同県における下部行政機構は、戸長―小区長―差配方となった。
 さらに、六月一〇日付で大小区制を設定し、大区には正・副戸長、小区には小区長を任命した(明治五年石鐡県日記 資近代1 四~二五)。また「戸長職守」・「小区長以下事務概要」などを定め、翌七月に戸長・区長の「出張旅費定則」が公表されている。これらの史料によると戸籍事務をとった戸長・副戸長は、先の戸籍法の第二則の但し書にあるように、旧来の村落支配者であった庄屋が交代でその職に任命されている。内容的に差異があろうが、石鍼県では九月の大蔵省達よりも早い時期に大区・小区が設定されていたと推定される。
 政府が戸籍法を実施するために区を制定し、戸長・副戸長を設置した結果、下部行政単位の村落では、従来の庄屋らに該当するものと、戸籍事務をとる吏員とが併存する形となった。しかし現実には庄屋らが戸籍事務を兼務していたから、旧来の地方行政機構とはほとんど変化はなかった。ところが地方によっては、行政事務が重複して混乱を生じたこともあった。そこで政府は、かねてから画策されている地方行政の大改革を貫徹するために、末端における事務の困難を除去し、進んで機構の統一化を図らなければならなかった。
 明治五年三月に、太政官は「村方心得条目」を公布し、末端における地方行政担当者の職責を明らかにした。この条目は「区長可心得条々」と「戸長可心得条々」の二篇に大別された。前者は七か条からなり、区長は「区内諸村戸長共へ伝達ノ件ヲ始メ、平生諸世話駈引等」の役目を果たし、時によっては一区内の総代にもなること、また諸村へ布達する事項は沈滞することなく戸長へ伝達して、その趣旨を十分申し聞かすよう指令している。
 後者は一六か条からなり、戸長は「支配地内百姓共へ伝達ノ事件ヲ始メ、平生諸世話駈引等」に務め、地域内の農民が川畑・山木・橋梁及び用水・開拓・納米などに対して遵守するよう監督することを規定している。これらの条目によると、政府では戸籍法による区の区長、村落における戸長を想定し、そのうえで「可心得条々」を制定したものと考えられる。戸長の管掌する事務は従来の庄屋とほとんど変わらなかった。したがって、旧藩時代の町村政策の原理をそのまま踏襲するとともに、戸長を一貫的支配の末端に位置づけようとする政府の意図を察知することができる。ここに当然起こってくる問題は、国政事務遂行機関としての地方団体を編成替えすることであった。

 宇和島(神山)県における変遷

 宇和島藩では、廃藩置県に先立つこと四か月前、すなわち明治四年三月に、藩政の大改革があり、庄屋・組頭・横目の村方三役の名称を廃止して、民事掛・添役・締役を新設した。吉田藩でも翌四月の戸籍法の布告による改革があり、六月に区域を編成して、正・副戸長を任命した。
 七月に廃藩置県があり、宇和島県ではその翌八月二六日に、戸籍法の実施に伴い区制を実施して正・副戸長を配置した。それは『宇和島藩日記』明治四年八月二八日の条に「戸籍法仰出サレ候ニ付、区画割戸長副左之通申付候事」とあり、「戸籍法則書戸長江壱冊ツヽ相渡候事」と付記され、第一区~第四〇区に分け、各区に長一人、副一人~五人が任命されているので明らかとなる。これによって、旧宇和島県では廃藩置県後、わずかに二か月足らずで区制が実施され、区長・副区長が任命されていることがわかる。
 さらに同県では一〇月二八日付で、「郷中改革」として、主要な各村にあった司記あるいは調役が持っていた差配役(民事掛を改称したもの)を廃して、御庄組・津島組・城下組・川原淵組・野村組・宇和(多田・山田)両組・矢野組・保内組にそれぞれ二名の勧農掛を置いた。これと同時に、各村々に庄屋を復活するよう指令した。この場合、規模の小さい村は他村と合併して設置することを認め、合計一五一名の庄屋が任命された。
 次に勧農掛の職掌を見ると、勧農教育を行うとともに、庄屋に指揮命令を下して租税事務を取り扱い、訴訟を伝達することが規定されている。庄屋は一村の長として、勧農掛の指示に従い、教育をはじめ諸事務を取り扱った(宇和島県改革留)。同四年一一月一五日に、宇和島・吉田・大洲・新谷の四県を併せて新しく宇和島県がつくられ、翌年六月二二日に神山県と改称された。
 翌六年二月二〇日に、石鐡・神山の両県を合併して愛媛県が誕生するが、その直前の二月に先の大蔵省達に規定されたとおり、大区に区長(旧戸長)と副区長(旧副戸長)を、小区に戸長(旧小区長)を配置して(資近代1 七一)、大小区制の整備が図られた。やがて愛媛県が生まれると、大・小区制の大改正は必至となったが、新県の事務が輻湊(ふくそう)したため、一年三か月の問、そのまま据え置かれ、翌七年五月二〇日になって、新しい大小区制が布達された。
 『石鐡県紀』・『神山県紀』によって、両県の概況(明治五年一二月調)を記載しておく(表1-2)(資近代1 二六、七〇)。

表1-1 伊予諸県の変遷

表1-1 伊予諸県の変遷


表1-2 石鐡・神山両県の戸口・禄制・租税・会計 1

表1-2 石鐡・神山両県の戸口・禄制・租税・会計 1