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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 伊予八県の成立

 廃藩置県の経過

 明治二年に版籍奉還が実行され、旧体制が否認されて、府・県・藩の三治制が促進されたけれども、藩の場合には旧来の藩主が維新政府から知事に任じられた。藩知事の領地における支配はほとんど変わりがなく、実質的には旧大名として独立の施政が展開されるといってよい状況であった。また地方の行政に当たった官吏は旧藩臣であったから、末端における機構は旧藩時代と大きい変化はなかった。したがって、藩内における旧藩主―旧藩臣―旧領民の主従関係は、封建時代のまま残存したから、革新的な中央集権の実はあがらなかった。
 ことに、藩知事の持っている藩兵の存在は、封建体制を温存させる重要な要素でもあった。また政府にとって、兵権を集中することは官僚機構を整備するとともに、中央集権国家の建設のうえに、最も緊要な施策であった。ここに地方制度に実質的な大改革を加え、封建時代の残滓(ざんし)を払拭して、中央政府の統治下に組み入れる必要があった。この明治維新政府の方針を貫徹するためには、万難を排して廃藩置県を断行しなければならなかった。
 明治四年七月一四日に、政府は滞京中の藩知事を宮中に招集して、廃藩置県を断行する旨を告諭した。ここに旧藩主である藩知事に対し、地方官吏としての職を免ずることによって、地方権力の解体が推進された。この日発布された詔書のなかには、版籍奉還が行われたにもかかわらず、「数百年因襲ノ久(ひさし)キ、或ハ其名アリテ其実挙(あが)ラ」ないので、わが国の発展のために、「更ニ藩ヲ廃シ県」を置くのは、「冗ヲ去リ、簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ、政令多岐ノ憂」いをなくしようとするものである旨を述べている。
 政府は同日に諸藩の措置については「今般藩ヲ廃シ県ヲ置候ニ付テハ、追テ御沙汰候迄、大参事以下」のものが、これまでのとおり事務をとるよう通達した。さらに一九日に、重ねてこれまで「取扱候庶務ハ大参事」が処決するよう指令した。これによって、免官となった藩知事なき後の地方行政は、いちおう従来の大参事以下の官吏が、そのまま県の吏員としてその施政に当たった。
 その職を辞した藩知事に対しては、華族としての特権が付与され、その本籍を東京に移させ、九月中に帰京するよう指令し、彼らと旧領との関係を遮断した。このようにして、旧藩領を統合し新しい行政区画としての府県が誕生し、着実に中央集権制へ移行する道が開かれた。ここに藩が消滅してすべて県となり、全国で三府三〇二県の成立を見た。この大革新に当たって、意外に諸藩が平静であり、抵抗しなかったのは、諸藩のうち財政困難のために、早くから廃藩を願い出たものがあったこと、旧藩主を華族として優遇するとともに、従来どおりの家禄が支給され、士族にも俸禄が保証されたこと、旧藩の債務及び藩札が政府に継承されたことなどによる。

 八県の設置

 伊予国では八藩の廃止に伴い、七月一四日に八県すなわち松山・今治・宇和島・吉田・大洲・新谷・西条・小松の各県が設置された。
 松山県は、県庁を温泉郡松山に置き、九月九日に元藩知事久松定昭免官のあとを受けて、大参事菅良弼が政務を担当した。今治県では県庁を越智郡今治に置き、九月二三日に元藩知事久松定法(さだのり)はすべての事務を権大参事の城所(成瀬)力に引き渡した。宇和島県は県庁を宇和郡宇和島に置き、九月八日に元藩知事伊達宗徳(むねえ)は事務を権大参事成田忠順に引き継いだ。吉田県は県庁を宇和郡吉田に置き、元藩知事伊達宗敬(むねよし)は事務を大参事の飯淵真澄に引き渡した。大洲県では県庁を喜多郡大洲に置き、八月二八日に元藩知事加藤泰秋は事務を権大参事の口分田成美に引き継いだ。新谷県は八月二八日に元藩知事加藤泰令が事務を大参事徳田儀一に引き渡した。西条県は県庁を新居郡西条に置き、九月一七日に元藩知事松平頼英は事務を大参事吉岡正忠に引き渡した。小松県は、同年(月日不詳)に元藩知事一柳頼明は事務を大参事喜多川久徴に引き渡した。
 明治元年以来、高知県の支配下に置かれた東予の幕領―宇摩郡のうち二三か村、新居郡のうち六か村、越智郡のうち八か村、桑村郡のうち一〇か村―は同四年正月に倉敷県に編入する旨の指令があった。しかし、この地域における民心の動揺が激しかったので、事務引継の処理は行われなかった。七月一四目の廃藩置県のとき、丸亀県に転属することとなり、一〇月三日に元高知県の派出官吏は事務を丸亀県に引き渡した。ところが一一月一五日に松山県に編入されたので、翌五年三月二日に丸亀県派出官吏小崎一義らは、その事務を石鐵県(松山県の後身)参事の本山茂任に引き渡した。
 発足早々の吉田県においては、廃藩置県・戸籍編成など急変する政情による人心の動揺を防止する目的をもって、明治四年八月一三日付で告諭を発した。告諭は、そもそも日本は伊勢の皇大神宮の国であって、代々の天皇は大神宮の命によって治めている、この度、藩知事という役を廃止して、日本国中を天皇が直接お治めになるようになった、そこでまず戸籍といって家数・人口を調査することになったが、これは従来の宗門改であると廃藩置県と戸籍編成の意味を説明し、さらに続けて、天皇が直接統治することになったからといって、何も従来と政治に変化があるわけではない、その証拠に旧藩主である藩知事も天皇の命令に従っているのだから、藩知事が変更されることについて彼れ是れと申し立てるようなことがあると、かえって藩知事のためにならない、もし心得違いの者がおれば恩知らずということになるのだから、心得違いの行動をとってはならないと説諭している(吉田藩庁日記)。

 県治条例の発布

 明治四年一一月二七日に、政府は「県治条例」を発布して、地方制度充実をはかった。この条例のなかの「県治職制」を見ると、県行政の最高官として令または権令(ごんれい)を置き、「県内ノ人民ヲ教督保護シ、条例布告ヲ遵奉施行シ、租税ヲ収メ賦役ヲ督シ、賞刑ヲ判シ」、非常の事態が生じた時は、鎮台分営へ連絡して適宜の措置をとることとした。つぎにその補佐官として参事・権参事を置き、これらが部内の庶務を処理し、典事・大少属・史生らを総轄する責任を持った。参事は令の出張中かあるいは令の存在しない時は、いっさいの職務を代行した。そのほかに常置の官ではないが、七等出仕があって事務多端の時か令のいない時に、参事の職務を補佐させた。以上はすべて奏任官であった。
 県庁の事務を庶務・聴訟・租税・出納の四課に分け、まず庶務課は社寺・戸籍・人口などを把握し、また郡長・村落統治者らの勤惰を調査し、官省への進達、府県の往復文書を考案し、学校の事務のほか郡長らの官吏の進退をつかさどった。聴訟課は訴訟を審議し、また県内の犯罪の取り締まりをし、罪人を逮捕するのを職掌とした。租税課は正税・雑税を徴収し、開墾・通船・培植・漁猟・堤防営繕の事務をとった。出納課は歳出・歳入を計り金穀を大蔵省に納付し、官庁の費用、官員の俸給・旅費・堤防営繕などに関する費用を取り扱った。なお、学務課が庶務課から独立したのは明治八年四月二四日のことである。これらはすべて典事が執行したが、その下に権典事・大属・権大属・少属・権少属・史生・出仕などの事務官が存在した。これらはみな奏任官であった。