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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

二 伊達秀宗の宇和島入部

 秀宗と豊臣秀頼

 宇和島伊達藩初代藩主秀宗は、天正一九年(一五九一)陸奥国柴田郡村田(現宮城県柴田郡村田町)で生まれた。父の伊達政宗が秀吉から陸奥二一郡六〇万石を与えられ、岩手山に居城を定めた年である(のち仙台に移る)。文禄三年(一五九四)数えの四歳の時、山城国伏見(京都府)で秀吉に拝謁し、翌四年、数えで三歳の豊臣秀頼の参内に供奉した。慶長元年(一五九六)四月、京都聚楽第で秀吉の面前で元服し、秀吉の一字「秀」を授かり、これに政宗の「宗」をつけて秀宗と名のった。同時に従五位下侍従に叙任した。政宗の長男とはいえ、大変な待遇である。これは、秀宗をごく幼少から秀頼の家来として育てようと、秀吉が考えていたことを示すものと思われる。以後、秀宗は秀頼付きの家来として成長したようで、慶長五年関ヶ原の戦の時も、大坂にいた。西軍の石田方では、東軍の有力大名政宗の長男でありながら秀頼の家来である秀宗の扱いに当惑し、彼を西軍の首脳の一人宇喜多秀家に預けた。
 関ヶ原の戦が東軍の勝利に終わったのちの同七年、秀宗はいまや天下人となった家康に山城伏見城で拝謁し(この時一二歳)、同じ年、江戸に赴き、以降政宗の証人(人質)として江戸に住んだ。同一二年、家康の命令で井伊直政の娘と婚約した。直政は近江佐和山一八万石、有力な譜代大名である。同一九年大坂冬の陣では、父とともに出陣し木津、今宮口などを攻めた。そして冬の陣が終わった直後の一二月二八日、家康から伊予宇和島で一〇万石を与えられた。
 秀宗が、長男でありながら仙台の本家を継がなかったのは、その母が政宗の正妻でなかったという理由も指摘されているが、最初から政宗に家を継がせる気持ちがなかったとしたら、わずか四歳で秀吉に目見えさせたのはおかしい。やはり秀頼付きとして成長したことが、本家を継げなかった理由と考えておきたい。なお、伊達家の家紋は、二羽の雀のまわりを二本の竹がとりまいている「竹に雀」であるが、本来ならこちらが本家であるという意味で、宇和島伊達家の紋には竹の根元の方がデザインされていると地元では言い伝えている。
 秀宗は、いったんは江戸に帰り、翌元和元年(一六一五)正月のはじめに上京し、幕府から板島領を預かっていた藤堂局虎の代官から丸串城を受け取るため、先発隊を派遣した。秀宗自身は、二月二八日に京都をたって宇和島に向かい、摂津尼崎(現尼崎市)から船に乗り三月二六日大洲藩領の長浜(現長浜町)に上陸した。そこから肱川ぞいに陸行し、大洲を経て翌一七日、宇和島領の松葉(現卯之町)に泊まり、一八日に丸串城に入り、城受け取りの手続きをすませていた先発隊に迎えられた。秀宗二五歳であった。
 江戸時代では城は本来幕府のものであり、その城に常備されている武器や兵糧(米・味噌・塩)も城に付いたものであり、幕府のものであった。したがって城主の交替のときは、幕府の上使が派遣されてそれらを点検したうえで前の城主から接取し、領内の田畑の石高と小物成を村ごとに記した帳簿である御前帳とともに、あらためて次の城主に引き渡す、という手続きがとられた。しかし、この秀宗の入部のときは、上使が派遣されたかどうかということと、丸串城にどのくらいの兵糧の備蓄があったかについては、不明である。いまわかる限りでは、この時の引き渡しは、次のようなものであった。

  丸 串 城
   一天守 方角、戌亥(北西)向き、土台より高さ七間、
   一追手(大手、表口)東向き、搦手(裏口)南向き、両口なり、
   一山高三十三間ほど、
   一本丸、二之丸、三之丸、
   一郭廻り(堀や番所を含む城全体の周囲)十六町(約一、七五〇メートル)
   一狭間(鉄砲や矢を射出する狭い窓)数、千五、
   一丸之内小路 十三町
   一櫓数 三十五、
   一城内外番所 二十ヶ所
      本丸櫛形、二の丸門、長門丸門、城番脇門、井戸の丸門、搦手上り口門、三の丸桜の門、浜桝形門、潮入門、
      追手門、搦手門、佐伯町口、本町口、追手下口、堀末、毛山(のちの丸穂)村下口、樺崎、三の丸堀端、大工町口、
      大右衛門丸門、式部丸門、
   一城付き武器
      御鉄砲之間、鉄砲六十挺・弓六十二張、
      胴乱(弾丸・火薬を持ちはこぶ道具)百、
         玉薬箱二十、火縄二十二ハケ、矢三百八十三、ウツボ(矢を持ちはこぶ道具)、矢四百五十、
      御槍之間、長柄槍(足軽用の槍)百二十四本、
   一侍屋敷二百五十軒、
   一田畑物成、十七郷二百七十三ヶ村、
   一本高 十万二千百五十四石三斗八升六合、
   一九品小物成等帳面、未進高付帳、

 高虎の設計した宇和島城には、追手(大手)・搦手の二つの出入り口があり、また本丸・二の丸・三の丸の他に、長門丸・井戸の丸・大右衛門丸・式部丸などの「丸」(それぞれが独立した防御単位)があったこと、城まわりの番所の他に樺崎にも番所があったことなどがわかる。本高の一〇万石余と九品(九色)小物成などが太閤検地で決定されたことについては、前項で述べた通りである。
 この他に、この時に引き継がれたものに、次のような一四か所の他領との境目の番所があった。

   一境目関門、十四ヶ所、
      東多田・野田 大洲境、侍番所、下番足軽、
      樫谷・小山  土州境、侍番所、
      相川・蕨生・御内と土州境 足軽番所、
      沖の島・日振・佐田・三机 右海岸侍番所、三机下番足軽、
      横   林  大洲境、侍番所、
      白髭・磯崎  大洲境、足軽番所、
      大手・搦手  番頭以上預かり、

 宇和島領は、土佐領、大洲領と接しており、これらの境目と、さらに海岸にも番所が置かれた。大洲と宇和島との通路は宇和島道によった。宇和島道は大洲から南下し、東多田(現宇和町)を経て皆田で二手に分かれる。ひとつは、歯長峠を越えて成妙・務田(現三間町)を経て宇和島に、いまひとつは法華津峠を越え、吉田を経て宇和島に到る道であった。この他にも大洲からの通路には、野田(現宇和町)を経て八幡浜方面に出るもの、肱川の上流宇和川をさか上って横林(現野村町)に出る道があった。土佐との通路には宿毛道があった。この道は、宿毛から小山(現一本松町)を経て宇和島に到っている。中期以降、土佐藩は遍路の通行をこの道に限ったが、この他にも御内(現津島町)から土佐との国境の篠山観音方面から宿毛に抜ける方法、四万十川の上流である吉野川や目黒川ぞいに相川・蕨生(現松野町)を経て、土佐側に下りる道もあった。
 これらの境目と磯崎(現保内町)など海上交通の要所に置かれた番所は、人と物の出入りの取り締まりを目的とした。人の出入りには、農民の欠け落ちを防ぐことと、身元の確かでないものが領内に入るのを防ぐ意味があった。後者には、隣藩の隠密が商人や遍路にまぎれて入って来るのを監視する意味もあり、実際にも、後述の沖之島境界紛争の時、土佐藩は伊予からの隠密の潜入を厳重に警戒している。物の出入りでは、宇和島藩は穀物の搬入を禁止しており、また後期では紙など藩専売との関係で他領への搬出が禁止されていた物もあった。宇和地方にとって海上交通の重要性はいうまでもない。九州の豊後側に農民が欠け落ちしたり、また向こうから欠け落ちして来ることもあったようであり、言葉づかいの上で豊後と宇和地方には今でも似かよった点が認められる。
 以上の一四か所の境目番所には、侍が派遣されて在番する所と、足軽だけが番にあたる所とがあった。この他に城の大手と搦手には、侍の中でも番頭という格の高い武士が指揮する番所があった。なお番所の位置と数は、時期によってかわりがあったようであり、明暦元年(一六五五)の「家中由緒書」には、深浦(現吉田町)に侍在番の番所があったことが記されている。また、番所には常夜灯が灯されたが、その灯油を支給する延宝四年(一六七六)の規定には、福浦(外海浦のうち、現城辺町)番所の記載がある。
 以上の他に、秀宗は、侍屋敷二五〇軒と船九〇艘余りを引き継いだ。
 このようにして入部をすませた秀宗とその家臣たちであったが、彼らを迎えた地元の農民・漁民たちの目には、かならずしも歓迎の色は浮かんでいなかったと想像される。

 一領具足と村君

 四国の近世は、一旦は土佐の長宗我部氏が統一したあとに入部して来た、秀吉や家康の息のかかった大名たちによって支配された。そのために新たな支配者の入国時には、新支配者と地元の旧勢力との間には深刻な軋轢が生じ、大きな一揆と苛酷な弾圧が起きた。阿波(徳島県)では、元和六年(一六二〇)祖谷山の土豪を首領とする六七〇人が蜂須賀氏の城下徳島におしかけ、一二人が死罪となる祖谷山一揆が起きている。隣の土佐では、関ヶ原の戦いで所領を没収された長宗我部氏の旧臣たちが、慶長五年(一六〇〇)に入部して来たばかりの山内氏に反抗した浦戸一揆、年貢納入を拒否して一領具足層が起こした滝山騒動などが起きている。
 宇和地方でも、天正一五年(一五八七)に入城した新領主戸田勝隆の丸串城に二、〇〇〇余人で押しかけた西園寺氏旧臣の一揆があった。次に勝隆改易の後には、慶長五年、藤堂高虎が関ヶ原に出陣中に起きた松葉騒動がある。この騒動は、西園寺氏時代に若山村(現八幡浜市)の土豪であった三瀬六兵衛が、蔵村(現野村町)の同七兵衛と謀って広島の毛利氏と連絡し、高虎の支配をくつがえそうとしたものであったが、事前に発覚し、高虎の留守部隊に松葉町(現卯之町)の屋敷を包囲され、一族が全滅した事件である。全国につらなる幕藩体制に押さえつけられていた旧勢力の日ごろの不満が、関ヶ原の戦を機会に噴出した事件であった。秀宗が引き継いだ時点で、前々からの年貢末進は一万四、〇〇〇石(この大きさは、このころ一〇万石からの年貢がせいぜい四万石であったことを考えれば、想像がつくであろう)に達していた。この督促をめぐって、領内二〇か村余の農民が、早くも秀宗入部の年のうちに宇和島八幡神社(現宇和島市伊吹町)前の須賀川原に集まり暴動を起こしたが、鎮圧された。さらに翌年の元和二年(一六一六)には、御荘組の外海浦・沖之島の漁民が大挙して逃散(単独で村から逃げるのを欠け落ちといい、藩や代官への抗議の意味で集団的に土地を離れるのを逃散といった)している。また何年かはわからないが元和年間に、坂戸村(現宇和町)では、農民のほとんどが居なくなってしまったことが、同村福楽寺の記録に書き残されている。この村では、給人(その村を知行地として与えられている藩の家臣)の年貢取り立てが厳しく、年貢を未進した百姓を豊後に奉公人として売りとばし、その身代金で年貢を払わせたので農民が少なくなり、残った百姓も取り立ての厳しさに耐えかねて逃げ出してしまった、というのである。
 秀宗の宇和支配は、入部早々から領民との緊張関係のうちに出発したのであった。
 こうした一揆や逃散の中心になって、新領主の支配に抵抗したのは、農村では一領具足、漁村では村君といわれた旧土豪層であったと考えられる。一領具足とは、長宗我部時代の土佐のそれが有名であるが、戦国時代の南予にも存在した郷士をいう。彼らは田畑と馬を所有して門百姓を使役して、あるいは自らも野良に出て農業を経営し、主君の命令一下、耕作の現場からただちに出陣した。野良仕事に際し、槍に具足・わらじ・兵糧を結んで立て、いつでも戦いに出られる準備をしていたのでこの呼称がある、といわれる。宇和地方では、後述の「清良記」が、次のように述べている。

 田地一町と云うは、近代一領具足と云う侍一人分の領地なり。

 五反百姓という言葉があったこの地方では、田地一町(これは戦国期のことであろうから一町は三六〇畝であり、太閤検地後の一町二反にあたる)というのは、かなりの大百姓に属する。続いて「清良記」は、この一町の土地を耕作するのに必要な労働力を、荒起こしから稲刈りなどの個々の農作業ごとに記している。その中には、薪とり、肥料とする草刈り、山から鍬・鎌の柄の材料を取る作業、鍛冶の手伝いなど今日ではうかがい知れない一領具足の生活の実態が、具体的に記されている。これらの一領具足に隷属した農民に、土佐では被官・名子・間人などがあった。宇和地方では、前述の福楽寺記録に「門百姓」という言葉が見られるが、土佐の間人にあたる農民と推定される。また、一領具足が百姓やこれらの隷属農民を引き連れて出陣したことは、「清良記付録」に「名本トテ里侍ノ分、村々ニコレアリ(中略)右十三人ハ名本トテ百姓ノ頭也」とあることによって知られる。
 次に村君は、古代の文献に現れる漁業の指導者で、ひとことでいえば大網元であった。土佐や南予では、この古い言葉が近世にまでほとんど意味を変えずに残っていたのである。この村君のあり方を示す史料としては、沖之島境界紛争の時、土佐側か幕府評定所に証拠として提出した資料のうちに、紛争の両当事者の先祖である沖之島の村君が、その権利を子に渡した譲り状がある。この譲り状の日付は文禄三年(一五九四)であるので、これから元和のころの様子を考えるのは十分に可能なのであるが、それによれば、村君は「むろ網」(ムロ鯵の網か)の漁獲の三分の一を取ること、引き網(地引き網か)の漁獲は、二分の一を取ること、などが述べられている。また村君は、正月一日・三月三日・五月五日・七月一五日には地下中(浦中)を集めて餅・酒・白米の飯をふるまうのを恒例としたが、これは「何時も村君の用の時、使い候ため之事也」と記されている。
 このような村君の力は、村君が漁場である海面の領有者であったことによっている、と考えられる。このことを象徴するのが、「地下(浦)へ流れ寄る物の事、地下の者ひろいても、先年より村君取る也」という村君自身の主張である。海岸に流れ着いた漂流物は、古来からその土地の領有者の所得であった。たとえば鯨は、近世においても将軍のものであり、将軍からその土地を与えられた大名のものであった。したがって鯨が獲れたときは、その何分の一かを将軍や大名に差し出さなければならなかった。ただし、その割合は、海岸に漂着した場合(寄り鯨)、漂流中を発見して引いて来た場合(流れ鯨)、鈷で捕らえた場合(突き鯨)で異なっており、漂着の場合がもっとも地元の取り分が少なく定められていた。これは、鯨や魚は本来的に海という自然の賜物であり、その自然の領有者である将軍に帰属するものであること、しかし人間がそれを得るのに投じた労働の多少にしたがってその人間にも取り分が生じる、という考えかたである。宇和島藩においても、もちろんこの原則は確認でき、たとえば寛文三年(一六六三)に家老桜田監物が浦奉行に与えた「定」は、「御浦方へよろず寄り物、三ヶ一ずつ、その所にくだされ候事」と定めている。漂流物があった場合、その三分の一は発見した地元に与えるというのであるが、藩が三分の二を取るのではなく、三分の一を与えるというところに、本来漂着物は藩のものという原則を見てとることができよう。
 実はこの原則は、陸上の、人間が労力と費用を投下して開発した田畑以外の土地についても適用された。農民や漁民が薪や船材を採る山林、肥料の草を苅る原野、これらはすべて将軍や大名のものであり、小物成はそうした自然の賜物の一部の、領有者にたいするささげ物であった。将軍や大名が山や海の村境・海境の紛争を裁いたのも、領有者としての資格においてであった。これにたいして里方では、網や船といった道具の所有がものをいう海上ほどには強烈ではなかったにせよ、旧土豪層の山野にたいする領有意識があったと想像される。一領具足にせよ、村君にせよ、この意味で自分たちの住む小宇宙の支配者だったのであり、その彼らに外からの新参者が将軍に連なる領有者として小物成を要求したのである。百姓におとされ年貢をとられること以上に、これは彼らにとって大変な屈辱であったに違いない。
 一方で地元の実態はといえば、せいぜい数百人の新支配者(後述のように秀宗にしたがって入国した武士は五七騎と伝えられている)の目と手が、村や浦のすみずみにまで届くはずはなく、いぜんとして旧土豪層の権威が幅をきかしていた、と想像されるが、これについては、次のような話が参考になる。
 寛永一〇年(一六三三)のことである。河内村(現八幡浜市)の庄屋甚之丞の家に集団強盗が押し入り、銀八貫六五〇匁を強奪した。小判にして約一五〇両、現在の米価に換算して三、〇〇〇万円。庄屋甚之丞の富裕さのほどが想像される。犯人は松山の提灯屋兄弟など一六人であった。味をしめた彼らは、翌年にも二四人で甚之丞家を襲ったが、今度は迎撃を受け、夜昼峠を越えて野田村(現大洲市、宇和島領)に逃れた。ここでも庄屋が村民を動員して逃げ道をふさいだので、盗賊は大洲領に逃げた。ここでは藩の役人や町人が道をふさぎ、宇和島領でも河内・岡山(現宇和町)・東多田(同上)の村民が退路をたち、包囲される形となった盗賊は、四人が自害、四人が北多田村(大洲市)でつかまり、残る一六人は松山領に脱出したが捕らえられて処刑された。
 この話からもわかるのは、すくなくもこの時期では、村レベルの治安を実際に保証していたのは、庄屋に率いられた村民自身だったということである。しかもそれは、大がかりな強盗団にたいして藩域を越えて機動的に連動したのであった。もちろん藩境を越えて連動するのであるから、すくなくとも両藩の黙認は必要であったと思われる。しかし藩が強盗団の逮捕にかかわったのは、村々の働きによって犯人たちが追い詰められてからであった。村の治安は、藩の黙認の下で村に任されていたのが実態であった。
 こうした事例をみると、ことを村内にかぎれば、旧土豪層のありようは以前とそれほど変わりなかったのではあるまいか。浦々の村君についても、同様に考えられる。のちに述べる沖之島境界紛争に際して、土佐藩は藩の役人を漁民といつわって幕府評定所で宇和島側の漁民と対決させた。このことを指摘した宇和島側の非難にたいして土佐藩側は、宇和島側こそ沖之島の庄屋六之進に、伊達家江戸屋敷から評定所までの道を、馬上で若党を供に引き連れるという一人前の武士の姿で往復させている、と反撃している。このようなことは、村や浦の中では彼らの実態が往時とあまり変かっていなかったと考えないかぎり、理解しがたいことである。
 「山や浦は俺のもの」と主張する一領具足や村君を一面では弾圧しながら、一面では彼らに依存し彼らを通じなければ、藩は村や浦を支配することはできなかった。以後の藩政はこの矛盾を前提に展開した(なお、藩と地つきの領民との緊張関係のその後の展開には、土佐と宇和地方とでは、いくらかの差があったことが感じられる。土佐においては今日でも長宗我部時代以来の家柄であることを誇りとする気風かあるが、宇和地方では兵頭・上甲・清家・土居といった西園寺氏以来の名字を誇る気風はとくにないようである。また、東北地方の八つ鹿踊りが今日でも南予にひろく行われているが、これも新来者が領民に受け入れられなければあり得ないことである)。なお、宇和地方で、こうした旧土豪的な庄屋や村君の村や浦の支配がゆらいでくるのは、一八世紀後半から一九世紀前半にかけて、庄屋と村民との対立に基づく村方・浦方の騒動が多発する時期をまたなければならなかった、と考えられる。