データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)
五 松山藩の上地問題
定静本家を継ぐ
松山藩七代藩主松平定功が明和二年(一七六五)二月に死去し、別家の定章の子定静が八代藩主として入ると、幕府から新田分知を差し出すようにと命じられた。松山藩としては寝耳に水で、意外なこととしたが幕府としては当然のこととして陳情にも応じなかった。
四代定直死去の享保五年(一七二〇)一〇月に、嫡子定英が家督を相続し、次男監物(定章)に新田のうち一万石を与えて別家を立てさせていたので、いま定章の子定静が本家を継ぐと、別家分一万石を返上しなければならなくなる。松山藩では定章一万石は蔵米で与えており、幕府の処置は減知に等しい大問題となるので、藩としても実状を述べて種々画策してみたが果たさなかった。
やむを得ず松山藩は明和二年に桑村郡一〇村と、これに続く越智郡八村、計一八村一万石を上地した。
伊予国桑村郡の内、本田畑新田取合
五千三百七十一石七斗八升八合
(高田村・国安村・新市村・桑村・中村・黒本村・河原津村・楠村・宮之内村・大野村)
同国 越智郡の内、本田畑新田取合
四千六百二十八石二斗一升二合、合て一万石
(朝倉上村・朝倉下村・宮崎村・登畑村・旦村・桜井村・長沢村・孫兵衛作) (松山叢談)
この桑村・越智二郡にわたる天領は美作国大庭郡久世代官所(岡山県真庭郡久世町)の支配下に置かれていた。『松山叢談』八代定静の明和二年七月二二日の条に「御分知一万石越智桑村両郡の内にて新田古田取合せ御差上げ、則ち公領御代官竹垣庄蔵(作州久世)殿御預所となる」とある。久世代官所は津山松平藩一〇万石が五万石に減封になった享保一二年に置かれたもので、文化一四年(一八一七)に同藩が一〇万石に復したとき廃止された。越智・桑村両郡一万石は文化一一年一〇月二八日以後松山藩預かり地となっている。
松山藩としては一万石上地の対策として、既墾の新田により一万石を補充し、一五万石の体面を保つことにし、これに充当した新田を「御償い新田」と称して幕府の許可を得た。『松山叢談』八代定静明和七年五月朔日の条に、「先達て越智郡桑村郡の内一万石御上地になったのを、諸郡新田のうちから償われたので、此度び諸郡村寄郷村相改め、御朱印、老中用番松平右京太夫輝高公より御渡しあり」と記されている。
のち『松山叢談』一一代定通の文化一一年一〇月二八日の条に「是迄御預所の外、今度び伊予国越智桑村両郡の内一万石(イ一万十石二斗八升)御預り増地仰付けらる」とあるので、松山藩預かりとして幕末に及んだのであった。
天領の終末
宇摩郡一柳家の上地により宇摩郡一万七、一二三石一斗五升八合、周布郡一、八一九石八斗七升三合、計一万八、九四三石三升一合で寛永二〇年(一六四三)に始まった伊予国天領は廃藩置県時に五郡五〇か村石高二万四三六石余となっていた。住友の別子銅山経営をハイライトとし、伊予郡南神崎村のように空しく消えた天領の村もあった。いま最後まで残った天領村々を郡別に集計して見る。
宇摩郡 二三村 石高七、六一六石余
余木 川之江 下分 山田井 三角寺(川之江市)
県定 西寒川 豊田 大町 岡銅 五良野 小川山 平野山 津根山(伊予三島市)
野田 中村 藤原 北野 上野 浦山 天満(土居町)
新宮(新宮村) 別子山(別子山村)
新居郡 六村 石高二、〇四五石余
立川山 東角野 西角野 新須賀 種子川山 大永山(新居浜市)
桑村郡 一〇村 石高五、三八四石余
高田 国安 桑村 新市 黒本 中村 楠 河原津 大野 宮之内(東予市)
越智郡 八村 石高四、六三六石余
朝倉上 朝倉下(朝倉村)
宮崎 登畑 旦 桜井 長沢 孫兵衛作(今治市)
風早郡 三村 石高七五四石余
粟井 小浜 大浦(中島町)