データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)
四 大洲藩の上地問題
伊予郡南神崎村の上地
大洲藩二代加藤泰興の次男泰堅は一、五〇〇石を分与されて幕府の寄合に列し、元禄四年(一六九一)大坂西町奉行に任ぜられ五〇〇石が増され、二、〇〇〇石となった。しかし泰堅は同八年に部下の監督不行届の廉で免職となり、加増の五〇〇石返上のうえ、大洲藩分知の一、五〇〇石も没収となった。藩としては蔵米支給であったとして勘定奉行の了解を得ていたが、正徳二年(一七一二)老中から上地の命令が出たので、止むなく伊予郡南神崎村一、五〇〇石をこれに充てた。
南神崎村は元禄一三年「領分附伊予国村浦記」に村高二〇二石五斗六升五合で一村であるが、現地では慶長元年(一五九六)に既に宮ノ下村(一、〇一五石一斗三升五合)と上野村(一、〇〇七石九斗二升九合)に分村しており、庄屋も別になっていた。そのため上地に当たっては宮ノ下村全部と上野村上分四八四石八斗六升四合を南神崎村としてこれに充て、上野村下分五二三石六升五合を大洲藩に残した。上地以来八年間は川之江代官の支配下に置かれ、享保六年(一七二一)以後は南神崎村を含めた天領は松山藩預り所となった。
この地域は重信川から水をひく水田地帯で流域村々の間で水論が絶えなかった。麻生村に古樋井手と一之井手と二つの取り入れ口があって、古樋井手は上流の上麻生(大洲藩領)と下麻生(新谷藩領)の用水で、一之井手は川下の南神崎(天領)、徳丸・出作(松山藩領)、上野・八倉(大洲藩領)の五村の用水であった。両井手は並行していて、古樋井手の取り入れ口が上手にあるため、水量の少ない時は一之井手はこぼれ水しか得られなかった。
そのため宝暦一一年(一七六一)には、「宮ノ下村(南神崎村)公料なるに依て上野村、徳丸村、出作村、八倉村五ヶ村徒党して、昔より極りたる古樋を引落とし、其上麻生村内へ乱入して、老人子供ともいわず打擲し、公料を鼻にかけ狼藉言語同断なり」(大洲旧記)とあり、また「公料相手に戦いては理を以て非に落ちる」(同書)ともいかれ、私領の農民は天領を憚っていた。
明和の水論
明和八年(一七七一)は大旱魃で、一之井手がかりの五村の七〇〇人ばかりが六月八日より押し寄せ、古樋井手を切り落とし、両麻生側の出を二昼夜待ち受けた。両麻生の者ども大いに怒り二〇〇人ばかり身を固め、夜のうちに矢取川の東の上手根を忍び寄り、五村側の屯する所に不意を打ち、矢取河原で大乱闘をくり広げ、南神崎・八倉で各一人の死者を出すに至った。そのためこの事件は大洲藩から幕府に届けられ、勘定奉行松平右近将監から関係者一同は備中国の天領代官所に出頭を命じられた。翌九年二月に各村庄屋・組頭・百姓ら三百余名が倉敷・笠岡の両代官所に出頭し、笠岡代官野村彦右衛門、倉敷代官万年七郎右衛門の取り調べを受けることになった。
義民兵右衛門
水論で裁きを受ける場合、相手側に死者を出した両麻生側は加害者となり、不利は免れない。上麻生五八名、下麻生八四名の者は倉敷役所に入牢となり、南神崎七九名、上野九名は笠岡に宿預かり、徳丸五九名、出作四八名、八倉四四名は倉敷に宿預かりとなった。三月一日から引き出されて本格的取り調べが行われ、首謀者、加害者の詮議がなされた。麻生側は入獄の苦しみと、連日にわたるきびしい拷問を受けたが、身に覚えのないため責めたてられても答えることも出来ない。いったい、多人数の農民の乱闘に加害者を求めることは無理である。「我れ先に戦はなしぬれ共、相手の生死知るものなし」(大洲旧記)とあるのが真相であったろう。
明和九年は一一月改元で安永元年(一七七二)となり、安永三年ともなると水論が起こってから足かけ四年にもなった。取り調べ役人にも焦慮の色が見えてくる。現に二人の死者が出ていることであり、誰か下手人を名乗って出ない限り、済まされることでない。数百人の百姓たちの苦難は尽きる時がない、と情義をわきまえた下麻生村組頭兵右衛門は決断して、自らが首謀者であり、二名を打擲して死に至らしめた加害者であると名乗り出た。安永三年二月二三日のことであった。処刑は即日倉敷で執行され、兵右衛門は刑場に引き出され従容として死についた。
刑は獄門という極刑であった。「水論四か年振り落着、兵右衛門年三十四、自ら発言の咎名乗り、多人数の辛労を救う、心根感涙を流し袖をしぼらぬ者はなし、梟首したる首に詣でる人群集せり、辞世に、如月のあはれ尋よ法の道」(大洲旧記・御替地古今集)とある。
地元の円通寺僧は遺骸を荼毘に付し、遺骨を納めて帰村し、葬儀を営んだ。同寺境内に墓碑があって、「伊予国下麻生兵右衛門、安永三年二月廿三日」とある。のち下麻生八蔵寺境内の水論発生の一之井手を見おろす所に五輪塔が建てられ、「大機院観月浄照居士、俗名窪田兵右衛門居士」と刻されている。また文政七年(一八二四)の五〇回忌に新谷藩の許しを得て「衣更着神社」が建てられ、義民兵右衛門を祀っている。社名は彼の辞世の句に由来する。また早くも彼の処刑の年に一之井手の開削工事が始められ、一〇年後に「赤坂泉」が完成し、これによって水論も解消された(砥部町誌)。
南神崎村と忽那島三村の替地
このたびの水論一件は、この地域に天領の交錯することが民政上の禍となることを大洲藩につくづく反省させた。大洲藩としては正徳二年(一七一二)以前のように南神崎村の自領復帰を熱心に願い出て、ついに安永九年(一七八〇)四月二日に替地として、忽那島三村(粟井・小浜と大浦の一部)と大洲藩飛地の摂津国武庫郡二村を上地することとし、またこれらを大洲藩預かり所とすることも認可された。安永九年四月、加藤遠江守宛の幕府書状がある(大洲市加藤家文書)。
御料所伊予国南神崎村をこの度び願の通り摂津、伊予の国と村替に仰せつけられ、右摂津、伊予国上ヶ知高一、三五四石余御預所に仰せつけられ候
摂津国武庫郡の内
一 五〇三石二斗五升八合 池 尻 村
一 九六石七斗四升二合 南 野 村
計六〇〇石
伊予国風早郡の内
一 一五二石六斗 粟 井 村
一 二一六石八斗六升八合 小 浜 村
一 七斗二升二合 同村新畑
一 三八四石六斗八升一合 大浦村の内
一 一斗一升四合 同村新畑
計七五四石九斗八升五合
合計一、三五四石九斗八升五合
右はこの度願につき上ヶ知に相成り、書面の村々は直ちに御預り所に仰せつけられたので、その意を体し本年中にその処置をとられたい、気付いたことあらば重ねて申し出られたい
安永九子年四月 各 伝之丞 ㊞
豊金右衛門
(下略)
また現地には「御預所誓書」(御料の分大浦村、私領の分大浦村)組頭五人組百姓共連名印が残されている。
一札の事
一当村の内高三八四石六斗八升一合御料になり、高一〇一石二斗一升七合御私領に残り、私ども御料百姓に仰せつけられ畏み奉り候、根元一村の儀に候えば諸事、これ迄の通り心得、むつまじく致すべき事 (下略)
安永九庚子年十月
(温泉郡中島町堀内家文書)
一方、大洲領に復帰した南神崎村では、大洲役人列席の上、宮ノ下村・上野村百姓を残らず呼び出して、旧領に復したことを申し渡した。
わざわざ申し触れ候、かねてから承知のように南神崎村は代地を差出し、大洲御領分に成り、昨十八日に受取りの事も済んだので、今後は万事不都合のないように申し合わされたい、百姓共も相互に睦まじく助け合うよう端々まで通達されたい
安永九年五月十九日 河内 平左衛門
岡 井 金 助
なお村名の記載については、南神崎村上野、南神崎村宮ノ下と記すようにと命じたが、七月一日の触状ではこれを改めて「南神崎」の文字は除くようにと命じている。