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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

四 教学の展開

 山井鼎の招聘

 西条藩における教学は、三代藩主頼渡のころから隆盛に向かったようである。頼渡は好学の藩主で、享保三年(一七一八)、古文辞学派の山井鼎を招聘し、記録を司る記室とした。西条藩が小藩でありながら、山井鼎の如き高名の学者をむかえることができた背景には、紀州家の後援が大なる力となったと思われる。
 山井鼎は字を君彝といい、崑崙と号した。紀伊国海部郡小南村の医師周庵の子として生まれ、初め、紀州藩儒者蔭山元質に学んだ。後京都に出て伊藤仁斎の堀川塾に学び、さらに、江戸に出て荻生徂徠の蘐園塾に入門し、太宰春台・服部南郭らとともに高弟の一人に数えられた。前述の如く、享保三年西条藩に招かれ、約五年の間仕えた。ただ、彼はその間江戸詰であり、西条の地に足を踏み入れることはなかった。西条藩致仕後、下野国足利において、足利学校所蔵の古書の研究にあたり、「七経孟子考文」三三巻を著し、西条藩主に献上した。この書は、西条藩を経て、幕府・紀州家にも献上され、将軍吉宗の命により幕府の手で刊行された。また、中国においても出版され、清の乾隆帝の命によって、一七八一年、当時現存する古今の書物を集めた『四庫全書』にも収録された(「愛媛県教育史」)。
 西条藩では、その後、五代藩主頼淳も好学の藩主として知られた。頼淳は、折衷学派の細井平洲を招いて儒学を講じさせるとともに、自らも勉学に励み、『五慎教書』・『童子訓』を著した(「愛媛県教育史」)。

 藩校択善堂の創設

 藩校択善堂の創設は、八代藩主頼啓の時代である。創設年代は明確ではないが、文化二年(一八〇五)とされている。伊予国においては松山藩、今治藩と同年の開設ということになる。
 択善堂は、城下北堀端(現西条小学校の地)に所在し、講堂、素読所、寄宿舎、書庫、炊事場より成っていた。職員は学頭二名、教授兼大舎長二名、助教兼舎長三名、句読師一〇名であった。
 士卒を問わず、藩士の子弟男子七歳の者が入学し、毎年正月四日が始業、一二月二五日が終業であった。入学後最初の段階は素読であり、初級(大統哥、四書)、第一級(五経)、第二級(十八史略、国史略)、第三級(三史略講義)に分かれていた。授業は五ツ時(午前八時)より八ツ時(午後二時)までで、毎月二の日に行われる試業によって進級の可否が決められた。「三度落第をした者は三か月間試業を受けることができない」というような規定もあった。
 素読が終了すると、一三、四歳で独習生となり、初級(新策、孟子、史)、第一級(論語、外史、孫子)、第二級(左伝、同義解)、第三級(漢書、六国史)の各段階に分かれていた。独習生は全員寄宿舎に入ることになっており、日常は、自習によって生じた疑問点を教官に質問する形で学習が進められた。教官の講義は一か月に三回行われ、試業(試験)は毎年三月に一回、定府である藩主にかわって、家老臨席のもとに実施された。
 藩士の子弟は、以上の外、一二、三歳になると武芸の訓練を始めることになっていた。武場は、当初択善堂とは別に設けられていたが、文久年間以後両施設を合わせて運営されるようになり、文武館とも呼ばれた。武場において行われたのは剣術(田宮流、真蔭流)、槍術(大島流)、弓術(吉田流、竹林流)、馬術(大坪流)、柔術(関口流)、炮術(氏田流、吉川流、関流)であった(「愛媛県教育史」)。

 三品容斎と日野和煦

 藩校択善堂創設時の教官として、中心的な活躍をした人物に三品容斎があげられる。容斎は名を崇、字を隆甫・宅平と称した。小松藩儒官近藤篤山の弟であり、また、後述の日野和煦の義弟にあたる。兄とともに尾藤二洲の門で朱子学を学び、帰郷後、西条藩士三品為道(茂林)の養子となって、三品家を継いだ。彼は、藩主頼啓、頼学の侍講として仕えるとともに、藩校開設に際して、その教授にあげられ、約五〇年間にわたって藩士子弟の教育に力を尽した。
 三品容斎に続いて、藩校択善堂の教授を勤めたのは日野和煦であった。名を暖太郎、字を公起と称し、醸泉と号した。初め近藤篤山に学び、また、仁井田南陽・倉成竜渚・樺島石梁らに師事の後、昌平黌に遊学した。帰郷後は、択善堂教授として約五〇年間にわたって文教に携わった。一方、彼は、天保七年(一八三六)、藩内の地誌編集を命じられ、その後七年の歳月をかけて『西条誌』二〇巻を著した。その外、『兵備妄言』、『醸泉詩稿』など七〇冊に及ぶ著書を残している(「愛媛県教育史」)。

 尾埼山人

 幕末期の択善堂学頭、藩政参与、尊王活動家として尾埼山人があげられる。名を義正、字を士弘、通称を三郎左衛門と称し、星山と号した。初め小松藩の近藤南海に師事、後に昌平黌に学んだ。また、朱子学のみでなく、国学・洋学などにも知識を有する多彩な学問を身に付けた人物であった。彼はペリー来航後の政治的混乱の中で、郷里に帰って尊王攘夷をとなえ、三木左三・田岡俊三郎らとともに、生野の変に失敗した沢宣嘉を庇護して長州まで送るなど、運動家として活躍した。慶応四年(一八六八)、西条藩の招きによって択善堂の助教、ついで学頭に就任、藩政にも参与した。明治維新後は権少参事主務文武館総督を勤め、廃藩置県後は郷里において後進の指導にあたった。
 以上の外、藩校択善堂の教官として伊藤祐道、新名多吉、東条精介、和田浩亭、矢野佐太郎、矢野泉太郎、山井璞輔、馬場彦兵衛、長谷川興市、和田義綱、東春草、神保研蔵、栗本碌二、山井幹六、上田格之助らが活躍した(「愛媛県教育史」)。