データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)
三 兵制の推移と改革
軍制の近代化
幕末の対外緊張を反映して大きく変化したものに兵制がある。以前は各藩とも城取り騎戦中心の古式兵法による隊編成であったが、尊攘運動の高まった文久から征長・戊辰戦争を頂点として、各藩ともに歩・騎・砲三兵の洋式を採用し、武器を近代化した。松山藩では安政二年(一八五五)から砲台を建設し、同五年から洋式銃隊の編成を試みている。兵制の改革に当たっては、大坂・長崎へ伝習生を派遣するほか、他藩から教師を招いた。初期には蒸気船やゲべール銃(オランダ製先込め銃)・ミニエール銃などを購入したが、やがて各藩でも製造するようになった。
また出兵や海岸防備、治安維持のための兵員が不足し、士農分離の原則を破って農民を民兵・郷兵として動員し、全藩的な軍備態勢をとるに至った。農兵は病人や極貧者を除く一六~五〇歳の男子を訓練の対象とし、通常は出陣して扶持米を取る者が民兵、郡内の治安に当たる者が郷兵と区分される。しかし政府は戊辰戦争後は農兵は解兵の方向、版籍奉還後は藩兵も消滅させる方針で軍事面でも中央集権化を図った。
慶応四年閏四月、政府は「陸軍編成法」を布達し、各藩は一万石に付き六〇人を備え、うち一〇人を京畿の常備兵とさせた。今治藩では五月二八日山下又三郎ら先発九人を入京させ、西条藩でも八月二九日小隊長以下兵士三〇人を送った。また一万石に付三〇〇両を兵員の給料として上納させた。しかしこの規則は充分に実施されず、翌二年二月に廃止された。明治三年二月「藩県兵編隊規則」によって、常備兵を一万石につき歩兵一小隊(六〇人)、砲兵隊は砲二門で一分隊とし、士卒外の兵隊取り立てを禁じた。各藩はこれにより士卒の大隊編成を行った。同年一〇月、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式に統一する旨を布告し、各藩まちまちの兵制の統一を図った。翌月には大村益次郎の案による「徴兵規則」が制定されたが、廃藩問題が先決とし実施は延期された。翌一二月には「各藩常備兵編成方」によって大隊編成、砲兵は一隊六門とする旨が通達され、大隊長・中隊長以下の職制も統一された。
松山藩の兵制
松山藩では文久元年(一八六一)から洋式砲術軍法の稽古を始め、翌二年一二月に軍制を改革して洋式砲隊を組織した。さらに翌年からは領内の銅・鉄類の供出令や買い上げを行い、城下でも銃を製造した。なお、文久二年四月一七日には郷足軽六〇〇人が募集されたが、久米郡で三四人、桑村郡では一七~三〇歳の屈強の者一三人が選ばれ、翌月から二か月間、城下堀之内で訓練を受けた。勤務中は苗字帯刀が許されて二人扶持を受け、出張時は手当が付き、一〇年間勤めると一代限りの苗字帯刀御免となったが、三〇俵の出米が条件であり、桑村郡の場合は各村から一、二人を籤引で決した。この時の希望者は二五六人で八隊に編成された(『壬生川浦番所記録』)。農兵の募集はその後も続けられ、元治元年(一八六四)二月に新足軽を採用し、七月には各村の一五~五〇歳の男子人数を報告させ、八月には各郡三〇〇人ずつの郷兵の編成計画を実施した。しかし応募者が少ないため人数制限を廃して自由とした。
明治元年一一月、軍務局を置いてイギリス式の演習も採用したが、翌年二月の「藩治職制」では、軍務局を改革して輜重重・築造・操練・閑厩方を置き、士卒の階級に応じて諸隊を干城・折衝・彰効・報効・練卒隊などと区分した。版籍奉還後は軍務局を兵政局に改編し、練兵・駅術・剣術・游術などの教導を置いた。諸隊は合併・分割を繰り返した後、隊名を全て廃止して四大隊を編成した。翌年一〇月の布告により陸軍はフランス式教導工藤昌三ら五人、海軍はイギリス式教導稲垣銀次を雇い調練を行った。同年閏一〇月の藩政改革では、兵政局を再び軍務局とし銃隊二大隊(一大隊は五中隊、一中隊は二小隊、一小隊は六〇人)・砲隊二隊(一隊は三分隊、一分隊は二門)を編成した。共に一隊は常備隊、他は予備隊である。銃隊の編成は連隊長一、大隊長二、中隊長一四、小隊長一四、稗官二〇、旗手長二、楽手長二、嚮導八四、伍長一四〇、兵士三六〇、銃卒七〇〇、旗手六、楽手六〇の計一、四〇五人、砲隊は砲隊長から喇叭手まで計一四四人の大部隊であった。
非役の士卒二、四二八人については常務を解いて郷居を許し、各郡今村々への割当も行った。除隊後の五か年は一~一人半扶持(合計一万一、三一八石七斗)を与え、家屋の建築料や引越料も支給した(『松山叢談』)。明治四年一月二五日、郷居に当たっては居宅や田畑の購入・借受は村役人や百姓と相対で行うこと、百姓を軽蔑せぬこと、刀を必ず帯び婦人は常に懐剣をしのぼせるよう布告した。
川之江の民兵
松山藩預かりの宇摩領では、文久三年三月に一三〇人を募集して初めて民兵隊を編成した。九月には川之江村猪川平七ら七人を海岸防禦筋用掛に命じ、領内に米銭の献納や心得方を布達した。一〇月からは四郡村々に毎夜見張番を立てた。元治元年八月には非常作配案を示し、危急の際は農兵百姓の区別なく兵役に従うものとした。慶応二年の長州再征時には兵三〇人を送ったが、六月にこれを銃隊に改めてゲベール銃を陣屋で購入し、兵士に貸与した。隊を四小隊に編成し、陣屋整備と村内巡回を役目としたが、慶応三年五月には別子銅山騒動にも出動した。
同年八月、この銃隊を大庄屋の支配区と一致させるため東・中・西三組の三小隊に改編し、兵員を二一人増員して民兵の名を新軍隊と改めた。小隊長は大庄屋の兼任で一隊は四〇人であった。
高知藩兵の進駐以後は陣屋の兵局の指揮下に入り、隊列を実用主義の土佐流に改変し、「兵隊」と改称し軍服を規定した。慶応四年四月の「兵隊規則」、九月の同改正規則では訓練を強化して月六回とし、月八回の読み書き算術を加えた点が注目される。版籍奉還後は兵隊を順次整理し、常備隊と予備隊の二隊とした。川之江村では明治二年六月迄に二九人中一六人が除隊となった。常備隊は強壮の者を残し、一人扶持を与えて治安維持に当たらせた。予備隊員は給米四斗であった。しかし藩政改革によって明治三年四月から順次帰農をすすめ、一一月二三日迄には全員除隊となった。
今治藩の改革
今治藩では延宝四年以来の太田道漂流の兵制に加え、洋式の導入を久松監物に命じて「火攻全軍録」一二巻を編集させた。隊制は銃隊四部隊各一七三人・中士隊四隊・下土隊三隊・足軽隊・野戦砲隊・遊撃隊他で総員七一九人である。慶応三年一二月には職制改革によって軍務局を設置し、卒・歩兵・選鋒・奮武・震天五隊を編成した。翌年一〇月にこれを廃し一〇人を分隊、四分隊を小隊として一二隊を編成した。翌年六月、イギリス式を採用して徳島藩士西岡虎吉・大島庄三郎ら三名を招き、五〇日間の教導を受けた。この時は二三人を小隊、六小隊を大隊とし、二大隊と旗手・楽隊・軍目らの編成であった。
明治二年一一月、軍務局を改変すると共に一~一〇番隊編成とし、別に大砲隊を置いた。翌年閏一〇月の改定では士族隊と卒隊に大別し、小隊を四三人、二小隊で中隊とし二中隊ほかを編成し、兵員は先の三四六人を二一五人と更に減員した。明治四年一月、静岡藩士武蔵知安を招き、松山藩へも幹部を出張させてフランス式に改め、六〇人一小隊で二小隊の一中隊と砲門二門で一分隊とし、三分隊の一隊を編成した。また村内治安のために農兵を置き、明治三年五月の「農兵組立」により庄屋を兵隊長とした。今治領宇摩郡へも教練のため藩士を送り、時には農兵の一部を今治へ呼んで本隊と共に練兵をさせた。
小松・西条藩
安政元年七月、小松藩には車台付大筒と用心筒一五挺・猟筒八九挺があった。翌年七月には西条藩小川八兵衛の指導によって大筒の発射訓練を行った。明治二年一〇月の藩政改革では軍防所を置き、少参事が隊長を兼任し、兵制はイギリス式とし常備歩兵を三小隊とした。士族のうち病人と六〇歳以上は除隊となるが、その子弟で兵役に堪えうる者があれば召抱えて一~二人扶持を給した。翌年四月には二小隊を加えて兵員を一二○人とし、大砲六門(弾薬三〇〇発)、小銃一七〇挺(弾薬一万七、〇〇〇発)とした。
しかしその後は順次兵員を整理するとともに、明治四年一二月にはフランス式兵制を採用し、役付五人、兵員三二人(士族一六、卒族一六)、喇叭八四の計四一人となった。しかし武器はホイッスル一門(弾五〇発)、三百目車台筒五門(同三、〇〇〇発)、小銃一五〇挺(同五万四、〇〇〇発)、製薬六〇樽一三〇貫、鉛二六〇貫で、兵員は削減したが装備は増強している。軍資金には米二三五石四斗余を売った九四〇両と従来から保有の一、四六五両とを充て、同年九月迄の出費は器械費六八七両・練兵・改式費八二一両であった(「諸願伺届書控」)。
幕末の西条藩では剣術・槍術等旧来の武術指南六名に対し、砲術指南は宇治田・古川・関・豊田及び西洋各流の五人を置き銃砲訓練に力を入れていた(「治藩の余波」)。明治元年九月一四日、兵制をオランダ式に改め、一隊を三二~四〇人として一〇隊を編成し、士卒の階級に応じて侍衛隊・士銃隊・準土砲隊(大砲五門)、狙撃隊・第一~第三撒兵隊・追撃隊(農商で構成)と区分し、各隊に隊長・稗官を置いた。
翌年二月三〇日になるとこれをイギリス式に改変し、小隊を四〇人、二小隊を中隊、五中隊を一大隊として銃隊一大隊(総員五〇一人)としたが、東北出征後はこれを縮小し、明治三年一〇月フランス式に改変し、上等・下等の常備兵二小隊(総員一四六人)とし、藩内の治安に当たった。
宇和島・吉田藩
宇和島藩は嘉永五年一月、久々に藩船の状況を調査し帳簿との反帆の誤りを正し、大修理を行った。翌年一〇月には「御軍備改正」により組を改編し、七年一月一五日、ペリー来航後の緊張に対処して「軍中諸法度」一六か条を布告した。これは軍中一和して長幼の節儀を守り、軍中では持場を守り失火・放馬・酒宴を戒めるものであった。安政四年八月には西洋銃隊陣法に改めて調練を強化し、慶応二年三月には銃隊をイギリス式、七月に砲隊をオランダ式とした。
慶応三年一月一二日、「軍制改革」によって小銃隊二隊を大銃隊二隊に強化し、以降砲隊の育成に力を入れた。銃は従来のイギリス式ライフルに加えて長ライフル銃やゲベール銃も移入し、また製造も行った。火縄銃はバネを補強して雷管式に改良している。また丸穂村の山中に試撃場を作った。これら兵器の改良や銃弾の製造については入江左吉・吉森猪之助らが企画に当たった。
明治二年五月一三日、職務等級の改正により軍務局内部も変更された。同年一一月二〇日には、藩の給禄を受ける者はすべて兵員と心得て、一家一人の軍役を出す旨を布告した。翌年四月の兵部省への報告によると常備歩兵一二中隊六八三人、砲兵一隊三六人、砲隊人員二〇五人、大砲三五門、小銃七七三挺という兵力であった。八月一〇日令によると常備兵の年令は一八歳から三七歳迄で、戸主が病弱または初老の場合は代人を立てるか、家禄の一割五歩の軍資米を提出した。また一六歳以上の者は大砲小銃の訓練に従事する規定であった。しかし同年一二月一五日、士卒の常備兵を解隊して兵器を軍務局へ納めさせた(宇和島藩日記)。
吉田藩は文久三年にオランダ式を採用したが、慶応二年には銃隊はイギリス式、砲隊はオランダ式とした。明治二年三月五日、従来の赤・黒・中の三隊の称を廃し、銃隊一大隊(隊伍は随時編成)と砲隊を編成し、六月には予備隊を置いた。版籍奉還後は軍務局を設けて陸軍・器械・製薬の三課を置き、知事・司事・大隊長・大小銃隊司令土以下の役職を置いた。翌三年からは兵を縮小精選し、七月には一小隊を残して他は砲隊と共に解兵、翌四年二月には最後の兵制改革によりフランス式とした。
大洲・新谷藩
大洲藩は、幕末に藩士を江川太郎左衛門下に入門させて洋式練兵を研究した。文久三年一月、侍講の武田亀五郎敬孝は、藩の資金及び兵員不足の解決策として農兵取り立てを建言した。その趣旨は納銀に応じて帯刀を許しその金は船砲購入に充てる、百姓町人に武器を与えて武術稽古を許可する、銀納がなくても人材の者は参加させるなどであった。これによって三月八日、町郷へ「郷筒」の名で募集し、希望者には鉄砲と帯刀を許した。四月二日に領内庄屋へ鉄砲一三二挺を配布した。五月ころの農兵は三〇〇人内外の人数であったと推定される。稽古は六月から行われたが、同月フランス船が長浜沖に停泊して薪水を要求したのに対して全く対処出来ぬ狼狽ぶりと、朝廷から藩主加藤泰祉に下った「帰国海防令」で、出動もあり得る状勢となったため、この農兵を軍役夫~準足軽として再編する必要に迫られた。
同年六月、村高一〇〇石に三歩五厘を掛けて領内から一、四四四人(本夫三九四人、平夫一、〇五〇人)の動員を計画した。新谷藩も大洲藩と同様の動きをみせたが同月、郷筒の他に一人一貫目の献銀と、出動中の二人扶持給付を条件に郷組(農民鉄砲隊)を組織した。慶応元年四月、大洲藩も郷足軽隊の他に四〇歳以下の者で城下近村から選んだゲベール隊一二四名を編成し、このうち一隊が新選隊として入京し、京都の守衛に当たった。
大洲藩は慶応三年一二月にオランダ式の兵制としたが、翌年三月これをフランス式に改めた。しかし九月に天皇行幸の先駆の命をうけて急拠イギリス式に変更した(玉井家文書)。同年三月、郡中付近の警備のため「保国隊」を組織した。兵員は初め九〇人前後であったが順次強化して六月には一五二人(四隊と庄屋隊)、九月には四九〇人の大部隊となり、一一月には綱紀粛正のため喧嘩口論・徒党の禁など軍律八か条を制定した。行幸の際の軍務改革により、保国隊も本藩兵中の一隊として取り立てることになり、「郡中隊」と改称した。
ついで明治二年五月七日には本藩を四隊編成とし、一五歳以上の者は二、三男も含めてすべて軍務主事に届け、入隊するものとした。明治三年ごろは農兵のうち精銃隊員が特に領内の警備に当たっている。同四年三月からは再びフランス式に変更し、七月には伍長以下の下級兵士へ帽子・靴などを支給した。しかし、廃藩後は順次除隊させ、明治五年二月一九日に解兵が完了した。