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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

四 藩学の改革

藩学の変化

 藩学設立の目的は、朱子学による身分秩序の維持と強化にあり、士分のためのものであって卒や庶民は入学できなかった。しかし幕末には卒や豪農層へも門戸を拡大し、教養や知識技術の習得も重要と考えるようになった。従来の漢学と武術一本から皇学・算術・医学・洋学・兵学なども行われるようになり、年令や進度に応じた等級制が一般的となったため、教授陣の強化や増築が行われた。また城下にも私塾や寺子屋の開設を藩が奨励し、藩学では指導しない手習には士族も通ったので、多少の士庶共学が行われた。
 藩制の改革は藩学への影響も強く、人材教育は国家の大道として、藩学の改革や洋学等の導入が全国的に流行したが、伊予では少し遅れた。宇和島藩では蘭学研究が盛んで蘭学修業場を設げ、藩士を長崎や大坂に留学させた。しかしこれは軍事面での研究で、藩学の課目として洋学を加えるのは松山藩と共に明治以降である。また慶応以前に国学・和学を採用したのは大洲・吉田藩のみである。等級については松山藩の場合、文政一一年(一八二八)の明教館創設当初から、家格や身分によらず小学では五等級、大学では二等級の学力により教育を行っていた。

藩学の拡充

 松山藩明教館では明治二年一〇月に皇学・漢学・洋学・医学を置き督学・総教・司教・助教以下二一人の職員を配した。稲垣銀次・秋山恒太郎ら四人の洋学教師も含まれており、英文典や地理学・史学なども研究された。庶民にも入学を許したが、翌年一〇月の学制改革によって数学を加えて五科とし、小学部は小学校と改称して八歳以上の士庶を入学させた。新谷藩では明治二年九月に求道軒を求道館と改称し、翌年一月校則を二か条増補して一一か条とした。同月の職員は九人、生徒は八〇人(うち寄留二〇人)であった。西条藩択善堂では明治三年時の職員は学頭・教授兼大舎長以下一七人、生徒二〇〇人(うち寄宿生二〇人)、官費支給生一〇人であった。
 今治藩では慶応二年に克明館校舎を拡張し、明治二年一一月一一日には学制を改革し和学・漢学・洋学・筆学・算学の五課を置いた。洋学助教は前神醇、皇学助教は半井梧奄であった。また「藩学規」により教育の目的を人材育成とし、「学則」で庶民の藩学入学の道を開いたが、まだ政治の得失や役人の当否、非違等を論ずる事は禁じられていた。ただ他に「寄宿寮規則」八か条を定め、職員は文政五年に手伝を含めた一二人から、教授・助教・訓導(人数不明)、句読司以下一八入以上と拡充している。生徒数は約二〇〇人であった。
 宇和島藩では明治元年六月の校則改正によって洋学を開設し、翌年一〇月一二日の改革でぱ卒や市郷の者にも入学・寄宿を認めた。七・八歳で復習寮に出席して句読・習字を習い一五歳で培寮、二〇歳で達寮と進む。明治三年二月学制改革によって校則・寄宿寮則を整備し、職名も教頭が教長、佐教が教授などと改正された。明治元年六月には教授以下一四人、生徒二五〇人であったが、明治三年では二三人以上、生徒は一六○人となっている。同年七月復習寮を童学寮と改称して掛り役名も改正し、翌年一月二日に医学寮を開設して、卒以上の入学を認めた。吉田藩でも明治二年一一月晦日に藩校を新築し、時観堂を文武館と改称し句読・習字の二科をおき、八歳以上の庶民の入学も許した。同年九月の職員構成は督学・教授・監学司・教頭・訓導・司読・助勤・補教で総員二四人であった。

庶民の教育

 庶民の教育への要求は、伊予では安政以降とみに高まって寺子屋が急速に普及し、より高度な漢学塾も増加した。また教化策は藩の立場からも農兵の採用や開化政策の展開上必要なことであった。しかし藩学への入学は認めたものの士族のように強制ではなく、身分制の強い当時では士庶の共学は考えにくい。松山藩では天保年間に農商や婦人のために藩立の「六行舎」を建設して心学を講じ、更に村々を巡回した。この心学の道話による庶民教育は大洲・今治藩も熱心であった。卒族の子弟のためには宇和島藩は安政三年藩学を増築し、大洲藩は慶応元年に錦絢舎を建設した。小松藩でも明治三年に養正館の分校緑竹舎を経営し、士庶共学の道を開いた。
 今治藩は明治二年五月、領内を三分して越智郡法界寺村に越智郡、城下寺町松厳院跡に今治、宇摩郡三島村に宇摩郡の各郷学校を設立した。同月二四日の告諭によると人たる者は忠孝の道を常々心掛け、耕作・商売などその職分に励むべきである、しかし風儀悪く心得違いの者もいて人の害となり、己れの欲のままに生き飲食にふけるのは鳥獣にも劣る所業で、人として恥すべきことである、今般郷学を開いたので職の隙に必ず入ること、特に成績優秀の者は士分に取り立てるとある。またその教授には渡辺渉や丹下量平ら藩校克明館に勤める一流の学者を充てた。教科は句読・手習のほか漢学や数学も取り入れ、郷学も修了した一五歳以上の者で、試験に合格すると藩校へ入学できた。廃藩後は藩校と合わせて今治県学校となった(浮穴家文書)。
 宇和島領では明治二年二月ころ、卯之町に有志十余人が私塾申義堂を設立したが、翌年三月藩の助力により郷学となった。二年七月二二日、八幡浜浦の有志も矢野・保内両郷の衆力を集めて郷学の建設を藩へ上申した。藩でも藩校が士卒多人数のため翌年三月「郷学規則」を制定して郷学の設立を積極的に進め、成績優秀の者は考試の上藩校への入学を許可するとした。同年一一月、八幡浜魚屋半七からの願出見積書のうち新長局・培英場・食堂浴室・演武場・練り堀・井戸の計二三七貫余が許可となり、講堂・柔術場・門・撃剣場の計五六三貫分か次年への繰越となった(宇和島藩日誌)。明治四年四月二五日、改革により八幡浜・宇和へ派遣の教官を引揚げ、「学制」によって明治五年八月に両学とも廃校となった。