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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

二 諸藩の藩政改革①

奉還後の藩政改革

 版籍奉還後は、藩主らの期待に反して版土の再交付は無く、藩は府県同様の一行政区画となった。藩主は知藩事には任命されたが政府から家禄を支給される地方官にすぎず、非世襲となった。藩政と家政は分離され、邸宅・山林等についても公私が区分され、菩提寺も藩主の手を離れた。公卿・諸侯の称は廃されて華族となり、六月二五日の「藩知事家禄の制」によって知藩事には旧藩歳入の一割が給されることになった。家臣も家禄は給されるがそれは政府からの支給であり、大名との主従関係は消滅した。家格制も廃されて士・卒族に二分され、こうして幕藩体制の根幹が崩れ去った。
 奉還後は、藩制は更に改革され、画一化された。知藩事は帰国して職務遂行を命じられ多忙を極めたが、その藩邸は奉還された藩の役所であった。改革の内容は行政だげでなく兵事・教育・禄制など先の藩治職制を越える多面的なものであった。ただこの期の改革も、制度や名称の目まぐるしい変更に終始した感があり、村段階の支配組織は旧態のままで、かえって庄屋・組頭らの取り締まり権の強化によって諸制度の改正が平穏に行われたともいえる。禄制改革では士卒の俸禄がより削減され、その解体もある程度進行した。
 奉還勅許後の七月八日、「職員令」により知事以下大参事・権大参事・少参事らの要職が各藩画一的におかれ、官位の格付けがなされた。行政機構は郡政・会計・軍務・司法などの局制によって政務を分担し、各局では大属・少属・あるいは主事・判事・史生らが実務を担当した。また同月二七日には「府県奉職規則」により、民政の基本理念が指示された。なお知藩事ぱ七月八日より藩知事と改称された。
 明治三年九月一〇日、藩政期最後の改革「藩制」が公布された。これは廃藩置県の前提として職制・財政支出禄制などを大きく変革するもので、その要点は①大参事以下権大参事・少参事・権少参事から史生・使部に至る職制を一定とし、②藩費の使途を規制し一〇分の一の知藩事家禄を差し引いた残りの一〇分の一を軍事費とし、その半分を政府に納入する、一〇分の九を藩庁費や士卒の禄とする、③藩債処理を義務づけ支払年限を定める、などである。藩札の発行は前年の一二月五日に禁止しており、これも藩財政の主体性を否定しようとしたためである。士卒の家禄は更に削減されて生活費にも程遠いものとなり、藩庁依存の心が次第に薄くなった。
 なお、藩制により一五万石以上を大藩、五万石以上中藩、以下を小藩と三分した。官禄は各藩の実情にまかぜ、士卒の級は設けてはならないとした(『法令全書』)。

松山藩の改革

 明治二年六月一八目、参朝した久松勝成は、右大臣三条実美から松山藩知藩事に任じられた。勝成は東京市中取り締まりに当たっていたが七月二六日、横浜から蒸気船で神戸へ、神戸からは傭船で八月四日帰国し、同日立庁、執政・参政を廃して大参事に菅淳一郎良弼、竹内九郎兵衛らを任じ、直ちに改革に着手した。そして九月二六日、先の「藩治職制」を廃して大改革が発表された。まず政務は民政・会計など六部門に分かれた藩政局と学校・兵政・公務方・家政寮に五分された。各局は大参事・権大参事以下に統卒され、官職相当の官禄が給されるなど官僚機構がかなり整備されている点、軍務局が兵政局となり極めて詳細である点などが特色である。
 九月二八日、久松定昭も政務復帰が許され、一〇月七日には叙爵されたので返礼のため東京へ出発した。翌明治三年三月、先の職制を一部改正して民政・会計・刑法の三司を局に格上げし、民政局の下に治農司と治市司を置いた。等級は六等を八等級に細分した。ついで閏一〇月一六日、政府の「藩制」改革に従い大改革を行った。これは封建の遺制をつとめて除くため秩禄官級等を全て廃し、士卒一同の大半を非役とするもので、この時卒族二、四二八人が廃止された。大参事には権大参事の鈴木重遠が昇格し、権大参事に藤野立馬・少参事に小林舎、長屋儀一郎が任じられた。藩庁は庶務監察以下六課に区分され、各部に大少属・主簿・使部などを配し、等級は更に細分された。同時に発表の「改正諸規則」により士族への命令布告は城東・城西・城南・城北と四分して伝達することとした。政府の指令に基づき、弁事役所に届けた藩庁の予算案は表八-18の通りである。
 改革直後の閏一〇月二五日、三ノ丸会計局から出火して藩邸も類焼したため藩庁を二ノ丸に移し、一二月中旬には新邸が建築された。同月勝成が病のため隠居を出願し、翌四年一月一四日許可となり定昭が知藩事となった。なお明治三年一一月、士族の犯罪に対する刑罰の基準のため「士族刑典」の法を定めた。一二月には治農・治市課を合わせて租税課とした。

大洲・新谷藩

 大洲藩では六月一九日に加藤泰秋が藩知事となって八月九日開庁、大参事山本尚徳以下を任命した。同年一二月に大参事大橋重之・中村俊夫、権大参事山本真弓・口分田梓、権少参事に滝野佐脚・山路俟斉・菅八鍼らが任じられた(大洲市岡田家文書)。新谷藩知事加藤泰令は八月七日赴任して即日立庁し、藩士を集めて不徳の身に余る大任で苦慮している、意見あれば各自申し出、よろしく協力を頼む、大変革に及ぶので一統も迷惑であろうが覚悟を頼むと挨拶した。ついで大参事に徳田儀一・加藤弘人、権大参事三橋肇以下少参事一、大属三、権少属二、史生兼庁掌二が任命された。藩士側でも八月一四日給人二八人が連署し、禄をどれ程減少されたとしても誠心奉公する旨を誓った。
 新谷藩庁は政事堂と改称され、領内は御支配地と呼ばれた。部局には会計・軍務などが置かれ、青木園生を議長とし河村円蔵・藤田彦七ら一〇人の議員の合議によって藩政への意見を建言した。すでに七月二七日には庄屋を集めて心得を示したが、重ねて領内の調査を命じ領民の静穏に意を用いた。藩の重臣香渡晋は、任用の定まっていた陸中国登米県の大参事を断り、新谷藩会計主事となって財政処理に努力し、翌年九月に少参事、四年五月には権大参事となった(新谷藩庁日誌)。
 大洲藩は明治二年九月二日、新谷藩は九月九日に分階職制を改定し士族を上中下、卒族を上中下軽の七区分とし、職員等級を六区分した。新谷藩では明治三年六月六日に官禄の制を改定したが余りにも少額のため、同年閏一〇月二六日、二~三倍に増額した。同藩は財政窮乏のため安政六年(一八五九)~万延元年(一八六〇)の間に大洲藩から新銀札五九〇貫を借用し、明治二年が返納期限であったが香渡晋は同三年五月、これを一〇年賦に返還猶予を交渉した。明治三年更に軍資金納入や藩債の支消に苦慮し、同年一〇月に知事家禄及び諸役料を二割引き下げ、士卒両族の俸米を一割減らした。閏一〇月軽卒を廃止し、一二月一二日士卒とも上中下の等級を廃して士族卒の二等とした(新谷藩庁日誌)。明治四年一月一五日、「服制」を定め従来の陣羽織、とんび羽織を廃し、非常の折は筒袖袴タンフクロとした。兵士は従来のジャケツのままである。
 大洲藩でも明治二年九月二日分階職制を改正し、一一月には士・卒の郷居を許し節倹を命じた。衣服や婦人の髪飾りも百姓同様の厳しさであった。家禄も極めて低いものであり、翌年末に増額したものの藩債償却のため士族は約一割、卒族は数歩を差し引いた。藩庁を惣政局と改称し刑法・民政局などの局制とした。明治三年六月民政局に勧農・租税・通商・水土の分課を置き、月番制で政務を担当した。七月に旧称の藩庁に復し、一二月局を懸と改め伝達・監察・民事・会計・刑法・営繕の六懸とし、その下に大少属、史生等を配置した。
 明治三年四月、藩知事泰秋は権大参事以下三一人を率いて領内・替地を回領した。泰秋は一〇月には積年の維新政府への功により二等特進して四位となり、領内の庄屋は歓びのため民政局に集合した。同年九月中断していた囲籾の制を復活した。翌年一月に領内を内山・南・川・小田の四筋に分けて治方掛りを定め、同月藩庁内若党の定員を正権大参事は六人、少参事四人、正権大属は三人とした。同年三月、領内の通行人・旅人等は城下や郡中・長浜など九か所の番所で交付する通行証を携帯するものとしたが、五月領民の城郭東・西・裏三門の通行は昼夜とも自由とした(満野家文書)。

宇和島藩の改革

 薩長ら四藩の建白の事情を察した伊達宗城は、藩主宗徳にすすめて四月二五日奉還の建白を行った。八月一八日帰城した宗徳は上甲貞一・須藤旦を大参事、告森周蔵・中臣次郎ら三人を権大参事、大西登・笠原恕道ら四人を少参事、粟野左門・滝本多津馬ら七人を権少参事に任命した(「宇和島藩願伺届」)。ついで九月三日に職制を改革したが、これは先の五月一三日のものとほぼ同様で、政庁に公用寮・民政局など二寮四局一館を設置した。衆議院は先の衆議所を改称したもので、世論を聞き衆議を尽くす役所であった。その構成は議長以下上士六人、中士五人、下士五人、軽卒八人で、月一回の常会と不定期の会合があり、百姓町人が訴箱に投じた訴状も議題となった。士卒は八等級である。
 なお役禄は大参事五〇〇石、権大参事三五〇石、少参事二〇〇石、権少参事一三〇石と極めて高い。政庁職員には中下土層が任じられた。また宗城は、九月一四日に政府の民部卿兼大蔵卿に任じられた。
 同藩では一揆の多発した明治二年の一一月一五日から一二月五日の間に、大参事以下多くの役職が交替した。また明治三年八月三日には冗費を省くためとして城櫓・外郭・無用の堀塀などの取り壊しを弁官中に伺い許可された。一〇月八日政庁を居間書院へ移し、一一月には公用寮・民政局及び士卒の等級を廃し、権大参事以下の役職員を交替した。「藩制」公布によっては明治四年二月一五日、衆議院・監察寮などを廃し職制を改正した。宗城は同年五月一七日、欽差全権大使として清国に赴いた。

吉田藩の改革

 明治二年六月一五日、吉田藩は宇和島藩にならって職制を改革し、政庁以下衆議所・民政局・会計局・軍務局・文武館・家制を置いた。職員の階級は六等に、兵士士族は六等一〇級の制(一・四等無級、二・五等二級、三・六等三級)により一二等級に区分された。政庁は従来の御用場、会計局は御勘定所、営繕癖は御作事場、租税廨は御蔵の改称である。
 版籍奉還によって家老飯淵縫殿、荻野矢治馬以下重臣の者は、七月二一日に御役御免の伺書を提出した。新職員の人選については同月二三日士族は議事局へ、市郷の庶人は訴箱へ適任者を書き出す指示があった。宗敬と改名した藩知事伊達宗孝は、八月一八日に帰国して即日立庁した。九月五日の職制改革によって郷六衛門が大参事荻野彦六郎が権大参事となったが一九日には大参事代に荻野矢治馬、権大参事代に郷六衛門・飯淵縫殿、三等伝事桜田右衛門らが就任している。藩制は、神務職と糺弾局を新設したほかは六月のままであった(『吉田藩政庁日誌』)。
 明治二年一二月、政庁は文武に力を入れること、私欲を慎み節倹につとめること、縁組みは分限をわきまえること、など一一〇か条に及ぶ藩士の心得を布告した。同庁への勤務は朝五半時の出仕で御用始めは正月一一日、御用仕終いは一二月二五日であった。休日は四節句八朔と毎月三・六・九の日、盆の七月一三日~一五日、九月一四・一五・二二日であった(吉田藩政庁日誌)。宇和島藩ではこの他神武(三月一一日)・仁孝(一月二六日)・孝明(一二月二五日)の各天皇忌や住吉・和霊・一宮など五社の祭礼日も休暇としている。明治三年四月二八日にも職制を改革したが、神務職以下の局構成はそのままで、下部役職の名称が変更された。同年八月一日に給禄改正し、一一月一二日には等級を廃して士卒の二等のみとし、下役を改廃した。非役の卒は東西南北の四組に分げて支配し、一一月三〇日の禄制改革では官禄を得る者は素禄なしとし、四〇俵以上の者を減額した。

小松・西条藩

 小松藩では六月二四日に一柳頼紹が藩知事に任じられたが、赴任することなく八月五日東京で没したため、嫡子の頼明か一二歳で家督を継ぎ、一二月七日藩知事となった。同時に大参事喜多川鉄太郎久徴、権大参事一柳健之助以下も任命された。知事の来任は翌三年の一月一五日である(小松藩紀)。
 藩政改革は明治二年一〇月一日に行われ、藩政所・学問所・講武所・軍防所・家政が置かれた。藩政所には大少参事がいて監察・会計・営繕・民政・市政・社寺等の諸掛を統轄した。官禄は大参事四〇俵、権大参事・公議人三五俵、少参事・文武総括・隊長三〇俵以下五人口の逮捕長・民政掛・社寺掛など九等級である。士卒は既に連署して家禄返還を決していたが、同年七月改めて八等に区分された(表八-27)。「藩制」の改革令によって上京中の一柳権大参事は、明治三年一〇月二二日に帰藩を命じられ、改革の中核となった。
 西条藩では松平頼英が知藩事となり、八月二二日赴任して九月二四日に開庁した。執政・参政の職を廃し大参事吉岡正忠以下を任命した。職制は政庁以下神祇・軍務・育英・刑法・民事・会計の六局を置き、その下部に外局として附属司外をおくなど、八藩中でも最も整った形である。しかし余りに複雑で多岐に亘るためか、翌三年閏一〇月一八日の改革により藩庁・会計局・軍務局・学校に統合した。
 役禄は、明治元年九月一六日に米に替えて役金とし執政・大隊長一八〇両、参政・軍事奉行等七五両などとしたが、翌年九月二四日米に復した。町方・在方の相互の身分の格についても改正があり、町・在とも郷士・平郷士・郷士格の悴と二三男迄は帯刀御免とし、町方の大年寄は悴とも苗字帯刀御免、大庄屋格は悴とも帯刀御免、御用達・同格は苗字帯刀御免、在方の大庄屋・同格・御用達の悴は帯刀御免とした。

今治藩の改革

 今治藩主久松定法は、三月二七日松山藩主勝成と共にアメリカ船で三津を発ち、四月二日品川沖へ到着し、六月二〇日参朝して知藩事に任命された。八月九日帰国して改革策をねり、一一月八日には大参事に久松監物長世、権大参事久松修理長翼、少参事多却武五郎、大隊長服部和泉正弘、家全戸塚求馬政輝らが就任した。一一日には士族を総登城させ、自分の藩知事の任命や一同の士族の仰せ付けは望外の喜びである、秩禄一定の規律は門地や祖先以来の旧功に対し大変気の毒ではあるが、旧習や私情を捨て協力して職掌に当たるようにと訓示した。同席で役職が発表され、一四日には卒一同が登城し、大参事から告諭をうけて各課への配属が発表された。既に一〇月、城郭や城内外の松並木を伐採して水田化を図るなど、定法の訓示や施政は彼の開化の思想をよく示している(『今治拾遺』)。
 士族は既に上・下士に二分し減石していたが、慶応三年二月これを三分し、下士を増石して平均二〇石二斗五升余とし、登用には人材第一主義を布告した。明治三年二月一七日には六級に改正したが同年閏一〇月四区分とし、卒族は二分された。官禄者へは家禄は給さず、家禄が役禄に充たぬ者へは役補として五俵を給した。

表八-14 松山藩職制及び職掌表(主要部分)明治2年9月26日

表八-14 松山藩職制及び職掌表(主要部分)明治2年9月26日


表八-15 松山藩職掌等級表

表八-15 松山藩職掌等級表


表八-16 松山藩官禄表

表八-16 松山藩官禄表


表8-17 松山藩改正歳出分賦

表8-17 松山藩改正歳出分賦


表八-18 松山藩「藩制」改革表

表八-18 松山藩「藩制」改革表


表八-19 大洲・新谷藩の職務等級表

表八-19 大洲・新谷藩の職務等級表


表八-20 新谷藩の官禄

表八-20 新谷藩の官禄


表八-21 大洲藩の家禄

表八-21 大洲藩の家禄


表八-22 大洲藩の官位相当表

表八-22 大洲藩の官位相当表


表八-23 宇和島藩の職制

表八-23 宇和島藩の職制