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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

一 版籍奉還

政局の動き

 政体書の発布や明治改元、戊辰戦争の圧勝などは維新政府の実力と新時代の到来を示したが、より中央集権化・近代化を進めるにはまだ難問が山積していた。幕府は廃止されたが、藩と武士階級はそのままであり、庶民は貧困と激しく転換する社会への不安から騒擾や世直しの一揆を起こしていた。
 この時期の政府財源は旧幕領からの年貢と御用金・太政官札などで弱体であった。慶応四年閏四月、金札の流通と商品流通把握のため政府は商法司を置いたがうまくゆかなかった。翌年二月には貿易の管理を加えて通商司とし、主要都市には為替会社・通商会社を設置し、豪商や大地主・金融業者を再編成し、流通を握らんとした。諸藩も又諸改革や戦費に加え、藩士以外に多くの農兵を抱えて、その財政は破綻状態が一般的であった。
 明治二年に入ると、政府は藩治職制に続く版籍奉還を企画しその準備を行った。二月五日、藩論を一定とし朝権を確立するため議事の制を立てることを各府藩に布告し、三月七日諸藩の公議人を集めて公議所を開院した。そこでは廃刀や租税問題を協議した。五月一三日には政体書による上下二局の議政官を廃して上下両局を開設した。上局は皇・公・侯らの特権身分で、二一日の会議では皇道興隆、知藩事新設、蝦夷開拓などを議した。下局は各藩の意向を代表する貢士から成っていた。
 旧幕領の府県を管轄するためには四月八日民部官を設置し、全国の治安維持のため五月二二日弾正台を復活させた。版籍奉還後の明治二年七月八日、集権化の体制に合わせて官制を改革し、神祇官と太政官の下に民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の六省と開拓使・集議院などを設置した(二宮六省の制)。

版籍奉還

 伊藤俊輔(博文)は戊辰戦争のころから集権化の実をあげるには廃藩を不可欠と考えていた。藩治職制制定直後の明治元年一一月、内紛から姫路藩主酒井忠邦が版籍の返上を願ったのを機に、伊藤はこれを全藩に及ぼそうとした。そして翌年一月兵権・政権を朝廷に返上させる「国是綱目」を政府に提出した。廃藩については木戸・大久保らも同意見であったが、一挙に全藩は無理として前年の九月一八日に、木戸の「版籍建白書」を基として両者の意見の一致を見、まず有力諸藩から奉還する方向に進んだ。
 明治二年一月二〇日、薩長土肥四藩主は連署して自藩の土地人民の奉還を上表し、二三日にこれを公表すると各藩もこれに従った。宇和島旧藩主の伊達宗城は、四藩主の上表直後長州藩の参政野村右仲に会って版籍奉還の真意を糺した。右仲は諸侯は徳川を倒したことで安心している、三百年来の諸藩の旧条は改革し難く、大藩がそのままでは後々別の徳川が生じ、王政を妨げるかもしれない、土地人民を差し上げ、府県制へ移行する間、ひとまず朝廷から御預けの命を出せば私有の名目も改まり、人心も一変し政令も徹底する礎となろう、と答えている(宇和島藩維新史料)。
 各藩の版籍奉還の上表は、六月一七日から二五日の間に受理された。伊予では今治藩か早く、二月七日付で弁事役所に提出した。その上書によると朝政復古に際し感激懇迫の至りに堪えず、寸分の微効を奉りたいと考えていたところ四藩の建白の布告をしり、欣躍奮励の至りである、公平正大の盛挙を行い皇威を海外に輝かせるため、謹んで土地人民を奉還する、と述べている。これに対し朝廷からは忠誠の志深く叡感思し召された、東京再幸の上、会議を経て何分の沙汰をする、との仰せがあった。同藩の奉呈は二六〇余藩中一三番目であった。

四国会議

 四国会議は、維新政府内で薩長勢力に対抗して発言力を強化しようとする土佐藩によって企画された、四国一三藩の連盟組織である。明治二年四月一〇日丸亀で、各藩代表の公議人(周旋方代議人)により第一回会議を開き、二回以降は会場を琴平に固定したため金陵会議ともいう。毎月一〇日の例会と、藩の重役も出席する春秋二回の大会議があった。維新の混乱期に、四国の諸藩が一致して友好を結ぶことは四国にとって有利であり、決議事項は政府にも建白された。東北や中国地方の諸藩からも見学者が訪れるなど、関心を呼んだことは確かである。
 提唱者の一人谷干城(高知)は、全国の内乱を予想して四国連合の意図をもっていたが、四国会議については片岡健吉(高知)ら五人の連名で諸藩に協力を要請した。伊予への使者は松下興膳綱武と前野敬次郎長順で、二年二月一七日まず宇和島に入り、藩主より賛意を得た。二〇日吉田藩も同意、二一日議論の末大洲藩も同意、二三日新谷藩同意、二四日松山に入ったが、同地では大監察河東権之丞・白河築右衛門らが対談して二九日に賛同を得、二七日今治、二九日小松・西条藩の同意で八藩全ての参加が約束された。第一回会議では朝旨の遵守、各藩公議人の琴平駐在などを決した。第一回大会議は同年の一〇月六日から一六、七日間行われた。その後会議での議題は常備兵の設置(三年四月)、廃刀論(三年五月)、海賊取り締まり=取締出張所と取締人を大洲藩三か所、吉田藩二か所など四国に二〇か所を置く(三年八月)、=などで、廃藩置県や別子銅山の繁栄策、水論、境界論も話題となった。諸藩の間で盛んに情報交換を行うほか剣術・槍術・経学などの修業、講習で藩士の交流も行われた。
 しかし明治三年六月、徳島藩の某事件で会議は紛糾(「新谷藩庁日誌」)、翌月二四日に高知藩も会議が金銭を浪費し国政に益する所なしと、藩の財政難を理由に解散案を提出した。居合わせた大洲・吉田藩は反対、翌日の会では今治・松山・西条藩は欠席したが、出席の全藩は廃止に反対し激しい議論が行われた。しかし版籍奉還後の中央集権への動きや議院の設置でその存在意義はうすれ、政府も八月二八日に解散命令を出した。結局九月二三日の大会議を最後に解散したが、今治藩少参事池上邦五郎は二〇日夜切腹、玉井八弥も帰藩後自刃するなど幾つかの謎を残した。

表八-12 伊予諸藩の版籍奉還建白

表八-12 伊予諸藩の版籍奉還建白


表八-13 四国金陵会議への出席者(一・四回中心)

表八-13 四国金陵会議への出席者(一・四回中心)