データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)
五 領民の負担と動揺
献金・借入金の増加
ペリーの来航以来各藩ともに海防や軍事力の強化、出兵費や負担金などの出費が相い次ぎ、藩財政はほとんど破綻状態であった。上方や領内豪商からの借入金も底をつき、領内の新興商人や豪農層からの借入れが益々増加した。松山藩では安政七年(一八六〇)以降少なくとも九回の借入れがあるが、この外にも豪農・豪商への献金の要請があった。
表八-6で文久三年(一八六三)二月の金物類の提供命令は、同時に金物類の他所売りを禁じるもので、これは他藩も同様であった。今治藩ではまず家中及び郷町の煙管・鎌鍬の切れなど古金を、ついで火鉢・燭台など金属製の物を集めた。風早郡神田村では古鉄・鍋釜など五貫四六七匁、銭札九九五匁を献納し、同時に百姓二軒が銭札各一貫匁を献金して瓦葺を願っている(「松山藩幕末維新政情関係史料」)。明治元年一〇年、藩は調達金の返還期日延期を願い出る者を募集したが、同村及び同郡中村では一人もなく、一二月に当年分の利息の支払いをうけている。なお献金奨励のため高利を付したり、献金高に応じて格式を与えることも一般に行われ、村内で庄屋格・士分格や農兵が増加することは身分制度の崩壊の一因ともなった。西条藩では明治二年一二月、領内から一万一、〇九四両と銭九〇〇匁を集め、苗字帯刀庄屋格裃御免の者が一三八名もいた(大生院高橋家文書)。
今治藩でも文久三年二月、外国船防禦手当として銅器・梵鐘・軍用金を徴発したが、この時全領内の婦人に木綿四反を上納させ、その販売代金を藩費とした。元治元年(一八六八)八月の長州征討では豪商樽屋・丹波屋が各千両を献金した。同年一二月、藩が中心となって繁栄講を組織し、一口二両二分(四、〇〇〇口で一万両)の出費を元金として利殖を図ったのも異色である(『今治拾遺』)。戊辰戦争以降の財政窮乏により出金を郷中に依頼し、庄屋三〇両、組頭一〇両、長百姓一両を目処に募金したが、この時借入れでなく即座に献上を申出た者は城中へ招かれて酒肴を頂戴した(大浜柳原家文書)。
夫役の負担
幕末に、特に農村を疲弊させた原因の一つは、労役の負担であった。その最大のものは兵役で、長州出兵や戊辰戦争による農兵の徴発や、兵制の改革に伴う西洋銃隊への取り立てと訓練などである。また出動に伴う輸送のための夫役、水主や船舶の徴発、砲台の建設、海岸巡視などの負担もあった。各藩とも郷夫等は一五~五〇歳の強健な者を選び、その者が病気や負傷の際には代人が必要であった。
松山藩では人数確保のため元治元年一〇月、村人の城下や他郡への奉公を禁じ、社人も兵に取り立てた。風早郡中通村の場合、病気として郷夫役やその訓練の免除を願う者が四五名もおり、二度の長州征討でも逃げ帰った者がいだことを記している(「松山藩幕末維新政情関係史料」)。今治藩では文久三年三月の砲台四座築造に当たり、藩士以下全領民の一八~五〇歳の男子全員を動員し、三月八日から一五日間の作業をさせた。元治元年一一月の長州征討では各村に一〇人ずつの郷友を割当て、六か月交替で合計五八丘人と船五三艘を徴発した。
物価の騰貴
開港や戦乱、藩札や金札など紙幣の乱発と幣制混乱、凶作などに加えて幕末の不穏の世相が相乗されて物価が騰費し、家中百姓を問わず困窮者が増加した。各藩とも度々農事出精々節倹を布告したが、松山藩では長州出兵の敗戦で領民の動揺する慶応二年七、八月には特に多くの布告を発して説諭にもつとめた。七月二三日騒動の発生を恐れて郡役人・酒造家・銀貸商などを代官所や城下に集め、利欲に迷い不当な暴利を取らぬよう注意し、二六日には預領三〇か村にも同様の指示を行った。穀類や酒の村外移出も禁じたが、景気づけに祭礼の神輿を許可した。八月には重ねて商人の暴利禁止の布告を行った。しかしその効果もなく、八月二四日には風早郡一二か村の百姓らが、城下に嘆願のため村出する風早一揆が起きた。彼等の要求は郷夫・水夫への扶持米の支給、砲台築方出夫の賃銭支給、借米など七か条であった(「松山藩幕末維新政情関係史料」)。
慶応三年三月一日、宇和島藩主伊達宗徳は藩士一同に、入費の急増と去秋の凶作の減収のため軍備や窮民の扶助も行届かないと、今後ともいっそうの勘弁と精勤を命じた。続いて御用番より物価沸騰で江戸屋敷仕送り、京摂行用途も嵩む一方で、自他ともに今日の御規合も立たぬ有様と重ねている(龍山公記)。同年二月新谷藩では銀一貫目と五百目の高額札を発行して高物価に対処しようとした(『塩屋記録』)。また、新居郡喜光地西組では多年日待・月待の行事を続けているが、供物や米・酒・豆腐・油など定量の買物に安政三、四年は一四匁余であったものが慶応二年三八匁六分、同三年五二匁八分、明治二年七一匁七分を要している(「西組買物帳」)。
明治二年は前年に続く気候不順で、麦作の不作に加え米も大旱に続く雨天続きで数十年来の凶作となった。松山藩では同年三月ころから城下や他郡へ袖乞いに出る者が多く、藩では村役人に取り締まりを要請した。四月中旬には物価高騰で困窮者が溢れて藩の手に余り、富裕の者に救助方を要請した。八月の祭礼では親兄弟でも客の出入りを禁じて神祭のみとし、米穀等の値上げや他所売りを厳重に取り締まった(『湯之山村編年史料』)。
今治藩でも細民は米糠・麦糟から藁までも食う状態であった(国府叢書)。明治二年二月、田畑の売買については藩が価格を押さえ、小前の者が買い戻す時は昨冬の一割下値で売るよう命じている。翌年三月同藩では飢人に粥を給したが、扶助を受ける間は義理にも人並みの暮らしをしてはならぬと畳や金属の鍋釜・下駄・足袋などの使用を禁じた。また給付中は白の木綿切れを上着の左襟へ縫付けておき、飢扶持を離れて平人に復したら庄屋に切れを返すようにした(大浜柳原家文書)。
村方騒動の多発
近世の百姓一揆は維新期に最も集中しており、特に長州征討の慶応二年と凶作・版籍奉還の明治二年がその頂点となっている。前者では江戸や大坂で激しい打壊しが行われて幕府の土台をゆるがし、後者では富山・長野・新潟などで年貢減免の大蜂起があった。伊予では少し遅れて野村騒動を中心とする明治三年が激しかった。一揆勢の要求は「御一新」をロにし、「世直し」を旗印とし、新政に期待して年貢減免や村役人層の交替を要求し、物価の値上りや商人の買占めに反対した。また貧農が中心で暴動を伴うのが特色であった。しかし御一新が自分達の期待に反することを感じると、新政府への反対の一揆も起こした。明治二年一月の横井小楠や九月の大村益次郎の暗殺事件なども時勢の風潮を示している。
この期の伊予の騒動は南予に多く、要求の対象が直接の支配者である庄屋と組頭や、生活苦の原因である豪商に集中する特色をみせた。
慶応二年七月の大洲領大瀬村百姓らの打壊しは奥福騒動と呼ばれ、百姓福五郎や神職立花豊丸らが近村に檄を飛ばし、暴利を貪る商家を襲ったものである。対象は自村の他内ノ子・五十崎・長浜の商家で、一行が御幣を先頭に立てたことや、商家が酒食金品を提供して懐柔する点で、ええじゃないか運動に通じるものがある。明治以降の騒動は各村が連合して大規模となり、更に連鎖的に拡大した。一方、鎮圧側も銃砲を持った藩兵が出動し、知藩事・大参事以下新機構の藩庁役人の初仕事となった。
「ええじやないか」の波及
慶応三年七月に三河地方に始まった「ええじゃないか」の狂乱は、忽ち各地に波及、一〇月中ごろには京都に達し、近畿一円から瀬戸内一帯にも、翌年の春まで吹き荒れた。政治的には大政奉還から王政復古を経て戊辰戦争に至る間である。これは御札や時には仏像や金銭が空から降り、民衆は家業を放棄して飲酒放歌し、三味や太鼓に合わせて踊り狂い、くれてもええじやないかと地主や商家に酒食をねだり又破壊などを行うものである。「ええじゃないか」の言葉が象徴するように群衆の反抗・享楽・顛廃的な行動を示すものであったが、世直しへの期待も無視することは出来ない。畿内中部では伊勢への御蔭参り、四国では金毘羅参りと結びついて、より熱狂的なものとなった。
伊予への流人は淡路から阿波・讃岐を経て宇摩に入るものと、山陽路を下り安芸から越智郡島嶼部への二経路がある。宇摩郡川之江村の長野祐律の日記によると、同村では慶応三年一二月から諸社の守札・小銭などが降り、人々はこれをおさがりと唱え踊り狂いはしめた。次第に踊りの衣服を競い女で男装する者、男で女装する者も現れ、数十名の群となって昼夜となく金毘羅詣りをはじめた。日記では「かしこに天狗出現せり、ここに怪異ありとし、一人虚を唱えれば万人これに和し、一般狐狸に魅せられたるものの如し」と驚きあきれている。翌四年の一月六日、踊りは少し衰えたようである。同郡三島村の庄屋真鍋一統もええじゃないかの連を作って金毘羅権現に参拝し、帰路川之江村の豪農三好滝次宅で争いを起こし、庄屋は負傷した。一〇日の午後には同郡上分村から七福神に模した男女五、六〇名の連が通ったが、中には天狗や加藤清正の仮装もあった。しかしこの乱舞も土佐軍進駐の情報により、一四、五日には終おった(長野家文書)。川之江村妙蓮寺では、元旦から三日間は郡内の壇家を回礼する例であったが慶応四年はこの踊りにより年礼が出来ず、三島村の末寺と相談して中止し、四日に町内のみを回っている(『妙蓮寺日記』)。
安芸・備後筋では尾道・竹原・広島・三原・忠海などで盛んであった。この地方に近接する越智郡の大三島では慶応三年一〇月に竹原の状況が伝えられている。また宮浦で町分六軒、瀬戸村三軒、井ノロ村では山本屋弁治宅に御札が降った。瀬戸村の舛蔵宅へは三島宮の札一二枚と出雲の大黒天、三穂の関の夷子各一枚が降っている(「藤井此蔵一生記」)。伯方島木浦村でも御札が降り、狂乱騒ぎがあった(『木浦村年代記』)。松山藩では新政府の命をうけて慶応四年一月四日、領内の村役人への踊りの厳重取り締まりの令を出した(『湯山村公用書』三・岡村御用日記)。特に同藩の越智島への上陸に備え、岩城・岡村・津和地三島には一一日に見張番所を建て、昼夜二人宛の番人を置かせた。連の多人数上陸の非常の際には、飛船で松山城下への報告を命じ、一五、一七日にも領内庄屋に村内の取り締まりを指示している(岡村御用日記)。城下に近い郡中湊町でも一月八日から一六、七日ごろまで多四郎宅ら約二〇軒に御札と鏡餅が降った。御札も餅も共に紙で包み、水引や色紙・錦で封をしていたが、踊りまでには至らなかった(『塩屋記録』)。