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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

四 藩治職制の改革

藩体制の変容

 大政奉還から戊辰戦争への過程で、幕藩体制の頂点にあった幕府と将軍が消滅し、新政府によって中央集権化が進められたが、大名や藩は依然として存在した。しかし種々の条件の変化により、藩の支配体制は大きく揺らいだ。まず戊辰の戦費負担が藩財政を窮乏させた点がある。家中への人数扶持や度重なる郷町への出費命令は、藩主への忠誠心や信頼感を薄くさせた。多くの困難点に対して藩論は二分三分し、藩の統制力は次第に弱くなって行く。特に朝敵としての藩主の謹慎や開城、他藩兵の駐屯などで、領民は新時代の主人公が誰であるかを知り、藩や家中に対する観念を一変させるものがあった。こうした状況では藩主や門閥の重臣にとっても、藩体制の維持は精神的にも重い負担であったかもしれない。
 新政府の指導層も早くから藩体制否定の意志を持っていた。王政復古以来の基本政策も、軍事力は薩長に頼りながらも超藩的なものを目指している。慶応四年二月、伊藤俊輔、木戸孝允らも強力な中央政府の成立のためには、大名が土地と家臣を天皇に奉還すべきと三条・岩倉副総裁に建議した。また薩摩藩も二月一一日に一〇万石献上の願書を提出した。
 明治元年一〇月二八日、政府は「藩治職制」を定め諸藩に布達した。まず家老職や、奉行名を廃して執政・参政・公議人を置いた。執政は政府の意をうけ藩主を助け全政務に係る役、参政は庶務にあたり共に定員なし、公議人は朝廷より召集されて国論を代表する議員である。その登用には門閥を廃して公挙人材主義によるとし、伊予の各藩でも藩士に推薦させている。また藩主と藩政を分離し、用人を廃して家知事を置いた。兵事・刑事・民事などの職制は政府直轄の府県に準じるものとし、役職名や機構は直ちに太政官に報告をさせた。これで藩も一つの行政区画となり、政府としては三か月後の版籍奉還へ大きな布石を打ったことになる。

松山藩の改革

 「藩治職制」の改革令は松山藩へも行政官から伝えられた。その内容は万機御一新の一環として行うこと、各藩不統一の支配組織を一本化することで弛緩した藩体制を強化することにあった。松山及び諸藩でも数回改革を試みたが、主眼は財政窮乏対策と兵制・学制の近代化にあって、その他は名称変更に止まり従来の藩体制を根本から変えようとするものではない。藩では重臣の協議により執政に家老の菅但馬・服部丹後ら七人、参政に番頭級の深見佐源太・戸塚助左衛門ら四人を定め、一一月二二日(布告留、国史稿本では二〇日)執政・会計・文武井軍務・刑法の四局と広聞・内制の二所を設置して領民にも布告した。
 越智島への布達によると御目付は執政局、勘定奉行は会計局となりその下部に祐筆が書記司、町奉行は市政司、御代官は郡政司、船奉行は主船司などと改称して設置されている。併せて従来の孝養・質素節倹・喧嘩口論・徒党や殺生の禁なども呼びかけている(岡村御用日記)。しかし行政官へは、藩主久松勝成が上京中で不在のため重臣の裁決のみでは不行届きとして一二月二八日、藩主の帰国願いと報告延期を申し入れた。勝成は翌年一月五日京を発って帰国し、改正を行って二月五日に布告した。改正令は為政・総教・会計・軍務・内家・公議の六局と広聞所となり、松山の町政担当の執政局は為政局と変更され、市政司・市政管事の下に町毎に自治を行うとした。為政局では一等官の執政、二等官の参政が政務を統轄し、総教局以下は主事・副主事・分課専務らが管掌した。文武の職員は内外に分かれ一等から九等の官に、更に三~五等官は各上中下と区分された。

今治藩

 今治藩でも慶応元年五月、公儀の復古の命によって藩政を改革し、王政復古により規律を正して政事向を簡易にし、節倹を第一とする旨を布告した。また同三年三月には家老・用人・大目付ら二〇人の重臣が連署して、庶政一新への協力を誓った。慶応四年二月の禄制改革によって人材登用の道を開き、士卒の服制を定め城代・奏者番・船奉行・代官・宗門奉行など一四の役職を廃した。同月井上藤七を貢土に選出し、五月藩留守居役を廃して公務人を置き、貢土をこれに充てた。七月公務人を公議人と改称した。一〇月五日久松修理を徴士としたが、修理は一二月一二日から翌明治二年六月まで弁事役所に出仕して中央政治に参与した(『今治拾遺』)。
 「藩治職制」に伴う改革は明治元年一二月三日、家中総登城で発表され、七日に弁事役所に報告された。執政は服部和泉・戸塚求馬ら従来の家老五人、参政は池内亮之進・富島格ら一〇人で、用人・大目付・郡奉行らの重役の外、公用人池上邦五郎以下数名の中下士の登用がみられる。藩庁は議政所と改称され、三局の各部署に執政・参与と庶係を配した。これら役職の改廃や担当者名は一二月五日に領内に示達された。島方への回達分によると勘定所は郡政局掛、勘定目付は会計方、目付は監察などと改められている(大浜柳原家文書)。しかし官職の改訂はみたものの短期であり、特記すべき行政の治績のないまま版籍奉還に至った。なお明治二年三月一七日、イギリス測量船シルビア号が野間郡波方沖に碇泊し、医師モウルが藩主定法の足を診療したり、乗組みのイギリス人、中国人らが越智郡鈍川村に泊まり込んで、鹿狩りを楽しむ一幕もあった。

大洲・宇和島藩

 大洲藩では慶応四年九月に分階職制を改定し、門閥にかかわらず人材登用の道を開いた。土・卒を各々上中下に分け、執政・参与以下職且位次を定め、職務等級を一~六等に区分した。「藩治職制」では政府の公選の趣旨により、藩士一同に執政三名、参政五名の、適当な人物名を二月一三口までに大目付へ提出するよう加藤玄蕃から指示した。九月二目先の分階職制を改止した(岡田家文書)。
 宇和島藩は「藩治職制」・「分等」の改正を、明治二年五月二目に御目見以上を御館に集めて発火し、弁事役所へは同一三日に報告した。執政は神尾帯刀・志賀頼母ら四人、参政は伊能下野・須藤但馬の二人、公議人は三輪清助ら三人である。番頭・近習・取次役など七職は廃された。政庁は衆議所の外民政・会計・軍務の三局と文武館とし、各局に執政兼知事・司事などを置いた。家制は家知事以下侍長・近侍・司厨の職階とした。
 衆議所は判議・議人により公議を行う場で、議人は下情に通じ衆望の者を選んだ。その定員は上士(虎ノ間)六人、中士(中之間)五人、下土(御徒以下御目見以上)五人、軽卒(御目見以下)八入で、各層から入札で選ばれ、議長は粟野左門と上甲貞一であった。分等は六等級で四等以上は上土である。改革に伴い下土から中士、中士から上士へと取り立てられる者もいたがその身一代限りで、重役となっても子供の席次格式は旧のままであった(「宇和島藩願伺届」)。

表8-2 松山藩の藩政改革

表8-2 松山藩の藩政改革


表八-3 今治議政所職制

表八-3 今治議政所職制


表8-4 今治藩改正席次役名役高役補表

表8-4 今治藩改正席次役名役高役補表


表8-5 宇和島藩の職制分階表

表8-5 宇和島藩の職制分階表