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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

六 別子銅山の開発と稼行

別子銅山の発見

 別子銅山は一説によると元禄三年(一六九〇)六月に、立川銅山(現、新居浜市立川山)で働いていた鉱夫の長兵衛や源四郎らによって発見され、住友家の稼行する備中国吉岡銅山に報告された。長兵衛は阿波国の生まれで、立川銅山の前は吉岡銅山で働いていた。同銅山の支配人田向十右衛門らは、同年秋、法皇山脈を越え、弟地(現、宇摩郡別子山村)から足谷山(銅山峯の南)に入った。十右衛門が鉱脈を確認したのち、住友家では同年一〇月から翌年四月にかけて幕府に採掘を出願し、同四年六月から同九年五月までの採掘を許可された(鉱脈発見から幕府の認可に至るまでの事情は『通史近世上』第二章第五節参照)。
 当時幕府は金銀の生産低下と海外流出対策に迫られていたから、貿易決済用としての産銅増加は至上命令であった。そのような状勢であったから、幕府は金子村(現、新居浜市)源次郎や尾張留右衛門の稼行願を却下し、資力・経験に富み見立の確実な住友家に採掘を許可したのである。源次郎の場合、貞享四年(一六八七)宇摩郡三島村の祇太夫が別子山中で鉱脈を発見したことを知り、彼に依頼して試掘を開始していたにもかかわらず許可されなかったのである。
 別子開坑以前の泉屋は、既に銅山師・銅商・銅吹屋として知られ、親族蘇我理右衛門は近世初頭の一般的な銅精錬法である間吹き・小吹きの熟達者であり、銅中に含まれる銀を抜き取る南蛮絞りの創始者であった。

開坑と繁栄

 鉱山開発の場所は石鎚山脈の懐、銅山川最上流の深山、大難所である。泉屋では元禄四年八月から開坑準備にかかり、まず坑場の地形を作るための森林の伐採や整地を行った。建物は鉱夫や砕女・鍛冶・大工などの小屋、金場(選鉱場)、勘場(事務所)、番所、焼鉱のための竃場、熔鉱の床屋などが相次いで作られた。準備のうち何よりも大変なのは、資材や飯米及び産銅運搬のための道路開削であった。当初の輸送路は、小足谷から弟地・筏津・保土野と銅山川を下り、海抜一、二五六メートルの小箱越で法皇山脈を越え、勘場成から中ノ川・浦山を経て船着場の天満(現、宇摩郡土居町)に至る一三里余の山道で、岩石を削り谷を埋め、橋を掛ける難工事であった。
 これらの諸工事には、付近の村々から多数の杣夫・人夫が動員された。また、稼行には多くの鉱夫や砕女、大工や中持(担夫・運搬人)を集める必要があり、総指揮には十右衛門と助七(別子開坑以後元締となる)が当たった。閏八月一日に採掘開始、二か月後には焼吹が始まり、同年末までに五、一二二貫余の出銅を見たが(資近上六-35)、この手際の良さは、住友の資本力・組織力によるものであった。出銅は元禄五年以降驚異的に伸び、同一一年の四〇万五、六二七貫余(二五三万五、一七一斤余)は明治以前における別子の最高記録であると同時に、単独の銅山としては足尾とならんで、わが国の銅山の最高記録でもあった。当時の日本の産銅は約一、〇〇〇万斤で世界一であり、うち別子は二二〇~二四〇万斤を占めている(図三-26)。
 元禄七年(一六九四)四月、別子は山火事により死者一三二人、番所・床屋などの建物や蔵二八〇軒を焼失するという大被害を出した(資近上六-36)。当時鉱山での就業者は約五、〇〇〇人、各種の売物に従事する者及び妻子で約一万人、合計約一万五、〇〇〇人という大世帯であり(「銅山への集中人数凡書し、開坑からわずか三年足らずの間に、いかに急速に整備されたかが窺われる。

第二次開発

 元禄八年四月に起こった立川銅山との坑道の境界争いは、同一〇年閏二月別子側の主張を認める評決となったが(資近上六-38)、なお幾つかの問題点があった。また日本の産銅も、元禄一〇年代から減退傾向となり、幕府が中国・オランダへの輸出目標とした八九〇万二、〇〇〇斤の確保が困難となった(『泉屋叢考』13)。そこで幕府は元禄一四年三月に、大坂に銅座を設けて大坂の銅吹屋をすべて支配し、直接長崎回銅を行うこととなった。それと共に、最有力銅山である別子その他について積極的に開発と援助を加えることになり、産銅増加策について諸国の銅山から意見を求めた。この時住友が提出した産銅増加策は、次に示すように画期的なものであった(意見書は数十箇条に及んでいたというが、現存するもののうち別子に関するもののみを抽出して示す)。

 一、疏水坑道の短縮について、現在作業中の水抜用疏水坑道約三〇〇間は、岩盤が固く工事が困難であり、鉱山永続のためには、谷の深い立川銅山側へ変更して切り抜きたい(この案は不許可となる)。
 一、今の天満道は九里余もあるうえ険阻で三日も要し、道路の滞りが多い、新居浜道(立川銅山の運搬路)に変えると四里半となり、大坂回銅に便利である。
 一、薪炭不足を解消するため、他所から買い入れるということになれば手廻しが悪く、銅吹の支障になる。一柳直増知行所(五、〇〇〇石・宇摩郡土居町津根の八日市に陣屋があった。)の雑木を払い下げてほしい。
 一、銅山の開発は先を考えて費用惜しまず投じるから、今後は永代請負としてほしい。
 一、放置の貧鉱を処理し、休業中の坑道も鉱夫を増加投入すれば四〇~五〇万斤の増産が可能である。
 一、松平(西条藩)・一柳(小松藩)領分の百姓が大勢働いているが、不時呼戻しにより差し支えることがある。両藩に対し銅山に支障がないよう配慮することを下命してほしい(この条項は上申書提出後に追加して願い出た四か条のうちの一つであるが、増産に関連するため参考として掲げる)。

 疏水坑道短縮の件以外は幕府に承認され、元禄一五年三月八日勘定奉行荻原重秀から泉屋吉左衛門に対して直接申し渡された(「元禄十四年予州備中御銅山覚」)。この結果、開発資金として幕府から一〇年賦で一万両を借用し(備中吉岡銅山分も含む)、鉱夫の飯料である買請米六、〇〇〇石が確保されることになった。買請米は、当時一石につき銀八八匁が相場のところを、五〇匁で払い下げられ、以後市価の半額支給が恒例となった。
 新道については、既に元禄七年ごろ西条藩に出願し(同八年・一〇年にも出願)、同一三年には立川銅山師使用道の外に作るのならばよいとの意向であったから一四年六月正式に出願した(資近上六-39)。荻原重秀の好意的なはからいにより、新道は順調に建設され、一五年閏八月には早くも使用されている。新居浜浦に設けられた口屋は、産銅の積み出し、資材や買請米の入津する浜宿として繁栄した。
 一柳直増領の雑木払い下げは、元禄一一年一二月以前からの希望であったが、宝永元年(一七〇四)に実現し、直増は宇摩郡津根から播磨三木へ移封となった(移封年は元禄一六年)。拝借金は住友の希望は一万四、〇〇〇両(銀渡し)であったが、取り次ぎの荻原重秀の意向によって減額となった。宿願の永代稼行権の獲得は、幕府の鉱業政策の大きな転換であった。こうして元禄一五年は、幕府の多大の援助により、住友が別子銅山経営の基礎を固める重要な意味合いの年となった。しかし、自然条件は遥かに厳しく、困難な出来事が重なって、目標である産銅の増加は達成出来なかった。
 別子の産銅は急下降し、宝永四年(一七〇七)には二〇〇万斤を割り、享保三年(一七一八)からは一〇〇万斤以下で低迷した。その原因は、度々の風水害・良坑の大湧水・岩盤が固く水抜工事困難・坑道が深くなり非能率・炭山が遠くなり人夫や炭不足・優良鉱脈の未発見などである。このため、正徳二年(一七一二)が拝借金の返済年であったが、五年間の延期を願い、さらにその期限である享保二年(一七一七)にも再度五年間の猶予を願い、同七年から年賦返納がなされた。銅山の買請米についても、幕府は不成績のため容易に無条件の延長を認めず、年期を切って米価を上げる意向を示したが、住友では従来通り六、〇〇〇石、石当たり銀五〇匁の買請げを粘り強く交渉した。

立川銅山の併合

 新居浜道は西条領を通るものであり、別子と同一鉱脈を掘る立川銅山が他の銅山師請負のため、経営上の不都合が度々発生した。坑道争いは元禄一〇年の解決後も続いて起こっており、住友では元禄一二年に立川銅山の請負を出願した。川之江代官所も同意見で、まず立川銅山付近を幕領とし、西条藩に替地を与えるよう同年一二月幕府に進言している。替地の完了は宝永元年~同三年である(資近上五-7・8)。しかし境界争いや坑道抜合の紛争はその後も続いた。
 立川銅山の産銅は、元禄床~宝永初年では四〇~五〇万斤であったが、享保末上冗文ころには、二五、六万斤に低下した。鉱脈や湧水・炭木山の状況は別子よりも悪化しており、元文三~四年には鉱夫が離山運動を起こした。運上銀も滞納の事態に立ち至っていた請負者の大坂屋久左衛門は、延享四年(一七四七)七月、住友に譲渡したい意向を示した。これを知った西条領二〇か村の百姓は、住友によって無条件に開発が進められれば、悪水増により減収になるとして、翌年一月からの年貢減免を併合の条件にするよう申請した。両山を預かることになる松山藩と、立川銅山稼行の中断を恐れる西条藩は、大庄屋や庄屋に説得を指示し、住友側からの池料銀などの出費もあって、延享四年八月には内済が成立した。立川銅山のすべての引き渡しが終了したのは、寛延二年(一七四九)一二月である(資近上六-41)。採鉱・運搬その他経営面での合理化が推進されることになったのである。
 別子・立川両銅山の一手稼行は宝暦一二年(一七六二)五月名実ともに達成され、この月から別子立川銅炭運上目録も一紙となり泉屋吉左衛門の名で届け出されるようになった。併合後の輸送路は西赤石山の迂回をやめ、角石原から東平を経て中宿の渡瀬に直進したため、約一里半の道程が短縮された。

銅山の稼行

 別子銅山は開坑当初幕領として川之江陣屋の支配を受げた。山内の治安を守るために設けられた四か所の番所には、銅山役人(手代・足軽)が詰めて木戸の開閉を指不し、また産銅・製炭の貫目を調べて運上の算定をした。享保六年からは、立川銅山と共に松山藩預かりとなった。
 坑道は間符と呼ばれ、最初の歓喜間符のほか、元禄一五年までに床屋・大和・歓東・自在・天満など一〇坑が開発された。当時の精錬工程は、『鼓銅図録』(文化初年刊)によれば、採鉱→金場へ運搬→砕女小屋で選鉱→焼竈での焙焼→鉑吹(熔鉱し鍍をとる)→間吹の順となる。
 選鉱は婦女の仕事で、良鉱を選び鉄鎚で一寸角位に粉砕する。焼鉱五〇〇貫を作るのに鉱石約六六〇貫と薪三〇〇貫、炭五貫、日数二~三日を要する。焼鉱窯は長さ二四~三六尺、幅五尺、高さ四尺と細長い。五○○貫の焼鉱に一六〇貫の木炭を加える荒吹きにより七〇貫の鍍と八貫の銅が得られる。鍍七〇貫から真吹により(木炭六〇貫を加えて)吹銅三五貫が得られる。このようにして作られた粗銅は一〇〇人余の職人を抱える大坂長堀(鰻谷)の吹所に送られた。別子には正徳二年(一七一二)言当時、鉑吹床二二軒・真(問)吹床一六軒があった。鉛吹床は吹大工一、手子二(吹子指)、炭灰役一の四人で作業が行われた。焼鉱に要する薪炭の量は莫大であり、重要な運上の対象でもあった。炭運上は初め窯数に課せられたが、元禄一〇年から製炭高一〇〇俵(一俵一〇貫目入り)に付き銀一三匁四分四厘となり、同一二年から一〇〇俵(一俵三貫目入り)に付き銀一匁三分四厘四毛の鍛冶炭運上が付加された。炭焼の他に坑木・用材などのため住友が用益を認められた山林は、元禄一五年で一万七、七五二町歩余であった(『泉屋叢考』13)。
 採鉱上の最大の困難点は、湧水であった。坑道が深くなれば湧水量も増し、いくら良鉱でも水没すれば採掘は不能となる。排水は木製の手押しポンプ箱樋を何段にも並べ、水夫二人(水揚人夫)が交替して昼夜連続で汲み出していた。享保一〇年(一七二五)は掘子四二〇人に水夫一六〇人であったが、宝暦一一年(一七六一)には水夫が二一一人となり、明和六年(一七六九)では掘子四九一人に水夫四五五人(文化元年では水夫四四七人)と水夫が増え、全山が採掘よりも排水に苦労していることが分かる(『別子開坑二五〇年史話』)。排水には水抜坑道を掘ったり、廃坑を使用する方法がある。しかし、東山谷から五、三〇〇両の工費で掘り始めた元禄の水抜工事は岩石が固くてはかどらず、立川側への変更も許されなかった。安永五年(一七七六)には立川銅山の寛永間符を水抜専用としたがすぐに不足した。寛政八年(一七九六)五月から小足谷疎水道を着工したが、阿波藩領の百姓の抗議によって四分の一を開削したのみで文化六年(一八〇九)に中止された。排水とその鉱毒による百姓への補償や減免の記録などは、宝暦一三年(一七六三)に関するものが『治藩の余波』に、文政二年(一八一九)四月のものが「白石家文書」に、天保一三年(一八四二)二月のものが「福田家文書」に散見される。

鉱山の労働

鉱業専従の労働者は、戦国期に多く発生した。山師中心に金子・手子・鍛冶など鉱夫の集団は、いわゆるあぶれ者が多く、世俗を絶って諸国の鉱山を渡り歩いた。山内では山師を親方として独自のきずなで結ばれ、病人や老人への世話も行われた。また、鉱山は多数の商人や職人を吸収して活気があった。周辺の村々からみても、山内では鉱石や物資の運搬や薪作りなど熟練不要の多数の人夫を要したので、何よりの日傭稼ぎの場であった。
 別子銅山の経営は、住友家の奉公人である山師家内が当たった。総人数は一〇〇人内外で、総支配人(資近上付録9参照)以下元締・頭役・手代・前髪・子供などの職階に分けられていた。彼らは勘場・鋪方などの諸役所に詰め、一般の鉱夫を指図した。鉱夫は一部掘子・銅吹き大工など専業者を除き、大多数の水引き・得歩引き・手伝などの下財や木樵・炭焼・日雇などは地元や近領から雇われる。享保年間では妻子持又ぱ独身者の家持で一、一四五人、その家族一、六〇〇人、小屋住まいの独り者二、〇五五人で、山内居住者のみで約四、八〇〇人であった(『泉屋叢考』13)。
 坑外作業の人夫や日雇などは前年度に前銀を渡して約しておき、春に登山して働く例であった。しかし、諸藩では(特に江戸時代初期には)百姓の他領稼ぎを禁じ、既に働いている者まで呼戻しを命じることもあり、銅山側ではその対策に苦慮した。宝永四年(一七〇七)代官所へ報告した不参者は、契約二、五八九人中四割五分の一、一五八人にも達した。その内訳は西条領雇五四〇人中三五〇人が不参、今治領(五六人)・松山領(二一七人)・丸亀領(二四五人)の三領は全員不参加、阿波領八一八人中で二〇〇人余、安芸領一二五人中で九〇人ほど、幕領でさえも一六〇人中一〇人が不参加となっており、全員入山したのは小松領一三八人のみであった(『泉屋叢考』13)。
 粗銅の積み下ろしや資材の積み登せに当たる人夫は仲持と呼ばれた。立川中宿から口屋までは牛馬も用いたが、法皇山脈の悪路の上り下りは人の背によるほかなく、男は最低で一二貫(四五キログラム)、女は八貫(三〇キログラム)の荷物を背い子で担った。量を増やせば歩合も増えるので、銅板二枚(二四貫)をかつぐ男もいたという。この仲持も、明治以後は牛車道の完成や専用鉄道の敷設で次第に姿を消した。

幕末の別子

 別子の産銅は、延享ごろ少し回復したが宝暦以降は低迷を続け、維新期までに一〇〇万斤を超したのはわずか三か年であった。この理由は坑道が深くなり大湧水が増えたこと、薪炭坑木用材伐採の山林がますます遠くなり高コストとなったためである。しかし最大の理由は、幕府の銅買上価格が初期の百斤当たり銀一八〇匁から、寛延三年(一七五〇)に一三九匁四分八厘と、大幅に引き下げられたためである。再三の引き上げ嘆願により褒美金や増手当の名目で少しずつ引き上げられたが、文化元年(一八〇四)で一六〇匁余と当初価格まで回復していない。これは天保・弘化期の地売銅価格二四〇匁に対して極端に安値であり、諸資材の高騰により銅山の経営は悪化を余儀なくされたのである。
 既に文政八年(一八二五)以降、水技手当の名で幕府から年々一、二〇〇両の貸与を受けていたが、その程度の援助額ではどうにもならず、天保一二年(一八四一)九月、以下の条項を願い、聞き届けられぬ場合は休山とその手当銀五○○貫を要請した。それは補助銀を年額銀三〇〇貫に増額する、御用銅の定量を七二万斤から四〇万斤に下げる、代銀を一〇〇斤に付き以前の一八〇匁に回復する、という思い切った策であった。驚いた幕府は状況調査の結果、多少手当金や買上銅の値上げを行ったが、全体としては受け入れず、また休山も認めなかった。
 住友側では仕方なく自主的に非常の対策を実施した。それは、鉱夫らの賃金引き下げ、負債整理のため出店の閉鎖や諸所にある不急不要の屋敷・田畑などの売却であった。しかし、安政元年(一八五四)と同二年の大地震やその後の災害によって再び苦境となり、休山願の提出となった。幕府は一万三、〇〇〇両の貸与申請に対し、銀三〇〇貫(約四、〇〇〇両余)を二〇年賦で認め、安政六年から年々一、五〇〇両を貸し下げ、また元治元年(一八六四)には銅価格を四〇〇匁余に値上げして、休山の危機を乗り切らせようとした。

維新期の混乱

 明治維新は、別子を予想もせぬ大混乱にまき込んだ。慶応元年(一八六五)四月の幕府の長州出兵では、住友家が一、二五〇両、別子銅山が二五〇両の献金を行った。さらに、松山・西条・和歌山など八藩から莫大な軍用金その他の用達が命じられた。松山藩の例を見ると、同年五月銀一三三貫、同三年八月一、三六〇両、明治二年米一万俵、同三年四月一、五〇〇両、更に同年一一月一、五〇〇両、西条藩へは明治二年五月二万両を調達した(『垂裕明鑑』23・24)。しかも諸藩への兵糧米の心要から慶応二年八月、銅山米八、三〇〇石のうち美作米二、二〇〇石の供給が停止となった。銅山での必要米は一万二、〇〇〇石で、不足分の四、〇〇〇石は各地で買い入れて市価より安く稼人に給していたのである。
 別子では、過去二年分の買請価格を石当たり五〇匁から七五匁とし差額を直ちに上納する、今後の買請価格を一〇五匁とする、開拓した五〇町歩の予想収量五〇〇石分は収穫次第買請量を減らす、などの条件で各方面へ美作米供給復活を嘆願した。しかし幕府軍の形勢は悪く、将軍家茂の急死で事態は更に悪化した。慶応二年七月、本年限りで御用銅七二万斤の長崎回送は廃止と決定した。同年八月には伊予国幕領四郡の買請米六、〇五〇石も払い下げ停止となった。
 長州出兵という事変の最中であったため引当米の用意はなく、買請米の停止は全山餓死である。別子では直ちに稼人に対する支給量を減らした。月五斗の「本通」を四斗五升、「当銀」を四斗から三斗五升、砕女は二斗で据え置いたが、「本通」も同年一〇月には三斗五升とした。その後長州再出兵の中止と今沢卯兵衛・広瀬宰平らの奔走で、翌年一月に伊予分が復活したため危機は免かれた。ただ買請価格は、松山の一〇月中の上米相場ということに決定したので、別子でも稼人への供給を市価とした。これにより稼人の生活は窮乏し、安売米制の復活と本通・当銀は四斗、砕女は二斗五升を要求して不穏の形勢となり、五月一四日ついに二三三人が川之江代官所へ直訴しようと下山した。
 代官所では村役人や銃兵を配して警備し、銅山側は支配人・元締以下が説得に努めた。また立川・中村・上泉川・角野各村の庄屋や、収容先の瑞応寺・真光寺の和尚らの仲裁により二三日には帰山させることを得た。要求の五升増額は認められたが、山内の動揺は治まらず、ついに七月から三か月間の休山という事態となった。当時は幕府も終末期であり、維新期の不穏な世情が銅山の稼人にも影響したものである。

土佐藩の接収と別子の再建

 慶応三年一二月の王政復古により幕府は倒壊し、翌年一月の徳川慶喜追討令により高知藩兵が高松と松山藩に進駐した。幕領の別子と川之江は、高知藩の預り所となり、別子へは川田元右衛門らが登山して、立川中宿や口屋の銅・米蔵が封印された。広瀬宰平は別子が住友家歴代の自家営業であること、稼行停止による国家の損失、山内で働く四、〇〇〇人と日雇い者の生活存続を元右衛門に説いた。新政府に対しては、高知藩の名儀による管理・稼行を慶応四年(明治元年)三月に願い出た(資近上六-44)。
 大坂の住友本店では、銅一二八万七、〇〇〇斤余が薩摩藩に差し押さえられ、吹所は休業となり、諸大名への莫大な貸付金が回収不能とあって、危機寸前の状況であった。銅座の廃止で、前年の産銅の残金一万三、〇〇〇両の回収見込みもなく、仮に別子から銅が送られて来ても、当面捌く途もなかった。従って住友本家の維持のために、重い負担となっている別子銅山の売却説が出るような状況であった。しかし、慶応四年(明治元年)閏四月に別子の稼行と伊予四郡の買請米制が認められ、長堀(鰻谷)の吹所が再開されて、家長友親と宰平以下老分・支配人の協議により、同年七月に一大決心の下に家業継続の方針が決定された。
 本家の維持については、予算・積金制度を創始する、経費として銅山から一万円、吹所から一、〇〇〇円を支出する、諸藩との交渉を絶ち、新規の関係も作らない、不必要の屋敷七か所を二、三〇〇両余と銀五〇貫で売却し、山本新田付近の田地を購入する、資産状態・収支勘定は老分・支配人立ち合いの上で厳重な検査を行うとした。別子銅山の再開に当たっても、次のような厳しい合理化が断行された。

 一、出銅奨励法を実施し、出銅高に応じて賞与を支給する。
 一、太鼓を備えて時刻を報じ、作業時間を規則的とし(明治二年)、着衣を洋服として能率化を図る(明治三年)。
 一、能率向上のため長堀(鰻谷)の吹所を立川中宿に移し(明治二年二月許可)、本店の住居と店を区別し、店を川口の富島町へ移す。
 一、小足谷疏水坑工事を再開する(明治二年二月着工)。
 一、食事の支給を廃止し、稼人の自弁とする。
 一、稼人やその子弟の教化のため禅僧を招く。
 一、銅山札の発行(明治二年九月許可)-明治二年中に手札二八〇貫余を発行した。
 一、人員の配置転換を行い、三割から一分の減俸を行う(明治三年六月)。
 一、洋式機械の移入を出願し(明治三年閏一〇月)、一〇万円の拝借を願う。
 一、明治元年に火薬を試用、明治三年五月に一万二、〇〇〇斤の火薬が到着し、坑内一斉に使用。
 一、産銅の買い上げ停止により、神戸に販売店を設けて外商と直取引を行う(明治四年二月)。

 こうしてほとんどの銅山が休業した維新期を、住友は堪えて乗り切り、自力で活路を求めて近代化を図った。明治初年から産銅も増加し、同七年には一四年振りに一〇〇万斤に達した。

表3-61 別子銅山の歩み

表3-61 別子銅山の歩み


図3-21 別子銅山における産銅量の変遷

図3-21 別子銅山における産銅量の変遷


表3-62 別子銅山の支配組織

表3-62 別子銅山の支配組織


表3-63 別子銅山の諸稼働人

表3-63 別子銅山の諸稼働人