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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

3 南予地方の新田畑開発

新畑中心の開発

 南予地域は中央構造線の南側の外帯に属し、東西に走る四国山地は西部及び南部で低くなる傾向をもっている。四国山地を流れる河川には、土佐湾に注ぐ四万十川の上流である広見川・三間川、伊予灘に注ぐ肱川(小田川・河辺川など多数の支流をもつ)、宇和海に注ぐ小河川などがある。
 これらの各河川の流域には、大洲盆地をはじめ、内山盆地・宇和盆地・野村盆地・三間盆地などの小盆地が発達している。
 伊予灘に注ぐ肱川は、伊予国最大の流域を持つ河川であるが、河口付近は典型的な断層海岸で、河川の大きさに見合うような三角州は形成されていない。宇和海に面した地域ぱ出入りの多いリアス海岸となっており、湾の奥に小規模な低地が見られるのみで、大部分は岩石海岸となっている。
 こうした地形に制約されて、南予地域における新田開発は新畑中心の開発となり、盆地の水田化は、溜池の開発が加わって可能となったのである。

一〇万石高直しと新田畑高編入

 伊予国諸藩の石高は、慶安元年(一六四八)から元禄一三年(一七〇〇)までの間に、公簿上では七パーセントの増加が見られる。これを郡別に表示(表三-14)してみると、宇和郡の異常な増加が目につく。しかもこの増加は宇和島藩にのみ見られる現象である。
 宇和島藩は、明暦三年(一六五七)吉田藩三万石を分知したため、七万石に減少したが、家格を保つため、新田畑高を本高に編入して、元禄九年一〇万石に復帰した。この四〇パーセントを越える石高を生み出すために藩庁は大変な苦心をしたものと思われる。領内一九八か村のうち、一六六か村で増石が実施されているから、一か村平均約一八〇石の増加となる。元来一か村平均三五〇石余であるから、いかに開発が進んでいたといっても、この増石は通常の方法でぱ達成できなかったであろう。宇和島藩では、正保一一年(一六四五)から同四年にかけて検地が実施されているが、検地を担当した岡谷兵右衛門は、検地竿を変更(『御年譜微考』には六尺、『不鳴条』には六尺三寸とある)するとともに、増石を実施して、それまでの七万二、一四六石を一〇万一、三九九石とした。この時山奥組では三、九八九石から一四、七二七石へと、三・七倍の増加を示した(寛文検地では七八九こ石に減少)。こうした急激な増石は実態を十分に把握していなかったものか、または寛文六年(一六六六)の風水害による被害のためか、寛文一〇年から同一二年にかけて実施された寛文検地(八十島治右衛門らが実施)では、八万一、九九五石に減少している。この寛文検地ののち、宇和島藩は領内の村を一〇組に分け、それぞれに代官を置いて統治した。宇和島藩の石高は、元禄九年の高直しの時点では再び一〇万石を越え、一〇万四〇二石となった。
 表三-15は、宇和島藩領における江戸時代初期の田畑増加状況を、領内の組別に表示したものである。石高の増加が著しいのは、山奥組・野村組・保内組・矢野組であるが、これらはいずれも畑地の激増によるところが大である(前の二組は山間の村、後の二組は浦方を含む)。
 山奥組は、現在の城川町及び野村町・肱川町の一部にまたがる地域で、惣川村(現、野村町)・横林村(現、野村町・肱川町)・窪野村(現、城川町)におげる新畑の増加が特に顕著である。惣川村は、舟戸川(肱川の支流)流域に立地する山間の村で、舟戸川の深い谷間からの潅漑が困難であったため、水田の開発はほとんど進まず、焼畑を中心とした開発が大規模に進められた結果、天正検地における畑面積五〇町歩が、元禄九年には四一一町歩となった。石高は二倍の増加であるが、畑は八倍以上の増加となっている。
 リアス海岸に立地する浦方の漁業集落の場合、海辺の砂浜は漁業活動(干鰯製造など)の場であった。保内組の村々でも畑地の増加が著しい。三机浦・伊方浦・三崎浦では、畑地が天正検地実施時に比べて五倍以上に増加している。急斜面に作られた段々畑は、漁村の発展と歩みを共にして形成されたものであろう。記録に見られるものを列挙してみると、明暦二年(一六五六)の大島の開拓、寛文一一年(一六七一)の伊方浦黒島の開発、延宝三年(一六七五)の内海浦魚神山開発、元禄四年(一六九一)の九島・高島における新畑開発など、小規模ではあるが、活発な開拓状況を散見することができる。

山田組の水源開発

 宇和島藩領内の最大の穀倉地帯ぱ宇和盆地である。元禄九年における山田組・多田組の耕地面積は二、二三九町歩(田一、五一九町歩余、畑七一九町歩余)で領内の一七パーセントにすぎないが、石高では二四パーセントを占めている。この地域は水田六八パーセント・畑三二パーセントと圧倒的に水田が多い。盆地の中央を宇和川(肱川の上流)が流れ、深ヶ川などの支流もあって比較的水に恵まれてはいたが、水の絶対量が不足した。そこで溜池を築くことによって水田の開発を進めたのである。山田組の場合、近世初頭すでに二八の池が存在していたが、宝永三年(一七〇六)から宝暦七年(一七五七)までの間に一六の池が新規に築かれている(『大成郡録』)。
 永長村(現よ宇和町)は、山田組のうちで最も増石の多かった村である。この村は石崎築池を有し(柳田池も享保三年完成)、平坦部にあるうえ、宇和川・深ヶ川の合流点に位置するという地理的条件に恵まれていたため、耕地面積が約四〇町歩増加している。隣接する久枝村も二〇〇石以上の増石であった。
 山田組の他の集落では、明間村(現、宇和町)以外に二〇〇石以上の増石が見られない。中世からの開発によってほぼ開拓可能地が限界に達していたのであろう。
 次に個別開発の事例を示そう。

中山池築造と立間尻浦開発

 宇和盆地に次ぐ宇和郡第二の盆地である三間盆地は、吉田藩最大の穀倉地帯であった。明暦三年に吉田藩が成立するより前、文禄四年(一五九五)一二月二日この盆地に着目した藤堂高虎は、戸雁村の弥左衛門に三間川上流の無田を開発させ、一年間の年貢免除を認めている。無田というのぱ、田地のほとんど無い荒蕪地の意味であったが、開発の進展により「務田」と改称された。現在三間町戸雁から務田・宮野下にかけては、三間盆地のうちでも比較的まとまった水田地帯となっている。
 この地域の生産力向上と水田拡大に貢献したのは、寛永四年(一六二七)から同七年にかけて築造された中山池である。中山池は、近世における宇和郡最大の溜池で、黒井地村(現、三間町)庄屋太宰遊淵の尽力によって完成したものであり、面積は八町一畝歩、潅漑面積は八五町歩に及んでいる。
 立間尻浦(現、吉田町)は、慶安二年(一六四九)宇和島藩によって開拓が行われた。この地は吉田藩が成立してから以後は、陣屋町が建設され(その際田畑一二町八反余が家中町・町人町の敷地となった)耕地は大幅に減少した。『郡鑑』によれば、「舟山弁六見立によって新田に取り立て、大形村姿になるところを今御在館」と記している。

三浦為国と颪部村

 山財村(現、津島町)の枝村に颪部村がある。『大成郡録』宝永三年本には、慶長一九年引渡以後の新田と記している。明暦元年(一六五五)の『由緒書』によれば、宇和島藩士三浦修理為国が二〇〇石の知行のうち一〇〇石を返上し(藩の財政難を救うため)、その見返りとして、威部の開拓を許され、家人六名と共に高八〇石の開拓地を造成したと記している。開発年は寛永八年(一六三一)と伝えられている。
 その後、正保四年(一六四七)に新田小左衛門が開発を行い、寛文検地では一二三石余となっている。庄屋は山財村庄屋が兼任していた。
 颪部を開いた三浦修理は、寛永一三年に没し、開拓地に葬られた。村はその後も順調に経営され、宇和島藩が元禄一五年(一七〇二)幕府に提出した国高郷帳(元禄九年の調査)には、田九町六反六畝二六歩、畑三町四反九畝二二歩と記録されている。『大成郡録』によれば、宝永三年の戸数は一九戸、人口は八九人であったが、宝暦七年には二〇戸、一〇〇人に増加した。
 宇和島領津島組には、颪部のほかに、『大成郡録』や『郷帳』には載るが、幕府への公簿には記載されない村が三つ(芳原・上槙・芋路谷)ある。芳原村(現、津島町)は岩松村の枝村で、万治二年(一六五九)の篠山論争(『通史近世上』二章八節参照)で江戸に下った槙川村庄屋が、帰国後沼地を開拓して出来たものである。元禄九年の田は一八町三反余、畑は二町五反余、石高は二三四石余であった。上槙村(現、津島町)は下畑地村の枝村(元禄九年の石高一七一石余、田一五町三反余、畑二町八反余)。芋路(地)谷村(現、津島町)は岩淵村の枝村(元禄九年の石高三六石余、田二町二反余、畑二町六反余)である。

宇和島城下町地先の干拓

 宇和島城は、板島という古い呼称が示すように、往古は宇和島湾の奥に浮かんでいたと考えられる板島に建設された。城の周囲は辰野川・神田川・来村川が作った複合扇状地であり、城の北方には須賀川の形成する砂州があった。城下町は、前述の複宣扇状地とそれに続く平坦地を開拓した場所に作られ、新田畑の開発に従って町域も拡大したのである。
 城下町を東から南にかけて取り巻く毛山村は北方・南方・新田・松崎新田・内河原から成る(『御年譜微考』)。『大成郡録』では、新田部分を高木又右衛門開新田(四町一反余)・岡久右衛門開新田(六反余)と表現している。松崎新田は元禄一四年の開発である。
 須賀川に沿う下村の枝村に須賀浦がある。干拓の盛んな村で、延宝三年(一六七五)から同七年にかけて須賀川下新田(須賀新田)が開かれた。この新田は味酒屋新田とも呼ばれ、町人味酒屋勘右衛門による開発である。
 須賀川下新田の北側には、元禄一三年樺崎新田が、さらにその西方には元文元年(一七三六)富包新田が築造された。樺崎新田は、城下町商人米屋平右衛門による町人請負新田七町四反及び住吉新田四反・夷新田一反その他一反余で、合計八町余である。
 樺崎の北方にある大浦には、承応三年(一六五四)大坂屋仁左衛門が大浦塩田の築造を開始したが、続いて天和元年(一六八一)より大浦新田開発が始められている。大浦新田は豊田丈左衛門開新田とも呼ばれ、のち庄屋清家氏所有となったため、お庄屋新田の名もある。

鰯網と新浦開拓

 寛文二年(一六六二)それまで宇和島藩領であった北灘浦(現、津島町)、蒋淵浦・下波浦『現、宇和島市)、喜木津浦・広早浦(現、保内町)、上泊浦・川名津浦(現、八幡浜市)、南君浦(現、吉田町)の八か浦が吉田藩領に転じた。これらは、いずれも宇和海沿岸部の漁業集落である。
 寛文九年蒋淵浦の内に大島浦が成立した。「清家文書」によれば、この新たに開かれた浦は、北灘浦庄屋清家氏の企画したもので、蒋淵・下波の村民が協力して石垣を積み集落を形成したものである。清家氏が犬島に着目したのは、犬島とその向かいにある契島との間の水道が好漁場であったことによる。集落の土地造成が終了するころ清家一族の十左衛門が大島村君(網元)となって、入植した一二戸の人々を指揮して漁業活動を開始した(鰯網一帖の操業開始は寛文一一年)。
 宇和島藩領でも寛文期から元禄期にかけて、宇和海沿岸諸村及び島しょ部の開発を奨励している。寛文一一年にぱ穴井浦のうち大島(現、八幡浜市犬島)が新浦として認められた。開拓は寛文八年から開始され、穴井浦から移住した七戸は協力して開墾に従事し、延宝二年(一六七四)には小網一帖の認可を願い出ている(翌三年にも出願し許可されている )。こうした開発は段々畑を出現させ、犬島の南にある地大島は大島浦漁民の開墾によって山頂まで段々畑となった。
 このほか伊方浦黒島(寛文一一年より辻庄右衛門開発)、下灘浦竹ヶ島(天和二年より下灘庄屋開発)、内海浦魚神山(寛文一○年以前の開発中絶、延宝三年再開)など数多く事例が見られる。

近家塩田

 宇和郡の海岸は、塩田築造に不適当な地形であるため、新居郡のように大規模な塩浜は造成されなかった。近世初頭に築かれた立間尻浦(はじめ宇和島藩領、明暦三年より吉田藩領)の塩田は万治元年(一六五八)に完成した吉田藩陣屋町に吸収されてほぼ消滅した。『郡鑑』によれば、塩田は鈴木次太夫・桧垣助三郎らが造成したもので、塩田分の物成(年貢)は四石八斗八升であった。
 岩松川の河口右岸にある近家村の地先は、宇和郡のうちでも珍しい遠浅海岸であるため、早くから干拓が行わ
れた。貞享二年(一六八五)の内藤三右衛門新田開発に続いて、元禄一一年(一六九八)五月一日近家塩田築造工事が開始された。工事は順調に進み、同年七月には塩焼が始まった。翌一二年に完成した一一軒の塩浜は総面積八町八反であったが、同時に開発された塩浜奥新田約二〇町、辰巳新田約八反、日々栄新田約八反があり、広い干拓地となった。塩田は岩松村小西荘三郎によって経営された。塩不足に悩む宇和島藩では、文化三年(一八〇六)柁内塩田を起工し、約五町歩の塩田が完成したのち、小西荘三郎(五代目)に払い下げた。
 塩田経営者小西家は代々岩松村庄屋を勤め、岩松村の在町化に伴い在郷商人として資力を蓄え、宇和島藩内屈指の富豪として知られた。小西家の新田開発事業としては、一八世紀末から一九世紀初めにかけた平城村(現、御荘町)の開発などがある。

表3-14 伊予国14郡石高

表3-14 伊予国14郡石高


表3-15 宇和島藩領内田畑増加状況

表3-15 宇和島藩領内田畑増加状況


図3-12 山奥組惣川付近

図3-12 山奥組惣川付近


表3-16 石高の急増した村と田畑の増加率1

表3-16 石高の急増した村と田畑の増加率1


表3-16 石高の急増した村と田畑の増加率2

表3-16 石高の急増した村と田畑の増加率2


表3-17 山田組築池

表3-17 山田組築池


図3-13 三間盆地の務田付近

図3-13 三間盆地の務田付近


表3-18 宇和郡の開発関係年表

表3-18 宇和郡の開発関係年表


図3-14 宇和島付近

図3-14 宇和島付近


図3-15 近家塩田跡付近

図3-15 近家塩田跡付近