データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)
2 東予地方の河川改修と新田
加茂川改修と足立重信
中予における伊予川(重信川)・石手川同様に、城下町もしくは陣屋町を保護する目的で改修された河川に加茂川・総社川(蒼社川)がある。両河川とも急流で、洪水に際して大量の土砂が流下堆積するため、河床が上昇して氾濫の危険性があったから、城下町・陣屋町建設に際しては洪水対策が重要な課題であった。
寛永一三年(一六三六)三万石を領して西条に入部した一柳直重は、陣屋建設に際して、加茂川乱流の痕跡と思われる喜多川及び新町川の流路を変えて、新規に掘った陣屋の堀に引き入れ、本陣川を開削して海に排出した。
一柳氏の入部以前にも加茂川の氾濫防止への努力がなされていた。慶長年間二見(一五九六~一六一五)、光明寺の僧常真が改修工事を願い出て、足立重信によって治水工事が実施された(『西条市誌』)。僧常真は、讃岐国多度郡広田村の生まれで、加藤嘉明が新居郡を統治し始めたころ(慶長五年ころか)この地に来住し、大町村で寺地を拝領した(『西条誌』)と伝える。口碑によれば、彼が寺地を拝領したのは、加茂川改修の功によってであるという。
慶長一〇年、加藤嘉明の家臣であった木村信近が大町村に来住した。信近は、賤ヶ岳の合戦にも参加し、嘉明が松前城に入った時、伊予郡大溝村の内で四〇〇石を宛行われていた(資近上一-93)。信近は慶長一九年に没したが、子孫は西条を永住の地と定め、寛永四年(一六二七)嘉明が会津四〇万石に転じた際、土着して町人となり、生国にちなんで近江屋と称した。近江屋は、一柳氏の統治時代、西条陣屋町に移住し、加茂川右岸地先に新田を開発した(後述)。
加茂川の現在の河口に隣接して、中山川が燧灘に注いでいる。小松町佐伯家文書によれば、中山川の大改修も足立重信の指揮によって実施されたことがうかがわれる。同文書八月八日付の足立半右衛門書状には、次のような指令が認められている。
工事を実施した場所はすべて絵図を作成し、図面には寸法を記し、どこをどのように直したかを記入せよ。三好久三郎らの工事実施の状況は、寺田孫三郎から報告を受けている。工事がずいぶん難渋しているようであるから、周布・桑村郡村々の下人以下まですべて動員して、堤防の補強をし、川筋を直線に掘らせるように。新居郡から応援の人足を出すから、精を出すように。工事の監督の者銘々に書状を出すべきであるが、現在(重信が)病中であるので、三好久三郎から右の通り伝えてくれるように。中山川も、加茂川同様に荒廃河川であったから、ずいぶん難工事であったと思われる。
総社川と今治城下
今治市街地の南端を東北東方向に流れる総社川の河口部北岸の地に、藤堂高虎の築いた今治城(別名吹揚城、慶長八年より築城)がある。高虎が城下町を洪水から守るために河道を改修したり、堤防を構築するよう指令した資料は確認されていない。しかし、城が総社川河口に隣接する海岸低地に建設されたのであるから、城下町を洪水から護るため、十分な対策を講じていたであろうことは容易に想像することができる。城下町の町割は、慶長八年二月二日から開始され、同年夏から地所の配分が行われた。享保年間(一七一六~三六)の今治城絵図(今治市役所蔵)によると、市街の周囲は上手や溝で囲まれ、室屋町(城下町の西端)西部には竹藪があって、洪水に備えている様子がうかがわれる(『通史近世に』二九七を頁参照)。
寛永一二年に今治へ入部した松平定房以後歴代の藩士も治水には意を用いた。特に四代定基は、享保七年六月の総社川氾濫によって城下町にも濁流が流れ込み、領内の損毛高が八、〇〇〇石余に達しだのを機に根本的な治水対策に乗り出した。
享保九年より藩の事業として開始された宗門掘り(瀬掘り)がその代表的なものである。水害の多い地方の宗門帳に登録されている百姓のうち、一五歳以上六〇歳までの男子を、年に一日ずつ徴発し、郡奉行・代官の指揮によって、村単位で持場の瀬掘りを行い、同時に掘り上げた砂礫で堤防の補強を実施させたのである。
今治藩領内には、総社川同様氾濫をくり返した河川に頓田川がある。藩では、この両河川の管理を家老に担当させ、延享二年(一七四五)四月には、両河川の嵩上工事を、また宝暦元年(一七五一)三月にぱ、総社川の大改修を実施している。なお、この宝暦元年の犬改修は、従来の通説(『今治拾遺』など)によれば、藩が河上安固(兵作)を用いて、今治城の北方を流れていた総社川の河道を、現在の流れに付け替えたことになっているが、寛永年間(一六二四~一六四四)と推定される「伊予一国絵図」や、『国分叢書』の編者である加藤友太郎の研究により、ここでは付け替え説を採らず、河道の大改修と表現するにとどめておきたい(『通史近世上』二章二節参照)。
東予の新田
東予地方は、東西に走る石鎚連峰の北側に沿っており、急峻な山地から流下する関・国領・室・加茂・中山の諸河川は燧灘に大量の砂埃を堆積して、年々広大な砂洲を形成していた。こうした自然条件に着目した領主や在地の有力者は、干拓によってム大な新田を生み出した。中でも西条藩領内の開発がもっとも盛んであり、松平西条藩(寛文一〇年=一六七〇より廃藩まで)時代、当初の三万石が幕末には、四万三、一〇八石八斗九升五合(替地に伴う増加を含む)に増加している。西条藩に隣接する小松藩も三〇〇町歩に近い新田を開発しており、高縄半島東部に位置する今治藩も開発に熱心であった。また、松山藩領周布(周敷)・桑村郡においても近世初頭から藩による計画的開発が見られた。
新居郡は、新田開発による耕地面積の増加が最も顕著な地域であった。一柳西条藩(一六三六~一六六五)の成立以前元和年間(一六一五~二四)には、坂元村次郎左衛門により西泉新開(約三〇〇町歩)が造成されている。一柳氏の入部以後のものとしては、承応~万治年間(一六五二~六一)の半弥新開(市塚・北・摺鉢・仲・古川などの新田を含んだ総称)が知られる。半弥とは、西条藩主一柳直興の弟半弥直照(異説あり)で、一柳氏の主導によって開発が進められたことを物語るものであろう。松平西条藩成立以後も開発の勢いぱ衰えず、寛文年間(一六六一~七三)以降の近江屋新開、享保年開(一七一六~一七三六)の花屋新田に続いて恵美須(蛭子)新田・三河屋新開など、藩の意を受けた有力商人の財力による開発が行われ、安永七年(一七七八)から五年の歳月をかげた禎瑞新田(約三〇〇町歩、付帯施設含む)の完成によって一段落する(『通史近世上』 四〇七頁「西条干拓図」参照)。
これと併行して、塩田の開発も盛んに行われ、新居郡黒島(現、新居浜市)・垣生山・郷山に囲まれた地域に、いわゆる多喜浜塩田(この呼称は享保一八年より用いられる)が開かれた。すでにこの地域では、室町時代末期から製塩が行われていたが、地先海岸の干拓事業は、深尾権太夫(宇水元年=一七〇四着工)や天野喜四郎(享保八年=一七二三着工)らの努力によって進捗し、幕末期におげる多喜浜地区の塩田と新田畑は二四〇町歩に及び、塩浜も五二軒を数えた。この間天野家の当主は代々喜四郎を名乗り、塩田開発の中心となって活躍した。
西泉新開
『西条誌』西泉村(現、西条市)の項に、坂元村庄屋四郎兵衛の息子である次郎左衛門が、元和年間(一六一五~二四)に土地を開いたと記している。この記事は、日野和煦が『西条誌』を編集した際、西泉村に居住していた黒川磯之丞(西条藩御留守居同心)の持っていた旧記をもとに記されたものであり、新田の規模や正確な開発年代は不詳である。
新田村としての西泉村が成立したのは、正保四年(一六四七、『西条誌』氷見村の項では正保二年とする)であるから、一柳西条藩によって新開地域の村切り(村分け)が実施されたことを知ること、ができる。
『西条誌』が引用している楢木村庄屋の古文書に、楢木村は氷見村より分九、西泉村は楢木村の内の本畑ならびに原地などの内を分け、西泉村の在所百姓屋敷となす、また田地は干潟を築き止たるなり、と記しており、干拓による新田村成立の事情を詳細に伝えている。
西泉新開の東北隣接地に、局新田・喜三右衛門新田・藤五郎小新田と呼ばれる小地名がある。このうち喜三右衛門新田開発者と推定されるのは、氷見村野々市出身の喜三右衛門(天和三年二月六日没)である。彼は、西泉村庄屋職を勤めた人物で、墓碑銘に、西泉村新田ならびに新畑を開く、と記している。明神木付近にも近世初頭の群小新田がある。
半弥新開
市塚・北・摺鉢・中・古川の新田は、「五箇所の新円」と呼ばれていた。『西条誌』によれば、この五か所は半弥新田分と通称しており、一柳半弥(直照もしくはその一族)の支配していた地域に開かれた新田であるとしている。新居郡新田分(現、西条市新田)庄屋実之進(天保期の庄屋)の家に残っていた古記録に、万治三年(一六六〇)二月四目付の新田改帳があり、「新居郡内半弥新田分」と記されているから、開発はそれより前である。『西条誌』の編者日野和煦は、開発者が一柳直照であるとすれば、本家の城下付近に分家が新田を開くというのは疑問があるとし、半弥は直照ではなく、一柳直重(丹後守)かもしくは直興(監物)の任官以前の呼称ではなかったか、と推定している。これら五か所の新田の合計石高は四九二石七斗四升六合で、新田地帯に住居はなく、周辺の村々から出作していた。地域の管理は神拝村(現、西条市)の庄屋・組頭に任されていたが、明治一〇年(一八七七)散在している新田を合併して一村とし、北新田を本村、他を村の飛地とした。
『西条誌』に記載されている新田の範囲・規模は次の通りである。
① 市塚新田……東は流田村、西は朔日市村、南も朔日市村、北は流田村・永易村・朔日市村、東西七町二六間、南北三町五〇間
② 北新田……東北二方は朔日市村、西は神拝村、南は朔日市村・神拝村、東西七町三六間、南北一町五三間
③ 摺鉢新田……東は喜多川村、西北二方は古川分、南は樋之口分・古川分、東西一町二八間、南北一町五間
④ 中新田……東西南北とも古川分、東西二町一八間、南北一町四二間
⑤ 古川新田……東西南北とも古川分、東西二町四〇間、南北四二間
水没した泉新田
加茂川河口の古川分(現、西条市)に泉新田があった。石高は二一五石余(約三三町歩)であったが、平水四年(一七〇七)の大地震に際して水没した(伊曽乃神社文書)。この泉新田は、その後小規模ながら再開発が試みられ、江の内新開・仙蔵新開が造成された。前者は大町の商人大蔵屋の先祖に阿部善久という者があり、その妻(明和二年没)によって開発されたものと伝える。仙蔵新田の開発は江戸時代の後半になってからである。文政一二年二月藤野石山村(現、西条市)の内下津池山の住人仙蔵なる者より、仙蔵新田が完成して、作物も収穫できるようになったから、一割分を伊曽乃神社に奉納する旨を申し出ている。この再開発された部分の面積は四町六反で、泉新開の再開発といえる規模ではない。
なぜ泉新開の全面的な再開発が実施されなかったのか、『西条誌』には、禎瑞新田が開発されたため、泉新開を復興すれば、水吐が悪くなり城下町に水禍が及ぶためであると記している。
近江屋新開と花屋新田
室川の西岸、新居郡朔日市村(現、西条市)の地先に開拓されたいわゆる市塚新田を北西方に拡大する形で築造されたのが近江屋新開である。寛文年間近江屋徳助・与兵衛が朔日市村の北沖(市塚の外)に二か所の新田を築いたのが最初で、延宝年間(一六七三~一六八一)には与兵衛の子甚左衛門が事業を受け継ぎ、開かれた新田には「徳助新田」・「与兵衛新田」・「甚左衛門新田(のち深の洲内新田と呼ばれた)」の名が付けられた。規模は約一〇町二反、六〇石余であった。与兵衛・甚左衛門はその後も干拓事業を続け、元禄四年(一六九一)には、深の洲外新田(鱶の洲外新田)を開いたが、宝永四年一〇月の大地震と同六年の高潮によって堤防が決壊し水没した。近江屋(木村家)では、度重なる災害のため自力による復興が困難であるとして再開発を放棄した。
近江屋新開に隣接する小地名「大唐新開」・「長十郎新田」・「太兵衛新田」・「花屋新田」・「庄八新田」・「唐樋新田」・「御舟蔵新田」などの群小新田のほとんどは、開拓者及び開発年も不詳である。ただ、このうち花屋新田は、猪川氏(花屋と称した)の開発と伝える。秋山英一の研究によれば、享保一七年(一七三二)の大飢饉に際して、尾道で米穀五、〇〇〇石余を購入した花屋権六という人物があり、この人物が開発の中心であろうとしている。御舟蔵新田の開発についても確証はないが、天明三年(一七八三)に没した森勘左衛門(西条藩の御船頭役)の築造とされており、『西条誌』によれば、流田村・永易村の内で一一石五斗余・二町二反三歩を御舟蔵新田と名づけたと記し、竿請年を延享七年としている(延享七年は寛延三年=一七五〇の誤記か)。新田の名称の由来は、宝永六年の高潮で御船蔵が崩壊し、その跡地に築いたことによる。
多兵衛新田、恵美須・大黒新田
中山川の河口部左岸に築造された新田である。新田は、ともに氷見村(現、西条市氷見)に属し、中山川の右岸に開発された氷見新開とその地先の禎瑞新田と相対する位置にある。氷見村は、近世末において伊予最大の石高を有した村で、開発による拡大の過程で坂元・楢木・西泉の各村及び野々市分を分村したにもかかわらず、天保五年(一八三四)の郷帳において、二、九九三石四斗八升四合と記録されている。新田開発の盛んであった新居郡のうちでも、最大の干拓地帯であったことが理解されよう。干拓が急速に進んだ要因は、加茂川・中山川の河口が氷見村の地先にあり、毎年広大な砂州が形成されたから、干拓が比較的容易であったことによる。
多兵衛新田は、延宝五年三月風早郡から氷見村に移住した渡辺多兵衛による開発である。彼の没年が貞享五年(一六八八)であるから、その間に開かれたものと推定される。面積が一八町歩と比較的小さく、しかも前述のような自然条件が味方して、短期間で完成したと考えてよかろう。
多兵衛新田の北方に隣接するのが恵美須(蛭子)・大黒新田である。この新田約六〇町歩は、西条藩の指導・監督のもとに、大町組大庄屋田中喜右衛門と氷見組大庄屋高橋与一左衛門が中心になって開発した。「高橋家文書」によれば、工事の費用は銀一七五貫八一三匁五分(三七か年賦にて借用)以上、開発面積は五九町余(内四町は汐取井手・道路)となっている。
氷見新開と日野新兵衛
氷見村には新田が無数にあるといっても過言ではない。通称氷見新開はそうした群小新田を総称する名称である。代表的な新田名としては、二人新開・十人新開・三十人新開・大新開・新兵衛新開(ばくや新開)などがあり、造成者が多人数である点に特徴がある。個人名を冠したものは新兵衛新開のみである。
新兵衛新開は、日野新兵衛の開発である。当時の古記録は残ってないが、日野新兵衛頌徳碑(昭和四〇年建立)によれば、明和年間(一七六四~一七七二)氷見村竹内に住む新兵衛が、独力で約二〇町歩を干拓したと記している。
新田の北西隅にある通称新兵衛部落には、塩釜神社があり、旧暦一一月二一日の祭礼には子供相撲が行われていた。古老の話では、この日が新開の築造記念日であるという。この新兵衛新開が築造されてから一〇年ほど後、伊予で最大の禎瑞新田干拓工事が開始(後述)される。
小松藩の新田開発
中山川の左岸に位置する小松藩領北条村・今在家村・広江村(いずれも現、東予市)は、「下三か村」と呼ばれ、新田開発の盛んな地域であった。北条村には、近世初頭に大頭屋又四郎が開いたとされる又四郎新田、これに続いて中村喜右衛門(正徳元年没・長福寺過去帳)が開いた北新田、藩主によって開かれた御救新田(御助新田とも)・塩浜新田などが知られている(この両新田約二〇町歩を、『小松邑志』に見える元禄一四年開発の北条沖新田に比定する説もある)が、その開発事情については、口碑以外に資料がない。今在家村も新田集落であるが、開発時期が古いためか、資料が入手できず詳細は不明である。
広江村は早くから開け、文禄四年・慶長六年・同八年に検地が実施されている(久米家文書、但し慶長六・八年の帳簿は現在確認できず)。庄屋久米家の系譜によれば、寛文五年江口新田、延宝六年常夢新田、元禄一五年の壬新田(三一町一反二畝)、正徳四年(一七一四)の弥三左衛門らが出資した新田、宝暦二年の宝暦新田・伝六新田、明和年間(一七六四~七一)の芋坪新田などが見られる。
これらの新田は、宝永四年の大地震と、それに続く同五年・六年の高潮によって、常夢新田・壬新田をはじめ多くの新田で堤防が決壊し、その復旧には莫大な出費を要した。広江村庄屋久米家では持分の田地のうち八町歩が耕作不能となり経営困難に陥ったが、藩から五〇石の救済を得て、再興に励んだ。宝永七年にも暴風雨による被害があり、物成のうち七割余の減免を受けている。
今治藩領越智郡地方の開発
今治藩における新田開発は、元禄一二年(一六九九)までに急速に進められ、それから三〇年後の享保二一年(一七二七)までの間に約四五〇石の増加を見たが、その後は安政二年(一八五五)まで公簿上の増加は見られない。元禄一二年の本高は、慶安元年より五千石増加しているがこれは従来の越智郡六八か村に宇摩郡一八か村が加えられたためである。宇摩郡一八か村の新田高は天保五年(一八三四)郷帳によれば、合計二〇九石余であるから、元禄一二年までの増加分の大半は越智郡で生み出されたものといえよう。
今治領越智郡は、地方(南方・北方)と島方とに二大別される(『通史近世上』図二-15参照)。地方では、総社川(蒼社川)・浅川流域の開発が盛んであり特にその中でも石井村・大新田村における開発が大規模であった。
大新田村は、浅川の下流北岸の低湿地を干拓して作られた村である。寛永一四年(一六三七)の「今治石井新田御検地帳」に田畑二四町五反とあり、慶安元年の「今治御領分新高畝村人数帳」には、石井村の内に「大新田」とあり、田一九町二反・畑三町八反と記されている。石井村からの分村時期は明らかでないが、貞享元年(一六八四)の「今治藩御改革領内調書」に大新田村の文字が見えるから、このころまでに成立したのであろう。分村以後も活発な開発が見られ、元禄一四年の輛屋次右衛門新田・明和五年二七六八)の湊新田(庄屋藤蔵の開発)・文政一二年(一八二九)の藤蔵新田などが造られた。
総社川流域では、氾濫原の開発が中心であったため、開発の規模はいずれも小規模二村合計一〇町以下が大半)で、しかも洪水の度毎に大きな被害を受けたから、開発・流失・復旧がくり返されていた。そうした中で、蔵敷村は着実に開発面積を拡大し、宝暦一一年(一七六一)には、田畑三三町七反のほかに新田畑三五町四反が生み出されている。新田名としては浜新田・堀端新田・定米新田・笹内新田・有津屋新開があり、総社川の河川敷にも煙草畑・東町新畑などの名称が見られた。寛永一四年の「倉(蔵)敷村検地帳」では、田畑二四町五反(うち田二〇町四反)であったが、今治城の築城とそれに伴う周辺部の開発が、このように急激な耕地拡大をもたらしたので そのほか、地方における開発のうちでは、朝倉中村(現、朝倉村朝倉南・朝倉北)の野々瀬を開拓した石丸忠兵衛の活動が著名である。忠兵衛は朝倉下村(現、朝倉村。松山藩領で明和二年より幕領)の生まれで、寛永六年から同九年にかけて、頓田川の水を野々瀬に引いて水田二一町歩を開拓した。貞享三年の朝倉中村検地帳によれば、野々瀬分田畑二七町四反余、源右衛門新田三町三反余、法華寺新田六反余、中川原新田一町七反余、伝右衛門新田六反余などが見られる。
今治藩領越智郡島方の開発
越智郡島方のうち、大島における開発が顕著である。特に吉海湾では、肪大川・仁江川によって形成された小規模な沖積平野や遠浅海岸の開発が見られ、貞享年間(一六八四~八八)から元禄年間(一六八八~一七〇四)がその最盛期であった。
吉海湾岸に位置する名・本庄・仁江・福田の四か村は、江戸時代を通じて活発な開発を続け、八幡新田村(元禄二年の検地帳が村名の初見)・幸新田村(元禄一〇年成立)の新田村落を生み出した。これらの新田村は、幕府への報告書に記載されないことが多く、わずかに元禄一三年の『領分付伊予国村浦記』に八幡新田村が一〇七石七斗三升六合と記されているのみである。
八幡新田の開発は、江戸時代初頭と推定される。慶安元年の『伊予国知行高郷村数帳』には村名が見られないが、同四年の「大島八幡新田検地帳」には、田畑一七町二反が記されている。開発者などについては不詳であるが、初代庄屋は、仁江村庄屋明比長光の次男喜惣左衛門が勤めている。村名は、明和年間(一七六四~七二)ころから八幡村と通称していたようであるが、天保五年(一八三四)の郷帳では名村に含めて処理されており、独立村としての扱いを受けていない。
八幡新田に続いて仁江・本庄・名の各村で開発が盛んとなった。仁江新田(田七町二反・畑一町七反)は元禄二年の開発である。
元禄六年には、舫大川の河口部に、長さ五町二間の堤防が構築され、同一〇年には埋立が完了して幸新田が完成した。堤防が築かれた翌年には、仁江村大庄屋野間治兵衛・宮窪村大庄屋河上助左衛門・本庄村源兵衛・仁江村杢兵衛ら七名が今治藩から褒美をもらっている(資近上三-64)。面積は、明和二年の「幸新田田畑野取帳」によれば、一四町四反であった。
越智郡島方は、塩田開発も盛んであり、特に吉海湾(津倉湾とも呼ぶ)の深い入江と遠浅の海、それに降雨量の少ないことは塩田築造にとって最適の条件を備えていた。今治藩では、元禄一三年本庄村と津倉島との間に五軒(前堀)、寛延元年(一七四八)に四軒(向堀)、明和五年に四軒(後堀)の塩浜を造成させた。こうして完成した津倉塩田一四軒(浜)は、総面積一六町七反(天保八年「塩浜野取帳」)であった。
松山藩領周布・桑村郡の開発
寛永一二年(一六三五)松平松山藩か成立した。この年から万治二年(一六五九)にかけて、燧灘に流人する新川河口部において大規模な干拓と築港事業が実施された。「壬生川浦番所記録」によれば、六三町二反二九歩の田地が造成され、改修された壬生川港は、周桑平野の米の積出港として利用されている。この時開発された新田のうち、新川の河口右岸の地には新田集落が形成され、大新田村(現、東予市)と通称された。大新田が公簿に登場するのは、慶安元年の『伊予国知行高郷村数帳』で、桑村郡の項に別記して「新田」四六石余が見えるのが最初であるが、独立した形で表記されるのは、元禄一三年の『領分付伊予国村浦記』に「新田村壬生川村枝郷」とあるのが初めである。享保一七年(一七三二)の『桑村郡大手鑑』には、高四○八石九斗四升五合、田畑二七町二反六畝九歩、うち新田二六町六畝二七歩・新畑一町一反九畝一二歩と記されている。
生産された米は、本村である壬生川村に造られた壬生川港より積み出された。
壬生川村に隣接する周布郡三津屋村では、元禄年間に三津屋旭新田が開発されたが、宝永四年(一七〇七)の大地震とその後の高潮によって復旧不能の大打撃を受けた。この地は、嘉永元年(一八四八)より、笠井源太左衛門・三津屋村庄屋臼坂元右衛門らが再開発を実施し、二四町余の新田が造成された(『多賀村郷土誌』)。
新川中流域でも原野の開発が進められ、高知・徳能(現、丹原町)・安用(現、東予市)の人々が開拓村を形成した。高知出作新町は、寛永一八年(一六四一)に新開地部分を新町としたもので、石高は一〇七石余・田畑は一三町四反余である(享保一七年『桑村郡大手鑑』)。徳能出作は、正保二年(一六四五)の成立(明治一四年「伊予国桑村郡徳能出作村地誌」)、安用出作は、享保一七年の『桑村郡大手鑑』に「安用出作」とあり、石高一六二石余・田畑二一町二反八畝と表示されている。安用出作の独立年代について、「安用村地誌」では寛永二〇年としている。
このほか、桑村郡広岡村(現、東予市)も公簿には登場しない村であるが、『桑村郡大手鑑』に、寛文七年(一六六七)広岡村は上市村より分かれると記録されており、近世初期までに開拓されたものと思われる。享保一七年の村高は三三八石余、田畑は三三町一反六畝であった(公簿上でぱ上市村に含まれている)。
松山藩領越智郡の開発
松山藩領越智郡は、地方八か村と島方一七か村であったが、地方の村は明和二年(一七六五)以後幕領に転じた(『通史近世上』二二四頁)。地方諸村(桜井・旦・登畑・宮崎・朝倉上・朝倉下・長沢・孫兵衛作)のうち、孫兵衛作村は長沢村のうちに開かれ、独立した村である。寛永一五年に長野孫兵衛が医王山麓の開墾に着手し、子供の代になった寛文二年(一六六二)開拓を終えたという。『伊予国知行高郷村数帳』には、長沢村の内孫兵衛作村とあり、田方五七石六寸二升九合・畑方三石四斗八升一合と表記されている。
桜井村・長沢村の境に忠兵衛作村(明和二年までの村)があった。村の初代庄屋となった忠兵衛は、前述の野々瀬原開拓で知られる人物である。寛永一一年桜井・長沢の境に移住した忠兵衛は、この地域の干拓に乗り出し、寛永一七年までに田五町一反一畝二二歩・畑二町七反三畝六歩、高八三石七斗五升一合の新田畑を生み出した。忠兵衛作村は、明和二年の松山藩一万石上地に際して、桜井村と長沢村に分属することとなり、村名は消滅した。
越智郡島方では、宮浦村の開発が顕著である。宮浦には大山祇神社があり、中世末まで村域すべてが社地であった。『三島大祝家譜資料』によれば、慶長五年(一六〇〇)藤堂局虎が伊予半国を領有した際、社地は大幅に削減され、現在の約一万坪になったという。元禄一五年(一七〇二)の「越智島宮浦村新田畑御改帳」によれば、田二六町三反六畝一六歩・畑七町一反一畝四歩とあり、急速に開発が進んだことを示している。その後も度々開発が行われたが、安永四年(一七七五)から実施された新地町建設に際して水田が潰され、その代償として肥海村に二町余の新田が開かれ、安永五年には宮浦新地が開発されている。台村は貞享二年(一六八五)宮浦村から独立した新村である。
松山藩領野間郡の開発
松山藩領野間郡二九か村は、斎灘に面した高縄半島の西部に位置する。この地域は遠浅海岸がほとんどないため、大規模な干拓は波止浜塩田の築造のみである。波止浜塩田は、天和三年(一六八三)一月より、野間・越智・桑村の三郡の農民を動員して工事が始められ、同年三月には早くも汐留工事に成功している。塩田が築造されたのは、野間郡来島の南方にある入江で、築造にあたっては箱潟と呼ばれる遠浅の干潟に着目した波方村(現、波方町)浦手役長谷部九兵衛とこれを後援した郡奉行園田藤太夫の力に負うところが大である。塩浜は園田藤太夫の在職中に三三軒、その後の郡奉行林源太兵衛の在職中の元禄四年(一六九一)までに一〇軒が増加し、周辺には新田が開発された。開発された面積は、宝永二年(一七〇五)の塩浜の整理統合当時の統計では四〇町九反七畝一四歩、新開地は近接する波方・高部・樋口の各村及び塩田築造に際して成立した波止浜町(波方村の一部)に分属した。
野間郡九王村(現、大西町)の中心部には、五郎右衛門新田がある。寛永一五年から同一七年にかけて芸州浪人桧垣五郎右衛門は品部川の河口部右岸の地を開拓して新田を開いた。開発は彼の子孫によって継続された。桧垣家では庄屋村瀬家の協力を得て、品部川河口近くに樋門を作り、東部の九王浜の干拓にも成功したと伝えられている。
新町村(現、大西町)は、品部川の左岸に位置し、九王村と同様に新田開発が盛んであった。上新開・弥六新開・又兵衛新開・大新田・利右衛門新開などの小字がある。
波方村は野間郡のうち最大の村である。村は高縄半島の北端部に位置しており、平地の少ない起伏に富んだ地形であったため、村人の開発活動は海岸に近いわずかな平坦地で行われた。波止浜町(天明三年波止町と波止浜が合併)・小部村・宮崎村・森上村・馬刀潟村は、いずれも波方村から独立もしくは枝郷となった村である。
小部村は「菊川家文書」によれば、淡路島より来住した木村新兵衛(重基)が、加藤嘉明の許可を得て開発したと伝える。この文書によって開発期を推定すれば、一七世紀初頭ということになる。元文(一七三六~四一)ころの村高は三九石七斗九升五合、田畑面積は一三町八反六畝(『野間郡手鑑』)であった。同じころの宮崎村の田畑面積は一一町九反八畝、森上村は八町三畝、馬刀潟村は五町五反であった(同前史料)。
松山藩では、中予・東予地方を合計して、享保六年(一七二一)時の新田は一、三〇九町九反四畝一二歩余、うち田は九七四町九反四畝余、畑は三三五町一一歩であった(資近上二-7)。
表3-9 新居郡氷見村の分村と石高の推移 |
図3-8 小松藩領下三か村付近 |
表3-10 今治藩領の新田高の推移 |
表3-11 今治領越智諸村の新田開発状況1 |
表3-11 今治領越智諸村の新田開発状況2 |
表3-12 越智郡吉海湾岸諸村の石高 |
図3-9 越智郡大島の新田開発地帯 |
図3-10 壬生川・三津屋付近 |
表3-13 松山藩領東予地方の新田開発状況 |
図3-11 波止浜塩田開発推移図 |