データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)
二 応仁の乱後の伊予
河野氏の内紛続く
通春が伊予に帰国したころ、京都では、在京の貴族・諸大名らが幕府に参上し、大乱の終結を祝った。しかし、天下の形勢は、じつは深刻化していた。京都の戦闘が地方に展開し、全国動乱のきざしがあったからである。そのころ奈良の興福寺大乗院門跡尋尊(一条兼良の息)は、その日記のなかで、将軍御下知の国々をはじめ、日本国中すべて将軍の命に服さず、ために荘園の年貢が上がってこないと嘆いている(大乗院寺社雑事記)。全く幕府の権威は、応仁の乱によって失墜したのである。この年、伊予は細川氏(政元)の分国であったが、実際には細川氏の支配権は有名無実で、帰国した通春と通直(教通改名)・通秋とが伊予の覇権をかけて熾烈な戦いを繰りひろげた。文明一〇年(一四七八)、湊山城(和気郡)に拠る通春は、勝利を得て、伊予の三分一、さらには半国を切取り、通直の長子通秋は、来島(越智郡・現今治市)に没落したという。その後通春は府中(越智郡・現今治市)にしばらく逗留したのち、やがて湊山城に帰っている。だが、その後通直方が巻き返したらしく、通春は大内政弘にその配下の呉・能美・蒲刈三か島の船衆(水軍)の出動を要請している(正任記)。文明一二年(一四八〇)に入ると、通直が伊予の主導権を奪還したらしい。同年、再興の業を始めた石手寺(松山市)の棟札(石手寺文書・一四九六)には通直のことを「伊予屋形」と記している。なお前年に阿波守護細川義春が、応仁の乱のときの宿怨をはらそうと伊予に来襲したとか(予陽河野家譜)、また河野氏を降して西園寺氏を伊予屋形に定め、帰陣したとする説(南海通記)もあるが、確実な裏づけが全くないので、信じがたい。
通宣と通篤との対立
文明一四年(一四八二)閏七月一四日、河野通春は湊山城で波乱の多い生涯を閉じた。それを討死とする説もある(河野家過去帳)。その後、通春の子通元(のち通篤)と通直・通宣父子との対立は続いた。通直は入道出家して道治、あるいは道基と称したが、いぜんとして河野家の実権を握り、少なからぬ発給文書を残している。明応九年(一五〇〇)正月、通直は湯築城(松山市)で没し、その子の通宣が家督を嗣いだ。そののちも、明応~大永年間にかけて延々と通宣と通篤との対立が続けられた。しかし、通篤の勢力はしだいに衰退し、ついに敗れて防州宇部に去り、大永六年(一五二六)、かの地で死去したとも、防州から帰国して伊予宇和郡で卒去したともいうが、定かでない。