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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 応仁の乱と河野氏

河野通春の上洛

 文正二年(一四六七)正月一八日、畠山義就、同政長の上御霊社(京都市上京区)の合戦に端を発した応仁の乱(応仁・文明の乱ともいう)は、文明九年(一四七七)一一月に至る、前後一一年の長きにわたった。文正が応仁と改元(三月五日)されたころから、細川・山名両党のいずれかに属した諸大名の軍勢が陸続と上洛、京都を舞台に激しい戦闘が展開し、そのために京都は焦土と化した。当初東・西両軍は一進一退を繰り返して容易に勝敗の決着をみなかった。この均衡を破ったのは、ほかならぬ西国の大守護大名大内氏の上洛である。この大内氏とともに上洛したのは、応仁の乱の前から、細川氏に反抗し大内氏と結んでいた河野通春である。通春が応仁の乱にかかわっていく前提となった、乱前夜の伊予の状勢については、第三章第一節で詳しく述べられているので、ここでは、主として乱中における彼らの行動を中心にみていくことにする。かつて大内氏と一緒に上洛した河野氏について、通春か教通かと論議されたこともあったが、それは『応仁記』をはじめとする軍記物や『予陽河野家譜』・『築山本河野家譜』等の後世の編纂史書の混乱した記載に拠ったためで、現在では、応仁の乱直前のいきさつから、通春であったことは異論のないところである。
 さて、応仁元年(一四六七)五月一〇日、大内政弘は周防・長門以下八か国の軍勢を率い、山口を進発、海陸から上洛の途についた。政弘の本隊は海路をとり、野上―柳井―屋代島―室津と内海を東進して、七月二〇日に兵庫(摂津国)に着いた。通春もこのなかにいたとみられる。当時の日記などからみて、上洛軍は、大内・河野の連合軍とみなされ、その兵力は二万とも三万ともいわれた(宗賢卿記・経覚私要鈔)。正確な記録ではないが、このうち河野軍は二千余であったともいう(応仁記・細川勝元記)。上洛軍は摂津で上洛を阻止しようとする細川・赤松氏の両軍を撃破、八月末入洛し、東寺に着陣した。さらに京都の北郊、船岡山の東端、梶井門跡御所の焼失跡に移り、以後そこが大内・河野両軍の本陣となったと考えられる。在洛中の通春の動きは、大内軍と同一行動をとったせいか、ほとんどつかめない。わずかに東寺との交渉が知られる程度である(東寺執行日記)。ただ応仁三年(じつは文明元年)五月四日の西軍幕府(足利義視を将軍に推戴する)の発した御教書によって、通春の在京が確認できる(大野系図・一四四九)。大内・河野軍の上洛で西軍が優勢にたち、激しく東軍方を攻撃したが、完全に圧倒するに至らず、東軍の巻き返しもあって、戦闘は泥沼の様相を呈してきた。やがて戦線は京都から摂津・丹波・近江等の周辺部へ移った。とくに上洛軍の兵站基地、摂津兵庫港をめぐる攻防は激しく、通春・通生(教通の弟)らは摂津に進発している(東寺百合文書・一四三〇、築山本河野家譜)。

教通の立場

 つぎに応仁の乱前夜、通春と対抗した、かつての河野家の当主教通の動きを追跡してみよう。彼の動向は、不明確なところが多いが、応仁の乱が勃発しても態度を表明せず、伊予にとどまっていたのではなかろうか。上洛中の通春は、教通に充ててつぎのような書状(築山文書・一四四二)を出している。現代語訳すると、天下の忩劇(応仁の乱のこと)はえんえんと続くと思いますが、当方(西軍方)へ御同心いただけるのでしょうか、先年大内方からも依頼があったはずですが、その後御返事を頂いておりません。義政・義視の御兄弟双方が将軍になられたいま、その命令にはかわりがありません。ことに今度の摂津の合戦によって私が守護に補任されましたが、家名を揚げるうえでは、私がなってもあなたがなっても同じだと思いますとある。結局、この書状から通春が大内氏の要請をうけて教通を自陣営へ勧誘していることが読みとれる。教通は、当初東・西両軍いずれにも属さず態度を明確にしなかったのであろう。足利義視は、応仁二年(一四六八)一一月、ひそかに東軍のもとから脱出、西軍方に身を投じ、やがて西軍方から公方(将軍)と称され、幕府が東・西に並び立ったが、さきの書状は、そのころのものと推定される。
 文明元年(一四六九)春、大内氏の要請によって九州・四国の諸大名に足利義視の内書が多数発給され、西軍方は、地方軍の上洛をまって膠着した戦局の打開を図っているが(経覚私要鈔)、そのころ教通へも西軍方の勧誘があったにちがいない。翌年、教通は、朝鮮へ使者を派遣し、土貢を献じたが(世宗実録)、『海東諸国紀』は、教通のことを「山城居住」と記している。この記事を信用すれば、この年すでに上洛していたことになる。教通の上洛は確かではないものの、文明二年(一四七〇)ころをさかいに東軍方に属したようである。同五年(一四七三)三月と同年五月に、東・西両軍の領袖、山名宗全・細川勝元があいついで他界したが、この年一一月、教通改め通直は、東軍幕府から伊予国守護に任じられ(明照寺文書・一四七〇)、翌年、教通方と思われる中川氏をはじめとする勢力が在京し、西軍方の土岐成頼の邸宅を攻め落としていることがしられる(築山文書・一四八一)。かくて文明九年(一四七七)四月一九日、通春はすでに東軍に内通していた大内政弘の仲介によって東軍に降り、将軍義尚の安堵をとりつけている(親元日記)。通春はおそらく大内氏とともに同年一一月、陣所を引き払って帰国したものであろう。