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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 河野通義と山名氏討伐

亀王丸の継承と細川氏との和睦

 河野通堯には、亀王丸・鬼王丸の二児があった。康暦元年(一三七九)一一月に、亀王丸は父通堯の戦死のあとをうけて、河野氏の家督を継承した。この時亀王丸は一〇歳に過ぎなかったから、河野氏にとってこの弱年の主君を戴いて、細川氏の脅威を排除することは容易ではなかった。ことに細川氏の積極的な進撃に対し、弱体化して崩壊に瀕した河野氏の軍備によって、戦局の収拾をはかることは、至難な業であったに相違ない。
 幕府はこの河野氏の窮状を放任することができなかったと見え、将軍足利義満は翌二年(一三八〇)二月一三日付で亀王丸に対し御感御教書を与えて、父通堯の忠節を賞讃した(淀稲葉文書・一〇二一)。ついで義満は四月一六日付で伊予国守護職補任と本領確認については、すでに亡父通堯に通告ずみである旨の安堵御教書を亀王丸に下した(予章記・一○二二)。さらに同日付で亀王丸随従の河野氏家臣の所領をも承認し(長州河野文書・一○二三)、もっぱら河野氏の保護にあたっている。
 義満は細川・河野の両氏が交戦状況のままであるから、河野氏の保全をはかるためには和議の斡旋をする必要があった。それは、守護勢力の制御を志している幕府にとって、もし細川氏の権勢が四国全域に拡大するようなことになれば、その基礎を動揺させる危険性が存在したからによる。義満は一二月二九日付で細川頼元(頼之の養子)に、伊予国守護職を持つ河野氏にいっさい干犯しないよう御教書を下した旨を亀王丸に通達した(河野文書臼杵稲葉・一〇二九)。
 このようにして河野氏対細川氏の抗争は、義満の斡旋が効を奏して和解が成立したこと、頼之が再び管領となって上洛し、執政に多忙で領国を顧みる余裕のなかったこと、また河野氏にとって伝統的な旧勢力の再建には、相当の時間を要したことによって、いちおう終止符が打たれた。『予陽河野家譜』・『築山本河野家譜』によると、両者の和睦が成立して和気郡福角の北寺で両者の代表者による対面が行われた節に、亀王丸は細川氏に対し祖父以来の宿怨があるので出席を避け、幼少の弟鬼王丸を派遣したこと、また細川氏に占領された宇摩・新居両郡が河野氏に返還された旨を記述している。しかし、後者については、これから以後の文献を見ると、この地域は細川氏の勢力圏となっていて、河野氏の実権が存在していないので、この記事をそのまま信ずることはできない。したがって、河野氏はこれから以降、現実には宇摩・新居の施政を細川氏に譲渡したかたちとなった。

山名満幸討伐に出征

 至徳三年(南朝元中三=一三八六)に、亀王丸は一五歳となり、元服して通義と称した。また鬼王丸も元服して、細川頼之の諱の一字をもらって通之と称したという(予陽河野家譜)。同年に京都で相国寺の造営がはじまり、伊予国からも木材を送って、同寺の浴室の建立にあてた。この時、管領斯波義将は材木の輸送について、河野氏に対し海上警備を指示する奉書を送った(築山本河野家譜・一〇五八)。ついで嘉慶二年(南朝元中五=一三八八)三月二〇日付の口宣案によると、通義は伊予守に任ぜられたことが明らかである(河野文書臼杵稲葉・一〇六六)。これによると、それから四年のちの明徳三年(一三九二)に通能が上洛し、義満からその諱の一字を与えられて通義と称した説話(予章記)は、とうてい信頼できないであろう。
 細川氏との和議の成立によって、河野氏はしばらくの間小康を得た。前に述べたように、宇摩・新居の両郡を放棄しなければならなかったけれども、実質的には周敷・桑村両郡の旧領地を回復することができた。それは周敷郡北条郷の多賀谷衆に関する問題によって知られる。多賀谷氏ははじめ河野氏に属したが、細川氏の勢力が強大になると、旧領主から離反して細川氏に仕え忠勤をはげんだ。ところが周敷郡が河野氏の勢力圏に復帰すると、多賀谷氏は同氏の復讐を恐れるの余り、頼之に懇願してその保護を求めた。そこで頼之は通義に書簡を送り、彼らに課せらるべき国役等は勤仕させるから、屋敷奪取の強行措置に出ないように要請した(築山本河野家譜)。
 いっぽう中央政界を眺めると、幕府の守護大名に対する統制力は不十分であって、あたかも幕府は強大なこれら大名の勢力均衡のうえにたてられた連合政権に過ぎなかった。したがって、幕府は守護大名に圧倒されがちで、権威を失うことも多かった。義満は将軍の地歩を固め、幕府の統治体制を確立しようと意図したから、やがて富強を誇る守護大名と衝突するに至った。その現われは明徳の乱であって、山陰地方を中心として一一か国の守護職を持った山名氏の権勢を削減しようとしたことにはじまる。明徳二年(南朝元中八=一三九一)に、義満は山名氏一族の内訌を巧みに利用し、同氏清・同満幸に命じて同時煕・同氏幸を討伐させたが、やがて時煕・氏幸らの罪を許し、かえって氏清・満幸を征伐させた。そのために山名氏の勢力は衰微し、いちおう義満は山名氏に対する守護大名の勢力削減の目的を達成することができた。
 明徳の乱の平定後も、山名氏一族の内紛はやまなかったようで、明徳四年(一三九三)二月に出雲国で満幸らが反乱をおこした。義満は河野通義に対し、氏幸を援けて満幸を討伐するように命じた。同年四月一一日付の通義あての義満の軍勢催促状によると、河野氏の勢力範囲、すなわち西条以西の領国の軍兵に対し、氏幸に「合力」するため、伯耆国に向かって出撃を督促している(河野文書臼杵稲葉・一〇七八)。通義は幕府の命令を奉じて郎党・国人を率いて上洛したことは明らかであるが、騒乱の鎮定に通義がどのように活躍したかは記されていない(予陽河野家譜)。

通義の逝去

 翌応永元年(一三九四)八月下旬に、通義は京都の邸宅で病気にかかり、もっぱら療養につとめた。しかし、彼はほどなく再起できないのを覚り、国元から弟の通之を呼びよせて家督を譲った。この時の通義の譲状によると、懐妊中の夫人が男子を産み、器量の者に生長した時には、宗家を相続させるように希望している(長州河野文書・一〇八四)。通之は六郎といい、対馬守に任ぜられた。また通之は同年一一月七日付で義満から伊予国守護職に補任され、宗家の本領を安堵された(築山本河野家譜)。