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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 河野通之・同通久の治世と九州の騒乱

通之の継承と応永の乱

 応永元年(一三九四)一一月に通義の逝去したのち、その夫人に男児犬正丸が生まれたので、通之は兄の遺言に従ってもっぱら養育につとめた。通之の治世中に注目されるのは、応永の乱(一三九九年)がおこり、その討伐軍に参加したことであった。
 将軍義満は前述のように、強大な守護大名の勢力を弾圧しようとしたので、つぎには大内義弘と衝突することになった。義弘は長門・石見・豊前等六か国の守護職を兼ねて中国地方に一大勢力を形成し、さらに南北両朝合一の功を誇って強盛であった。たまたま九州の騒乱の解決にあたって、義弘は幕府と意見を異にし、両者の間は対立していた。義弘は義満の圧迫が加わるのを恐れ、応永六年(一三九九)に関東管領・山名氏・土岐氏らと連絡し、彼の重要な一根拠地である和泉国堺によって反旗をひるがえした。義満は斯波義将・畠山基国らの諸将の兵を率いて、東寺に陣した。この討伐軍のなかに河野氏の兵が参加していたことは、『応永記』のなかに部将として「河野」の名が明記してあるので知られる。
 討伐軍は堺を東南北の三方面から包囲し、海上では四国の水軍が堺と西国との連絡を遮断した。さらに堺の町に放火して城を攻撃したので、大内氏の防衛陣は完全に突破され、ついに義弘は自殺した。この応永の騒乱の鎮定に、河野氏がどのように活動したかは、『予陽河野家譜』をはじめ地方史料のなかに記述されていないので、詳細はわからない。
 翌七年(一四〇〇)に、河野氏の部将今岡・宮内氏らの水軍が、安芸国小早川氏の勢力圏である越智郡大島を侵略した。大島地頭職については、これより二〇余年前、康暦元年(一三七九)一〇月に将軍義満が小早川宗平に、勲功の賞として預け(小早川家証文・一〇一三)、またその旨をうけ斯波義将は施行状を当時の守護河野通堯に送り、小早川氏の権益を認めるよう指示している(同・一〇一四)。
 通義の子犬正丸は応永一三年(一四〇六)正月に湯築城で元服して持通といい、さらに通久と称した。同一六年(一四〇九)に叔父通之(守護職)の譲りをうけて、河野氏の家督をつぎ、のちに将軍義持から刑部大輔に任ぜられた(予陽河野家譜)。文書のうえでは、通久が守護職に任ぜられた記事はないが、祖父通堯・父通義、さらに通久の子教通が、室町将軍からみな守護職に補任されている点からすれば、おそらく彼も守護の地位を得ていたと考えられる。なお、通久の治世は四代将軍義持から六代義教の時代にわたっている。

通久の九州出兵

 義教は幕府における綱紀の粛正を断行するとともに、将軍の統率権を強化しようとはかった。その目的達成のため、彼の施政は極端に走ったので、「万人恐怖」のものと批判された。彼の事績のひとつとしてあげられるのは、周防・長門・豊前国の守護大内盛見の権勢を利用して、混乱した九州の統治にあたったことであった。義教がしきりに盛見との交渉を重ねたこと、また筑前国を幕府の領国として彼にその管理を命じたことなどから見て、故田中義成は九州経営を彼に委任したのであろうと推断している。
 盛見は永享三年(一四三一)正月に筑前国を巡視して、同国内の大友持直の所領を没収しようとした。この所領の問題をめぐって、大内氏対大友・少弐・菊池の三氏との間に抗争を繰返したが、かえって盛見は大友・少弐勢の攻撃をうけ、筑前国萩原に戦死をとげた(満済准后日記・看聞日記・萩藩閥閲録)。しかし、両者の紛争は継続し、大内氏側では盛見の子持世に引きつがれる結果となった。ところが、大内氏においても、兄持盛は豊前国で独立を宣言したので、兄弟が九州で干戈を交えるに至った。義教はこの騒乱のおさまらないのを見て、翌四年(一四三二)四月に河野通久らに対して、大友・少弐氏らが幕府の意志に反して、持盛を援けた場合には、直ちに出兵して持盛を討伐するように命じた(満済准后日記)。
 一〇月に入り持世は幕府に対して、大友・少弐氏討伐に応援を要求した。そこで義教は菊池氏および大友親綱(持直の甥で家督を争う)らを誘致して、大友・少弐両氏から引き離し、さらに安芸・伊予・石見等の諸国の兵を動員することにした(満済准后日記)。翌五年(一四三三)に持世はついに持盛を豊後国にたおして、大内氏一族を統一すると、すすんで筑前国に入り、少弐満貞を攻め滅して肥前国をも併呑するに至った。さらに持世は持盛を豊前国に攻めたが、幕府ではさらに伊予・安芸・石見国等の守護に派兵を命じ、その討伐にあたらせた(満済准后日記)。
 しかし、この間において九州の各地で紛争がおこり、かえって少弐氏は勢力を回復したので、持世は再び幕府に援軍の派遣を求めた。そこで、義教は同七年(一四三五)五月に伊予・安芸・石見国等に出兵を命じた。この時通久は幕命を奉じて大内氏とともに豊後国に出征したが、大友氏の謀略によって奥地へ誘致され、六月二九日に姫嶽城に包囲攻撃をうけて、伊予国から出征した土居通吉とともに戦死をとげた(看聞日記・豊府紀聞・明照寺文書・一二四三)。
 この通久の不慮の死は、小康期にあったとはいうものの、河野氏にとって大打撃であったに相違ない。ことに守護大名としての体制を維持するうえに、河野氏関係者は幼少な後継者をいただいて苦難の道を歩まなければならなかった。