データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 河野通堯の南朝服属

河野通堯の継承と苦境

 貞治三年(南朝正平一九=一三六四)一一月の通朝戦死のあとをうけた子通堯(徳王丸)は、あいついで祖父通盛の逝去にあい、悲嘆にくれる暇もなく、細川氏の激しい進撃に対処しなければならなかった。世田山城がおちいった際、細川氏の襲撃を避けるために、通堯は陣僧に護られて越智郡の竹林寺に、ついで風早郡の神途城に、さらに同郡の大通寺に居を移した。やがて彼は河野氏の重要な拠点であった恵良城で元服して、通堯といった。
 このころ、河野氏は一大危機に見舞われていたといい得る。この間の通堯の動静については、『予章記』・『予陽河野家譜』の記述が最も詳細であるが、これらをどの程度史実として信頼するかが問題である。それはこれらの経過を確実に傍証する史料がないからである。しかし、ここでこれらを俗書として採りあげないとすると、この数年間は全く空白となってしまい、以降の説明が不可能となる。そこで、正確な史料のない間を、しばらく『築山本河野家譜』・『予陽河野家譜』等を参考にしてつなぎながら、叙述してみよう。
 その後、通堯は積極的な攻勢に転じ、細川天竺禅門の占拠した温泉郡湯築城を奪還し、引き続いて同郡大空城を攻めた。大空城は岩子山城ともいい、細川氏に応じた大祝・庄林氏らがたてこもっていた。この時の大祝氏は『大山積神社文書』によると安林と推定され、また庄林氏は『三島大祝家記』によると、秀純・同秀村であったことが知られる。しかし、細川勢が大挙して道後地域に来着し、戦闘に参加したので、彼はやむをえず囲みを解いて北進し、要害の拠点高縄山城にたてこもった。この時、河野勢の部将・国人たちのなかに、細川氏に内応するものがあり、高縄山城も陥落した。通堯はやむなく恵良城にのがれて、退勢の回復をはかったけれども、河野氏の運命は風前の灯であった。
 この窮状を憂慮した陣僧が越智郡能島に赴き、宮方に属する在地勢力であった今岡通任・村上義弘らに援助を求めた。今岡氏らは直ちに風早郡浅海浦に船舶を派遣して、通堯を恵良城から安芸国能美島に移した。さらに通堯らは厳島に渡って、しばらく滞在した。なおこれらの諸書では通任・義弘らが協力して同一行動をとり、これから長期間にわたって通堯を後援した旨を記している。義弘の事績に関する疑問点については、すでに第一節「建武政権と伊予の動静」の末尾に述べておいたので、参照されたい。要するにこの問題の解決についても、将来の研究にまたなければならない点が多いので、断言することを差し控えたい。もし『予陽河野家譜』に重点をおくならば、そのなかには元弘の乱における彼の業績が記述されていないから、これをそのまま信じて義弘の行動はなかったものとし、正平一九年(北朝貞治三=一三六四)以降の彼の活躍を史実に近いものと考えるのが穏当ではなかろうか。そうすれば、私は義弘についての矛盾も、ある程度解決されると思う。
 通任らは通堯に対して、河野氏の安泰をはかるためには、南朝に帰順して征西府と連携するよう勧誘した。すでに東予・中予の重要な拠点を占領した優勢な細川氏に対抗するためには、まず伊予国内における宮方・武家方の協力一致によって、陣容の整備をはかる必要があった。また通堯にとって、武家方の勢力が潰滅した時であるから、従来ライバルであった土居・得能・忽那氏らをはじめとして宮方の兵力を利用する以外に、よい打開策はなかった。そこで、通堯は重見通宗・同通勝父子らに九州の征西府へ帰順の斡旋を依頼した(重見家文書・八七六)。重見氏は前に触れたように得能氏より出た在地勢力であって、重見通宗は十郎左衛門、越後守と称し、得能通純の孫であって、前述の得能通綱の従兄弟にあたる。

通堯の九州における動静

 通堯の帰順は、直ちに征西府に執奏されたように考えられる。正平二〇年(北朝貞治四=一三六五)五月に、懐良親王は彼の要望を承認し、通堯に令旨二通を下して、彼を伊予国守護職に補し、かつその本領を安堵した(河野通直文書・八七七、河野通堯文書・八七八)。八月に通堯は近臣に護られて大宰府に赴き、懐良親王に謁見して南朝への忠誠を誓った。この時、彼は通直の名を賜わり、讃岐守・刑部大輔に任ぜられたと伝えられる(予章記)。しかし河野通堯氏蔵『河野文書』のなかのロ宣案によると、刑部大輔の任官はそれから一〇年のちの天授元年(一三七五)八月となっているので、それに従うのが妥当であろう(資料編七九四号)。
 通堯は九州滞在中も宮方のために奮闘を続け、その重鎮である菊池氏の活動を援助した(予章記・予陽河野家譜・築山本河野家譜)。これを傍証する正確な史料がないのは残念であるが、征西府は通堯の地位と名声を利用して、四国・中国の武家方を討伐するよう指令している(築山本河野家譜・八八四)。これによって、通堯が出動したかどうかは不明であるが、おそらく九州を離れる余裕はなかったであろう。通堯の南朝に帰順した事情は、吉野朝に報告されたようで、彼は正平二一年(北朝貞治五=一三六六)九月に後村上天皇の綸旨をうけ、河野氏の所領および惣領職を確認された(河野通堯文書・八八五)。また南朝は征西府の坊門資世に対して、通堯の任官および一族の官途について報告すべきことを命じている(萩藩閥閲録・八八一)。

通堯の帰国とその活躍

 いっぽう伊予国にあった今岡通任は、通堯に対し帰国をすすめたので、彼は征西府と連絡しその便船を得るよう画策をめぐらした。翌二二年(北朝貞治六=一三六七)一二月に、伊予国内で河野勢と細川勢との戦いが激しくなるのを見て、通堯は風早郡忽那島の忽那重澄(雅楽佐)に使者を送って、協力を要請し、帰国の準備に心を用いたように観察される(忽那家文書・八八九)。
 ここで注意すべきは、同年一一月に細川頼之が執事となって入京したが、翌月将軍義詮が逝去して翌年義満が一一歳で三代将軍となり、頼之がこれを補佐したことである。そのため頼之は京都に住み政務多端であって、とうてい分国を顧みる余裕は全くなかった。頼之が讃岐国を離れたことは、通堯にとって誠に幸福なできごとであったに相違ない。翌二三年(北朝応安元=一三六八)に入って、足利方の武将仁木義尹は幕府から伊予国守護職に補せられ、四月に大兵を率いて宇和・喜多郡に侵入した。河野氏の部将大野・吉岡・森山氏らはこれと戦いを交えるとともに、使者を通堯のもとに送って帰国を要望した。通堯は征西府と連絡のうえ、六月に通任らの水軍の協力によって、豊前国根津浦を出帆して帰国の途にのぼった。一行は周防国屋代島で戒能・二神・久枝氏ら河野氏恩顧の部将の出迎をうけ、伊予国における行動について策戦を練った(予章記・予陽河野家譜)。
 六月晦日に、通堯は伊予郡松前(現松前町)に上陸して、武家方の宍草入道父子の軍を撃破し、進んで大空城を包囲した。ほどなく通堯方の包囲によって城は陥落し、入道父子は自殺するに至った。通堯はすすんで武家方の拠点である和気郡花見山城を攻略し、さらに宮方の協力を得て、風早郡恵良城に拠った望月・松浦・浅海・尾越氏らの連合軍を撃滅した。この通堯の目ざましい進出に驚いた仁木義尹は、九月に越智郡府中城を発して野間郡菊間を攻略し、高山に陣して通堯を威圧しようとした。通堯らは同郡大井・乃万方面から巧みに反撃を敢行し、ついにこれを潰走させることに成功した。
 その後、通堯は中予地域における足利方の掃討を完了したので、武家方の拠点となっていた越智郡府中城に進撃することになった。この時、越智・桑村両郡の有力な在地勢力であった越智氏も、旗幟を鮮明にして通堯に従うようになった。一一月に入り、通堯はまず重見通勝に東予への出征を命じた(重見家文書・九〇三)。翌二四年(北朝応安二=一三六九)になると、通堯は積極的に失地回復を目ざして新居・宇摩の両郡に進出し、細川勢との間に新居郡生子山・横岡等で戦闘を展開した。さらに通堯は苦心のすえ、高外木城(現西条市)によって、細川勢を撃退することができた。
 その後も、通堯と義尹、あるいは細川勢との間の抗争は続いているが、この地区の武家方の勢力を排除し得たので、だいたい河野氏の旧領地を回復し、その政権も安定したように観察される。なお『予陽河野家譜』によると、通堯の権勢は伊予のみならず、讃岐・安芸の島嶼部、さらに防長の海浜にまで及んだように叙述されているが、四囲の情勢からすれば、誇張に過ぎるといわなければならない。

良成親王の来予

 この間にとくに注目しなければならないのは、良成親王と通堯をはじめとする伊予宮方との関係であろう。良成親王は後村上天皇の皇子であって、すでに正平二一年(北朝貞治五=一三六六)に九州に渡り、懐良親王を援けて宮方の権勢の興隆につくしていた。同二四年(北朝応安二=一三六九)に、四国の武家方を制圧し、南朝の瀬戸内海経営を有利に導くために、伊予国に向かうこととなった(阿蘇家文書)。そこで同年二月に、征西府は通堯に対し軍船を九州に派遣するよう命じた(築山本河野家譜・九〇六)。ところが、どのような事情のためか、阿蘇大宮司にあてられた令旨によると、同親王の出発は一二月に入ってのこととなっている(西巌殿寺文書・九一九)。
 良成親王は伊予国に到着ののち、通堯ら宮方の諸将を指揮して、武家方の討平に尽力された。文中元年(北朝応安五=一三七二)一〇月には、伊予の宮方が讃岐国大野まで進撃し、武家方に大損害を与えている(祇園執行日記)。同三年(北朝応安七=一三七四)四月に、征西府は通堯に対し周防国守護の大内弘世を討伐するように命じた。また通堯を土佐国守護に奏請する約束のもとに、同国の武家方を攻略するよう指令した(築山本河野家譜・九五五)。これらの行動は、あらかじめ良成親王と征西府との間に連絡と諒解があって、実行に移されたことであろう。その詳細はわからないけれども、すくなくともこれらの事件には、来予中の親王と深い関連があって、はじめて実現したと考えてよいであろう。
 親王を中心とした宮方の活躍は、天授元年(北朝永和元=一三七五)に九州に帰還するまでの七年間に及んだ。念なのは、この間における伊予国の動静を詳細に明示する史料がないため、親王の具体的な活躍が不明なことである。同年八月に、通堯が刑部大輔に任ぜられた(河野通堯文書・九七四)のも、おそらくその功労に報いるためであったに相違ない。翌二年(北朝永和二=一三七六)閏七月に、征西府は新居勅旨田を宮方の粮所にするよう指示した(同文書・九八三)。